取扱説明書  ▼「読み物」  イラスト展示場  小話と生態  トップ頁  サイト入口



楽園のおはなし (1-54)

 BACK / TOP / NEXT / 「1章番外編(1)」




どうしたものか……どれほど考え込んでも、答えは見つからないままだった。
ニゼルは、親友がいつも我が物顔で着席しているオフィキリナス店主専用の机に顔を突っ伏し、深く嘆息する。
「このままなら衰弱死するのみ」、何度目かのサラカエルの声が脳内に響いた。分かってるよと、彼はこの場にいない天使に唇を尖らせる。
死なせたくない、今度は自分が鳥羽藍夜を救ってみせる……その決意だけは本物なのだ。しかし名案が浮いてこない。
言葉だけで他人を救える場面も、世の中にはあるだろう。しかし今回、言葉だけでは親友は救えない。救えるだけの実績が必要だ。

(それが思いついたら、苦労しないんだよー。ねえ藍夜、藍夜の望みって、一体何?)

もし自分が、万物の願いを叶える全知全能の神であるならば、すぐにでもオフィキリナスを元に戻し、鳥羽家の面々を生き返らせるのに。
……やめよう。鳥羽藍夜は生命の在り方については潔癖だ。そんな事をすれば、嫌悪どころか絶縁されかねない。ニゼルは強く頭を振った。

「どうしよう、このままじゃ本当に藍夜が……」
「ねーねー、ニジー。藍夜って〜、どうかしちゃったの?」

間の抜けた声が響く。はっと顔を上げると、正面玄関から応接間に入り込む琥珀の姿が目に映った。
ぴいぴい喚かれると、云々かんぬん。殺戮の天使がぼやいていた内容を思い返し、ニゼルはどう応えるか逡巡する。
一瞬悩み、いつも通りに接してやる事にした。琥珀は、幼い言動に似合わず妙なところで聡い面がある。隠しても感づかれてしまうだろう。

「うーん。藍夜がねー、ちょっとへばっちゃっててさ。元気出させる方法ないかなーって思って、考えてた」
「へばる〜? へばってるのは、いつもの事でしょ?」
「あはは、手厳しいねー。そうなんだけどさ。今回は少し、長引きそうだから」

琥珀は、純粋無垢な眼差しでじっとニゼルを見上げた。黄昏の海辺の空を埋め込んだような眼に、困り顔の若者が映る。
ニゼルはそっと苦笑した。宝玉の中の自分も苦笑する。琥珀は小さく首を傾げた。なんとなく、その動作が面白くて笑えてしまう。

「ん〜。よっくジジョーは分かんないケド、いいアイデアがあるよ」
「え? 何それ、教えて? 琥珀」

事情も何も、藍夜の不調が明らかになった場に当時琥珀はいなかった。彼女に何か出来るとも思えなかったが、ニゼルは申し出に頷き返す。
同様に頷き返し、琥珀はニゼルから視線を離して両翼を広げた。小型の姿に変化していても、やはり翼を広げさせるとかなり大きく見える。
見とれるニゼルをそのままに、琥珀は器用に首を巡らせ、嘴で羽のいくつかを突っつき回した。そのうち、これだというものを引っこ抜く。
ぶちっと嫌な音がした。ニゼルは思わず悲鳴を上げたが、琥珀は我関せずといった顔をしている。魔獣は、平然と抜いたそれを差し出した。
真昼の光に煌めく、一枚の羽根。屋内においてもそれは見事な輝きを放つ。欲する者は多そうだと、ニゼルは指で摘まみながら息を呑んだ。

「え? で、これをどうしろと?」
「だからー、藍夜はオカネ大好きなんでしょ〜? それ売り飛ばしたら元気になるよ、きっと!」
「ええ!? 売れないよ、グリフォンの風切り羽根なんて! 怖い人達が来ちゃうでしょ! 琥珀、いくら藍夜でも、これは怒る――」

――「お金が大好き」。ニゼルの頭の中に、突如一筋の光がさあっと差し込む。ニゼルは摘まみ上げた黄金の羽根を、じっと見つめた。
金色の輝き、伝説の黄金郷、夢にまで見た夢物語……がたと音を立てて立ち上がる。そうだ、何故気付かなかったのだろう。目を見開いた。

「え? 何? なになに? ニジー、ぼく何かした?」
「……ううん。してない」
「え? そーなの〜? じゃあどうし、」

琥珀の頭に、柔らかな衝撃が降る。見れば、ニゼルの手が魔獣の頭をわしわしといつも以上に丁寧に撫で回していた。
琥珀はぽかんと嘴を半開きにする。見上げた先、ニゼルは破顔していた。満足そうに、幸せそうに、嬉しそうに鷲獅子を見る。

「琥珀ー。凄いよ、偉いっ! いやー、盲点だった。そうだよ、あれがあったんだ」
「え? エ? え、な、なに? ちょ、ちょっと、ニジー?」

琥珀から手を離した後、ニゼルはばたばたと駆け出した。事態も事情も何一つ飲み込めず、魔獣はおろおろとその場をうろつくばかり。
対し、ニゼルは戻ってくるや否や、店主の机の下に潜り込む。ごとごとと怪しい音を立て、しばらくしてから、羊飼いは下から這い出した。
その腕に、何やら布で覆われた大きな塊が抱えられている。それの中身を、机に近寄るなと命じられていた魔獣は当然知らない。

「ニジー。それがもしかして、藍夜が元気になるナニカ?」

好奇心と知識欲、純粋な興味。問いかけてくるグリフォンに、ニゼルはまるで子供が悪戯を思いついた時のような顔で、小さく笑い返した。
内緒だよ、と人差し指を唇に押し当てる。内緒なの、念押しする琥珀に、ニゼルはそれは絶対だと言わんばかりに力強く頷き返した。
ぱっとその身が翻る。忙しいなあ、そうぼやいた魔獣の眼前、廊下に消えたと思わしき羊飼いは、とって返し、半身だけをそこから見せた。

「ねえ、琥珀。琥珀も一緒に行く?」
「え? 行くって、どこに?」

思わず問い返してから、琥珀はしまったと嘴を閉じる。これは、有無を言わさず巻き込まれる格好になるのではないのか。
予想は案の定だった。にやりと笑い、ニゼルは魔獣に手招きする。彼の頭には、鳥羽藍夜が奮起せざるを得ない名案が浮いていた。
それを確実に実現させる為には、一欠片の努力とて惜しむ気はない。力を貸せと、楽しいぞと、羊飼いは凶暴である筈の鷲獅子を誘惑する。
琥珀はそれに当てられた形になるが、悲しいかな、彼女もまた、悪さを働くのが好きな性質だった。素直に頷き、準備に取り掛かり始める。

(えーと……琥珀の用意は、自分でさせるとして)

時間がない事もあり、そこからのニゼルの行動は早かった。あらかたの荷物を纏めると、彼は一路喫茶店へと赴き、調理場に顔を出す。

「あっ、ニゼルさん。あの、すみません。わたし、何のお力にもなれなくて……」

手持ち無沙汰なのか、一人グラスを磨いていたアンブロシアと目が合った。藍夜を救う策が思いつかないと、彼女は申し訳なさそうに言う。
本当にいい娘だなと、ニゼルはうんうんと頷いた。彼の考えている事までは読めないのか、天使は困惑混じりの顔で首を傾げる。
そういえば、サラカエルの癖の一つは首を傾げる事だった。今考えている案を実行した時、彼はなんと言うだろう。
やはり嫌みだろうかと、ニゼルはぼんやりと虚空に視線を這わせてから、アンブロシアに向き直った。

「ねえ、アン。お願いがあるんだけどさ」
「お願いですか。なんでしょう?」

きちっと姿勢を正したアンブロシアに、ニゼルはポーチから取り出したものを手渡す。受け取った天使は、それをくると回して首を傾げた。
何の変哲も飾り気もない、シンプルな紙製の封筒。白いそれをもう一度くると回転させてから、アンブロシアはニゼルの顔を見つめ返す。

「これ、お手紙ですよね?」
「うん、そう。藍夜にね、渡して欲しいんだ。『藍夜に俺の事を聞かれてから』ね」
「え? でも目を覚まされてから渡しても、」
「それじゃ駄目なんだ。いい? 早すぎても遅すぎても駄目だよ。藍夜が目を覚まして、俺の事を聞いてきてから。絶対だからね」
「……ニゼルさん? あなた、まさか藍夜さんを見捨てるつもりじゃ……」

信じられないものを見る目で、天使は羊飼いを見た。無理もないかと、ニゼルは苦笑する。理解されるだろうとは端から思っていなかった。

「藍夜は暁橙の兄で、瓊々杵さんの息子だから。自分の事なんか二の次なんだ。家族が大事で、宝物……暁橙の事、言えないんだよ」

だが、このまま放置しておけばそう遠くないうちに親友は落命してしまう。非情になる事こそが、今の自分が親友にしてやれる唯一の手だ。
一見すれば、冷淡、薄情に見えるかもしれない。しかし、これはニゼルの視点からすれば裏切りなどではなく、歴とした友愛だった。
何より、自分達とアンブロシアらは根本的な部分が違いすぎる。彼女には、そこを最低限、理解して貰わなければならない。
ニゼルは大きく息を吸った。言葉を探り当てるように一度だけ目を閉じ、落ち着け、と自分に言い聞かせる。

「このまま何もなければ、『ああ、このまま暁橙達に会いに行き、冥府で家族水入らずで過ごすのも悪くない』……そう思うのが藍夜だよ。
 何の抵抗もしないで死んでしまえるんだよ。ウリエルの影響もあるかもしれないけど、藍夜って後ろ向きな性格なのに暗い話苦手だから。
 俺はそんなの嫌だよ、俺達まだ二十年そこらしか生きてないんだよ? やりたい事もあるし、行きたい場所だってまだたくさんあるんだ」

ニゼルの熱弁に、アンブロシアの目から次第に疑念の色が消えていった。代わりに、彼女は早くも泣き出しそうになっている。
涙脆いところは要改善かなと、羊飼いは内心で頷いた。藍夜ともども、「自分達が離脱した後」、悪人に騙されなければいいのだが。

「藍夜には生きていて貰わなきゃ。暁橙だって、ううん、藍夜の両親だってきっと同じ事を願うよ。だから行かせて、アン」
「ニゼルさん……」
「大丈夫だよ、絶対に藍夜は復活する。俺は琥珀を連れていくしね。いい? 手紙は、藍夜が俺の行方を聞いてきてから、だからね!」

アンブロシアは、辛うじてといった体で弱々しく頷き返す。彼女の両目から、ほろほろと透明な雫が流れ落ちた。
自分達と彼女らは、前提として寿命に差がありすぎる。話が食い違うのも当然かと思ったが、どうも彼女は人間に入れ込む質らしい。
理由は分からないが、彼女が人間の味方でよかったとニゼルは思った。これがハイウメやトルクのような性格なら、こうはいかないだろう。
罵倒を並べ立てる元街長らの顔を思い出す。嫌な事を思い出したと、ニゼルは微かに顔を歪めた。頭を振り、思考を切り替える。

「あ、そうそう。それから、これも渡してくれる? こっちはサラカエルにね」
「サラカエルさんに、ですか。あの、ニゼルさん」
「ん? ああ、それは、サラカエルを見かけたらすぐに渡してもいいものなんだ。頼んだよ、アン」

藍夜宛てのものと同じ、白い封筒。すぐに違いが分かるようにと、アンブロシアはエプロンに着いていた店の紋章を藍夜宛ての方に移した。
仕事の依頼かしら、首を傾ぐ天使に、俺は殺したい相手とかいないよ、ニゼルは明るく笑い返す。きびすを返し、いよいよ娘に背を向けた。
王都に向かったかつての牧羊犬、シロとクロを呼び寄せるように、甲高く指笛を鳴らす。ほどなくして、慌ただしく琥珀が姿を現した。

「ほいほ〜い。お待たせっ、ニジー」
「って、琥珀。荷物は? 手ぶらじゃない。暁橙から貰ったものとか、あるんじゃないの?」

裏手から駆けつけたグリフォンは、ニゼル達の前でぐるんと回る。なんと彼女は、リュックどころかポーチ一つさえ身に着けていなかった。
着替えだけでも、そう言いかけたニゼルの鼻先に、琥珀は前脚を差し出して見せる。鷲爪の根元に、あの古代琥珀が括り付けられていた。

「いいの、ぼくはこれさえあれば十分。それに、ぼくと暁橙はオトモダチなんだよ。カタミとか、辛気くさいのはいらないの〜」
「琥珀……そっか、そうだよね。琥珀、暁橙と仲良かったもんね」
「……アンバーくん」
「そっそ〜。それにねぇ、暁橙はぼくにウタを教えてくれたよ。あとでニジーに聴かせたげる! 暁橙はねぇ〜、セカイを知ってるんだよ」
「そっか、楽しみにしてるね。ちゃんと聴かせてよ?」

えへんと鷲の胸が反らされる。今この中で最も冷静であるのは、琥珀かもしれない。ニゼルとアンブロシアは、無意識に顔を見合わせた。
気を取り直し、出立の用意を進める事にする。ニゼルは悠然と歩き出し、ある程度の体長を維持して草原に座り込む魔獣に近寄った。
期待と高揚感に急かされながら、そっと跨がってみる。想像していた以上に温かく、ふんわりとした感触がニゼルの手のひらに返された。
こんな状況でなければ、歓声を上げ、親友に自慢しに飛び出していたかもしれない。頭を振り、ニゼルは首だけでアンブロシアに振り返る。

「じゃ、またね。藍夜の事お願いね、アン」
「……はい。ニゼルさん、琥珀くん。どうか、お気をつけて」
「ほいほ〜い、心配ご無用。ぼくがいればムテキだからね。安心して任せといて〜」

アンブロシアが頷き返した瞬間、前途を祝福するかのような、力強い風が丘を駆け抜けた。それが合図であるのに違いない。
ニゼルは琥珀の首をぽんと優しく叩く。感触を感じ取ったらしい琥珀は、翼を広げて打ち鳴らし、風に挑み掛かるように前傾した。
頼りがいのある四肢が、草を踏む。視界が揺れ、空気が頬を撫で、次の瞬間、ふわりとした奇妙な浮遊感がニゼルの全身を襲っていた。
夏空を目に映し、風が滑る音を聞く。羊飼いは世界を見た。気が付けば、オフィキリナスもアルジル牧場も、遙か彼方、眼下に沈んでいる。
陽光に照らされた景色が、広々と下に広がっていた。目の前に、絵本でしか見た事のない雲や、空の青が一面に連なっている。

「うわ……うわあーっ!」

たまらず歓声を上げた。時折、鼓膜に飛び込むのは、琥珀の大翼が風を切り、或いは空気を捕らえ、しなやかに飛翔する音だ。
感動、感激、言葉に出来ない興奮が、ニゼルの中で渦を巻く。勢いで出てきてしまった、そんな後悔はあっという間に掻き消えた。
風に煽られ、慌てて羽毛にしがみつく。琥珀は、ニゼルが振り落とされないよう、呼吸がしやすいよう、細かく高度と体勢を整えてくれた。
誰にそんな技術を教わったのだろう、問いかけようとして、口を閉ざす。琥珀もまたラグナロクの経験者だと、自分に言い聞かせた。
辛い事は、悲しい事は、今は掘り返す時ではない……ポーチをまさぐり、ニゼルはようやっとの思いで、世界地図を取り出した。

「ね〜ね〜、ニジー。これから、どこに向かったらいいのー? 行きたいとことか、あるー?」

タイミングよく、琥珀が行き先を尋ねてくる。そうだなあ、呟き返しながら、ニゼルは地図の下、南方面へと視線を滑らせた。

「うーん、そうだなあ」
「王都に行ってみる〜? シロとかクロとか、親御さんだっているんでしょー?」
「や、やだよ。別れて全然経ってないのに、親離れ出来てないみたいだし……うん、南。帝国に行ってみよう、温泉もあるっていうし」
「温泉〜? 藍夜が行きたい行きたいーって言ってる、デッカイお風呂? なんか年寄りくさ〜い」
「いいじゃない、温泉。王国より、帝国の方が豊からしいんだ。本当なら、老後に店を畳んだ藍夜が連れてってくれる筈だったんだけど」

……明確に約束をしていたわけではない。しかし、親友が昔からずっと温泉巡りの旅を夢見ていたのを、ニゼルは知っている。

「このままじゃ、いつまで経っても行けそうにないし! 藍夜が悪いんだよー、落ち込んで、ぼーっと油断なんかしてるから!」

ニゼルは、背負っていたとびきり大きなリュックを腹の前にずらして広げた。
中にはあの、応接室の床下に隠されていたへそくり瓶が詰められている。もちろん全額ではないが、これだけでも相当な金額になるだろう。
オフィキリナス店主、鳥羽藍夜は、種類を問わず手持ちのコインを磨き、それを地道に瓶に貯め込んでいくのが趣味だった。
持ち出された事が知られたら、まずただでは済まされまい。もっと言えば、彼は変なところで自尊心の高い男だ。
温泉巡りにしても、率先して日程、規模、費用などを計画したかったに違いない。それを奪われ、かつアシとなる騎獣まで奪われたのだ。
所有物には異常な執念を燃やす彼の事、これで逆上しない筈がない。しなかったら、自分は親友を理解していなかったという事になる――

『灯台もと暗し、お前のへそくりは頂いた!! 怪盗エックス、もとい、ニゼル。それからコハク』

――あの手紙には、そう記しておいた。アンブロシアからそれを受け取った際の親友の行動を想像し、ニゼルはぶるっと体を震わせる。
お説教どころか殺されかねないな、柔らかな苦笑いは、どうしようもない性格の親友と、その友人である自分に向けたものでもあった。
頭を振る。グリフォンの首を、ぽんと優しく叩いた。空の青は鮮やかで、通り過ぎる風の音は心地よい。うっとりと、ニゼルは目を細める。

「さあ、行こう、琥珀! 藍夜が怒って俺達を追いかけてきたら、俺達の作戦勝ちだよ。藍夜には、しっかり目を覚まして貰わなきゃ!」

喧嘩を売るような真似はしないが、相手をからかい、奮起させる事は得意中の得意だ。相手があの親友だからこそ、使える手でもあった。
羊飼いはにんまりと不敵に笑う。鷲獅子の黄金が陽光を反射して、蒼穹の中で煌めいた。目的地は南方、イシュタル帝国。
ぶわりと風を薙ぎ払い、伝承の書に描かれたそれより遙かに艶やかで美しい獣の翼が、空を切る。






「……やあ、本当に行ってしまったね。思ったより薄情な連中だったな」
「! サラカエルさんっ、ニゼルさんはそんな人じゃ……」

ニゼルと琥珀がオフィキリナスを発った直後。アンブロシアは、背後から突然掛けられた声に肩を大きく跳ね上げた。
案の定とばかりに、振り向いた先には殺戮の天使が立っている。フォローしなければ、慌てるアンブロシアだが、上手い返しが出てこない。
無理はよくないよ、サラカエルは首を傾げつつ彼女に落ち着くよう促した。胸を撫で下ろした天使の娘は、そこではたと目を瞬かせる。
空色エプロンのポケットを探る様子を、サラカエルは黙って見ていた。やがてアンブロシアは、一通の封筒を取り出し、彼の前に差し出す。

「あの、サラカエルさん。ニゼルさんが、あなたにこれを」
「ん、僕に? ウリエル宛てじゃなく?」
「はい、サラカエルさんに、と。『渡してくれたら分かる筈だから』、そう仰ってました」

訝しみながら、殺戮の天使はニゼルの封筒を手早く手持ちのナイフで開封した。入っていたのは、無地の手紙がたった一枚。
何が書いてあったのかと、アンブロシアは興味本位で首を伸ばしたが、彼女は不意に挟もうとした口を静かに閉じる。
文面に目を通し終えたサラカエルの顔が、珍しく歪んだからだ。片眉を上げ、口を一文字に結び、頬を引きつらせ、険しい表情を滲ませる。

「あの……サラカエルさん?」
「……うん? やあ、いや、なんでもないよ」

様子がおかしい、それだけはすぐに分かった。しかし、それ以上を問いかけるより先に、殺戮は対天使の眠る寝室へ向かってしまう。
ニゼルは、サラカエル宛てに何の言葉を残したのだろう。まるで分からず、アンブロシアは胸の前で手を重ね合わせたまま立ち尽くした。
彼らに何かしらの共通点があっただろうか。鳥羽藍夜の身を案じているという点では、確かに似たもの同士であるかもしれない。
しかし、どう考えても他の接点は見えてこない。考えても仕方がないかと、天使の娘は頭を振る。夕餉の仕込みをするべく、裏口に回った。

「――何故、たかが羊飼い如きが」

鳥羽藍夜の自室に続く扉の前で、サラカエルは先の手紙を再び広げ直している。
綴られていたのは、たった一文。しかし、その一文は、彼にとって特別な一文でしかなかった。
筆跡、言葉選び、インクの滲み。どれを取っても、彼が古くから見知ったものであり、焦がれ、追い求めて止まない字でもある。

『灯台もと暗し』

たった一文。されど一文。その字は、簡潔な文字列は、彼が長きに渡って捜し続けた最愛の女神、地母神ヘラの筆跡そのものであったのだ。




 The tales to chase paraiso continues ... (語られるべくして、書の記述は彼の草原へと続く)





 BACK / TOP / NEXT / 「1章番外編(1)」
 UP:18/08/11