・取扱説明書 ▼「読み物」 イラスト展示場 小話と生態 トップ頁 サイト入口・ |
||
楽園のおはなし (1-53) BACK / TOP / NEXT |
||
【 ――主よ、寛大なる御心の方よ。今、貴方の前に跪く弱きこの御霊を、その手で拾い給え。慰め給え…… 】 玲瓏とした声が響く。オフィキリナス裏手、やや開けた草原の上に、藍夜を始めとした面々が一列に並んでいた。 藍夜は黒いスーツ、ニゼルは足首のあたりまである黒に近い藍色の布を肩から掛け、アンブロシアはニゼルのものと同色のベールを被る。 琥珀は申し訳程度に、首に青色のスカーフを巻いていた。スカーフといっても喫茶店で使っていたテーブルクロスである為、かなり大きい。 それでも、一同は静かに異界の言葉――サラカエルが紡ぐ葬送の祝詞を聞いている。暁橙がいれば後で真似をしただろうと、藍夜は思った。 「……さて、一通り済んだかな。献花でもしたらどうだい」 冷たい言い方でしかないが、殺戮の天使とはこんなものだ。むしろ、生命をもぎ取る事を勤めとする彼に神父代行を頼み、申し訳なく思う。 鳥羽暁橙の眠る墓は、先代店主らの墓のすぐ隣に建てられた。昔から家族で親しんだ木、樫を削って作った墓標だ。装飾もごく少ない。 それでも、弟は気に入ってくれる筈だと藍夜は祈る。太い枝を磨き、ノミを振るい、両親のものと遜色ない仕上がりで、それは凛と立つ。 (父さん、母さん……暁橙。居心地が、悪くない事を願うよ) 皆、思い思いの品を墓碑に添えた。アンブロシアが庭で育てていたローズマリーを、琥珀はどこから咥えてきたのか、オリーブの枝を置く。 ニゼルは一度躊躇するように立ち止まり、その後、両手で抱えていたアルジル羊の毛織物……編み上げたばかりのマフラーを墓標に掛けた。 本来なら冬の訪れに合わせて仕上げる筈だった、兄弟宛ての織物。彼はサラカエルらが遺体を棺桶に収容している間、急ぎ完成させたのだ。 遺跡に向かう準備をしながら、毎回嬉しそうに首に巻きつけていた姿が脳裏に浮かぶ。弟は、毎年模様の変わるそれを心待ちにしていた。 ……もちろん、自分自身も。藍夜は押し寄せる強烈な悲しみと追想の残像を振り払うように、静かに頭を振る。 「ニゼル。それに、アンブロシア、琥珀。すまないね、暁橙も喜んでいる筈さ」 「……藍夜」 「藍夜さん」 「最後は僕からだ。といっても、つまらないものだがね」 取り出したのは、暗褐色の細長い硝子瓶。表面の古ぼけた羊皮紙製のラベルには、鳥羽暁橙その人の生まれた年が印刷されていた。 ニゼルが、何かに気が付いたように目を大きく開く。コルク蓋を開け、藍夜は瓶の中身を、生前の父から預かっていたグラスに注いだ。 「ぶどう酒かい、ウリエル」 「そうとも。古い酒蔵のもので、僕のものは外れ年、暁橙のものは当たり年だったのだそうだよ。小憎たらしいものだね」 ビロードを切り出したような、滑らかに揺れる光沢。黒に近い濃い赤紫色。上物の石榴石を溶かせば、このような色になるのかもしれない。 上品で優美な香りが風に解ける。琥珀がしきりにふんふんと鼻を鳴らす横で、ニゼルは唇を噛みながら、懸命に堪えるように、下を向いた。 先刻、彼がマフラーを編みにわざわざ自宅に戻ったのは、彼なりの気遣いだったに違いない。 アルジル夫妻が言っていた寂しがり屋というのも、あながち外れてはいないのかもしれないと、藍夜は思う。 「ニゼル。君も試してみるかい」 「え……いいの?」 「一人きりで味わうというのは、あの子は好まないよ。君がよければ、だが」 ボトルを傾け、口を幼なじみに向けた。返事を急かすように瓶を揺する。考えてみれば、弟は自分よりまず他人ありきの性格だった。 仮に生存していても、自分一人で楽しむような事はないだろう。ニジーさんも呼ぼうよ――そう言って笑う表情が、目に浮かぶようだった。 話を振られたニゼルは、珍しく逡巡しているように見える。目を下に向け、視界に草原を映し、拳を緩く握り、唇を噛んでいた。 彼が何を言わんとしているのか、そこまでは分からない。それでも、弟の死を悼んでくれている事に変わりない。素直にありがたいと思う。 遺跡発掘人、鳥羽暁橙の人生は、決して不幸なものではなかった。 彼の残滓を想い、アンブロシアのように泣き、琥珀のように寂しがり、ニゼルのように心から悲しんでくれる者がいる。 (それだけで、あの子は十分、幸せだったろう) 有無を言わさず、ワインを別のグラスに注いだ。瓶を置き、新たに用意したグラスのうち一つを自分で持ち、もう一つはニゼルに差し出す。 「さあ、ニゼル」 「……藍夜」 「なんだい、それとも君は、酒を地面に飲ませるのが趣味なのかい」 「!? うわ、ちょっと! それ高いんでしょ、もったいない! 飲むよ、飲む飲む!」 笑い合いながら、グラスを合わせた。青空の下に、カチン、と澄んだ音が鳴り響く。 「……」 「……」 「どうだい、ニゼル」 「うん、美味しい。凄いいいワインだね、これ。こんな味と香り、初めてだ」 「どうかな。だいぶん、渋いよ」 「何それ? あはは、高いお酒が台無しだよ!」 自分にも飲ませろ、そう興味本位で飛びついてくる琥珀を窘めるのに、苦労した。一同は、雲一つない空の下、快活に笑い、語り合う。 初夏に相応しい、涼やかな風が丘の上を駆け抜けた。その軌道を追うように目を動かし、藍夜は最終的に、空を仰ぐ。 ……生きていかなければいけない。最愛の家族が冥い土の下で手を取り合う光景を想像し、グラスに口を付けた。 程よく酔えたからか、それとも葬儀の疲れか、長い間雨に打たれたからか。その日は今一つ体調が優れず、早々と寝所に引っ込む事になる。 相変わらず差出人不明のままである救援物資で飢えをしのぎ、今夜は一緒に寝ると豪語するニゼルと共に、藍夜は寝具に潜った。 ニゼルがインディコールの事、暁橙の事、先代店主との思い出をぽつぽつと話すのを聞くうちに、柔い睡魔に襲われる。 曖昧に相づちを返しながら暗闇に意識をゆるりと手放し、心身を沈殿させる中、藍夜はぼんやりとした夢を見た。 『兄ィ』 『ウリエル様』 オレンジ色の髪は、最早見慣れた色だ。不思議な事に、夢の中の弟は二人いる。 片方は馴染み深いオレンジ色のつなぎ服、もう片方は、極彩色の羽根や透き通る鮮やかな布で白色の衣服を飾っていた。 どちらも同じような年の頃、体格で、髪の長さと服の派手さ加減を除いてしまえば、鳥羽暁橙そのものであるようにしか見えない。 藍夜は声を出そうとしたが、何故かそれは音にならない。口から飛び出した空気が、暗闇をひっそりとなぞるだけだ。 前にも似たような現象を経験した事がある。あれは確か、ノクトに敗れた折、ウリエルの視点からニゲラの幻影と逢瀬した時のものだ。 『兄ィ。オイラ、またそこに行くから』 『大丈夫だって、太鼓判押されたから』 『あのひとの導きがあるから、多分、迷わないよ』 『だからどうか貴方にだけは、生きていて欲しい』 あのひととは誰の事を指すのだろうか。問い返そうとしても、やはり声は木枯らしのように震えるだけだ。 暁橙、そう名を呼び、呼び止めようとするのを自覚した。同時に、二人の弟は藍夜に向かって満足げに微笑んで見せる。 ゆっくりときびすを返し、ワイヤーを、羽根飾りを優しく棚引かせ、冥い奥へと歩き出した。今度こそ藍夜は、たまらず絶叫する。 追い縋ろうと手を伸ばし、もがき、足掻いた。無情にも二つの影には追いつかない。派手に転び、痛む顔を上げた先、美しい光が目に映る。 それは二人の体から、群を成す蜻蛉のように零れ落ちていた。極彩色に輝く微細な砂だ。銀河を空に流したら、こんな光景になるのだろう。 さらさらと流れるものは、藍夜の体をすり抜けていく。それに触れる度、不思議と鳥羽暁橙の生き様が、色とりどりに脳裏に浮かんだ。 悪さをして兄に叱られる光景。鳥羽瓊々杵に抱えられた日。咲耶に抱き締められる温もり。漂う夕飯の匂い、羊の群れ、ニゼルの微笑み…… (……暁橙の記憶) ふと、どこからともなく水の流れる音がする。七色の砂粒の複雑な流動は、大河の流れに乗せられていたからだ。 気が付けば、暗闇という名の水流の中にいた。それが喪失を司る冥府の河、レテと呼ばれているのを、藍夜は知っている。 溢れんばかりの水量と、流水の清らかな音。失われゆく鳥羽暁橙の記憶は、レテ河の水同様、無味無臭の、透明度の高いものだった。 (いつかまた僕に、いや、僕達に会いに来るというのかい。君らしいね、暁橙) 爪先が川底から剥がれていく。抗う事など出来ない、意識ごと、涙ごと、全ての感覚が河に押し流されていった。 不思議と怖くはない。むしろ、目に見えない大いなる意志に抱かれているかのような、漠然とした安堵感と心地よさがある。 鳥羽暁橙は冥府に堕ちた。同時に彼は、ヒトに定められし理、輪廻転生の輪に乗った。二度と、今の姿と心を以って再会する事はない。 その事実が、いよいよ実感として心に刻まれる。藍夜は噛み締めるように目を閉じた。眼前に広がるのは、ニゲラの時と同じ、暗闇だけだ。 ――習慣というのは、簡単には抜けないものらしい。仕事をしなくて済むようになったのに、ニゼルはいつもと同じ時間に目を覚ました。 傍らでは親友がこちらに背中を向けて眠っている。流石に起こすには早いかと、大きく伸びをしてから一人、寝具から抜け出した。 オフィキリナスも元アルジル牧場も、ぼんやりとした朝もやに包まれている。草木の匂いは強く、日も昇りきらないうちの空気は格別だ。 下に降りると、珍しくアンブロシアは寝坊しているのか、人の気配がなかった。昨日さんざん泣いてたからなあと、誰にともなく苦笑する。 喫茶店を後にし、応接間に向かった。何者も不在の時間帯。当然誰もいないだろうと踏んでいたニゼルは、出くわした影を見て足を止める。 「あれ、ノクト?」 「よう。昨日と違って、早起きじゃねぇか」 いつも自分が出入りするのに使っている、牧場に面した一番大きな窓の前。そこに、喰天使が一人佇んでいた。 誰かが起きてくるのを待っていた、そんな顔をしている。怪訝な顔を浮かべるニゼルに、ノクトはそう警戒するな、と苦笑した。 「一つ、別れの挨拶でもしておこうと思ってな」 「別れ? ……えっと、アンジェリカの後を追って死ぬつもりとか?」 「おい、起き抜けになんて事言いやがる。んなワケねぇだろ。それが出来れば苦労しねぇけどよ」 自分の冗談は棚に上げ、機会があったらそうするつもりなのかと、ニゼルは喰天使を咎めるように口を閉じる。 顔に出てしまっていたのか、ノクトは一度視線を宙に泳がせ、気まずそうに咳払いした。 「鳥羽暁橙の事は残念だったな。嫌み野郎は仕方ねぇとか言ってたが、そんな簡単に割り切れるもんじゃねぇだろ」 「何それ? だから、なんでいちいちそんな上から目線なの? ノクトのくせに」 「おい、相っ変わらず可愛げのねぇガキだな、テメェは。まあいい、それより一つ、最後の警告だ」 「警告? 別れの挨拶とか言ってなかった?」 喰天使は一度、鼻で嘆息する。誰かにそうするようにと強要された、そんな態度だった。自主的な進言という風にはとても見えない。 「鳥羽藍夜だがな。ホワイトセージの一件で、奴は雷神の雷霆を酷使した。寿命や天使の力は、激減してるだろうよ」 「……え? 使わせたの!? サラカエルが使わせるなって、あれほど言ってたのに!」 「やれっつったのは俺じゃねーよ! とにかくだ、下手すれば今日にでも限界がくる筈だ。天使の消耗は後から響くものが多いからな」 頭を鈍器で殴られたような気分だ。ニゼルは呆然とその場に立ち尽くし、怯えたような目で喰天使を見る。 予想はしていた。だが暁橙の件、羊の件、両親の件といった苦痛が重なり、深く考えないようにしていた……親友による、ロードの酷使。 それが彼、鳥羽藍夜の生命を削る行為である事を、ニゼルは殺戮の天使から警告されている。よりによって今、その重大性が牙を剥いた。 頭が真っ白になりそうだ、頭を振り、現実から目を背けたくなるのを必死に堪える。迎え撃つ喰天使の眼差しは、いつになく真剣だった。 決して、大袈裟な話でも、嘘偽りなどでもないのだろう。ぐっと拳を握り、大きく息を吐いてから、ニゼルは乾いた口を開いた。 「それで、俺はこれからどうしたらいい? っていうか、ノクトの狙いって一体何?」 「おい、狙いだとか人聞きの……天使聞きの悪い事言うなよ」 「ハイウメの受け売りじゃないけど、元はといえばノクトが藍夜のロードを奪ったのが原因でしょ。もしかして罪悪感とか?」 ノクトに責任を押しつけたのは、八つ当たりであり、困惑と混乱に任せた部分もある。皮肉の一つでも返されるだろうと構えるニゼルだが、 「……そうかもな」 意外にも。意外にも喰天使は己が非を認めた。その表情は憐憫、自嘲、悲哀といった、一言では言い表す事の出来ない複雑な色をしている。 それ以上を責め立てる事は、どうしても出来なかった。目の前、ノクトはゆっくりときびすを返し、堂々と正面玄関に足を向ける。 「テメェに出来る事、か。目を開き、耳を澄まし、世界の声を聞け。テメェがこれから見る世界は、こんなもんじゃねぇぞ。油断するなよ」 「待って、それどういう意味? よく分かんないよ。ねえ、ノクト……アンはどうするの、義妹なんだよね、ここに置いていくの?」 予想はしていたが、やはり喰天使からの答えは返されない。 サラカエルの結界は、いつの間にか解除されていたらしかった。ノクトはニゼルの声に振り向きもせず、残り香すら残さず、外に出る。 誰かに命じられたのか、或いは催促されたのか、そこまでは分からない。しかし、あの天使は最後に義理を果たしたのだとニゼルは思った。 警告という名の導き。はっと我に返り、ニゼルはノクトを追わず、急ぎ来た道を戻る。二階に駆け上がり、親友の寝室の扉を開けた。 「藍夜! 起きてる、藍夜!!」 胸騒ぎが早鐘へと変貌する。警告と称されたからには、猶予がないのだと思えてならなかった。寝具に駆け寄り、親友の肩を掴み揺さぶる。 乱暴だ、後で叱られる、そう分かっていても、止められなかった。返事がない……ニゼルは藁にも縋る思いで、藍夜の体をこちらに向ける。 「……藍夜」 親友の顔は、青ざめていた。喰の直撃を受けた時のような熱はない。ただ、彼の呼吸は酷く弱々しく、今にも消え入りそうになっている。 暁橙のみならず、彼まで死にいくというのか。ニゼルは我を忘れて藍夜の体を揺すった。皆が目覚めぬうち、羊飼いは半狂乱状態に陥る。 あんまりだ、酷すぎる、彼らが何をしたというんだ――絶叫しかけたその口を、何者かの手が覆った。突然の事に目を白黒させ、振り返る。 「っぐ!? さ、ふぁら、」 「やあ、静かにしなよ。喧しいのが起きてしまうだろ」 サラカエルはニゼルの口を抑えながら首を傾げた。他にも、親友の自室の入り口に困惑した表情のアンブロシアが立っているのが見える。 対天使である藍夜がこんな状況だというのに、何故彼は、彼女らはそこまで落ち着いていられるのか。ニゼルにはまるで理解出来ない。 首を振ろうとするも、殺戮の天使は左手に力を加えるばかりだ。息苦しさと自由を奪うその行為に、ニゼルは恨みがましい視線を向けた。 「あの、サラカエルさん。それでは、ニゼルさんが話せないと思いますよ」 「やあ、アクラシエル。そうは言うけどね、僕はあの小生意気なグリフォンがぴいぴい喚く事の方が煩わしいんだよ。分かるかな」 「むぐ、ふんぐー!!」 「いえ、どのみち藍夜さんが起きかねませんし、ニゼルさんもそのへんは分かっていらっしゃると思いますよ」 アンブロシアの助け船が功を奏したか、サラカエルは首を傾げてからニゼルを解放する。荒く息をして、ニゼルは呼吸を落ち着かせた。 言いたい事は分かるのだが、殺戮の天使はいちいち強引が過ぎる。力業でなければ何も出来ないのかと、ニゼルは不服げに鼻を鳴らした。 「ノクトから聞いたんだけど……藍夜、どうなるの? 目は覚ますの? 雷霆を使いすぎて、寿命縮んじゃったんだよね?」 「やあ、正しくは寿命と天使の持つ魔力かな。心身ともに、貯金を使い果たしてしまったわけさ」 「……余計、ろくでもない状態じゃないか」 「そうは言うけどね、何も今すぐ死ぬってわけでもないんだよ。そこまで騒ぐほどの事かと思ってさ」 今、サラカエルはなんと言っただろう。ニゼルは一筋の光明を見出した気がして、ぱっと顔を上げた。 殺戮はやはり首を傾げてみせる。彼は悲観していたわけではなかった。それはつまり、鳥羽藍夜には、まだ助かる術があるという事だ―― 「使い果たした分は、気力を奮い立たせる事で回復出来る。『ウリエルという天使の実在を人間が信仰する限り』ウリエルは消えない」 ――曰く、過労と抑鬱に心身を著しく消耗し、本来なら回復出来るであろう部分への修復が追いついていない状況なのだという。 理屈が分からず、ニゼルは眉根を寄せた。サラカエルが馬鹿にしたように首を傾げる横で、彼の隣に来たアンブロシアが補足する。 「天使も神も、人間界に於いては強い影響を受けます。姿を維持し存在を確立させる為には、他者から存在を認識されなければいけません。 藍夜さんは鳥羽藍夜という人間ですが、ニゼルさんやわたし達が藍夜さんの存在を知覚し、更にウリエル様である事を既に知っています。 だから、もしレテ河の効力が切れたり、寿命を使い果たしたとしたら、その時点で冥府から死の遣いが藍夜さんを迎えに来る筈なんです」 「……よく分かんないけど、俺達が藍夜を知ってさえいれば、藍夜はずっと死なないで済むって事?」 「やあ、脳天気な頭だな。寿命や魔力を少量でも残す事は、あくまで最低条件さ。心が沈んだままなら、このまま衰弱死するだけだよ」 人間という器と、天使という魂。どちらでもある不安定な存在であるが故に、鳥羽藍夜は複雑な条件下で生存しているのだと天使は話した。 人間の肉体に負荷を掛け続けるのも、天使としての力を使いすぎるのも、彼にとっては自ら服毒する自殺行為に等しい。 今は天使側の負荷で、人間の器が悲鳴を上げている状態なのだという。回復しようにも、彼が無意識にそれを拒んでいるのだとも。 しばし黙考し、ニゼルは親友の寝顔を盗み見た。苦しんでいるようにしか見えないが、減少した魔力の補填を行っている最中なのだろう。 思い切り拳を握り締めた。なんとか力になってやりたい、このまま弟の後を追わせていい筈がない。彼の性格は、嫌というほど知っている。 万が一、そんな偽りめいた冥い願いが叶えられたとしたら……彼は後々、その手段を選んだ自分を自分で許さなくなるのに違いない。 変なところで律儀な男だ。自分はサラカエルらに比べれば無力な存在ではあるが、親友として彼の尊厳を守る手助けくらいはしてやりたい。 「藍夜が気力を奮い立たせて、人間らしく真っ当に生きる……それが前提として。じゃあ、藍夜がしゃきっとする条件って何だろう?」 「しゃきって、君ね。野菜じゃないんだから」 「あっ、食べ物とかどうでしょう? 藍夜さん、野菜や香草、お好きでしたよね?」 「アン、藍夜は食べ物には釣られないよ。肉や脂っこいものは苦手だし、お酒も好みが分かれてるし。琥珀くらい分かりやすかったらなー」 「それはまた、ウリエルらしいね」 「ちょっとサラカエル、笑い事じゃないんだからね? こっちは真剣なんだから」 ああでもないこうでもないと可愛らしい提案を繰り返すアンブロシアに苦笑して、ニゼルは喰天使が出て行った入り口に目を向けた。 親友が親友らしく在る為の、文字通り、喝を入れる事が出来る手段。これは大掛かりな宿題になるぞと、羊飼いの青年は思考を巡らせる。 しかし、その難問をじっくり解く暇はない。彼の命運は既に自分達の手に委ねられ、時間の経過とともに灯火が消されつつあるのだから。 ……ニゼル=アルジルに出来る事とは、なんだろう。 ニゼルは手を伸ばし、ぞっとするほど冷たい藍夜の手を取った。彼と自身の不安を振り払うように、力強く、首を縦に振る。 |
||
BACK / TOP / NEXT UP:18/08/04 |