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楽園のおはなし (1-20)

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翌日、翌々日になっても、しつこくその天使は店内に現れた。
腹ただしいのは、普通の人間と同じように正面入り口から入り込み、廊下を渡って喫茶店スペースに当たり前のように顔を出す点だ。
気付けば窓際の一番日当たりのいい席にいて、どこから取り出したかも分からないティーセットで紅茶を淹れ、日がな一日中居座っている。

「一体どういうつもりなんだい」
「『サラカエル』さ。名前くらい知っておいた方が便利だろ」

嫌味な奴め、憎々しげに歯噛みするも、サラカエルは動じていないように見えた。
ありとあらゆる記憶を溜め込み、望みとあらば球体の中に立体映像として再生する力を持つ高位ロード、智識女神の宝珠。
何が何でも調べたい事があるからと、奴は未だに雷神の雷霆を人質代わりに、店の一角を陣取っている。
もはや根競べだった。こちらがうんと頷くまで籠城するつもりだと奴は言う。曰く、時間だけならたくさんあるから、と。
その余裕ある態度も気に入らなかった。知り合いだからか、アンブロシアも自前の給料で奴に昼食などを提供しているからなおさら質が悪い。

「藍夜さん、サラカエルさん。お昼、パンケーキを焼きました。ご一緒にどうですか」
「アンブロシア……こいつに食事など与える必要はないと、僕は何度君に言ったのだろうね」
「おや、天使だってヒトの世に降り立つとそれなりに影響を受けるのさ。頂こうかな、アクラシエル」

アクラシエルとは、アンブロシアの天使としての本名であるらしい――そんな事はどうでもいい。
肝心なのは、この馴れ合いにも似た空気が半ば定着化しつつある事だ。
藍夜は深く嘆息する。暁橙もサラカエルの存在にはもう慣れたもので、遺跡から帰還した際には気楽に挨拶まで交わすほどだ。
天使を憎む立場である人間が自分だけだから、仕方がないといえば仕方がない。しかし、やはり腑に落ちない。

(せめてこの場に、ニゼルがいたら少々ばかりはマシなのかもしれないが)

わざとらしく嘆息したところで、同じようにわざとらしい笑顔で封殺されるばかり。
自分でもよく分からないが、気付けばサラカエルが今何をしているか、何を考えているか、その動向が妙に気に掛かる部分があった。
店そのもの、家族もろとも人質のようなものだ。腹が立つ事に変わりはないのに、しかし無碍に追い出す事が出来ない自分に苛立ちが募る。

「君の知りたい事とは何なんだい、サラカエル」
「おや、僕には興味がないものとばかり思っていたけど。どうしたのかな」
「嫌みを言わないと死んでしまうのかい。天使という生き物は随分と厄介な性質のようだ、そうだろ、アンブロシア」
「えっ!?」

突然振られた方はたまったものじゃないだろう。だが愚痴に付き合ってくれるニゼルも不在の今、近くの者に八つ当たりせざるを得ない。
アンブロシアはまさにパンケーキ一切れを口に入れようとしていたところだった。フォーク片手のままに固まっている。

「い、いえ、それは、その」
「いじめたら可哀想だよ。僕が嫌みっぽいのは性分さ」
「……分かっているのなら、改善するよう努めるべきだと思うがね」

絞り出すように返すと、その言葉そのままお返しするよ、サラカエルは涼しい顔で首を傾げた。
彼に促され、アンブロシアはようやくパンケーキを口にし直した。反論しようとして、しかし藍夜は口を閉ざす。
言ったところで無駄足だ。これならまだいっそ、ハイウメの方がやりやすい相手かもしれない。眉間に寄った皺を指で押さえ、ごく短く唸る。
ニゼルの帰還が待ち遠しいと、こんなにも思った事はない。自分が如何に彼を頼りにしているか、身にしみて分かるというものだ。
仕方なしにアンブロシアが用意した昼食に手を付ける。相席のサラカエルの手は、洗練された綺麗な食べ方をしていた。

「仮にだ、ロードを僕が売ったとして」
「おや、まともに交渉に応じる気になったのかな?」
「売ったとして、の話さ。その後、君はどうするつもりなんだい」
「さて、ね」

なんとなくだが、流されるような気がしていた。案の定サラカエルは一瞬首を傾げる。どうやらそれは、彼の癖のようなものであるらしい。

「探し人をしているんだ。そのロードがあれば有利と思ってね。僕は彼女と違って諦めるつもりはないからね」

藍夜は反射でアンブロシアを見た。彼女はスープをすくったスプーンの動きをピクリと止めている。
困惑したような目線がサラカエルに注がれる。対して、サラカエルの方は両目を閉じて、紅茶を静かに口に運んだ。
何か言おうとしたアンブロシアだが、すぐ口を閉ざしてしまう。面倒だな――藍夜は今すぐにでも、ニゼルに現状を報告したくなった。

「アンブロシアの賢姉の件は別として、サラカエル、僕は君に聞いているつもりなんだがね」
「ああ、そうだったね。そうだな……時間はいくらでもあるから焦らないつもりさ。それに、待ち人もあってね」
「待ち人、ですか」
「そう。近くまで来たら合図の一つでもくれる約束だったんだけど」

サラカエルの視線が動く。つられて藍夜とアンブロシアは、壁掛けの時計を見た。

「全くの音沙汰なしだからね。ま、気長に待つさ」
「僕がロードを売る、売らない、というのも、一種の暇潰しという事かい」
「そうなるね」

横でアンブロシアがうな垂れるのが見えた。彼女が予想した通り、自分は今とてもサラカエルの発言に神経を逆撫でされている。
雷霆さえ手元にあれば、いつかそうしたように、雷撃を放って追い払っているところだった。こちらを馬鹿にするのも大概にして欲しい。
それともその物言いさえ性分だとでも言うのだろうか。言われるような気がして、藍夜は短く嘆息した。
ニゼルが戻るにしても二、三日はかかる。サラカエルを真似るようで癪だが、売るつもりがない以上、この珍客には目を瞑るよりない。

「探し人に待ち人か。君も大概、多忙なものだね」
「おや、気遣ってくれるのかな? 嬉しいね」
「……よしてくれ。天使を気遣うなど、僕の趣味じゃない」
「気遣ってくれているようにしか見えないけどね」

耐え難い、藍夜は音を立てて乱暴に席を立つ。正面からサラカエルを睨む。

「やあ、『鳥羽藍夜』。君こそ、お人好しもほどほどにしておかないと、要らぬ火の粉を被る事になると思うよ」

サラカエルは動じなかった。向かって左、サラカエルの右瞳が、煌々と瑠璃色の光を孕んで輝いている。

「君、その目は」
「『君と似たようなもの』さ。そう、呑気にこうして昼食を楽しんでいられるのも今のうちというわけだね」

動揺とともに、藍夜は咄嗟に自身の左目を手で覆う。
サラカエルが先見、或いは予知、識別の能力を今まさにこの場で使っているとしても、自分の左瞳はうんともすんとも言わない。
とはいえ、意識を集中すると、いつもの独特の感覚が手のひらに返ってきた。使えなくなったわけではなさそうだ、内心で胸を撫で下ろす。

「君が『視えない』のも無理ないさ。僕が厄介だと踏んでいるのは、人間や魔物なんかじゃないからね」
「!? 待って下さい。もしかして、それって天使や神々の類……」
「いい質問だね、アクラシエル。そう、オフィキリナス周辺に興味関心を持っているのは、僕だけじゃないという事さ」
「……どういう意味なんだい」
「そのままの意味だよ」

藍夜が拳を握るのを、サラカエルは一瞥するだけに留めた。

「考えた事はなかったのかな、君は。天使が使うような能力を持つ店主に、店頭に並んだ高位ロード、最近ではそれこそ天上界に暮らしていた
 魔獣や高位天使まで飼い慣らして、他の天使どもがこの店を、君を、君達家族を、放っておくとでも? 見通しが甘過ぎるんじゃないかな」

サラカエルが双眸を細める。動揺を見透かされたような気がして、藍夜は声を詰まらせた。
考えた時期がなかったわけではない。暁橙と、ニゼルやその両親と過ごす暮らしの居心地の良さに、その可能性を深く考えずにいた。
天使や神といった者達が、高位ロードや自分の特殊能力に誘蛾灯のように誘われる可能性。自ら彼らを憎んでいながら、目を背け続けてきた。
対象であるサラカエルにそれを指摘されるのは、強い嫌悪感と共に自省をも促される。
反論しようと口を開きかける藍夜だが、応えるつもりがないのか、サラカエルはまた目を閉じ紅茶に向き直ってしまう。
彼の右瞳は、元の夜色に戻されていた。

「サラカエルさん。それは、この近辺にあなたやわたし以外の天使や神がいると……そうなんですか。でも、一体誰が?」
「悪いけど、僕は興味がないんだ。けど、そうだな。『殺戮の天使』の顔が広いのは、案外君達にとって利点になるんじゃないかな」
「利点、ですか」
「少なくとも連中の多くは、警戒心か、遠巻きにしているんだよ。表立って寄ってはこない」

冷めちゃったな、喉を湿らせてから、サラカエルは一瞬苦笑する。

「監視され続けているというのも、いい気はしないだろうけどね――ま、用心するに越した事はないと思うよ」
「ふん。全く、どちらが『お人好し』なのだろうね、サラカエル」
「褒め言葉として受け取っておくよ」

体のいい天使除け。甘んじてその立場を受け入れるつもりだと、サラカエルは暗に示す。
藍夜にとっては受け入れ難い話ではあった。しかし、暁橙やニゼルの安全を思えば、余計な世話だ、と言い切る事も出来ない。
店頭のロードを使いこなせたとしても、現時点でまともに扱う事が出来るのは雷神の雷霆くらいで、それさえ長時間使用出来るわけではない。
能力ともども限界はある。第一陣をしのいだとして、疲弊したところを襲われでもしたらそれこそ終わりだ。
ましてや、サラカエルがいつまでもこちらを庇護し続けるとは限らない。自分はここまで無力だったかと、内心でのみ頭を抱えた。

(八方塞がりにも程があるものだ)

藍夜は嘆息。それでも、現状、サラカエルがこうして窓辺にいる限りは日常を乱される事もないだろう。
自分はまだいい、しかし、襲われるのが暁橙やニゼルだとしたら。

(父さんや母さんだけでなく、あの二人を喪うような事は……そうでもなったら、僕は――)
「――考えてたって、仕方がないさ」

考えていても仕方がない、そう呟こうとした矢先、サラカエルの声が重なる。
互いに目線を合わせた。他人を挑発するようないつもの軽薄さは欠片もない。真摯な眼差しが藍夜を見据えている。

「連中が手を出して来ないなら、その間に対策を取ればいい。あの羊飼いにはグリフォンが護衛に就いているし、今は気に病む必要もないよ」
「慰めでもしてくれているつもりかい」

まさか、常のように、殺戮の天使は首を傾げた。

「言っただろ、待ち人をしているって。それまでの暇潰しさ」

やはり、どう考えてもやりにくい。澄まし顔で紅茶を啜る天使の顔を、藍夜は苦いものを噛んだような表情で見ていた。






「ただいま、父さん、母さん」
「お帰り。ニゼル」
「おー、ニゼル。お疲れさん、疲れただろ」
「いつも通りだよ。そんな疲れる事してないって」

ニゼルが王都での仕事を終え、自宅に戻ったのはその日の午後の事だった。空の荷台を見て、母ストケシアは「まあ」と驚きの声を挙げる。

「随分売れたじゃないの。いつもだったら少しは残るっていうのに」
「お得意さんにも、出店分のを買って貰えたんだー」
「珍しい事もあるもんだなあ」

珍しい事というより珍事件なら実際あったんだけどね、例の酔っ払い魔獣シレノスの大笑いを思い出し、ニゼルは一人苦笑した。
ぱっと横から琥珀が飛び出す。そのまま放牧地帯に駆けていき、牧羊犬二匹とはしゃぎ始めた。
どちらさん、母の問いに、藍夜の遠縁の親戚だってさ、軽い調子で返す。
正体が鷲の大翼と獅子の逞しい脚部を持つ化け物と知られたら、双方に卒倒されかねない。その光景を想像し、ニゼルは口端を軽く上げた。

「藍夜くんの親戚だったら、そうねえ。何か持たせてあげた方がいいかしら」
「やめときなよ母さん。藍夜の方が遠慮しちゃうと思う」
「そうかしら」
「そうだよー。っと、俺、ちょっと藍夜のところに行ってくるね?」
「待てニゼル! ……ほら、その、父さんにお土産は」
「えー、ないよー?」
「な、なんだと」
「嘘だよ、帰ったらちゃんと見せるから。行ってきまーす」
「泊まってくるなら、一回連絡よこすのよー」
「はーい」

シレノスのラッピングは、女性を中心に大変好評だった。あどけない少女の売り子――中身はグリフォンだが――も上手く客を呼んでくれた。
予想以上の売り上げを叩き出した行商の報酬として、ニゼルは琥珀の為に買う事になったカメラ型ロードの件を水に流してやる事にした。
少し意地悪したが、きちんと父への土産を買う事も出来た。上質の地酒だ、成果は上々過ぎるとも言える。

(藍夜にもお土産買ったし。褒めて貰えちゃったりしてー)

シレノスの手さばきは目で見ているし、彼自身にもコツを教えて貰えた。次回の売り上げも目途が付くというものだ。
同じ商売人として、藍夜がこの快勝ぶりを知ったら何と言うだろう。自分の事のように喜ぶ親友の姿を想像すると、足取りが軽くなる。
早く会いたいという気持ちに偽りはなかった。オフィキリナス正面に回り込み、扉に手をかける。

「……あれ?」

応接間兼正面入り口、そこには誰もいなかった。窓はカーテンごと閉ざされ、店主の机上には書類が数枚、整然と重ねられたままになっている。
見慣れたインク瓶にはしっかり蓋がされ、羽ペンは綺麗にペン立てに立てかけられ、店主御用達の手帳はブックバンドで閉じられていた。
思わず外に首を伸ばし、ドアの窓ガラス部分を見る。しかし、特に閉店中といった案内は下げられていなかった。

「うん? あれ、藍夜?」

ふと、話し声が聞こえてくる。耳を澄ますと、それは藍夜とアンブロシアのものだった。店の奥、喫茶店の方から聞こえてくる。
首を巡らせてみると、店内に展示されているロードには目立った変化が見られない。人の気配もない。もしや朝から営業していないのだろうか。
ニゼルは思わず眉を顰める。店も開けないで何してるんだろ、店主の名を呼びながら奥へと歩を進めた。

「……だからね、きみ、そうじゃないと言っているだろう」
(あ、いた。やっぱり喫茶店の方か)

喫茶店手前、キッチンのすぐ前に面した席で、藍夜がアンブロシアに何やら詰め寄っているのが見えた。
暖簾を片手で避け愛染染めの布をくぐり、店内を覗き見る。藍夜は怒っているのか、ほんのりと顔を紅潮させていた。
向かうアンブロシアは、でも、とかあの、とか口ごもっている。何してるんだか、口には出さずに、ニゼルは小さく嘆息した。

「あーいや!」
「! その声……ニゼルかい」
「それ以外に誰がいるの? ただいま。ほら、アンを苛めてないでさ。何があったの? お店も開けないで」

どうしたもこうしたもない、そう言いたげな親友を宥めるように、手を振りながらニゼルはテーブルに置かれた皿から焼き菓子を一枚摘んだ。
焼きたて。ミルク多め。甘く優しい味に、思わず口元が緩む。横から注ぐ視線にはたと気付き目を向ければ、藍夜の雄弁な視線があった。

「苛めているだなんて人聞きが悪いじゃないか、きみ、僕はそんな事していないよ」
「え、そうなの? とてもそうは見えなかったけど」

よしてくれ、藍夜は両眼を閉じ肩を竦める。思ったよりは怒っていないらしい、単にアンブロシアとの相性だろうか。
ニゼルも釣られて肩を竦めた。

「それより、問題は君の方だよ、ニゼル。どうして僕に黙って王都に出て行ったりしたんだい」
「えっ、俺? 俺が月一で王都に商売に向かうの、藍夜だって知ってるじゃない」
「それにしたって、一言くらいあっても良かったと、僕は思うがね」

意外なところで食って掛かられた。まさか不機嫌なのって俺のせいなの、思わずアンブロシアと目を見合わせる。
彼女は困惑したような表情で、首を左右に緩く振った。

「っていうかさ、俺、ちょっと前に藍夜に話したよね? この日から今日くらいまで王都に行くって。言ってなかったっけ?」
「……」
「藍夜?」
「ああ、いや。確かに聞いていたね、忘れていたよ」

何なのそれ、拍子抜けした反応をするのを、ニゼルは堪える。顎に手を当て、親友は何か考え込んでいるようだった。
不在の間、何かあったのだろうか。
そういえば暁橙の姿が見えない。暁橙は、そう問いかければ、今朝から遺跡に行っているよ、意外にもきちんとした返事があった。

「藍夜。俺がいない間、もしかして何かあった?」
「……」
「藍夜?」
「何かあったといえば、そうだね。あるには、あったかな」
「え?」
「ふん、思い当たるのは『あれ』くらいだろうね」
「あれ?」
「あれさ」

彼が顎で示した先、目を向けてみると、意外なものが目に映る。サラカエルの姿だった。
眉根を寄せ絶句するニゼルに、藍夜は「僕としても参ったものだよ」、そう独りごち、肩を竦めてみせる。

「……いつからいるの? あれ」
「君が不在にしてすぐだね。未だに帰る予定がないほど退屈しているようだよ」
「退屈って。何か用があるから、ここにいるんじゃないの」

藍夜は肩を竦め、椅子に腰かけた。素知らぬ顔で茶を啜り始める。どうやら「知りたかったら自分で聞いてこい」、そう言うつもりらしい。
一度ふて腐れると長引くのは、彼の悪癖の一つだ。呆れ半分、興味半分で、ニゼルは一度大きく息を吐いてからサラカエルの元へ向かった。

「やあ」
「あ、うん」

八つ当たりが平常と化すほど不機嫌そのものな藍夜に対し、殺戮の天使とやらは人当たりのいい笑顔を浮かべてみせる。
上質そうな真黒なスーツにタイ、長い夜色の髪、余裕そのものを表わす緩慢で優美な動き。
藍夜とはまるで対照的だ、そう思うと同時に、だからこそ親友は不機嫌なのではないか、ニゼルは何度か瞬きして黙り込む。
どうしたものか、考えていると、天使に座るように勧められた。頷き返したところで、ふと彼の手元を見る。湯気を立てる紅茶があった。

「それ」
「ああ、自前だよ。人様の家のものを勝手に拝借するわけにいかないからね」
「ふーん」
「良かったら君も飲むかい」
「え?」

何を言われたか、一瞬分からなかった。この天使には、数日前に琥珀もアンブロシアも怪我をさせられている。
でも、そう遠慮しかけた時には、サラカエルはニゼルが止めるより先に、空のカップに新しい紅茶を注ぎ淹れていた。

「はい、味は保証しないけどね。毒は入っていないよ」
「あ、うん。有難う?」

勧められるままに口に運ぶ。焼き菓子の甘さが残る口内に、その豊かな琥珀色は一斉に芳香を放った。美味すぎて目を見開く。
美味しい、素直に口にすると、それはよかった、天使は首を傾げて答えた。

「紅茶を淹れるのには、自信があるんだ。無駄に時間だけはあるからね」
「時間って?」
「おや、店主さんに何も聞いていないのかい」
「藍夜に? ううん、何も」

サラカエルは片眉を上げて見せた。紅茶を口に運び、そうか、小さな呟きを漏らす。

「藍夜と何かあったの?」
「いや、特に問題は何も。売って貰えるまでの根競べさ」
「こん……何?」
「おや、本当に何も聞かされていないんだね。僕はね、彼の『智識女神の宝珠』を売って欲しくて、ここにいるんだよ。つまりは客さ」

意外な告白に、ニゼルは目を瞬かせた。彼が天使嫌いになった事情もある程度は知ってるけどね、首を傾ぐサラカエル。
それでも配慮するつもりは毛頭ない、そう付け足され、思わずニゼルは視線を走らせる。キッチンの真向かいに腰を下ろす親友に。
事情は理解出来た、自分もそこまで間抜けではない。つまるところ、藍夜はサラカエルの再来が気に入らないのだ。
おまけに愚痴る相手である自分の不在も重なり、アンブロシアに八つ当たりするほど機嫌を損ね、配慮しろと駄々を捏ねているのである。
子供じゃないんだからさ、そう口にしかけるも、辛うじてニゼルはその言葉を嚥下した。今言ってしまえば、火に油を注ぎかねない。

「ちょっと、待ってて貰っていい?」
「おや、君が交渉の場でも設けてくれるのかな?」
「!? と、とにかく、ちょっと待ってて」

父母を奪われた怒りと悲しみは十分過ぎるほど知ってはいるが――商売にがめつい彼がここまで拒むとは、他にも事情があるのかもしれない。
紅茶を一気飲みして、一度咳き込み、ニゼルは慌てて席を立った。行ったり来たりで忙しないなあ、とは、流石に口にしない。

「藍夜!」
「ニゼル。奴から話は聞いたかい」
「えっ!? あ、ああ、うん。一応ね?」

親友の反応は、思いの外あっさりしたものだった。湯呑片手に焼き菓子を口に放り込んでいる。
いや、あっさりはしてないか――甘いものを本来好まない筈の彼が、甘い焼き菓子を数枚食している。ニゼルは無意識に声を詰まらせていた。

「ロード、欲しがってるんだって? ……早く売ってやればいいのに」
「きみ、随分と簡単に言ってくれるものだね」
「そうでしょ? そうしたら早く追い出せるし、それに、どうせなら取れるだけボッたくって身ぐるみ剥いであげればいいじゃない」
「ぼ……いや、きみね、僕の気持ちを汲んでくれるのは有難いが、もう少し言い方を考えたまえよ」

藍夜は小さく苦笑を滲ませた。よかった、いつもの藍夜だ、ニゼルはほっと胸を撫で下ろす。勧められるままに、横の席に腰を下ろした。

「どうも長い事探し物をしているらしくてね。天使にも天使なりに、悩みや苦労があるようだ」
「けど、それは向こうの事情でしょ。藍夜には関係ないよ」
「そう。そうなんだが、ね」
「俺は藍夜の味方だよ。藍夜があいつを追い出したいって言うなら、手だって考えるよ」

言いながら、ニゼルは考えていた。そう言われたところで、この親友は頼られれば断る事の出来ないお人好しなのだ、と。
藍夜は顎に手を当て、何事か考えているようだった。アンブロシアが茶を持ってくる。素直に受け取り、口にした。カモミールの匂いがする。
そういえばお姉さんがカモミールを愛用してるって言ってたっけ――思わずアンブロシアを見るも、彼女はキッチンに戻ってしまっていた。
小さな物音に目を戻す。湯呑を置いた藍夜が、言葉を選ぶように、ぽつぽつと話し始めた。

「ニゼル。しばらく、君はここに来ない方がいい」
「え? ここって、オフィキリナス?」
「そうだ」
「なんで? 俺、藍夜に何かした?」

唐突過ぎる話だった。不意に、ニゼルはサラカエルに斬られたアンブロシアの姿を思い出す。酷く嫌な胸騒ぎがした。

「いや、君は何もしていないさ。少し、厄介な事情があってね」
「事情って? 俺は嫌だよ、今のところ何もないし」
「ニゼル」
「藍夜こそサラカエルに何か言われたの? 俺は嫌だよ、ここ好きだし、それに……」

何かあっても藍夜たちが守ってくれるでしょ? 口にしかけて、ニゼルはぐっと言葉を飲み込む。
卑怯な事を言おうとしている、その自覚があった。藍夜が家族を含め、自分と両親を大切にしている事は普段から強く感じさせられている。
彼の言う事情が何なのか、自分には分からない。しかし、聞いたところで彼が話してくれるとも思えなかった。そういう性格だと知っている。

(自分一人で抱え込んで、それでどうにかなるって、本当に思ってるの? 暁橙だって、今になって反発したくらいなんだよ。藍夜)

ならばなおさら、今ここで、藍夜から、オフィキリナスから離れてしまう事だけは避けておきたかった。

(駄目だ。藍夜の事、放ってなんかおけないよ)

離れている間に、彼に、その家族と店そのものに、何事かあるのではないか。サラカエルのやたら人の良さそうな笑顔を思い出す。
自分の肖り知らぬところで、彼のような物騒な何者かが親友に災いを齎しでもしたら。あの惨状を思い起こし、ニゼルは首を左右に振った。
人の好すぎる彼の事だ、何かあっても絶対にこちらに害が及ばないよう黙秘し、事の解決に尽力するだろう。
しかし、それを許してしまえば、有事の後に二度と会えなくなるような気がした。
親友だ、幼馴染だ。万が一など起きて欲しくすらないが、何も知らされないままに彼を、その家族らを失ってしまう事だけは避けたい。

「それに、藍夜のハーブティー、今日はまだ飲めてないし。あれが飲めなくなるなんて、俺嫌だからね」
「……きみ、さっきサラカエルに紅茶を貰っていたじゃないか。あれで十分じゃないのかい」
「え、何、藍夜いじけてるの? やーだー、やだよー、藍夜のハーブティー好きだもん。絶対、今日も飲むからねー」
「きみね、子供じゃないんだから。そこは大人しく紅茶にしておきたまえよ」
「何、やっぱりいじけてるんじゃない! あはは! やだよ、早く淹れてよー。ねっ!」

話は無理やり反らした。藍夜も分かっているのだろう、首を振り、肩を竦め、それでも彼の瞳からは、物寂しさが消えていない。

「藍夜。俺は大丈夫だよ。絶対大丈夫」
「ニゼル」
「だから、さっきみたいな寂しい事言わないで。俺はずっと、藍夜の味方だから」

サラカエルが欲しているという宝珠。それをテーブルに取り出し、藍夜はまたじっと黙り込む。一点を見つめ、会話を途切れさせる。
ニゼルは黙って、彼が今し方淹れたばかりのハーブティーを口にした。懐かしく親しみのある、優しい香り。失うなど考えられなかった。
背後に視線を向けると、未だにサラカエルは先の席に腰を下ろしたままでいる。こちらに口出しするでもなく、新聞を広げ、目を通し始めた。
何を考えてるんだろう――ニゼルの目には、サラカエルがどうしても宝珠を欲しているという風には見えなかった。
鳥羽藍夜とサラカエル。「日常」に微かな亀裂を走らせる天使の来訪に、知らず、胸はざわつく。

(けど、悪い奴でもない……なんて見えるのは、気のせいなのかなあ)

言いようのない不安と困惑。いつもながらの奥深い香りと、親友の寂しげな姿が、とても対照的だった。





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 UP:15/12/11