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楽園のおはなし (1-21)

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時刻は夜時。渋る藍夜、そして、彼を宥める面々との食事を終え、サラカエルは本日の宿に足を向けていた。
青草に覆われた坂をゆっくり下る。日はすでに沈みきっており、あたりは静寂と夕闇に包まれつつあった。
ちょうど、坂の中腹に差しかかったときだ。ふと、視界の端に生き物の息づかいを感じて足を止める。
こちらを伺うような視線。しかし、気配は僅かながらに漏れていた。舐められているのかな、殺戮の天使は首を傾いで、振り返る。
のそりと、長身の男が姿を現した。暗がりに紛れ、その容姿の全貌は見えない。

「馴れ合う為に顔、出してんのかよ。暇人だな」

突っかかってくる声。その語気と声色で、サラカエルはその男が正しく、自分の待ち人である事に気がついた。
わざわざこんな事の為に天使の能力を使う必要もないし、敵意を向けられたわけでもない。
故に、サラカエルは――相手に見えているかどうかはさて置いて――いつものように、人好きのする笑みを浮かべてみせる。

「やあ、遅かったじゃないか。随分待たされたからね、退屈してしまっていたよ。『ノクト』」
「よく言うぜ。コッチは周りの天使どもが喚くせいで、なかなか寄られなかったっつーのによ」

不意に、雲に閉ざされ姿を隠していた月が、朧気に周囲を照らした。夕闇の中においても、待ち人の髪はよく目立つ色をしている。
満月の光と同じ、白金色。ヒトの世では、希少金属とされるプラチナという鉱石に似た色だ。
サラカエルは一時、眩しげに目を細めた。自身の髪、瞳、翼の色は、いずれも彼の髪よりも遥かに暗く、むしろ夕闇に近い色彩をしている。

(しかし、だ)

近寄りがたい気質と、忌避される能力……殺戮を性分とする自分と、待ち人ノクトはどこかが似ている。唯一異なるといえば、髪色くらいだ。
自嘲するように、サラカエルは首を左右に振った。どうにも感傷じみているのは、ウリエルの記憶が失われてしまっているからか。
どれだけ気持ちを押し殺そうとしても、やはり未だ、鳥羽藍夜に対して、ウリエルの気配を期待してしまう自分がいる。
期待したところで、彼の天使に対する憎悪も含め、そう容易く心を許してはくれないだろう……そういった直感も、サラカエルにはあった。

「……それで? 君の方は、探し物は見つかったのかな」
「うるせぇよ。テメェがそれを言うのか、サラカエル。ケッ、まぁな。探し物のうち一つは、見つかった」
「へえ、そうかい。それは、」

よかった、そう皮肉を続けようとしたサラカエルだが、ノクトの動きを見て口を閉じる。
するりと伸ばされた腕、指先。ノクトが指差す先には、つい先ほどまで夕餉を共にしていた店、オフィキリナスが存在していた。
思わず片眉を上げたサラカエルに、ノクトは一度、ふんと鼻を鳴らす。

「アクラシエル、だ。俺は、一度アイツと話をしねーといけないんだよ」
「アンブロシアかい? 彼女が、君が知りたがっている事を把握しているとは、とても思えないけどね」
「知っている知らない、も、俺が何を追い求めているか、もテメェには関係ねーだろ。アクラシエルもそうだ。話がある……それだけだ」

「喰天使」。ノクトは本来、そういった名で呼ばれる高位天使だ。能力からして他人に忌み嫌われ、どの地においても敬遠され続けてきた。
かつて、仕えていた女神の元で共に暮らしていたから、よく分かる。彼が本心を騙りたがらない孤高の気質である事も知っている。
故に、サラカエルは、珍しく眉根に深い皺を刻んだ。
記憶が失われていても構わない、少しでもウリエルと時間を過ごす事が出来たなら。その願いも込めて、今、あの店に顔を出しているのだ。
記憶女神の宝珠を欲する行為自体、パフォーマンスでしかない。実のところ、ただ滞在の口実にしているだけに過ぎないのだから。

「君がアンブロシア、いや、アクラシエルとどういう話をしたいのか、僕はそれこそ興味がないよ」

邪魔をするつもりであるなら許さない、言外に、険しい語気でサラカエルは警告する。

「そもそもだ、ラグナロクが起こった頃には、あの娘はまだ幼かったはずさ。なのに、何事か聞き出す事が可能だと思っているのかい」
「テメェこそ口出ししてんじゃねーよ、サラカエル。テメェがあのウリエルのなり損ないに執心してる事くらい、俺にだって分かるわ」
「なり損ない、ね。彼も、好きで人間に生まれたわけではないと思うんだけど」
「認めるんだな、鳥羽藍夜に執着してるっつーのをよ。俺には関係ねーけどな」

してやられた、サラカエルは苦いものを噛んだような心地になった。
ノクトは口こそ悪いが、高位天使としては地位も高く、頭も切れる。無意識に、見下していたところがあったのかもしれない。
アンブロシアの姉、今は生死不明の高位天使「ラグエル」の同僚でもあり、長い事、器も変わっていない、長寿、或いは古株の部類。
舐めていたのは僕の方か、考えたところで、己の甘さを見抜かれた点をごまかす事は難しい。話を逸らすように、サラカエルは咳払いした。

「それで、どうするつもりなんだい。話をしようにも、彼女は店の奥からなかなか出てこないようだけど」

家事手伝い。上手い事、天使の存在を隠したものだとサラカエルは藍夜に向けて感心する。
神々を信仰する立場の者は、ラグナロクが訪れた今でも、多くあった。ホワイトセージの周辺にも、いくつかの遺跡や教会が点在している。
もし万が一、アンブロシアが天使である事を街人らに知られたら。鳥羽藍夜は、分かっていて、彼女に炊事を押し付けているのだろう。

(単純に、面倒くさいからというのもあるかもしれないけどね)

隣の牧場に住まう、間抜け面の青年。遺跡に潜る事しか能のない弟。その弟が拾ってきた、まだまだ未熟な雌の騎獣。
どれもこれも、料理などが得意であるようには見えない。ウリエルもまた、天使であった頃から、まともな家事が出来た例がなかった。
隠蔽にかこつけて楽をしているというのは、僕の思考に似たのか――ノクトの何か言いたげな顔を無視して、サラカエルは小さく笑った。
会話の途切れた瞬間。ノクトの嘆息を耳にしたサラカエルは、意識を彼の方へと戻す。
見れば、喰天使は人差し指を下ろした格好で、険しい表情のままオフィキリナスを見上げていた。否、睨みつけたといった方が正しい。
その双眸に、明確な怒りが滲んでいる。サラカエルは、ノクトが何を言い出さんとしているか分からず、二の句を飲んだ。

「アイツらの馴れ合いも、テメェのこだわりも、俺にとってはどうでもいい事だ。アクラシエルを引きずり出す策なら、もう練ってある」
「……それ、鳥羽藍夜にも関わりのある事じゃないだろうね」
「安心しろ、人間風情をいたぶる趣味はねぇよ。多少は影響あるだろうが、テメェにも都合がよくなるだろうぜ。それだけは言っておく」
「君の言わんとしている事が、いまいち僕には分かり兼ねるんだけどね。ノクト」
「『興味がない』んだろ。だったら、俺の仕事に口を挟むな」

暗い。日は完全に沈み、辺りは夜色に閉ざされている。
暗い、暗がりの中……サラカエルは、いつしか、周囲に漆黒の炎が多量に揺れているのを見た。
狐火、篝火、鬼火。色だけは漆黒であり、緩やかに燃え盛る様は、まさしく闇を振り払わんとする灯りに似ている。

「触れるなよ。灼けるぞ」

分かっているさ、サラカエルはその反論を飲み込んだ。知らず、全身に緊張が走る。
幻影じみた火の出どころは、ノクトだ。喰天使が操る漆黒の炎。「喰」と呼ばれるそれは、森羅万象、あらゆる物を「喰らう」特質を持つ。
動植物、建築物、書物、緑の大地に青い大海、或いは、ヒトや天使でさえ。
その業火に飲まれたものは、この世に存在していたという事実を奪われ、冥府に降ろされる事も許されないまま、消失してしまうのだ、と。
サラカエルらの主である地母神に仕えながら、ノクトはそれとはまた別の、名を吐く事さえ憚られる古い神に仕えていた、と聞いている。
つまるところ、それほどまでに喰天使という存在が、長きに渡り神々にとって厄介視され続けてきた、という意味だろう。
ヒトでさえ天使でさえ……揺らめく炎は、サラカエルを避けるように滞空している。炎という形状をしているにも関わらず、熱さは感じない。
実物を見るのは初めてだ、サラカエルは冷徹な目で喰の具現を一瞥した。ノクトが首を巡らせると、炎は渦を巻き、丘の上へ駆け上がる。

「どうするつもりなんだい」
「さぁてな」

時刻は真夜中の手前。恐らく、オフィキリナスの中ではアンブロシアが食後の後始末を終え、皆、床に就くかどうかといった頃だろう。
焦燥は一瞬。悪いようにはしない――ノクトの言葉の端々には、そういった響きが含まれていた。
故に、サラカエルは、喰がオフィキリナスのうち店舗側、正面玄関付近に一斉に踊りかかるのを、黙って見送る事にする。

(ウリエル、いや、鳥羽藍夜は激怒するかな……恨まれるかもしれないな)

外壁が、文字通り食い破られていった。恐ろしいのは、店舗内部が露出していく最中でも、何の物音も立てられない点だ。
炎が蠢き、揺らめき、宙を駆ける際に、俄かに空を切る音がするだけ。外壁はさも柔い菓子のように、音もなく炎に削られていく。
噂通り、否、噂以上の驚異。目の当たりにして殺戮の天使は思う。このように、いつか、何者かの命が奪われた事があったのだろうか、と。

「行くぞ」
「おや、僕も着いて行っていいのかな」
「どっちでもいい。来たくなけりゃ、よそにでも行ってろ」

店舗の内装が露わになった頃。歩き出したノクトの足取りは、速度こそ穏やかだが、力の籠もったものだった。
釣られるように、サラカエルは後に続く。オフィキリナスまであと僅か、店の全貌が見えたところで、サラカエルはふと足を止めた。
何か来る、そう呟く前に、ノクトが強く片腕を振るう。同時に、自身も袖口から鋼糸を引きずり出していた。銀光を翻し、地表に走らせる。

「――っ、いたぁー!! しーんにゅーうしゃぁー!!」

高い子供の声が轟いた。しかしそれが、ただの子供ではない事を、サラカエルは最近の経験から知っている。
琥珀。オフィキリナスにおいて、今はそう呼ばれるグリフォン。サラカエルはノクトを盗み見た。喰天使の顔は苛立ったように歪んでいる。

「アンバー」
「ウゼェな、引っ込んでろ!」

互いの吐き出しは同時。飛来する鷲獅子の体へ、ノクトは躊躇せず喰の炎を向ける。
刹那、サラカエルの張ったワイヤーに爪先を引っかけ、琥珀の体ががくんと傾いだ。そのまま喰の直撃を避ける。
腕を振りワイヤーを回収する傍ら、サラカエルはノクトの微かな舌打ちを聞いた。下品だな、呟きは口内に溶かすに留める。ノクトは無言。
強く草を踏み抜き、琥珀の小さな体がノクトに肉薄した。今は人型、小振りな手が獣の牙のように指を広げ、一気に喰天使の足を狙う。
軽い足取りで避けるノクトに、琥珀はなおも追い縋った。器用に両手で地面を押し、勢いに乗せ、足が巨大な鎌のような曲線を描く。
そのスピードは驚異だった。喰天使が炎を放つより速く、少女の体は、倍の体格差がある男に食らいついていく。
所詮、人型変化、されど本質は獰猛な騎獣。獲物を追うように間合いを詰めるその表情は、暗闇の中においても、爛々と眼を輝かせていた。
二度目の舌打ちが宙に消える。ひときわ大きな炎が冥く明滅し、一瞬、それぞれの顔つきを浮かび上がらせた。
腕を大きく振るうノクト。屈み、機会を見定めるように顔を上げる琥珀。一方、サラカエルは数歩下がる。潔く、撤退の用意を始めていた。

(分からないな、ノクト。君の狙いは、一体なんだい)

喰の作用が如何に穏やかなものであろうとも、琥珀がここに飛来したという事は、騒ぎを嗅ぎつけられるまで猶予がない。
案の定、灯りが消え始めていたはずのオフィキリナスの店内が、ぽつぽつと明るくなり始めている。
鳥羽藍夜に見つかれば、ただでは済むまい。二度と口を利いて貰えなくなる可能性すらあった。サラカエルにとって、それは恐怖だ。
ようやく見つけた己が対天使。彼が今後、ウリエルの記憶を取り戻す事が出来なくとも、嫌われてしまう事だけはどうにかして避けたい。
それは、長い間各地を彷徨い続けてもなお捨てきれない、サラカエルの漠然としたエゴであり、強い願い、祈りでもあった――

「サラカエル! テメェ、このクソガキどうにかしろ! そういう約束だろうが!!」

――意識は、強引に引き戻される。「約束」。人間界に降り立ち、ふとした折に再会した、見知った男と交わした契約。
「ウリエルを捜しているなら、心当たりがある」。喰天使のその一言に釣られて、サラカエルはホワイトセージに訪れたのだ。

『もしウリエルを見つけたら、その時は俺の言う事を聞いて貰うぞ』
『へえ、君、僕に君の騎獣になれとでも言うのかい。随分と舐められたものだね』
『捜してるんだろーが。見つからなかったら、三回回って鳴いてやるよ。見つかればでいい、ウリエルがいるっつー場所で落ち合うぞ』

そして、サラカエルはウリエルとの再会を果たした……その時点で、殺戮の天使は、喰天使に協力する事を余儀なくされたと言ってもいい。
彼の来訪を待つという意味で、ここ数日、鳥羽藍夜をからかっていたのだ。だが、楽しい時間というものはあっという間に過ぎる。
礼代わりの要求とは、まさか用心棒という話だったとは――してやられた、サラカエルは、自嘲するように口端を上げた。
腕を翻す。潜ませていた鋼糸を一気に引き抜き、ぐると弧を描かせるよう操り、放った。
長きに渡り使い慣れた武器だ、容易く円形を作ったそれは、ノクトの喉笛に噛みつかんとするグリフォンの足首をするりと優しく包み込む。
手応え、牽引。大きく揺れ、地表に叩きつけられる琥珀の体。飛び散る草に構わず、彼女は僅かな悲鳴と共に、何事かの罵声を上げた。

「――ッ、コハ!?」
「サラカエル! それと……誰っ、」
「暁橙、ニゼル! 君達は下がっていたまえ!」

その時だ。オフィキリナスの方面から、聞き覚えのある声が複数響く。
一瞬、サラカエルは鋼糸に微弱の揺れが生じたのを感じた。動揺しているのか、自嘲と叱咤を沸き立たせ、琥珀の首に別の鋼糸を巻く。
グリフォンの体を固定、同時に、ノクトが翼を広げオフィキリナスへ飛翔する様子が見えた。
食い破られたような跡を残す歪な翼は、彼が喰天使である証。それでも飛翔能力は十分にある。瞬く間に、彼は鳥羽藍夜らの元に飛来した。

(雷神の雷霆は、僕の手の内だ。どうする、ウリエル)

対峙する喰天使、元ウリエル。遠目から気配を辿って様子を伺うも、サラカエルは自身の仕事に意識を戻す。
賢さは記憶を失った後でも健在なのか、琥珀は暴れる事をやめていた。ただ、その場で悔しげにうずくまっている。
ウリエルに加勢すべきだ、否、口約束とはいえノクトとの契約を不履行とするわけには――サラカエルは、内心で揺れていた。
サラカエルの仕えた地母神は、「結婚」を主とした「契約」を司る女神。彼女の支配領域である物事を、自ら反故にするわけにはいかない。

(ヘラ様……あなたは、今の僕を見て笑うのだろうか)

「ヘラ」。それが、サラカエルがウリエルの安否以外に、血眼になって探し求めるもの。
サラカエルのみではない、ウリエルも、アンブロシアも、琥珀でさえも、彼女の元で幸せに暮らしていた時代があったのだ。
ラグナロクの折に引き裂かれた、麗しい寛大な女性――彼女を取り戻す為なら、鬼にさえなろう。そう決めて、殺戮の天使は地上に降りた。
……意識を引き戻す。手に加える力は緩めない。激高したこの獣が、気を緩めた途端、報復に出るであろう事が容易に想像出来るからだ。

「……君は……『君達』は、本当にろくでもない事しかしないものだね!!」

鳥羽藍夜の怒声。反射で振り向いたサラカエルは、オフィキリナス店主が、幼なじみの青年を庇うように押し退けたのを見る。

(ああ、ウリエル。僕という存在がありながら、そんなものを護ろうというのかい。ヘラ様の事さえ、忘却して……)

失意が、殺戮の天使を満たしていった。故に、ノクトの動きを制止しようなど、サラカエルは思い至りもしない。
有無を言わさず、喰天使の手が伸びる。抵抗するニゼルを強引に背後に回し、藍夜は手持ちのロード、白銀に煌めく弓を構えた。
漆黒の炎が、あたりを埋め尽くしていく。激しく唸る空気の中、琥珀が、不安定極まりない笑みを浮かべたサラカエルを、じっと見ていた。
喰が、オフィキリナスを覆い尽くす。藍夜が、強く弦を引いた。風切り音が炎を引き裂き、まっすぐに喰天使の胸元へ疾り寄る。

「人間風情は、引っ込んでろ!」
「僕の大切なものを奪おうと言うのなら、君こそ『引っ込んで』いたまえ!」

漆黒と白銀がぶつかる。眩い閃光が場を満たす。衝撃音とともに烈風が駆け抜け、店の内部もろとも、捲り上げるように荒らしていった。
ニゼルも、暁橙も、たまらず目を塞ぎ悲鳴を上げる。根こそぎ奪い尽くすように、黒い炎は風の中で猛烈な渦を巻き、辺りを舐めていった。






ふっ、と静寂が訪れる。ようやく風が収まったと同時、ニゼルは意識を朦朧とさせながらも、親友の姿を探し、急ぎ辺りを見渡した。

「!? 藍夜!!」

鳥羽藍夜は、無事だった……否、五体満足という風ではなかった。膝を草の上に着き、うなだれ、苦しげに呻いている。
慌てて駆け寄るニゼルだが、今度は押し退けられるような事もなかった。勢いよく肩に触れる。体を起こさせ、顔を覗き込んだ。
親友の顔面からは血の気が失せ、脂汗は止まらず、息も絶え絶えだった。彼が射たはずの弓も、草原に落とされたまま放置されている。
額に触れると、体温が異常に低くなっていた。これはまずい、心臓が不安でざわめき、ニゼルは藍夜を抱きかかえようとする。

「邪魔するから、そういう事になるんだよ。ま、死にはしねぇから安心しろ」

声がした。サラカエルの横にいた、初めて見る顔の男だ。暗がりの中で、後ろで一つに束ねられた白金色の髪が揺れている。

「兄ィに、何したんだよ! お前誰だよ!」

ニゼルが何か言う前に、口を挟んできたのは暁橙だった。藍夜、ニゼルを庇うようにして、鋼糸を手に前に出る。
白金髪の男の顔から、表情が消えた。背筋に獣の舌に舐められたような悪寒が走り、ニゼルも暁橙もはっと言葉を飲む。

「何度も言わせるな。俺の仕事の邪魔をするなと言ったんだ、クソガキども」
「答えになってねーよ! 兄ィを……っ」
「黙れ、と言ってるんだ。お前も兄貴と一緒に、焼いてやろうか」

夜色の瞳が、こちらを睥睨していた。一度は晴れたはずの漆黒の炎が、またしても大気中に渦を巻いている。
あいつがこの炎を操ってるんだ、ニゼルは冷や汗を垂らしながら、藍夜の肩を引き寄せた。親友は何の反応もしない。
このまま死ぬのではないか――漠然とした恐怖が押し寄せる。男の背に広がった翼が、穴だらけのそれがこちらを嘲笑ったような気がした。

「っ、ノクトさん!!」
「……アン?」

その時、新たな気配がニゼルの横に立つ。草を踏み駆け寄る足音は、アンブロシアが齎したものだった。
血相を変えた彼女の切迫した表情が、ノクトと呼ばれた男に変化を与える。嘲り、怒り……口を大きく横に開き、男は剣呑な笑みを浮かべた。

「よぉ、アンブロシア。久しぶりだな、でっかく育ったじゃねーか」
「どうして……どうしてこんな事を、姉さんは!?」
「アン? 誰? 知り合いなの?」
「っ、ニゼルさん……」

天使は口ごもる。ニゼルと男を見比べ、アンブロシアは言葉を選んでいるかのようだった。
風がうねる音を聞き、ニゼルはアンブロシアから目を離す。ノクトと呼ばれた男は両腕を開き、十字架を模した体勢を取っていた。

「ハッキリ言やぁいいじゃねーか。『この人は、わたしの姉さんの元婚約者さんです』、ってな!」

炎が渦を巻く、空を駆ける。ニゼルの目には、まるで、男が隠れて泣いているように見えた。
真意を問おうと口を開いた瞬間、炎が眼前を撫でていく。熱い、焼ける……無意識に藍夜を庇っていた。
ニゼルは漆黒の中で、アンブロシアが悲痛な声で男の名を叫び呼ぶのを聞く。
元婚約者――かつて彼女が嬉しそうにペンダントの事を話していたのを思い出した。姉と彼女を繋ぐ、手作りの首飾りを作り、与えた男。

(アンのお姉さんに、何があったんだろう)

強風に目を細める中で、ニゼルは、ふと黒塗りの中にいくつかの黄金の煌めきが疾るのを見つける。
箱、壷、杖、玉、剣……鳥羽藍夜がこれまで、弟と共に、オフィキリナス元店主である両親が遺したものとして守ってきた複数のロード。
その煌めきが、黒い炎に飲まれていった。あっと叫ぶ暇もない。思わず視線を落とすと、藍夜の顔は鬼の形相になっている。
ふざけるな、親友が弱々しい声ではっきり怒鳴るのを聞いた。腕の中から這い出ようとする彼を、必死に止める。
見渡せば、アンブロシアも暁橙もまた、獰猛な炎を前にひたすら目を閉じ、踏み留まるばかり。抵抗する事もままならないようだった。
うねる黒炎の烈風の合間、動かした視線の先。ノクトがこちらを見つめている。ニゼルは、その表情が微かに動いたのを見た。

「……高位ロードは、人間風情の手に余る。悪いが全て、回収させて貰うぞ……アンブロシア、テメェには話がある。またいずれ、会おう」

無表情、無感動な声色。それが何故か、とても悲痛な叫びに聞こえる。呼び止めなければならないような気がして、ニゼルは手を伸ばした。
指先が男を捕らえる事はない。何枚かの羽が宙に漂う。風と炎が掻き消えた時、その場にノクトの姿は残っていなかった。
肺が苦しい。未だに残る熱に噎せるように咳き込み、ニゼルは力なくうなだれた親友の体を支え直す。

「藍夜……藍夜? しっかりしてよ。ロードなら、また集めればいいじゃないか。ほら、あいつから取り返してやろうよ。ねえ、藍夜……」

彼の熱が上がったような気がした。荒い呼吸が、消え入りそうな呼気に変わる。したたる汗の量が多い。親友の意識は、混濁していた。

「……藍夜!!」
「藍夜さん」
「兄ィ!」

黒炎と入れ替わりに、いつしか、空には黒雲が満ちている。雨のにおいが漂い始めていた。星は一つも見えない。
動く事のないオフィキリナス店主、動けないニゼルたち。そこに、足音が一つ近付こうとしている。
暗がりと同じ色の髪、黒衣の青年。琥珀を抱えた、サラカエルだった。





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 UP:17/09/15