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楽園のおはなし (1-19) BACK / TOP / NEXT |
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「全く、ニゼルめ……どうして僕に黙って急に不在にするのだろうね」 腕組みしながらの独り言。 不機嫌を隠しもしない藍夜に対し、暁橙はスープを口に運ぶ手を一瞬止め、パンを手にしたアンブロシアは店主に哀れむような眼差しを向けた。 瞬時に双方、目だけで会話をこなす。兄ィってニジーさん好き過ぎるよね、まさか本当に言うなんて、二人は小さく嘆息した。 やや遅い朝食の席。 ニゼル、並びに琥珀が無言で出た事に関する藍夜の鬱憤は、先ほどから言い方とタイミングをころころ変え、執拗に吐き出されている。 温め直した芋餡の饅頭をバスケットに開け、アンブロシアは「落ち着け」と言わんばかりに、藍夜にそっと茶を出した。 「ああ、有難う、アンブロシア……それで、君はどう思う?」 「えっ!? ど、どう、とは」 「ニゼルの事さ。我が家に泊まっていったんだ、一言くらいあっても良かったとは思わないかい」 茶など出さねば良かった。泣き出しそうな顔を暁橙に向けるアンブロシアだが、彼は諦めろと言う代わりに首を左右に振るばかり。 いっそ泣けてしまえばいいのに。彼女は若干顔を引きつらせながら、弱弱しく愛想笑いを浮かべた。 「それより、兄ィ。今日はお店開けるの?」 「なんだい、暁橙。まだ話は終わっちゃいないんだがね」 「ニジーさんならそのうち帰ってくるし。その時言えばいいよ、それより、今日の生活の糧のがオイラは大事かなって」 暁橙が助け船を出す。アンブロシアは両手を胸の前で組み、きらきらした目で彼を見つめた。 藍夜は肩を竦める。話題反らしと気付いてか、への字に結んだ口からはごく短い嘆息が漏れていた。 「君の言う通りではあるが、しかしね暁橙、まだ君が昨晩持ち帰ってくれたロードだって鑑定出来ちゃいないんだよ」 藍夜の視線が動く。釣られて顔を巡らせた暁橙とアンブロシアは、喫茶店スペース隅に置きっぱなしになっていた袋を見た。 昨夜、暁橙が遺跡から持ち帰った戦利品。考えてみれば中身を改めていなかったね、と、藍夜は最後のパンの一欠片を口に放った。 席を立つ兄を追おうとして、暁橙は片手でそれを制される。はたと気付いた風に、アンブロシアは手早く藍夜の食器を片付け、クロスを拭いた。 案の定、藍夜は空白になったそこに袋を乗せる。解かれた袋の中身を見ようと、アンブロシアは横からそろそろと身を乗り出した。 向かいの暁橙は、どこか誇らしげにして顔を高潮させている。 「……どうやら、なかなか自信があるようだね、暁橙」 「うん、もっちろんだよ、兄ィ。コハのいた遺跡にもう一度潜ってみたんだ。こないだはコハを連れ帰っただけで終わったから」 「君ね、あの遺跡で足を痛めたんだろうに」 「平気だよ、今度は対策打って行ったし。ちゃんと帰ってこれたし!」 言い足りない、不服そうにしながらも、藍夜が左目に手を添える。手のひらが離れていくにつれ、瞳が鮮烈に色を変える。 澄んだ秘境の青い池、上質な瑠璃の宝玉に似た艶やかな紺青。ふとアンブロシアの顔が微かに曇っていくように見えて、暁橙は首を傾げた。 しかし、藍夜が一つ、また一つとロードを忙しなくテーブルに広げていくので、追求する事は憚られた。 「全く、少しは用心して欲しいものだ……うん、いや、これは……ふむ」 「な、なに、兄ィ。も、もしかして、まさかの不作?」 「いや、そうじゃないよ暁橙。その逆さ、全く、とんでもない大物が眠っていたものだね。どれも掘り出し物に違いないよ」 暁橙がパンと膝を叩く。アンブロシアは瞬きを繰り返した。藍夜は双眸を細め、顎に手を当てながら、眼前のロードを空いた手で撫でている。 夕日色の美しい宝玉、輝く白銀の弓、緩やかな曲線の黄金の輪、黄金の杖――そのうち、鋭い矢じりのような刃一枚を、暁橙が手に取った。 おもむろに自身のつなぎの袖をまさぐり、中から普段から愛用しているワイヤーを一本だけ引っ張り出す。 「兄ィ、オイラこれ貰ってもいい?」 何に使うんだい、藍夜の問いに、彼はワイヤーの先端に黄金の矢じりをくくり付けた。不思議と、自ら身を委ねるようにそれはしっかり馴染む。 ふむ、藍夜が漏らしたのは感嘆の響き。暁橙はワイヤーを短く持ち、ひゅん、と矢じりごと一回転させる。金の光が綺麗な弧を描いた。 「前から似たような事やってたけど、どっかな。いい感じだと思うんだけど」 「うん、悪くはなさそうだね」 「あの……何が、」 「ああ、暁橙の飛び道具の話さ、アンブロシア。使い勝手は良さそうなのかい、暁橙」 「うーん、うん。いいと思う。重さが付いたから回しやすいし、物に引っ掛けるにもちょうどいっかな」 遺跡発掘、探索に使う道具の改造。これでより動きやすくなる、嬉しそうに破顔する暁橙を前に、藍夜は複雑そうな表情をしていた。 この場にニゼルがいたら何と言うか――恐らくこうだ、「藍夜は暁橙が心配なんだよ」。ひとり大げさに頷いて、アンブロシアは目を開いた。 「どうかしたかい、アンブロシア」 「藍夜さん。いえ、それより暁橙さん。ご無理、なさらないで下さいね」 「え? ああ、うん? 分かってるよ、どうしたの、シア」 「いえ……なんでもないんです」 気休めにはなっただろうか。アンブロシアがちらと目線を走らせると、藍夜が小さく咳払いしているのが見えた。 「……高位ロード、『智識女神の宝珠』、『月女神の銀弓』、『心猿の金環』、『孔雀石の杖』。それと、中級の『鏡面の輪』か。大したものだね」 「兄ィー! どうかな、これ結構儲かりそう!?」 「『鏡面の鏡』については、暁橙、君と相性がいいようだから、そのまま君が使うといいだろう。他は……ふむ、どうかな」 「? あの、相性というのは」 「ああ、暁橙も僕もロードを使う資質はあるんだ。『使える』側の人間なんだよ、アンブロシア」 ロードには古代の神々や天使、偉人の力が宿るという。そして、それを使う事の出来る人間もいるという事。 ただしそれには、封じられた神や天使の気質、性質が大きく関わるのだと、藍夜は手短に説明した。 「その、鏡面の輪、ですか。それ以外のものは、暁橙さんを選ばなかったという事なんでしょうか」 「そうではないよ、アンブロシア。単純に、使い勝手が悪そうだというだけの話さ」 「使い勝手、ですか」 「ああ、そうとも」 藍夜の白い指が、一つ一つを指し示す。 「例えばこの弓はね、『清らかな肉体』を持つ者だけが扱える代物だ。もっと言うと、知識欲が旺盛で、『大地』と『狩り』に馴染み深い者かな。 僕も暁橙も遺跡に潜りはしても、狩りは趣味じゃないからね」 「清らか? んー、毎日風呂入れって事?」 「いや、暁橙。そうではないよ。そうではないんだ、その、なんだろうね、うん」 藍夜が言わんとする事を察したアンブロシアが、さっと顔を赤くした。急かすように次のロードを手で押しやってくる。藍夜は小さく頷き返した。 「え、なに、何なの、兄ィ。清らかな体って」 「あ、あの! 暁橙さん。それより、他のロードの鑑定を……」 「ええ?」 「二人ともいいかな、話を戻しても。さて、こちらの『輪』は琥珀の首輪にしようか。『押さえ込む』のにちょうどいいのでね」 「ちょうどいい? どういう事?」 「なに、大昔、異国の地で大暴れした伝説の神獣を封じたとされる代物さ」 「確か、神話伝承の、金の毛皮の猿、ですよね。昔、姉さんに教えて貰った記憶があります」 「ああ……とにかくだね、これらは僕らの手にあまる曲者揃いなんだよ、暁橙。売るにしても適した客を判別するのに苦心するだろう」 「えー。それって、あんまり儲かんなさそうって事?」 「無駄足という事では決してないさ」 瑠璃色の瞳が元の夜色に戻される。大きく一つ息を吐き、藍夜はアンブロシアが入れた茶をもう一口啜った。 「じゃあ、じゃあさ、兄ィ! こっちの、石っころと、杖は? どういう性質なの?」 「ああ、それは――」 「――『それ』を人間風情が手にしようだなんて、これ以上ない傲慢、高慢というやつだろうね。ああ全く、気安く触らないで欲しいよ」 三人、一斉に動きを止めた。真っ先に振り向いたのは藍夜だった。次いで暁橙、そしてアンブロシアが、突然降った声に目を大きく見開く。 振り向いた先、喫茶店の隅、一番日当たりのいい席。気配一つ感じさせなかったそこに、急に沸いた珍客がひとり、悠然と腰を下ろしていた。 殺戮の天使、サラカエル。 長い夜色の髪、左右で色の異なる瞳、上から下まで黒一色の衣服。見知った顔ではある、昨日遭遇したばかりだ。 傷付けられたアンブロシア、敗北した琥珀、踏み躙られた、父母のオフィキリナス敷地。嫌悪と怒りで顔を高潮させ、藍夜が席を立つ。 テーブルの木目を指でなぞりながら、天使はこちらに向き直った。人好きのする、しかし顔に貼り付けただけの社交辞令じみたその笑顔…… 「お前……『サラカエル』! どこからっ、」 「藍夜さん!」 反射で雷霆を取りに走ろうとして、しかし藍夜はアンブロシアに腕を引かれる。 歯噛みし抗議しようとした藍夜だが、後方、サラカエルそのひとが、手に掴んだ『それ』をひらひら振っているのを見、愕然とした。 暁橙がロードを結んだばかりのワイヤーを袖から引き出す。振ろうというのか、たまらず藍夜は弟の手を掴んだ。暁橙がぎょっと藍夜を見る。 藍夜は首を左右に振る――いつの間に雷霆を奪っていたのか、むしろ、いつから室内に出現していたのか。何も気配を感じなかった! 俊敏、瞬発力にはここまで差がある。おまけにこちらは生身の人間、雷撃を放たれては一たまりもない―― 「――何用だい、こんなところに」 悔しさに奥歯を噛み、耐えるより仕方なかった。 「まあ待ちなよ。今日は、争いに来たわけじゃないんだ」 サラカエルは変わらず悠然と微笑んでいた。本当に敵意はない、そう言う代わりに、首を小さく傾げて見せる。 アンブロシアは、横の藍夜が唇を噛み破るのを見た。微かに鮮血が吹き出し始める。なんて酷い顔、彼の青ざめた横顔に息を呑む。 彼女がエプロンの裾を摘んで彼の血をさりげなく拭くのと、サラカエルが雷神の雷霆を器用に片手で回転させ、席を立ったのはほぼ同時。 「兄ィ」 「暁橙」 「い、いいから。オイラは平気だから」 身動き一つ取れない兄を庇うように、暁橙がその真横に素早く立ち、腕を伸ばす。顔色一つ変えず、サラカエルは藍夜の眼前に歩み寄った。 親の仇を見るような目で天使を睨み上げる、オフィキリナス店主。双眸を細め、何か物言いたげな殺戮の天使。奇妙な沈黙が流れた。 手を伸ばされ、兄の首はすぐ絞め上げられてしまうのではないか。暁橙にはその危惧があり、アンブロシアも同様だった。 全員が、店主と天使の言葉、行動を待っている。先に口を開いたのは、サラカエルの方だった。 「その高位ロード、特に『宝玉』の方。それを僕に譲って貰いたくてね」 「……なんだって」 「もちろん、ただでとは言わないさ。報酬なら望みの形で払うし、何なら君の気に入らない奴を殺しに行ってもいい。悪い話じゃないと思うけど」 予想だにしない、意外な申し出。暁橙の拾ったロードを売って欲しい、サラカエルは確かにそう言った。 何を言っているか分からない、藍夜は本当にそういう表情を浮かべた。ふむ、小さく頷き、サラカエルが一歩、アンブロシアの方へ寄る。 経験から身を竦ませるアンブロシアだが、彼が手を伸ばしたのは、彼女の首ではなかった。サラカエルの目は、変わらず藍夜だけを見ている。 「!? お前、兄ィに何するつもり、」 「少しは静かにしたらどうかな。ここは食事を楽しむところなんだろ」 伸ばされる指先。たまらず叫ぶ暁橙に飛ぶ、思いのほか柔い声色。ぐっと返事に詰まる暁橙をよそに、サラカエルは涼しい顔を崩さない。 テーブル上の水差しを掴み、中身を手に零す。懐から取り出した布地を湿らせ、手早く絞ると、サラカエルは不意に藍夜の口を拭おうとした。 藍夜はその手を振り払う。ぱしっ、乾いた音が室内に響く。 「触らないでくれたまえ」 布地は天使の手を離れ、音も立てずに床に落ちた。 「それと、さっきの話だがね。僕は……ああ、人殺しになど、なるつもりはない」 「間接的に、でもかい? 君が直接手を下すわけじゃないだろうに」 「それでもだ。帰れ。君と話したい事など、僕には何もない」 落ちた布地を拾おうともせず、サラカエルは藍夜を真っ向から見下ろした。視線を外し、藍夜が背を向ける。暁橙がその肩に手を置いた。 はたと鞭打たれたように肩を跳ね上げ、アンブロシアが慌てて布地を拾い上げる。丁寧に皺を伸ばし、畳んでサラカエルに手渡そうとする。 サラカエルは、彼女には一瞥を投げただけだった。いらない、そう言う代わりに首を横に振り、先の席に戻っていく。 あからさまな拒絶。布地を手にしたまま、アンブロシアは藍夜と暁橙を振り向いた。 藍夜は前のめりになり、両手を伸ばしてテーブルに着き、辛うじて倒れ込まないようにしている。その両目はきつく閉ざされている。 暁橙はというと、ほら兄ィ、ロードだよ、と気休め混じりに宝玉と杖を交互に見せびらかしている。あまり慰めになっていないように見えた。 流石にそっとしておいた方が、とは言い出せなかった。どうしたものか、逡巡した彼女は、意を決してサラカエルへ歩み寄る。 「……そのハンカチならいらないよ。君、使いたかったら使えばいいさ」 サラカエルの声は、酷く落ち込んでいるように聞こえた。 「サラカエル様」 「様、なんてガラじゃないよ。さん、でいい」 「なら、サラカエル、さん。あの……何か、用があったんじゃないんですか。言いたい事が……藍夜さんに」 窓の外を眺めていたサラカエルの視線が、アンブロシアを見る。藍夜とは正反対の配色の瞳。アンブロシアは一瞬、微かに眉間に皺を寄せた。 「あなたは……もしかして、『わたしと同じ事を予想されて』ここにいらしたんじゃありませんか」 「予想、ね。さて、どうだったかな」 「とぼけないで下さい。わたしの考えが正しいなら、そもそも、あなたがここにいらしたというなら……藍夜さんは、もしかして……」 アンブロシアは言葉を切るよりなかった。サラカエルの視線は、明白な殺気を纏っている。 今すぐお前を殺してもいい、そう言いたげな、目にはっきりと映る純粋な敵意。思わず一歩下がり、彼女は言葉を詰まらせた。 「君、随分と食って掛かるね。それが許された立場かい、元は泣き虫で、脆弱で、幼いだけの『子供』だったのに」 言われて身が竦む。それでも、と食い下がる事が出来ない。 泣き虫で、脆弱で、幼いだけの、姉に護られてばかりいた自分……そんなもの、天上界にいた頃の話だ。 あの頃より、自分は外見も、能力も、思考も、きちんと成長している。いっそ姉にだって自慢出来る――そう言い返す事が何故か出来なかった。 細められた双眸が、黙したまま雄弁に語りかけてくる。「本当にそうなのか」。アンブロシアは、その場に縫い付けられたように動けずにいた。 (わたし、わたしは) ラグナロクの後、地上を数年、数十年彷徨い続けた。ひとえに姉を見つける為だ。しかしそれは、自分が未熟である証明ではないか。 分からない。姉の身を案じているのは、今でも変わらない。しかし、いざ問われてしまうと、自分自身の為ではないと言い切れなかった。 不意に視線を外すサラカエル。真横に足音が響いた、ゆるりと振り向くアンブロシアだが、横から突き出されたのは、コップ一杯の水だった。 「……これでも飲んで、今すぐ雷霆を返して、帰りたまえ。二度は言わない」 コップをテーブルに置き、青い顔ながらも毅然と立つ、鳥羽藍夜。サラカエルを見る目は、憎悪以外に困惑、動揺といった複雑な色を有している。 「『害獣に淹れる茶など、端から僕の店には存在しない』、じゃなかったかな。オフィキリナス店主さん」 「致し方ないさ。雷霆の為だ」 「水一杯が? へえ、割に合わないな、そう思わないかい」 「茶が飲みたいとでも言うのかな。ならアンブロシア、君に頼むとしよう。僕はごめんだ」 吐き捨てるように言う藍夜だが、彼がその場から逃げ出す事はなかった。アンブロシアは一瞬、ニゼルが話していた事を思い出す。 「天使に酷い目に合わされた」。よもや、鳥羽藍夜とその家族はトラウマにでもなるような事態を植え付けられた事があったのではないか。 (そうであったとしたって) 彼女は再びサラカエルに視線を走らせた。瞳術を使うでも、コップを見るでもなく、サラカエルの目は真っ向から藍夜だけを捉えている。 やはり「そう」なのか――初めて藍夜と出会った時、アンブロシアはある「疑念」を感じていた。 琥珀と名を改めた見知ったグリフォンや、姉に酷似する特徴を持つニゼルがここに集う様を見て、ますますその疑念は強まるばかりだった。 しかし、ここにきてサラカエルという天使が連続で出現したという事は……彼女の中で、「疑念」は「確信」に変わりつつあった。両手を握り締める。 (藍夜さんは……『鳥羽藍夜』は、ヒトとして生まれてしまった『ウリエル』様……) 考えただけで心臓が早鐘のように鳴る。あくまでそれは、アンブロシアだけが思考していた仮説に過ぎなかった。 しかし今では、そう考えた方が自然だった。 「人間の中に天使が紛れて産まれてくる」。 人間たちの間ではさほど知られる事のない、天上界に住まう者しか知らされぬ、世界の秘密。 稀有ではあるが、ないとは言い切れぬ事例だ。藍夜だけが特例であるのではない。 ラグナロク、他、天上界で何らかの事情で命を落とした天使が、一度冥府に下り、再び天使として生み出される、古来から定められた命の理。 天使として天上界、ないし人間界でヒトの胎を介して産まれてくる天使が殆んどだが、稀に人間の肉体のまま人間として生まれてくるものがある。 その多くは天使としての能力や生前の記憶、神々から与えられた天使としての責務や任務、使命を忘却しているものばかりだった。 人間としての生を全うさせるか、天使として再び天上界に迎え入れるか……それを決定するのは、上位の神と、専用の能力を持つ天使のみ。 近年では、その特別な天使が独断で彼らを天使として覚醒させるべく、自ら地上に赴く事が多かった。 (……『ガブリエル』様) 「告知天使ガブリエル」。アンブロシアも、一度だけその姿を見た事がある。 天と地上を隔てる黄金の扉。その前にひとり立ち、人間界に降りる直前。神の意思を象徴する百合の花を携えた、凛とした黄色の髪を持つ女性。 彼女がヒトの前に降り立つ時、その者は神の啓示を聞き、その後の生を神々の意思に寄り添わせ、終には御霊を天に捧げるという。 人間と神のしもべとして目覚めさせる、それが件の天使の使命であった。それは、記憶を失い、ヒトとして地上で生きる元天使にも通じる話。 しかし…… 「サラカエルさん。ガブリエル様は、その」 「ん? ああ。見てないよ。ここに来るまでの間もだ」 ガブリエル、突然出された単語を反芻し、藍夜が訝しむ眼差しで二人を見る。アンブロシアは思わず顔を伏せ、サラカエルは小さく首を傾げた。 藍夜さん、あなたは本当は人間ではない、高位天使なんですよ――そんな事、ここまで天使を嫌悪する青年に、とても話す気になれない。 (そもそも、ガブリエル様は、もうずっと) ラグナロクの後、否、むしろラグナロク発生前から、ガブリエルは天上界から姿を消していた。 人間界に降りる際、何らかのトラブルに巻き込まれたのではないか……まことしやかに囁かれるのを、幼かったアンブロシアも耳にしたのだ。 ガブリエルの長い不在、そしてラグナロク。藍夜のような人間がいたとしても、覚醒させる術がなければ、天使として復活させる事は出来ない。 サラカエルはそれを知っていたのだ。或いは「眼」で「視て」いたのか。鳥羽藍夜が、自身の対天使であるウリエルであると―― 『サラカエル!』 『やあ、ウリエル。今日は随分と気分が良さそうだね』 『ああ、ヘラ様の屋敷に来てから、ずっと調子がいいんだ。君も楽しそうにしているし』 『おや、そうかな。自分じゃ、いつもと同じつもりだったんだけど』 ――二人の、仲睦まじい様子を思い出す。 ウリエルはサラカエルを本当の兄や師のように慕っていたし、サラカエルもそれを満更でもなさそうに受け止め、微笑みかけていた。 殺戮という恐ろしい気質と使命を持つが故に、仕える女神ヘラの従者の殆んどに距離を置かれ、一人でいる事が多かった、孤独な青年。 彼に救いを与えていたのは、他でもない、対天使であるウリエルだけだった。彼らが如何に互いを尊重し、支えとしていたか、よく知っている。 アンブロシアは強く目を閉じる。 (だとしたら、サラカエルさんが藍夜さんに避けられてもなおここにいるのも、説明が付くわ。藍夜さんがサラカエルさんを避けようとする理由も) 対天使は互いに惹かれ合う。藍夜がサラカエルを拒むのは、自身の対天使であると、魂が無意識に引き寄せ合っているからではないのか。 天使が嫌いだから、憎いから。それでは自分がここに置かれている理由に説明が付かない。 姉アンジェリカは自分の対天使だ、もし自分が彼と同じ立場だったら。サラカエルの胸中を想像し、アンブロシアは自分の事のように胸を痛めた。 「何の話かは知らないがね、ここにいる天使といえば、彼女アンブロシアだけだ。探し人でも待っているのかい。それとも僕への嫌がらせか」 「藍夜さん」 「アンブロシア。君達が顔見知りだというのはよく分かった。だがね、昔話がしたいなら、せめて僕の目の届かないところでやってくれ」 「話す事など何もないよ。ここは元は喫茶店なんだろ? お茶くらいは出して欲しいね、僕は正式に交渉に来てるんだから」 苦いものを噛むような声色で、しかし、サラカエルはそれでも笑顔を崩さなかった。 勝手にしてくれ、絞り出すように呟き、藍夜は足早に暁橙の元に戻る。暁橙が、大丈夫兄ィ、そう気遣うのが聞こえる。藍夜が頷き返すのも見た。 アンブロシアは反論出来なかった。サラカエルを思えば、ここで藍夜を呼び止め更に反感を買うよりは、現状を維持した方がいいように思えた。 実際、サラカエルは腰を下ろしたままコップに口を付けている。 「やあ、冷たいね」 一口だけの水で喉を湿らせ、うっすらと苦笑を滲ませている。 「サラカエルさん」 「アンブロシア、いや、アクラシエルとでも呼んでおこうか。 君が今何を考えてようと、それは君の自由だ。けどね、僕は僕のやりたい事をしてるんだ。少しでも悪いと思うなら、口、挟まないで貰えるかな」 藍夜と暁橙が宝玉、杖の鑑定を進める中、殺戮の天使は苦笑と悔恨を僅かに表情に浮かべるだけだった。彼らのやり取りを聞いているのだろう。 コップが元の位置に戻される、水は半分以上残されている。よく見れば、それは曇り一つない、綺麗に磨かれたグラスだった。 せめて、この場にニゼルがいたら――ふとアンブロシアは、鳥羽藍夜の良き理解者の、飄々と軽薄な、人好きのする笑顔を思い出す。 この場に彼がいたなら。怒り続ける藍夜を宥め、或いは消沈した暁橙を励まし、頑ななサラカエルとの仲を、調節しようとするのではないか。 頭を振る。 あくまでニゼル=アルジルは人間だ。そして、現時点で、彼含め他の誰もが、鳥羽藍夜が天使ウリエルである事実を知らない。 そもそも、殺戮の天使という物騒な相手に、ごく普通の人間一人が、そこまで上手く立ち回る事が出来るとは思えない。 (ニゼルさん……) それでも、彼ならばこの場を見事収めてみせるのではないか。そうでなくとも、苦言の一つ、鶴の一声でも聞かせてくれるのではないか。 根拠などどこにもない、しかしアンブロシアは、何故かそのように思えて仕方がなかった。 窓から初夏の風が吹き込む。サラカエルの長い髪が、微かに揺れる。青々と広がる牧草地帯。それを眺める彼の目は、とても穏やかだった。 彼の横、テーブルの際に立てかけられた雷神の雷霆が、陽光を受け黄金色に煌く。 ニゼルが戻るまでまだ数日ある、アンブロシアは目を閉じた。 |
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