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楽園のおはなし (2-45)

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「めっ……女神、さま……?」

そのひとの来訪は、一行にとって正に寝耳に水といった事態だった。真っ先に反応した琥珀は、驚きのあまり直立不動の銅像と化している。
ケイロンは弟子や大神からの手紙で見当をつけていたのか、件の人物と頷き合うばかりだった。シリウスは複雑な顔で彼らの変化を見る。
サラカエルらを率いて診療所に堂々と乗り込んできたそのひとは、明らかに周囲の魔獣や天使の患者達とは雰囲気が違っていた。

「うむ。アンバー、お前も変わりないようで何より……というか、ずいぶん大きくなったな。立派になって、わたしはとても嬉しいぞ」

肌から何らかの光線を放っているのではないかと思えるほど、美しい女。はたと我に返り、一角獣は己が番の肩を叩いて正気を戻してやる。
肩を跳ね上げた鷲獅子は、瞬きを繰り返した後、両目からぼたぼたと大粒の涙を零し始めた。止める間もなく女の元に駆け寄っていく。
ずいぶんと親しい間柄に見えた。迷い子がようやく見つけた母に縋りつくような光景に、胸の内に疑念が沸いたのをシリウスは自覚する。

(あれは、ニゼル=アルジルの死と何らかの関係がある女なのか)

それは直感に近い感覚だ。女に頭を撫でられる妻を見て、一角獣は眼を細めた。連れてきた本人である殺戮の天使に、訝しむ視線を投げる。
気付いてか、サラカエルは小さく首を傾げた。明らかに悪気がないという体の天使に、シリウスは我知らず乱暴に歩み寄る。

「おい、あの女神とやらは……」
「やあ、開口一番にどうしたのかな。そんなに苛立って」
「とぼけるな、ニゼル=アルジルはどうした。何故、あれが俺達の知らないところで落命せねばならんのだ」

友人なのだろう――続けようとした瞬間、胸ぐらを掴んでいた手が振り払われた。睨み返すも、天使は何故か苦い物を噛んだ顔をしている。
理由は、すぐに知れた。突如、殺戮の背後に不穏な気配がゆらりと立つ。一角獣はそれの気迫に気圧され、我知らず後退してしまっていた。

「……ニゼルが……なんだと言うんだい」

夜色の髪は心なしか乱れ、俯いた顔からは呪詛の如き低い声が漏らされ、あっという間に室内に言いようのない圧が満たされる。
かつてニゼルの親友、鳥羽藍夜と名乗っていた男だった。シリウスとしても、彼についてはトバアイヤの印象ばかりが深く残っている。
虚ろなその姿は、さながらあの世から這いずり出た亡霊か何かのようだった。前にまで垂らされた髪で、詳しい表情まで見る事は出来ない。

「ニゼルが、なんだと言うんだいシリウス。もう一度、その名前を口にしてみたまえ」
「いや、俺は……」

シリウスは声を詰まらせる。明らかにウリエルの声には怒気が滲んでいた。答えを求めてサラカエルを見るも、彼は首を横に振るに留める。

「ウリエル。それより、今はヘラ様の帰還が成されたばかりなのだから、」
「それより? 君は、ニゼルの事をその程度にしか思っていなかったと言うのかい、サラカエル。ヘラ様でさえ僕を気遣ってくれたのに」
「いや、そんな事は一言も言っていないじゃないか。ただ、状況が状況だからというだけで……」

じろりと、仇敵を見るような視線がこちらを見た。殺戮自身も困惑からか二の句を飲み込み、対天使の挙動に怯んだように固まっている。
ウリエルは、ゆらりと直立した。対から顔を背け、一度ヘラに視線を送ると、女神の方は彼に手招きをして近くに来るよう無言で命じる。
ぼそぼそと、二人は何事かを話し合った。するとどうだ、ぴたと体の震えを止め、ウリエルはヘラを幽霊でも見るような顔で凝視する。
彼女がにこやかな笑みでゆっくりと頷き返すと、審判官はふらふらと覚束ない足取りで、どこぞへと歩き去って行ってしまった。
止めないのか、短く問いかけるシリウスに、止めても無駄だろうさ、サラカエルは投げやりに答えて首を傾ぐ。心底、困り果てた顔だった。

「ま、堪えたんだろうね。しばらく放っておくしかないさ、アクラシエルも使い物にならないし」
「アンブロシアか……ああ、ずっとあの調子だ。医師の話では、睡眠はとらせているから大事はないそうだが」

ふたりは、一同が居合わせる居間の中央、食事用の広いテーブルにぼんやりとした顔で着くままのアンブロシアを見やる。
地母神の帰還……そんな喜ばしい報せにも一切反応を見せず、娘は未だ泣き腫らした目で呆けていた。
ここ最近は昏々と眠るか、或いは、起きてきたとしてもさめざめと泣くばかりだったので、シリウスらも彼女には触れないようにしている。
話を聞いた殺戮は、心底呆れたと言う風に嘆息した。聞けば、彼女の泣き虫は同じ主に仕えていた頃から変わらぬものであるという。

「姉を捜して鳥羽藍夜の元を訪ねたと言っていたけど、それもどこまでが本当なんだろうね。ここまで甘ちゃんだったとは、驚きだよ」
「嫌みを言いたい気持ちは分かるが、言い過ぎだぞ。あの二人は親しくしていたのだから、少しは察してやれ」
「ふん、間抜けに腑抜け、か。いい組み合わせだったんだろうね。ニゼルとはこそこそ料理し合ったりする仲だったようだし」
「ほーう? その間抜けと友達になれて喜んでいたのは、どこの誰だ。言ってみろ」

ぬうと、天使と騎獣の間に入り込む影があった。言うまでもなく地母神そのひとであるが、サラカエルは顔をひくつかせている。
ヘラはにやにやと心底意地の悪い笑みを浮かべていた。ニゼルと彼女の繋がりを知らないシリウスは、眉間に皺を寄せる事しか出来ない。

「間抜け、間抜けと馬鹿にしているが、その間抜けがいなくなると知ったとき、一番取り乱していたのは誰だったろうな」
「……なん、の話ですか」
「知ったとき? おい、ニゼル=アルジルが落命する事は早くから分かっていた事だったのか。何故俺達にそう言わない」
「ん? そうか、サラカエルは話していなかったのか。それはだなあ、こいつが……」
「ヘラ様。はあ……話がややこしく……いや、どのみち出来る事は何もなかったよ。文句なら君で遊び倒したカマエルに言って欲しいね」

またカマエルとやらか――俄かに沸いた怒りを飲み込むように、シリウスは口を閉ざす。賢明だとでも言いたげに、殺戮は首を傾げた。

「――ふ、で、諸君。特に用件がないのであれば、わたしは神殿に戻るが……構わないかな?」

そのときだ。一行のいつもとさほど変わらない応酬に、口を挟んできた者がある。目線を動かすと同時、一角獣は眉間の皺を更に深くした。
背後に険しい顔のミカエルを従えた、あの大神ゼウスである。彼は今、インディコールに雰囲気がよく似た別のヒトの姿をしていた。
カマエルといい、よくもこう他者を好きに出来るものだ……口にこそしないでいられたシリウスだが、表情が硬くなる様は避けられない。
一角獣の内心を見透かしてか、大神はケイロンに勧められた茶を口に含み、くつくつと声を殺して小さく笑う。
味が気に入らなかったのか、湯飲みはやんわりと魔獣の医師の手に戻されていった。

「そう邪険にしないで貰いたいものだ。ヘラ、それで『話し合い』はどうするのだ。延期するというなら、わたしはそれでも良いのだが」
「誰もしないとは言っていないだろう。なんだー、しばらく見ないうちに器の中身ごと耄碌したか」
「ふ、我が妻は変わらず美しく、手厳しいな。ではケイロン、妻の希望だ、部屋を一つお借りしたい。構わないかな」
「ふむ? ワシは構わんぞ。二階の客間が空いとる筈じゃ、好きにせい」
「ふー。ああ、面倒くさい……行くぞ、サラカエル。大事な大事な『話し合い』だ、向こうの天使長に同じく、此度はお前が証人を務めろ」

何か事を決定する折、目下の者に有無を言わせぬのが天上の神々である。
ゼウスはミカエルを、ヘラはサラカエルをそれぞれ連れて、静かに階段を上っていった。

「話し合い……何の話し合いだ」
「さてのー、ワシャ見当もつかんよ。アンバー、主もじゃろ?」
「妻よ、それだ。あの女は何者なんだ。ヘラと、そう聞こえたが……お前と、ずいぶんと親しいように見えるぞ」
「女神様の事? 親しいっていうか、知り合いだもん。昔、女神様の別居先の神殿で一緒に暮らしてたんだよ。僕がうんとちっちゃい頃に」

かねてからの疑問をぶつけると、琥珀はこれ以上ないほどに目をきらきらさせてシリウスに振り返る。
一点の曇りも翳りもない、無垢そのものの破顔。その表情ひとつで、一角獣は彼の女神の人となりを知った。

「女神様はね、僕のご主人様だったんだよ! 僕のおとーさんとおかーさんを拾って、家族全員に良くしてくれたの。ずっと捜してたんだ。
 ラグナロクが起きたとき、生き残ってた僕を崩れる神殿から逃がしてくれたの。昔からゼウスに言い寄られてたから、無事でよかったよ」
「そうだったのか。それは親しいわけだ、会えて良かったな」
「ウン! もー、早くお喋りしたいな。女神様、きっと仕事の話だよ。おサルがいるなら無理やり手込めにされるって事もないだろーケド」
「ゼウス神、信用されとらんのー……よし、ワシらは連中が降りてきたとき用に、メシかオヤツでも仕込むとするかの。ほれ、手伝えーい」
「……ご主人様に、仕事の話、か」

仔らを連れ、医師についていく妻を黙って見送る。ずいぶんと皮肉な事態になったものだ、シリウスは苦い物を噛んだような心地になった。
星の民はかつて、天上の神々に騎獣として仕えるよう強要された事があった……大神とその妻は、特に一方的な物言いだったと聞いている。
当然、当時の長らはそれらを跳ねのけたが、面白い事になかなか諦めなかったゼウスについては正妻ヘラが制止したと伝えられていた。
夫を追い払った後に、妻側は「一度でいいからその見事なたてがみを触らせろ」とセクハラまがいの奇行を繰り返していたという。
獣を恐れず、好奇心には抗わない。ヘラとニゼルの気質は酷似していた。故にシリウスは、地母神の帰還をただの偶然であるとは思わない。

(……詰めてみる、価値はあるか)

ケイロンの言動には、引っ掛かる部分がある。それもまた、長年生きてきた上での直感のようなものだった。
どのみち、あの大ざっぱな二頭に菓子作りなどがまともにこなせるわけがない。顔を引き締め、台所へと足を向ける。






「……ではこれより、第一回、妻の尊厳を取り戻す為の大事な話し合い会議、を始める。書記、紙の準備をしろー」
「お言葉ですがヘラ様、会議も何もないでしょう。ウリエルの事も気掛かりですから、遊んでいないで真面目になさって下さい」

客間とは、それこそ一般庶民の家屋の中にあるそれそのものだった。向かい合う格好で、大神と正妻は質素極まりない椅子に腰掛ける。
サラカエルの真面目な返しに、ヘラは「なんだ、面白くない」と小声で文句を並べた。一言言ってやりたくなるのを堪え、殺戮は黙り込む。
向き合う神々の頂点たる二柱の後ろには、それぞれを守護する高位天使が静かに佇んでいた。ミカエルもまた口を一文字に結んでいる。
居心地の悪さといったらない。サラカエルは大事な話し合いに同席する事を許された機会を、あまり喜ばしいものと思えなかった。

「ふ、話し合いか。それで、ヘラ。わたしと話し合いたいという、その概要はなんなのだ」

牽制するような、見下しじみた大神の言葉。恐らく、自分が持つ地母神への想いは、彼に既に見透かされている。顔は強張るばかりだった。
彼の姿には貫禄と尊大さが濃く滲み出ており、一介の天使である自分が適う相手とは思えない。余裕に満ちた笑みを見返すので精一杯だ。
なんとも情けない話だと、そう思う。これでヘラを愛しているというのだから、お笑い草だ……一方ヘラは、ゼウスの声に口を閉ざした。
サラカエルが彼女の頭に視線を落としたとき、だらりと投げ出すように放られていた女神の足が、するりと艶めかしい動きを見せる。

「まず、この場にいないニゼル=アルジルに感謝しよう。お陰で、こうしてお前としっかり話し合う機会を設ける事が出来た」

不意に組まれる足と、涼やかな声、視線。表情を伺い知る事は出来なかったが、纏う雰囲気は一変していた。堂々たる声が空気を震わせる。
ヘラはゼウスの正妻であると同時に、天上界における女王としてその地位を確立させる女神だ。それをふと思い出し、殺戮は息を呑んだ。

「話というのは他でもない。わたしは、今後天上界に戻るつもりがないのだ。それについて、話を詰めておこうと思ってな」

ヘラ。傲慢にしか見えないこの女こそが、陰ながら大神の政を支え続けた功績者だ。
一同は知らず、黙り込む事を余儀なくされる。女神は立て続けに、とんでもない事を口にした。

「本来なら、天上を統べる柱の一端として戻るべきなのだろう。だが、わたしは地上に残ろうと考えている。異議のある者、意見を述べよ」

気高く、凛々しく、何人も寄せつけない賢女であり、結婚という事例を筆頭に世界中のあらゆる「契約」、「約束」を掌握する女神。
誓いと契りの瞬間を高き地より見下ろし、破られた際には厳罰を下す。その罰とは、どれもが想像を絶するほど非情なものだとされていた。
偏に、彼女が女王として君臨していたからこそである。他への示し、規律の重要性、神の尊厳。それらを、彼女は己が行いで立証していた。
ゼウスのように、気まぐれでヒトを助けるような事もない。柔軟と不動、どちらの気質も持ちながら、彼女の仕事は徹底していたのだ。

「……戻らない、と? ふ、何故また急に、そのような戯れ言を」
「お前の事だ、わたしが復活した暁には他の柱同様、天上に連れ帰るつもりだったのだろう? 悪いがお断りだ。頼まれても戻る気はない」
「それは何故なのだ、ヘラ。今回は君の、わたしの妻の我が儘としての暴挙を認めるわけにはいかない。そちらの理由とはなんなのだ」
「分からないか、そんな筈はないよな。自分の胸に手を当てて聞いてみろ。やましい事がなければ、強引に連れ去れば済む話だろう」

今、この場に在る誰もが彼女の本質に直面している。高潔な美貌ではなく、圧倒的な威圧が、責め立てる視線が、眼前の夫を睥睨していた。
冷艶でありながら、挑発しているとしか思えない苛烈な仕草。あまりの堂々たる振る舞いに、大神ですら飲まれているようにも見える。
否、最愛の正妻の言は、確かにゼウスの胸の内を鋭く残忍に抉っていた。言葉を探すように視線を床に彷徨わせ、大神は息を吐く。

「……君は、神だ。それも、天に名を連ねる十二の柱のひとり。君を欠く事は、神々の威光を地に落としかねない。許可する事は出来ない」

この異質な空気の中で、絞り出すような掠れたものでありながら、ゼウスはきちんと考えを投げ返した。簡単に出来る事ではない。
サラカエルは、彼の偉大さに改めて感服する。同時に、主であるヘラの底知れぬ魅力に、なおも惹かれていく自分がいる事にも気がついた。
至高神の命ともなれば、彼女も帰還を拒む事は難しいだろう。しかし、そうなったとしてもせめて傍には在りたいと願うばかりだった。
……ふーっ、と、とてつもなく長く深い溜め息が部屋に響く。
はたと視線を上に戻した殺戮は、ヘラがうんざりした顔でこちらを見上げているのに気付いて、ぎょっとした。

「分かるか、サラカエル。こういうしつこい男は嫌われるらしいぞ? 自分の見栄と立場と地位が大事で、他には犠牲になれと言うんだ」
「……あの、ヘラ様。その物言いは」
「どうなのだろうなあ。ラグナロクが起き、ありとあらゆるものが地に落ちた。このわたしでさえ、色々と思う事があったくらいなんだぞ。
 なのに笑えるな、神の頂点に座す男は、この件で得られた事が何一つなかったらしい。何を思って、ニゼルに付き纏っていたのだろうな」

何事かを言いかけた大神に冷ややかな視線を投げ、黙殺する。地母神は、双眸を細めて唇に小綺麗な弧を描いた。

「『ニゼルの中に君がいるから助けたかった』。そんな言い訳などしてくれるなよ。これ以上、わたしを失望させないでくれ」
「……ヘラ、それは」
「夫婦として、どうなのだ。なあ、愚弟。見栄と立場と地位さえあれば、お前は満足か。常に傍に置かねば不安なのか……わたしは御免だ。
 他の種族をないがしろにする、お前の神経も気に入らん。ニゼルの中から見る世界は、様々な事を教えてくれたぞ。お前は、どうなのだ」
「言いたい事は分かる。君や部下にあらゆる我慢を強いた事も確かだ。しかしそれは必要悪のようなもの。決して悪意があったのでは、」
「悪意がなければ許されると、そう言いたいのか。このわたしに、契約という『言葉尻』を司るわたしを前に、醜く言い訳をするつもりか」
「……わたしは、天上界を護らなければならないのだよ、ヘラ。その為には、君のその特別な力が必要なのだ。分かってはくれないか」

「お断りだ」。音もなく、ヘラの口がそう動く。ゼウスの顔が見る見るうちに生気を失せさせていくのを、サラカエルは見た。
彼女にこのような別れを告げられたら、男は終わりだ……一連の通達がまるで自分に対するもののように感じ取られ、殺戮は体を震わせる。

「案ずるな、これまで通り契約の女神としての勤めは果たそう。わたしもそこまで自堕落にはなれないからな、めりはりとやらは必要だ」
「……い」
「うん? なんだ、まだ駄々を捏ねるのかー。これだからわたしに愚弟と、」
「……いや、いいと、そう言っているのだ。わたしも、此度の件で学んだ事が、大小問わずいくつかあるのだよ……ヘラ」

驚いたのは、地母神だけではなかった。控えていた筈のミカエルさえ身を乗り出し、大神の答えに喰って掛かろうとしている。
ゼウスは静かに首を振った。意外にも、それこそ呆気なさすぎるほどに早く、大神は自ら女神との離縁を認めたのだ。

「――だが、条件がある」
「……条件。なんだ、言ってみろ」

転んでもただでは起きない、言質は取らせない、交渉は少しでも利があるように……至高神は、彼本来の優秀たる面を僅かに覗かせる。
ヘラの声の温度が俄かに下がった。ふたりは未だに、夫婦であるのだ。互いの考えなど、手に取るように分かるのだろう。
彼女の両肩に力が入っている事に、サラカエルはいち早く気がついた。女神が腰を下ろす椅子の背もたれに手を乗せ、間接的な声援を送る。
案ずるな、そう言う代わりに、ヘラは殺戮に振り返らないまま手を振った。両者は腹の探り合いをするべく、声色をぐっと低くする。

「何かしら、君と離縁する上でわたしの利となるものが欲しいのだよ。君を地上に留まらせるというのは、恐ろしい損害だ。分かるだろう」
「買いかぶり過ぎだ、と言いたいところだが。そうだろうな。お前は戻り次第、多方面からあれこれ言われるのだろうからなあ」
「脅すのはその辺にしてくれ。ヘラよ、君と釣り合いのとれるものなど限りがある。考え直すとなれば今のうちだぞ」

刹那、女神は声を出して笑った。おかしくて仕方がない、そう言いたげな明朗な笑いだ。

「だからお前は、愚弟と言われ続けるんだ。なあ、いつわたしが、『手元にカードがない』と口にした? 莫迦にするのも大概にしろ」

手筈は整えてあったのだ、誰もがそれを知る。おもむろに立ち上がると、ヘラはその場に直立したまま部屋の外へ声を掛けた。
今度こそ、サラカエルは目を見開いて硬直する。名を呼ばれ、遠慮がちに入室してきたのは、自身の対天使そのひとであったからだ。

「……ウリエル……何故」
「サラカエル。僕は、ヘラ様に頼まれて」

彼の手には、見慣れたものが抱えられていた。黄金に輝き、或いは白金のように煌めき、雷光そのものの如く青白く光る、美しい芸術品。
「雷神の雷霆」。それを目にしたとき、大神ははっと青ざめた顔を己が妻に向けていた。一方で、妻側は勝ち誇った顔を浮かべている。
見た事かと、その表情は言外に主張していた。恭しい手つきで両者を分かつテーブルにそれを乗せ、ウリエルは深々と頭を下げる。

「強奪しようとは思うな。元々は鳥羽藍夜の両親が掘り起こし、子に遺産として与えたものだ。現在の所有者は、ウリエルという事になる」
「……ふ、こんな、こんな……まさか、このような隠し玉があったとは。失念していたよ……いや、実に見事だ」
「ふふ、わたしもやるときはやる女だからな。お前、これが欲しいのだろう? 何せ、この高位ロードはお前の魂と力、そのものだからな。
 先刻、ウリエルと相談して『これをお前に返しても良い』と、約束させた。わたしの持ち得る情報と引き換えに、個人間の取引としてな」
「個人間の取引? 馬鹿な、悪魔や魔王などではあるまいし」
「お前はそう言うがな、情報は多いに越した事はないぞ。今までも正妻ヘラに、とびきりの苦汁を飲まされ続けてきただろう?」

天上で魔王の噂などをすれば、たちまち手下どもに嗅ぎつけられるぞ――からかう口調で警告し、地母神はにやりと笑った。
大神の力、その具現。己の分身を見下ろす至高神の表情は憂いに満ちている。また、ウリエルの表情も固く、物言いたげであった。
気付いてか、ヘラは手を伸ばして審判官の頭をわしわしと撫で回す。数秒も経たないうちに、ウリエルの髪はぐしゃぐしゃに乱されていた。

「『決まり』と、それで問題ないな。お前さえよければ、この場ですぐにくれてやろう。譲渡の契約書も、こちらで用意するぞ」
「……ふ、適わないな。君は本当に、恐ろしく、そしてこれ以上ないほどに美しいひとだ。ヘラ」
「分かりきった賛辞ばかりだな。だが、お前の愚直さや天上界を見通す努力を悪いものとは思わない。案ずるな、今生の別れでもないんだ」

互いに、それぞれの役目を果たさんと、ふたりは小さく頷き合う。天使如きが口を挟める余地など、ありはしない。
サラカエル、そしてウリエルが見守る中、雷神の雷霆はついに大神ゼウスの手に移された。一際強い光が放たれ、部屋が純白に染め上がる。
持ち主の元に還る事が出来たのが、ロードにとっては至福である事に違いない。顔を上げた至高神は、明るい笑みを浮かべていた。

「感謝しよう。これで、わたしもわたしの勤めを満足にこなす事が出来るというものだ」

迷いはない、躊躇も後悔もしていない……ゼウスは跪き、そっとヘラの右手を取ると、彼女の手の甲に静かに口付ける。
親愛と感謝の現れ。ヘラもまた、彼の動作に文句をつけるような事をしなかった。真面目め、そう言いたげな嘆息だけが漏らされる。
いつしか、地母神の手に、一枚の羊皮紙が握られていた。彼女が表裏をなぞるように手を滑らせると、羊皮紙はするりと二枚に分けられる。
ヘラは、極力優しい手つきでそれを広げ、一枚を自分の胸元に、もう一枚を、跪いたままのゼウスの前へと差し出した。

「わたしも感謝しよう、大神ゼウス。少なくとも、わたしにとってのやらねばならない事のうち一つが、今こうして無事に片付いたのだ」

ヘラの司る力そのもの、あらゆる事象を拘束する棘、契約の書だ。
初めて目にするそれを前に、サラカエルは目映い閃光を目の当たりにしたかのように双眸を細める。
そうでもしなければ、夫婦でなくなった今もなお、家族として、良き理解者として在る両者を、見つめる事が出来そうにない。

(ヘラ様は、自由になられた……しかし、本当にこれでよかったのか。俺には、よく分からないな)

内心、複雑極まりない心境だった。ちらと一瞥を投げた先、かつての両親の形見を無くした対天使もまた、同様の心情だろう。
殺戮は、長く深い溜め息を吐いた。問題など、実際にはまだ山積みであるような気がしている。
とても言える雰囲気じゃないか、首を傾げて、いつものように紅茶を淹れようと場を離れた。事実、既に契約書は別空間へと移されている。
……居たたまれないというのが、正直な本音だった。ここまで真面目が過ぎると、自分こそが間抜けではないのかと思えてくる。
「愛する女が独り身となった」、それを素直に喜ぶ事が出来るほど、サラカエルは器用な男ではない。溜め息の数は、増えるばかりだった。





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 UP:19/05/12