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楽園のおはなし (2-46) BACK / TOP / 「2章番外編(1)」 |
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契約書を取り出す際、つまりは契約の締結が成される折、相手に手を煩わせないよう筆記具が必ず一緒に召喚されるようになっている。 大神が黄金の万年筆を走らせている最中、「私も気が利くだろう?」と言いたげにヘラはさりげなく胸を張っていた。 相手次第で変化するという筆記具は、各々の性格や立場などが自然と考慮されるという。地母神が使用したペンは孔雀の羽根で出来ていた。 「……と、これでよし。ああ、血判は必要か、ヘラ」 「うむ、元は至高神との婚姻証明だからな。私はもう捺してやったぞ、早くしろー」 「ふ、君も相変わらず……いや、ミカエル。ナイフを貸してくれ」 記入を終えると同時、羊皮紙はふわりと宙に浮き、ヘラの手元に戻される。まるで、書類自体に意志が宿っているかのようだった。 サラカエルは、地母神の指を常備している簡易治療道具で手当てしながら、契約書が不思議な暗褐色の火に焼かれて消失していく様を見る。 ヘラ曰く、契約書置き場に控えられたのだという話だった。神々の御力は、天使のそれに似ているように見えて微妙に本質は異なる。 ケイロンから習った知識を脳内で反芻させ、僕にはそんな細かい芸当などは出来そうにないな、と感嘆も込めた息を吐いた。 「よし、では私はこれから新居探しやらで忙しいからな。さっさと神殿に戻れ、愚弟」 「手厳しいな、少しくらい契約外の雑談などさせてくれても良いのじゃないか」 「ロードを器に還元するというのは、天使で言うところの告知に似た負荷が掛かるもの。言っておくが、私が疲れたというだけだからな」 「ふ、そうか。では、そういう事にしておこう。いや、実に愛らしいな」 「他に何があるというんだー、早く行けー。私はこれから、部下をこき使って安住の地を探すので多忙なんだー」 「はは、殺戮。お前もなかなか、気苦労の多い」 「はあ……恐縮です」 殺戮に同じく、天使長が親指の治癒を終わらせるのを見届けてから大神は席を立つ。酷い椅子だ、腰が痛む……彼は苦い顔を浮かべていた。 「ヘラ、ロードから元の姿を取り戻したのは君だけではない。既知だろうが、他の柱も天上に居を構え直した。じき、君に挨拶にくる筈だ」 「いきなり地母神のお仕事かー。私は疲れているんだぞ、この愚弟め。あいつらには、わざわざ来なくていいとでも言っておけー」 「女神としての務めは果たしてくれる約束だろう? わたしからも、改めて君の機嫌を伺いに訪ねるようにしよう。では」 椅子に腰掛けたまま、うだうだと文句を連ねてだらけるヘラを余所に、ゼウスは深々と優雅に一礼してきびすを返す。 刹那、彼の毛髪がたちどころに美しい黒色に塗り替えられていく様を見て、サラカエルは目を見張った。 この世界でいう「黒色」とは、世界創造の祖に近しい、古の偉大なる力の象徴とされている。やはり彼は真の至高神なのだと、息を呑んだ。 「……あ、じゃない。その、ヘラ様?」 「うん? なんだー、いい感じの屋敷が、自分から歩いてやってきてくれでもしたか」 「そんなもの、実在したら恐ろしいにもほどがありますよ。そうでなく、宜しかったのですか。大神と、離縁などされて」 脱力しきった格好のまま、愛しいひとはちらとこちらを見る。彼女がこの場にある現実を密かに噛みしめるように、胸が高鳴った。 咳払いをして気持ちを静めようとする天使を見上げたまま、ヘラは艶めく髪を手で掻き上げ、不意にしゃんとして立ち上がる。 「お前は、嬉しくなかったか。サラカエル」 「は? な、何を、」 「冗談だ。さて、うるさい連中に襲撃される前に手頃な住処を見つけなければなあ。ケイロンに当たってみるかー。行くぞ、ふたりとも」 「はい、ヘラ様……その、ニゼルの事はちゃんと、」 「分かっている、まず地に足を着けたいからな。話はそれからだ、ウリエル」 「……はい」 不服そうな対天使、俄かに慌てふためく自分。両者を手のひらの上で転がすように、ヘラは言葉巧みに二人を階下へと伴わせた。 気がつくや否や、満面の笑みで抱きついてくる鷲獅子の頭を愛おしそうに撫で、その番には小さく頷き返し、労を労う。 「完全復活じゃな、ヘラよ。ニゼルと主の関わりについてはワシから話してあるぞ。奴が、本来なら天使であった身である事も、の」 歩み寄ってきた医師に地母神が応えるより早く、ニゼルの名を耳にしたウリエルが、表情を鬼の顔へそれと変貌させた。 落ち着け、軽い口調でそれを窘め、ヘラは居合わせる面々を見渡す。座るように促して、女神自身も手近なソファに身を沈めた。 長い、しかし不快感を伴わない嘆息が女の口から漏らされ、一斉に視線が集まる。どこから話したものか、地母神は宙に視線を彷徨わせた。 長い足が組まれて、その輝かしい肌に思わずサラカエルは視線を逸らしてしまう。意図的であったのか、ヘラは小さくにやりと笑った。 「皆、ご苦労だった。長く不在にして迷惑をかけたな、すまない」 「そんな、女神様も大変だったんでしょ? 僕達は僕達で好きにやってたんだから、平気だよ」 「ありがとう、アンバー……おいー、ウリエル。そんな怖い顔でこっちを見るな。復活したての心臓に悪いだろう」 「なら、貴女様の知っていらっしゃる事とやらをお早くお願いします。僕はニゼルを地の果てまで探しに行かなければならないので」 「はは、凄まじい執念だな。ニゼルもあの世で震えすぎて、転生してこられないんじゃないか」 「それなら、僕が冥府に降りるまでの話です」 「……お前ー、いくらなんでも熱烈すぎるぞ。それではニゼルの身が保たないだろう。少しは彼の事情も汲んでやれ」 「お断りします。そうする機会ならいくらでもありましたから、ニゼルの自業自得です」 朗らかな空気は、夜色髪の天使の言葉で粉砕されてしまう。こめかみに指を押し当てて唸るサラカエルを無視して、ウリエルは目を細めた。 「ニゼルが何者であるかは問題ないんです。僕が問題視しているのは、約束を容易く反故にするその精神だ。一度、悔い改めさせなければ」 「大人しく説教されるとは思えないがな。ウリエル、私はロードとして彼の中にいたとき、彼越しにお前達の応酬を見ていたんだぞ」 「それでもけじめは必要ですよ、どんな事情があったにしても。ニゼルは、僕の味方であるという約束を放棄した。とても看過出来ません」 「そうかー。ストーカーじみているが、それがお前達の友愛だというなら仕方ない。ならば、私からニゼル側の弁護をさせて貰うとしよう」 藍夜ってホントクソマジメだよね、小声で割り込む琥珀に、鋭い二色の視線が飛ぶ。妻を背中に隠しながら、シリウスは苦笑いを浮かべた。 「手っ取り早く言えば、ニゼルがどの天使であったかまでは私も知らん。が、カマエルには何かしらの目処が立っていた事は確かだろうな。 皆の知る通り探索能力に長ける上、ケイロンに授けられた学もある。ニゼルが私に適合する器だと確信していたのには、根拠がある筈だ」 「結局はカマエル頼りですか……というか、失礼ながら、それは全て貴女様の推測なのでは?」 「いや、ウリエル。ヘラ様に向かってその口の利き方は、」 「黙っていたまえよ、サラカエル。ヘラ様。お答え願います」 「……推測、確かにそうだ。しかしなウリエル。お前がそうであるように、私も混乱の最中にロード化された。元より情報は不足している。 カマエルが古の神々に傾倒していた事は知っているだろう。即ち、深くを追求すれば、お前とて無事では済まされないやもしれんのだぞ」 地母神は、ふとあどけない表情を引き締め、双眸をうんと細くする。怯んだように一歩後退し、ウリエルは口を閉ざした。 冷静、かつ冷艶な眼差しが、心中を見透かすように審判官を見据える。無意識といった体で、彼は床に跪いていた。 「お前の身に何かあれば、ニゼルもショックだろうなあ。何か。そう、何かがあったとしても、お前は天使だ。転生すれば済む話ではある。 が、次にニゼルが再びニゼルとしての記憶を有して生まれてくる事など、どこにも保証されていないんだぞ。その度に彼を追い回すのか。 或いは、転生し続けるお前を捜させたいのか。何年、何度の手間を掛けさせるのだろうな。それこそ傲慢だぞ、カマエルとどう違うんだ」 流石だ、口にはしないがサラカエルはヘラの手腕に惚れ惚れとしてしまう。怒りに燃える鳥羽藍夜の厄介さを、もう十分知っていたからだ。 ウリエルは答えない。応えたくとも答えが出てこない、彼の顔は苦悶と苦悩に塗れていた。歯噛みした口から、血が落ちる。 ふっと長い息を吐いて、女神は頭を振った。いいから立て、苦笑を滲ませながら、ウリエルに体勢を戻すよう、彼女は優しく言い渡す。 「お前とニゼルが納得出来ているというなら、私が口を挟むところではない。が、無理だけはするな。ニゼルもそれを望んでいる筈だ」 「分かっています……申し訳ありません、ヘラ様」 「……ま、反省なんてしてないんだろうけどね。時にヘラ様、カマエルはどのようにロードを精製したんです。まさかラグナロクも奴の、」 「それはない。思うに、ラグナロクは偶然ではなく何者かが計画的に発動させたものだ。被害は甚大だったが、一部には利もあったからな」 「犯人はカマエルではない、と? どういう意味です」 「簡単には解明出来んという事だ。いいか、お前達。無理にカマエルに関わろうとするな。嫌な予感がしてならないからな」 女神は、それ以上を語ろうとしなかった。代わりに彼女は友人であるケイロンに、「地上に別荘などは持っていないか」と問いかける。 医師は、カラカラと気持ちのいい笑い声でこれを迎えた。どうやらヘラは本気で天上界から離脱するつもりであるらしい。 嬉々として物件選びに勤しみ始めた両者を見て、サラカエルは、たまらずウリエルと顔を見合わせてしまう。 契約という大任を負いながら、彼女は本当に自分勝手に動こうとしていた。一度言い出したら聞かないという性格については、覚えがある。 果たして、カマエルはどこを見てヘラとニゼルの融合を思いついたのか。案外、二人の性格が酷似していたからではないのか。 ……胸中に浮かんだ疑念は、対同士でまるで同じものだった。知らず嘆息した二人の天使を、琥珀達は不思議そうな眼で見つめている。 ……その日の夜の事だった。 目蓋を焼くような閃光が走り、眠りに落ちていたところを叩き起こされる。地母神は、疲労を引きずりながらようやっとの体で目を開いた。 想定していた通り、目の前にひとりの天使の姿があった。神を前に、跪きもせずに直立する神経の図太さには定評があると聞いている。 「やはり、お前か」 万が一を想定し、殺戮の天使に診療所外の警備を任せておいて正解だった。 もし彼がこの場にあれば、主の眠りを妨げた眼前の天使を全力で屠るか、追い払うかしようとしたかもしれない。 それは、天上の空を映したような水鏡のような静的な瞳で女神を見つめる。使命に反する魅惑的な唇が開かれるのを、ヘラは黙して待った。 「沈黙の羊飼いは、第二の冥い地に下った。これより百の年の後、其は新たな器を得て地上に蘇るだろう」 告知天使ガブリエル。考えてみれば、件の天使と親しくしていた覚えも、果てにはこれといった言葉を交わした記憶もない。 否、ニゼルだけは別だ――助けられた恩を返すなら本人に対してするのが最善だろうと言いかけて、やはり口を閉じる。 端から、ヘラは彼女が寝室を訪ねてくるだろうという予想を立てていた。出現と同時、早くも下される「告知」に静かに耳を傾ける。 ウリエル、ニゼル=アルジル。いずれも、自分と遠からず縁があるものばかり。カマエル同様に固執する理由がある筈とみて、正解だった。 「百年後、か。早いのか遅いのか、今ひとつ想像出来ないが」 「地母神ヘラよ。わたくしは、彼の羊飼いの転生の折、汝とその配下の者にいくつかの協力を要請したく此処に馳せ損じた」 「うん? なんだ、私をご指名なのか。お前が告知の最中に無駄口を利くなど、珍しいな」 わたくしにも例外はある、告知天使は冷ややかに目を細める。これまた珍しく、金の光を纏う翠の翼を折り畳み、ガブリエルは頷き返した。 「私と話がしたい、というよりは契約の申し出か。中身にもよるぞ、お前にばかり利があるものは受けつけない。理解しているのだろうな」 「百も承知、むしろ、わたくしがさる方より承る別件の延長によるもの。汝にとっても、やりがいのある仕事となる事を保証しよう」 こいつはいちいち物言いが上から目線だな、危うく声に乗せかけた感想を飲み込むべく、ヘラは口をもごもごさせる。 「白紙の契約書を。これより、依頼主からの宣言を申し上げる」 「さる方、について口を開ける気はないという事か。分かった分かった、言ってみろ」 ……さる方。告知天使に主がいたという話は聞いた事がない。古の時代から、ガブリエルは単独で使命を果たすものとして存在していた。 では、誰が何時、そのように定めたのか。誰が……たちどころに嫌な予感が働き、まっさらな羊皮紙を掴む手が強張り、動きを止める。 告知天使は、微動だにせず地母神をじいと見つめるままだった。これは目に見える罠を踏みに行ってしまったか――ヘラは唇を固く結ぶ。 「此よりガブリエルが、告知の銘を以って地母神ヘラに願い奉る。此の申し出は、知恵の守護天使『ラグエル』の復活に纏わるものである」 罠、発動。結んでいた筈の口が容易に綻び、しまいにはぽかんと大口を開けていた。 「今、なんと言った?」 「……此よりガブリエルが、」 「違う、そこじゃない。お前……ガブリエル。お前は一体『誰に仕えている』んだ」 知恵の守護天使とは、かつて自身の別邸で身の回りの世話をはじめ、屋敷の管理、女官の手配、更にニゲラの身を預けさせていた女の事だ。 アンジェリカ……知恵の樹と呼ばれる神々の至宝を秘密裏に管理し、喰天使、対の悲劇の天使と連携してこれの成長を担った、高位天使。 空色の髪と、何か思わせぶりな表情は今でも思い出す事が出来る。地母神は、思わず寝具から身を起こし、告知天使の前に歩み寄っていた。 件の娘が、ラグナロクを機に行方知れずとなった事は知っている。ノクトによって消滅した可能性がある事も理解していた。 だからこそヘラは震撼する。喰を受けて転生出来た者など、これまで一人としていなかったからだ。 しかし、ガブリエルははっきりとラグエル、そしてニゼル=アルジルの名を口にした。どちらもが、転生を経た上で復活を果たすとも。 「わたくしの事など、どうでも宜しい。それより、わたくしが発露していられる時間には限りがある。話を続けても宜しいか」 「……理由には目処がついているがな。分かった、だが私が納得出来る申請なのだろうな? 喰に失敗しただけでした、などとは言うなよ」 「ご心配なく。ではこれより、ニゼル=アルジル、ならびにラグエルの転生に関する私約を申し上げる。ひとつ――」 ――罠とは、掛かりたくて掛かるものではない。知らず、気付かず、見抜けもせずいる間に、足首を噛まれて初めてその存在を知るのだ。 ヘラはその中身を痛感する事となった。淡々と私約、否、規約じみた一方的な宣告を放つガブリエルに、女神は知らず頭を抱える。 「なるほど、道理で……ははっ、納得するには十分だ。ああ、これでようやく全ての線が繋がった」 「お褒めの言葉、ありがたき幸せに御座います。と言いたくはあれど、この事例を考案したのはわたくしではないので」 「うむ、一介の天使にはさぞかし重荷だったろうな。正直、私も逃げ出したい話だが」 「『それが叶う相手』ではない事など、賢女たる汝には理解出来ようもの」 「無論だ。だがなー……あの方はなんて恐ろしいひとなんだ。端から私に全部丸投げするつもりだったんじゃないのか……ああ、気が重い」 「全ての事象には、そうなるに至った理由が根底に存在するもの」。そう教えてくれたのは誰だっただろうか。ヘラは髪を掻き上げた。 「『あのひと』の命令であるなら無碍には出来ん。私に出来る事なら、なんでもしよう」 「御心強いお言葉、感謝申し上げる。此の件について決して口外しない事を、わたくしと汝の両方に誓約する事で成約として頂きたい」 「お前も大変だな。だが、ひとつ確認だ。『お前の中のもう一人』にも、それを確約させられるのか」 俄かに、告知天使の瞳に赤い色が差す。紅玉に酷似した艶やかな赤だ。それは、花が綻ぶように小さな声で可憐に笑った。 「――うふふっ、答えはイエスよ。この心の臓と鬱屈した魂に賭けて誓うわ」 地母神は、発露したその女に決して応えない。ニゼルの中で眠っていた頃、ただ黙って世界の有り様を鑑賞していたわけでもないのだ。 返事が貰えない事を早々と理解したのか、赤い眼の女はすぐに引き下がる。再び双眸を開いたとき、ガブリエルの瞳は元の青色をしていた。 色彩の変化を視認してから、ヘラは用意していた高品質の羊皮紙を二枚に分け、自身と天使両者のサインと血判を捺印して回収する。 二、三度中身を確認してから、大神との離縁証明に同じ、厳重な施錠が成される空間へと送った。恭しい仕草で、ガブリエルは頭を垂れる。 「契約は成立された。此より百の年の後、わたくしは彼の者の所在を明らかとし、覚醒の為の告知を成す事を汝に約束する」 「承知した。ああ、頼むから、また妙な連中に捕まらないようにしてくれ。ウリエルの発狂は私とて恐ろしいからな」 飛ばしたジョークは、告知天使に通じなかった。再度深く礼をした後、刹那のうちにガブリエルの姿はその場から消えている。 真面目なやつめ、小さく嘆息してヘラは寝具に腰を下ろした。瞳を閉じ、告知天使と交わした契約の中身を思い返す。 ……全ての発端は、ラグナロクの発生より以前に生じていたのだ。どう考えても、自分は制約の発案者に嵌められたとしか思えない。 それでも、知る限りの話をくれてやればウリエルは否応なしに前を向くようになる筈だと女神は頷いた。目は冴えていたが、体を横たえる。 「夜が明けたら、戦いの幕開けか」 永い眠りから醒めた後、待ち受けていたのは長きに渡る契約の始まりだった。出来る事から片付けていくかと、仕方なしに目を閉じる。 ――おかえりなさい はっとして、ニゼルは顔を上げた。それと同時に、彼は自分がどうやって現在地に降り立ったのかを忘れてしまう。 目の前に広がる、どこまでも冥い大河。透明度の高い水面と、足下の無数の砂利、漆黒に塗り潰された世界が続いていた。 記憶も五感も朧気で、まるで頭が回らない。こんなにもぼうっとしてしまうのは、ヘラと感覚を共有する瞬間くらいだと思い返す。 目と鼻の先の清流を見て、あれはレテの河だ、辛うじてそう思い出す事が出来るという始末だった。 『俺……俺は? なんで、ここにいるんだっけ』 何か、とても大切な事を忘れてしまったような気がする。 困惑に駆られて一歩踏み出したところで、ふと、視線の先に何者かが立っているのに気付いて足を止めた。 ――こんにちは、ううん、こんばんは、かしら? 初めて出会う人物だ。少なくとも、霞がかった記憶のどこにもそのひとの姿形は見つけらない。 愛想のいい笑顔をしている。くるりと纏められた髪には蔓植物や小花があしらわれ、そのひとの幼い面立ちをより幼いものに見せていた。 小柄な体型だが、膝から下が露わになった白い衣服が若い感性を覗かせている。どことなく、雰囲気がリスに似ているように見えた。 このひと、どこから現れたんだろう――呆然とする青年を余所に、ふわふわと浮遊するような足取りで、彼女は羊飼いの前に立つ。 ――おかえりなさい。待ってたのよ 間近で見つめてみると、どこかで会った事があるような気がした。しかし、やはり誰であるのかを思い出す事は出来ない。 刹那、瞬きを繰り返す青年の体は、いつしか、さらさらと星か煙のように解け始めている。それが輪廻転生の具現である事を彼は知らない。 驚いて自身の手を見下ろす羊飼いに、眼前の人物はにこにこと優しく微笑んだ。おもむろに手を伸ばし、消えゆく体を抱き寄せる。 ――おかえりなさい。待っていたの、これでやっと全てが揃う 抱きしめられながら、尖晶石の眼で霞みゆく世界を見た。黄昏色の暖かな光の粒子が、遙か彼方、遠方のどこかへ続く出口に向かっている。 その粒子こそ、これまでの自分という存在である事がなんとなく理解出来た。理に則り、寿命を変換し本来あるべき地に送られるのだと。 『そうか。俺、死んじゃったんだ』 気付くと同時、様々な事を思い出して胸が締めつけられる。何故、忘れてしまっていたのか……思わず唇を噛んでいた。 もう会えない、言葉を交わす事も、お茶を淹れて貰う事も出来ない。名を呼ぼうにも、既に声帯は機能していなかった。視界が掠んでいく。 切ない痛みに溜まらず顔を逸らした瞬間、ニゼルはふと、あの出口の向こう側に、見知らぬ美しい娘が立っている事に気がついた。 人懐こそうに柔らかく微笑む娘。彼女は、自分と同じ空色の髪と赤紫の瞳を持っていた。 そうだ、彼女の名前は「 」といった筈だ。それを思い出した瞬間、今まで抱えていた疑問と違和感が脳裏を一気に駆けめぐった。 愛しいもの、親友、共にあった日々……探していたのにずっと見つける事の出来なかった答えが、ようやく手に入れられたような気がした。 ――じゃあ、行ってらっしゃい。今度の旅路でも、あの子達と仲良くしてあげてね。特別に「これ」を、あなたにあげるから 送り出される、見放される。眼前の女から「ある宝物」を受け取ると同時、ニゼル=アルジルの肉体はいよいよ無数の星となって流転した。 世界が遠退く、また近付く。五感という感覚が全身から抜け落ち、記憶も感情も、あらゆる情報が掻き消され、自分という個は消失した。 託された赤紫色に輝く光を抱いて、遠くに見やる果ての先、未知の新たなる世界へ飛び出す。体が、引っ張り上げられる感覚があった。 ……どこかで、誰かが自分の名を呼んでいる。 The tales to chase paraiso continues ... (隠されるべくして、書の記述は彼の箱庭へと向かう) |
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BACK / TOP / 「2章番外編(1)」 UP:19/05/19 |