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楽園のおはなし (2-44)

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「……アレ? そーいえば、ニジーとおサルは?」

真珠の毛を梳いてやりながら、琥珀はふと、いつもなら我先にと双子の世話を買って出る青年が、いつの間にか不在である事に気がついた。
言われて初めて気付いたとばかりに、彼女の伴侶も顔を上げる。彼の腕には、手入れの途中で眠ってしまった珊瑚が早くも丸くなっていた。

「言われてみれば見かけないな。もう間食の時間も過ぎているだろう」
「ンー、ってか、藍夜もいないっぽい? 真珠の特訓の成果でも視て貰おーと思ってたんだケド」
「昨日の今日で、成果も何もないだろう。アンブロシアのところに行ってみるか」

困ったときのシア頼み。すっかり皆の寮母――あくまで例えだが、陰ながら一行を支えている天使を思い出し、仔を抱えて台所へ向かう。
ケイロンの診療所は、診察室に通じる部屋を除いて扉というものが存在していなかった。奥に位置する客間を抜け、一本道をずかずか進む。
木材のいい匂いがしていた。その割に、いつもなら率先して娘が手作りしている焼き菓子の香ばしさは、まるで欠片も紛れていない。
今朝方の寝坊といい、珍しい事もあるもんだ……琥珀は首を傾げながら、ひょこりとキッチンを覗き込む。瞬間、言葉を失った。

「おい、妻よ、どうし……」

続いて室内を見たシリウスもまた、ぎょっとして立ち止まる。
焼き菓子を用意する事など、端から不可能だったのだ。アンブロシアは辛うじて空色のエプロンは着けた状態で、床にへたり込んでいた。
両目から涙が、洪水のように垂れている。いつからそうしていたのか、頬は赤く染まり、目蓋は腫れ、エプロンは全面が濡れそぼっていた。
狼狽するあまり固まってしまった伴侶に真珠を押しつけ、琥珀はぱっと友人の元に駆け寄る。床に片膝を着き、正面から顔を覗いた。

「シア、シーアッ! 大丈夫、どっか痛いの?」
「あ、ぅ……あんばー、くん」

掠れた声が痛々しい。鷲獅子はぎゅっと眉間に力を込めると、勢いよく娘を胸元に抱き寄せる。

「おい、妻よ……」
「……ニジーなら、こうすると思って」

途端、硬直していたアンブロシアが肩を震わせてしゃくり上げ始めた。動揺するのは一瞬で、琥珀はなお強い力で天使を抱きしめる。
半ば縋りつくように鷲獅子にしがみつき、アンブロシアは戦慄く唇から、ようやくといった体で掠れた声を絞り出した。

「にっ、にぜっ、ニゼ……さんがっ」
「え? うへ? ニジー……ニジーが、どうかしたの?」
「うっ、ううぅっ。に、ニゼルさんがぁあっ」
「ちょ、ちょっと、シア? 泣いてちゃ、分かんないってば……」
「にっ、ニゼルさん……が……しっ、し……」

娘は自らの言葉に取り乱したように声を上げ、わんわんと泣き出してしまう。流石に途方に暮れてしまい、琥珀は困り顔でシリウスを見た。
どうしたものか、一角獣の顔にもはっきりとそう書いてある。訳を聞こうにも、アンブロシアは決壊してしまっていてまるで話にならない。
ふと、真珠と珊瑚が顔を上げて廊下を見た。寝ていた筈の珊瑚に至っては、上半身を低く伏せ、獲物に狙いを定めた姿勢のように見える。
釣られるように視線を動かしたシリウスは、あの半人半馬の医師が、険しい表情を浮かべて入り口に立った姿を見つけて眉根を寄せた。

「やはり、のう。そろそろじゃろうと思っとったわ」
「そろそろ? 何……ニジーに何かあったの?」

キッチンに入り込むと、ケイロンは泣き止む気配のない天使の娘の横に立ち、彼女の肩をそっと叩いて顔を上げさせる。

「関係のない話でもないのよ。ほれ、いつまでも泣いとったらいかん。主はこれから忙しくなるでの、仮眠でもとったらええ」

流石と評するべきか、アンブロシアは目に涙を湛えたまま医師を見上げ、頷き返されたのを見てふらふらと立ち上がった。
このオジジは言葉の魔法でも使えんのかな――琥珀が感心している間に、娘はケイロンの指示であてがわれていた寝室へ向かい始める。
足取りは不安定極まりない。途中、シリウスが駆け寄って肩を貸してやっていた。託された仔らと共にふたりを見送る。
いつもなら遠慮する場面だが、よほど傷ついているのか、アンブロシアは素直に夫の誘導に従った。

「んで、ニジーはどこ行っちゃったワケ? オジジは何か知ってるの?」
「オジジ……うむ、そうさの、立ち話もなんじゃから一旦座るか」
「アー、あのさ。シリウスはニジーの騎獣だから、」
「そのへんは主が伝えればよかろ? 捉えようによっては、大した引っかかりもない話じゃからの」
「……そーなの?」
「主ら、騎獣らにとっては、の。何、気持ちの問題よ。すぐに戻ってくるじゃろうしの」

それもそうか、すんなり納得して腰を落ち着かせる。ケイロンは、わざわざ四頭分の茶を出してくれた。
火傷をしないよう、鷲馬達には木製のスプーンで一度すくって、息を吹きかけて冷ましたものを差し出してみる。
茶を飲ませるのは、これが初めてだ。真珠はおずおずと遠慮がちに嘴を若草色に潜らせたが、珊瑚はそっぽを向くだけだった。

「で、そう、ニジーの話だよ。オジジ、もしかして僕達に何か隠してない?」

無理に飲ませる必要もないかと、琥珀はスプーンを白羽根の口元だけに向ける。
飲みはしなくとも、自分に向けられないのは気に入らないのか。黒羽根は駄々を捏ねるように机の上をごろごろと転がり回っていた。

「隠してはおらんよ。聞かれもせんかったから、答えなかっただけの事じゃな」
「うへ? それって、隠してるって事じゃないの?」
「ふむ、賢しいのー。ニゼル=アルジルじゃが、主も知っての通り体は人間じゃ。ゼウス神の器の変更と同じく、せいぜい百年しか保たん」
「ショウミキゲンってヤツだよね? ……それくらい、分かってるつもりだったケド」
「『つもり』と、そう言うのじゃな。では聞こう、あの者と出会って、主、これまでにどれくらいの時間が経ったか覚えとるかの」
「エ? そんな、そんなの――」

――咄嗟に反論しようとして、言葉に詰まる。
「ニゼル=アルジルは人間だ」。自分や夫のような魔獣の類、ましてや、サラカエルらのような天使でもない。
せいぜい保って百年程度……琥珀は自分の湯飲みがひっくり返る事も気に留めず、乱暴に席を立った。

「気付いたようじゃの。あの者はの、トバアイヤに同じく、本来は天使として生まれてくる筈の生命だったのよ。天上でも噂になっとった。
 が、主の番のようにカマエルにちょっかいを出され、期限までに告知を受けられなんだ。施された術式は、寿命を延ばすものだったがの」

つまり、本当であれば、カマエルに邪魔さえされなければ、ニゼルとはもっと一緒にいられたという事なのか。
唸り声を上げたところで、医師は「どのみちガブリエルは不在じゃったからの」、と思い出したように補足する。
暗に、落ち着けと諭されているのだと知った。それでも、納得出来るかと問われれば、琥珀は否と答えたかもしれない。

「元、オジジの弟子なんだよね? ゴリッパな教育をしてあげたんだねー」
「そう言われると耳が痛いのー。何をやらせても優秀な男じゃったよ。目的の為に手段を選ばず、という気質までは見抜けなんだがの」

怒りで頭に血が上る。どこまでこちらを好きに弄れば気が済むのか……いよいよ牙を剥きかけた鷲獅子の手に、ふと柔らかなものが触れた。
はっと視線を落とすと、珊瑚が手の甲に頭をぐりぐりと撫でつけている。主に似て賢い仔じゃの、ケイロンはにやりと意味深に笑った。

「カマエルは、ロードの精製に一役買っとった天使の一人らしくてのー。詳しい事はワシも、ゼウス神からの手紙でしか知らんのじゃが。
 ニゼルがロードを使えたのも、術にとある高位神具が絡んでおったからと聞いとるよ。ロードの力が、あの子を生かしておったわけじゃ」
「フーン。アイツ……一応、色々ちゃんと調べてたんだ。ニジーと女の尻ばっか追っかけてんのかと思ったよ」
「でなければヘラの伴侶など務まらんわ。ともあれ、先ほどそのロードの効力は失われたそうじゃ。ニゼルは寿命を遡り……」
「――そうして、ニゼル=アルジルは俺達の知らぬ間に自然に還ったのだな。どうりで、気配一つ感じられない筈だ」

医師の言葉は、夫が繋げてくれる。琥珀は彼らに疑問を投げる事も忘れ、椅子に倒れ込むようにして座り直した。

「主、ニゼルと騎獣契約を交わしたとは聞いとったが……そこまで本格的なもんじゃったんかのう」
「契約書までは用いていないが、星の民は頑固者が多いのでな。妻よ、大丈夫か」
「ケツ……ウン、僕は、だいじょーぶ。ニジーは……死んじゃったんだよね。もう、この世界のどこにもいないんだね」

自分は落ち込んでいるのだ、シリウスに頭を包み込まれて、ようやくそれを知る。しがみつきこそしなかったが、琥珀はぐっと唇を噛んだ。
あれから何度も、珊瑚は自分の手の甲に羽毛を押しつけてきているし、彼だけでなく、真珠もまた胸に身を寄りかからせている。
頭上と手元、どちらの温もりも涙腺を刺激して止まない。琥珀は、今にも泣き出しそうになるのを懸命に堪えていた。
……思えば、ニゼルは仔らの面倒も率先して見てくれていた。懐いていた相手がいなくなってしまった事を、二頭は察したのかもしれない。
だというのに、こうして気丈に、健気に母親を慰めようとしてくれている。自分ばかりが辛いのではない、琥珀は勢いよく頭を振った。

「シアが泣いちゃってるの、なんでかよく分かったよ。でもさ、オジジ。僕達は、これからどうしたらいい?」
「ふむ……もうしばらくすれば、サラカエル達がここに戻ってくる筈じゃ。その時になれば、今後の事も考えられるようになるじゃろう」
「どれくらい掛かるのだ。あまり長居するわけにもいかないだろう」

シリウスの懸念を、オジジことケイロンは豪快な笑い声で吹き飛ばす。ぽかんとする騎獣達に、やはり彼はにやりと笑いかけた。

「なーに、物事はの、考えすぎると悪い方に落っこちるように出来とるもんじゃ……確か畑の手入れが、たーんまり残っとったかのー」

気にするな、考え込むな、何とかなる……魔獣の医師は、明らかに気落ちしている面々にお茶目にウインクしてみせる。
また畑か、つい文句をつけそうになり、刹那、琥珀は瞬きした。そういえば、ニゼルもこんな性格だったような気がする。
前向きで、朗らかで、あの藍夜ですら心を許していた、不思議と他人を惹きつけて止まない青年。まるでケイロンやヘラのようだ。
もし、彼が医師の言う「告知を受け損ねた天使」なのだとしたら、それは一体、どんな天使だったのだろう……考えても答えは出なかった。
刹那、ドレスの腰部分を厳つい手で掴まれ、琥珀は夫らが止めるより早くケイロンに表へ引きずり出されていく。抵抗する隙もない。

「……ん? アレ?」

一瞬、ちかちかと、首元で何かが煌めいた。視線の先には、いつの日か、主であるヘラから譲り受けた古代琥珀のペンダントが揺れている。
赤を帯びた、暖かな橙色。琥珀にとっては郷愁の色と言えた。ニゼルが用いていたロードもまた、似たような光を零していたように思う。
考えても仕方がないのに、青年の笑みが眼に焼きついたままだった。ふらりとよろめき、座り込みかけたその時、医師の握力がぐっと増す。

「……ニジ……っと、わあっ!?」
「ホレホレ、前を見て歩かんかい。ワシも忙しいんじゃがのー」
「ちょ、ちょっとぉ! 脱げっ、脱げちゃうってば!」

あわや、ベルト代わりの腰紐が解ける寸前だった。身をよじり、ドレスが脱げないようささやかに抵抗しながら紐を結び直す。
旅に出て急成長した折、ニゼルに時間を掛けて選んで貰ったドレスだった。こんなところで駄目にしたくない。
いよいよ罵詈雑言を吐こうとした瞬間、今度は急に手を離され、琥珀はその場でたたらを踏む。気がつくと、そこはもう畑の真ん中だった。

「ホレ、仕事じゃ、仕事。ワシは診療所の子供らを診てくるでの、サボるでないぞ」
「エ、ホントに畑イジってろって事? もー、勝手だなあ、藍夜みたい〜!」

カラカラと気持ちのいい笑い声が、急速に遠退いていく。鷲獅子は、荒い鼻息を一つ噴いて、目についた雑草をぶちぶちと抜き始めた。
……確かに、ニゼル=アルジルは人間だ。寿命には限りがあり、遠からず彼とは別れなければならなかった筈なのだ。
だというのに、今なお、この場に彼がいてくれているような気がする。琥珀、しっかりしなよ――そう、言われているように思うのだ。

「天使……だったかもしれないんなら、いつか、藍夜みたいにまた会えるかもしれないってコトだよね?」

たまらず、空を見上げた。あの自由気ままな青年の髪と同じ、夏空の青色は、既に黄昏の橙色に差し変えられている。
サラカエル達を待とう、琥珀は頭を振った。追ってきたシリウス達に手を振り返し、その胸に思いきり飛び込む。
一角獣は、何も言わなかった。骨張った手の遠慮がちな触れ方に、身を任せるようにそっと両目を閉じる。
忘れたくない、忘れられない……オフィキリナスで過ごした怒濤の日々が、切なくも懐かしい光景が、脳裏を慌ただしく駆け抜けていった。






時間は、少々遡る――

「――ヘラ様……よく、お戻りになられました」

夜色の髪が、静かに零れる。眼前で深々と頭を下げる見知った男に、封じられていた遺跡の底で、地母神は大きく頷き返した。
凛として立つ女神の視線は、次に夫である大神に向けられる。苦い顔で妻に微笑みかけたゼウスは、次いで、視線を別の場所に逸らした。
封印が解かれ、ようやく解除に至った不可視の結界。残渣すら残さないその虚空の下で、ウリエルは一人、未だに座り込みうなだれている。
ヘラは直前、部下である彼に謝罪していた。すまないと、身分も所有する権限も上である筈の彼女が、目下の天使に詫びていたのだ。

「……ウリエル。ウリエル」
「……」
「駄目か……申し訳ありません、ヘラ様」

せめて応えろ、暗にサラカエルが尖った声で対を咎めたが、未だに審判官は微動だにしない。気にするな、ヘラはあっけらかんと言い放つ。

「例えるなら、半身をもがれたような状態だろう? 無理にわたしに跪かせる必要はない」
「ですが、」
「なんだー、お前は相変わらず図体がでかいだけの堅物か。いいからそっとしておけ、それとも、またおチビとでも呼ばれたいのか」
「……! なっ、誰もそんな事、言っていないでしょう。馬鹿にしてるんですか」
「ははっ、誰がいつ馬鹿にしたんだ? その台詞、久しぶりに聞いたな」

いつしか、赤錆の遺跡の中に、どこからともなく光が注がれていた。頭上高く、果てのない暗がりと思えた天から燦々と梯子が降りている。
ふとヘラは、再度ウリエルを見た。彼女の黒瞳が、彼を慈しむような、或いは憐れむような色を帯びたのを見て、サラカエルは口を閉ざす。
ほの暗い遺跡の硬質な造りと、それを打ち破らんとする神の復活を祝福する光の帯。あたりはもう、夜明けを迎えた新世界へと化していた。
……その中に静かに佇むヘラの姿は、本当に穢れ一つない神々しさで、言葉にならないほど美しいものとして、殺戮の目に鮮明に映る。

(やっと……貴女に逢えた)

サラカエルも逢いたいでしょ――脳裏にあの、気まぐれで自分勝手な青年の声が湧いて出た。間抜けめ、余計な事を……思わず歯噛みする。
自然の摂理、いつか双方の全てが破壊され尽くされる前にすべき事。ニゼルの死は、避けては通れないものだったのだと己に言い聞かせた。

(馬鹿馬鹿しい。これではまるで僕が、ウリエルみたいにあの間抜けに固執しているみたいじゃないか)

自分にとっての大切なものは、ヘラだ、対天使そのひとだ。そうして顔を上げた瞬間、サラカエルは眼前に地母神の姿を見て、硬直する。

「お前……しばらく見ないうちに、変わったな」

曇りひとつない無垢なる両目が、二色の瞳を正面から見上げていた。

「ああ、悪い意味じゃないぞ。お前はそんな顔、なかなかわたしには見せてくれないからな」
「……そんな顔……一体、どんな顔をしているんです」
「さあな、なんだろうな? ああ、しかし、久しぶりの外すぎて体が鈍ってるな。これは少し、運動しないといけないなー」

心臓の高鳴りを、見透かされはしないだろうか。思わず顔を背けて咳払いする。ヘラはそんな部下の些細な変化に、終始にやにやしていた。
殺戮は、つい先ほどまで考えていたニゼル=アルジルの件と、彼女の復活を喜ぶ自分の不甲斐なさという矛盾に、自ら首を傾げる。
どうにも喜びの感情が抜きんでてしまっているのか、酷く気が抜けているように感じられた。

「さて、出られたからには、いつまでもこんな辛気くさいところは勘弁だ。サラカエル、転送陣を展開してくれ。ケイロンのところでいい」
「……このまま、ゼウス様も招かれるおつもりですか」
「なんだー、お前、せっかくニゼルがケイロンの弟子に言質を取らせたんだぞ。今から話し合いをしないで、いつするんだ」
「ふ、わたしはいつでも構わないが。ヘラ、殺戮」
「おい、気安く呼ぶな。わたしは今、大事な打ち合わせをしてるんだぞ……うむ、埃臭いし、暗いし、いい加減うんざりだ。早くしろー」

……心臓の高鳴りとは。サラカエルは、一瞬で終了させられてしまった「再会の喜び」を噛みしめるように、気取られないよう嘆息する。
そういえば、地母神ヘラとは元からこういう女性だった。気高く神々しく、凛としてはいるのだが、その実かなり身勝手である。
ニゼル=アルジルの器によく馴染むわけだ、改めて納得してしまった自分に、二度目の溜め息を密かに吐き出した。
気を取り直し、その場に屈むと隠しナイフを袖から引きずり出して右手首を裂き、流した血で、手早く転送陣を床に描いていく。
内心、殺戮は気が気ではなかった。こうしている今も、地母神と大神は夫婦同士の会話を、公に楽しんでいるのではないのか、と――

「やはり君は変わらず美しいな……ヘラ、復活祝いに何か贈ろう。何がいい? 装飾品か、それともやはり、服だろうか」
「いらん。お前とは趣味が合わないからな。それに、これから大事な話し合いをするんだろう? 賄賂など端からお断りだ」

――実際には、夫婦の会話は日常のそれと大差ないあっさりとしたものだったのだが、如何せん「恋は盲目」である。
なんとか苦労して術式を完成させたサラカエルは、傷の手当ても忘れてヘラに遠慮がちに声を掛けた。

「お前……わたしに会えて嬉しいのは分かるが、手当てのやり方も忘れてしまうほどなのか。そうかそうか、そんなに嬉しくて仕方ないか」
「……え……あ、いえっ、違っ、違います! これはその、本当に忘れていただけです。これからやりますから、お気遣いなく」
「そうかー、てっきり、そういう危ない趣味をしているのかと思ったぞー。よし、ならわたしが直々に手当てしてやろう。ほら、腕を出せ」
「け、結構です! ま、またそうやって馬鹿にして! いいですから、急いで戻りましょう。ゼウス様もお待ちなんですから」
「なんだ、つまらん。仕方ない、ここを出てから改めて、といったところだな」
「……はあ……勘弁して下さいよ……」

どうやらこの女神は、本気で傷の手当てをしようとしていたらしい。腕まくりの素振りを見せた地母神に、殺戮は我を忘れて後退る。
久しぶりに慌ててしまった。大神の物言いたげな視線には気がつかなかったふりをして、簡単な応急処置だけを済ませる。
彼女と彼は、まだ正式な夫婦であるのだ……自分のような一介の天使が、横恋慕などをしていいわけがない。
切り替えるべく頭を振り、俯いたままの対天使の肩を叩いて、顔を上げさせた。着いておいで、音は乗せず口だけを動かし、きびすを返す。

「お待たせして、申し訳ありませんでした。転送陣の向こうは、もうケイロン先生の診療所付近になります。行きましょう」

立場なら、わきまえている……いつの日か、喰天使にそう宣言した事を思い出した。実際にそのつもりだと、サラカエルは首を横に振る。
ふと視線を滑らせれば、ヘラの手をゼウスが取っているのが見えた。大神ともなれば、エスコートなどお手のものなのだろう。
緊張するだろうし、到底、僕には無理そうな務めだな――嘆息混じりに、転移の祝詞を口にした。
これから、「大事な打ち合わせ」が待っている。ウリエルの手をしかと掴んだまま、殺戮は表情を引き締めた。





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 UP:19/05/04