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楽園のおはなし (2-42) BACK / TOP / NEXT |
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「そうか、やはりゼウス様が来ていらっしゃったのだね」 珍しく寝坊したアンブロシアに合わせ、昼時に整えられた朝食の席。ニゼルは藍夜達に、ゼウスが訪ねてきた事を軽く話しておいた。 とはいえ、流石に「自分はこれから死にに行く」とは言い出しようがない。天使って誰が来たとか分かるんだね、とさりげなく話を逸らす。 「それで、彼の話とはなんだったんだい」 「何も。カマエルは行方不明、とはいえ魔王に遭遇して消耗している筈だから、しばらくこちらに手は出さないんじゃないか、だそうだよ」 話題には乗らず、親友はごく当たり前の質問を繰り出した。口に運んでいたスープを噴き出しそうになり、ニゼルは忙しなく瞬きする。 質問に答えたのはサラカエルだった。これといった食事を摂らず、紅茶を味わうだけの対天使に、藍夜は訝しむような視線を送る。 あの、と控えめな声で彼に続いたのは、アンブロシアだった。 「いつまでもここに留まっているわけにはいきませんし、どこか他の場所に移動した方がいいと思うんです。食材も心許ないですから」 「気持ちは分かるがね、アンブロシア。しかし、行く宛がないのも確かな話じゃないのかい」 「藍夜、あーいや。アンに八つ当たりしたってしょうがないでしょ? かといって俺も伝手はないし、困ったなあ」 もしゃもしゃと馬肉を隠すようにして齧っていた琥珀が、ニゼルの唸り声にぱっと顔を上げる。目をきらきらさせ、机上に身を乗り出した。 「ねえねえ、ニジー。ツテなかったっけ? ほら、大昔、王都に僕とオツカイに行ってさ、困った時に〜って、山羊のオジジに貰ったヤツ」 「ええ? 何その、やぎのおじじって。そんなの……あ、」 ふと席を立ち、ニゼルは自分の荷物の中身を漁り始める。何事だとついてきた藍夜の鼻先に、見つけたものを嬉々として突きつけた。 「覚えてない? 王都に商品を卸しに行った時、荷物を荒らされて……犯人の魔獣から、こんなの預かってたんだよね」 「魔獣? ニゼル、確かにトラブルがあったとは聞いていたが、君ね、またそんな」 「うわっ、すぐお説教モードに入らないでよ! 製品駄目にしたお詫びにって、貰ったんだ。琥珀に言われなかったら忘れたままだったよ」 「やあ、貴重な貰い物をしたもんだね。そいつは僕達の師、ケイロン先生宛の速達札じゃないか。名前、シレノス様と言ってなかったかな」 「えっ! サラカエル、知ってるの?」 「知ってるも何も、あの方はケイロン先生の親友でいらっしゃるからね。僕達も世話を焼かれたもんだよ」 札と呼ぶには大きく見える紙切れから目線を外し、ニゼルと藍夜は同時に殺戮を見上げる。心底愉快とばかりに、天使は苦笑していた。 「元々気まぐれな方だったし、殺しても死なないような性格をしていらっしゃったからね。上手くラグナロクを回避していたんだな」 「はあ、なんていうかすっごくスケベで大酒呑みって感じだったけど。サラカエルがそこまで言うなら、偉い人、いや、魔獣だったのかな」 「神獣とまではいかないけど、古くから神々に技能を貸されていた賢者のひとりだよ。ま、その口の効き方は流石間抜けって話だけど」 唇を尖らせるニゼルを無視して、サラカエルは札に軽く目を通す。ウリエル一人でも飛ばせる正式な札だと、彼はそっけなくそれを戻した。 ふてくされ気味にチーズを丸かじりし始めた羊飼いの代わりに札を受け取り、藍夜は複雑そうな顔で友人と対天使を交互に見る。 自分が知らないところでニゼルの世界が広がっていた事に、不安を抱いたようにも見えた。殺戮は特に補足もせず、紅茶を飲み始めている。 覚えてた僕に感謝してよね、ふふんと得意げに胸を張る琥珀については、シリウスがこれでもかと言わんばかりに頭を撫でてやっていた。 「じゃ、ケイロンに手紙飛ばして、それから色々考えるって事でいいよね? アンもそれでいい?」 「はい、わたしはそれで、」 「やあ、まさか呼び捨てにするとはね。先生か様くらい付ける頭もないのかな」 「うっ、アンと話してたのに! はいはい、分かってますー、本人の前ではそうしますー。もう……藍夜、転送お願いしてもいい?」 返事がない。藍夜、もう一度親友に声を掛けると、彼は僅かに肩を跳ね上げ、驚いたような顔でこちらを見る。 考え事でもしてたのかな、深くは考えず、ニゼルはもう一度札の転送をしてくれるよう依頼した。 「ニゼル……ああ、分かっているとも。任せておきたまえ」 「ありがとー。ケイロン『先生』ってどんなひとなのかなー。藍夜の先生なんでしょ? 瓊々杵さんみたいに怖いひとだったりして!」 「……ふん、いちいち嫌みくさいな」 「あの、サラカエルさん。そこは、あなたが一番言えない事だと思います……」 一足先に食事を終えた鷲馬の双子が、机の上をころころと転がって遊び始める。主に珊瑚の首を摘まみ上げ、ニゼル達は朗らかに談笑した。 成長の証か、悪賢い面が出てきたように思う。一同がそんな仔らに気を取られている中、藍夜は札を見つめてしばらく何か考え込んでいた。 アンブロシアが香草茶を淹れたところで、彼ははたと顔を上げて娘に頷き返す。友人に一声掛け、彼は術の発動の為に部屋を出て行った。 のどかな風景が目の前に広がる。頭上には澄み渡る空、眼下には緑鮮やかな野菜畑。木々にとまった鳥のさえずりと、鼻を突く追肥の臭い。 ニゼルは、ここが本当に天上界であるのか目を疑った。同じ事を考えていたのか、困惑の表情を浮かべたアンブロシアと目が合う。 先を行く殺戮の天使が、荷物を肩に担ぎながら二人に振り向いた。ついてくるよう促され、娘ともども慌てて後を追う。 「ニゼル、アンブロシア。安心したまえ、さっきの転送陣は、札の転送跡を辿って精製したものだからね。転移は成功しているとも」 「あの、藍夜さん、サラカエルさん。その……ケイロン先生のお宅というのは、本当にこちらで合っているんでしょうか」 「やあ、星の民の里も似たようなもんだったじゃないか。間違いなく、ここがケイロン先生のご自宅だよ」 「……いや、自宅って。畑だよね? 農園だよね? よく見たら牛もいるみたいだし、牧場の間違いなんじゃないの?」 「趣味の家庭菜園だよ、ニゼル。ここはラグナロクの範囲から離れているからね。僕達がいた頃より、規模が広がっているかもしれないが」 「家庭菜園ってレベルには見えないんだけど……藍夜がそう言うなら、まあいっか」 藍夜――今代のウリエルと、サラカエルが共同で展開した転送陣。振り返ってみれば、雑木林の中のそれは、もうすっかり消え失せていた。 札に丁寧な加工を施し、用意が出来た、と告げられたのは今から数分前の事。昼前に着けてよかったよ、とサラカエルは空を仰ぐ。 シリウスの故郷に似た環境下にあるこの土地は、夜間はそこそこ冷えると彼は補足した。真珠への気遣いか、態度はそっけなく感じられる。 ……ニゼルは一度立ち止まって、二人の天使が世話になっていたという診療所の周辺に視線を走らせた。 一面の牧草や、アスパラ、キャベツ、ニラといった春野菜、可憐に咲き誇る桜やアーモンドなど、どれもが手の込んだもののように見える。 「ねえねえニジー! 見てコレ、真っ赤っかで美味しいヤツだよ! ちょっと分けて貰っちゃおーよ!」 大声で呼ばれ、思考を中断。見ると、先に診療所へ向かっていた騎獣達のうち、琥珀が畑のイチゴに見とれて目を輝かせていた。 果物まで植えてるの、思わずツッコミを入れるニゼルに、細かく言うならイチゴは野菜だよ、藍夜は師の奔放さに苦笑するしかない。 「あくまで趣味、だそうだよ。患者に新鮮なものを、という狙いもあるそうだがね。それに緑は目にも心にも優しいから」 「こら、琥珀! それ採っちゃ駄目だからねー……って、おーい、どこ見てるの藍夜。ほら、しっかりして。診療所に行くんでしょ?」 「深くを考えないようにしているんだから、いちいち呼び戻さなくていいよ。察しない人間だな」 ケイロンは、聞いていた通り自由気ままがすぎる人物なのだろう。目線を空の彼方に向ける親友を労い、ニゼルは彼の腕を軽く叩く。 その一方で、新鮮なイチゴを主人達に食べさせてやろうと無許可の収穫を試みる鷲獅子を、一角獣はひとりで必死に止めていた。 あれ以上はシリウスが大変だ――自分がいなくなった後も好き勝手に行動しないよう、琥珀にはよく言い聞かせておかなければ。 ニゼルはふたりの間に入ろうと、ぱっと駆け出して畑に急ぐ。正に、鷲獅子の娘は地面に屈み、大粒のものを一つもぎ取ろうとしていた。 「ちょっと、琥珀!」 「あっ、ニジー……あいったっ!?」 パコンと、軽い音が響く。ニゼルは目と鼻の先、青々とした茂みからぬっと現れた影が、琥珀を棒状の何かで叩いたのを見て固まった。 「こりゃ、躾のなっとらんグリフォンじゃの! ソイツはワシが、いやラファエルが手塩にかけて育てたイチゴじゃ、勝手に食うでないわ」 頭を抱えてぽかんとゴム製ホースを見上げる琥珀と、突然の出来事に庇う事すら忘れて立ち尽くすシリウスに、人影はにやりと笑いかける。 言ったそばから彼自身は器用に腕を伸ばし、真っ赤に熟れたイチゴを一粒ぷちりともいで、鷲獅子の口にそれを放り込んでやっていた。 騎獣達同様、呆気にとられたままでいたニゼルの口にもイチゴが押し込められる。瑞々しく、素晴らしい香りと味が口いっぱいに広がった。 「ああ、結局挨拶をし損ねてしまったようだね。ご無沙汰しています、ケイロン先生」 「はあ、躾がなっていないとこういう事になるんだよ、ウリエル……お久しぶりです、ケイロン先生」 「んぐぐ……これ美味しい! って、え、このひとがケイロン? 先生……?」 「いかーにも! ほう、久々に連絡を寄越してきたと思ったら、またずいぶんとぞろぞろ連れてきよったのう? ウリエル、サラカエル」 無意識に語尾の発音が鈍くなる。目の前に立つ医師ケイロンとは、上半身が老翁、下半身が栗毛の馬という魔獣だった。 なるほど確かに、サンダルウッドで出会ったシレノスと快活な雰囲気がよく似ている。しかし、話を聞くのと実物を見るのでは大違いだ。 白衣越しにも容易に想像出来る鍛えられたであろう体が、半身が闊歩する度にゆさゆさと力強く揺れる様子に、口を半開きにしてしまった。 ガハハと豪快に笑い、弟子達の来訪を快く歓迎して、ケイロンはおちゃめな仕草で一行に手招きしてくる。 ニゼルは、一見でたらめな立ち振る舞いばかりをしているこの魔獣に、どこか既視感と親しみを覚えて仕方がなかった。 「……ふむ、札に書いてあった通りの人数じゃな。アレを書いて寄越したのはー……うむ、ウリエルじゃろ?」 診療所は、かつてのオフィキリナスを彷彿とさせる鉄筋を基礎とした木造建てだった。そこかしこから、木と紙、薬品の匂いが流れてくる。 患者なのか、ひっきりなしに客の顔を見にくる小さな天使達を窘め、ケイロンはカルテと思わしき書類を山と積んだ机に着くよう促した。 うんざりした顔で、サラカエルがそれらを別のテーブルに移動させていく。相変わらず辛気くさい奴じゃのー、と医師は軽口を叩いた。 「ケイロン先生、よくあれが僕が書いたものだと分かりましたね。紙そのものは、シレノス先生からこちらの友人に預けられたものですが」 「くそ堅苦しい文面だったからのー。あんなガチガチの岩みたいな文を書く弟子と言えば、お前かサラカエルくらいのもんじゃ」 「……」 「あ、藍夜、藍夜! えっと、ほら、お世話になりたいですーって話! しなきゃ! ねっ!?」 「おや、アイヤとはなんぞ? というか、お前さんはどちらさんだったかのー。歳のせいか、物忘れが酷くてのー」 「……ケイロン先生……手紙に、ある程度の事情は書いておいた筈なんですが」 「うわーっ! 藍夜! 藍夜、待ってっ、雷霆はちょっと我慢しよう!? ねっ!?」 交渉組が騒がしくしている間、ヒッポグリフの双子は書類を嘴で突っついたり、それを両親に止められたりと、好き勝手に遊び回っている。 魔獣の医師は、珍しいものを連れてきよったの、と両目を細めてみせた。声色が固くなる。ニゼルは、親友を押さえ込みながら振り向いた。 「実は、ラファエルからも速達の札が頻繁に届いておるのよ。ゼウス神の器の事も、魔王が各地に出ておる事も、主らの事も聞いておるわ」 ふと、ケイロンは蹄を慣らしてきびすを返す。手慣れた様子で茶を用意すると、彼はそれを配りながら、手近な皿の茶菓子を口に運んだ。 「『大変じゃったの』とは言わんがの、大変なのは皆同じじゃからのー。しばらくはここに泊まるといい、ラファエルにもそう頼まれとる」 「ケイロン先生、急な話ですみません。ありがとうございます」 「構わんよ、ワシも昔話がしたい頃合いだったからの。ところでウリエル、その鷲獅子やらは、主が預かっとるんだったかの」 事前に手紙を出したからか、留まる事を快諾してくれた医師は、ちらりと琥珀達を見やる。 出された茶や菓子を遠慮なくもりもり食べる騎獣の姿に、藍夜は頭を抱えていた。身を乗り出し、ニゼルは慌ててフォローに回る。 「うん。あ、一角獣の方は俺の騎獣ね。でもヒッポグリフはあげられないよ、シリウスと琥珀の子供だし」 「誰も寄越せと言うとらんわ、珍しい生き物じゃったから目についたのよ。それに、その白い方は魔力が高すぎるようじゃ、器が軋んどる。 制御の術を身につけんと、苦労するやもしれん。そのへんは、ここにいる間に覚えて貰うしかないじゃろの。体力作りもさせんといかん」 「……凄いね、真珠の事、見ただけで分かるんだ」 「ワシャ魔獣も診られる医者じゃぞ、失礼な奴じゃのー。それに力が外に漏れとるから、丸分かりじゃわ」 話が理解出来ているのか、不意に真珠が顔を上げ、ケイロンを見た。賢い仔じゃの、医師はにやりと笑いかけ、頭頂部を指でなぞる。 「ところでの、ニゼルとかいうたか。主、暇そうにしとるようじゃの。どうじゃ、ワシの畑の手伝いでもしてみんか」 「えっ、畑? 真珠の事もあるし、言われてみれば暇だったかなあ。俺は別にいいけど」 「あっ、ニゼル!」 「……先生、またいつもの、ですか」 「何? 藍夜もサラカエルも、いきなりどうしたの? いつものって?」 妙な空気が流れた。見れば、頭を抱えていた親友はいよいよ唸り声を上げ始め、殺戮はこめかみに指を押し当てて黙り込んでいる。 何がなんだか分からない、困惑の表情をケイロンに向けたニゼルに、医師は不気味に微笑んだ。手招きされ、大人しくそれに従い外に出る。 ……やはり既視感があった。思い返せば、ウリエル達はヘラに仕える間、ケイロンを訪ねて別邸を出ていた期間があったと聞いている。 この既視感は、恐らくヘラの記憶だ。入れ替わろうとしているのか、ふと全身に走った浮遊感を振り払うように頭を振った。 「ふむ。その様子じゃと、ヘラとの一体化はかなり進行しとるようじゃの」 「! え……」 一体化。事態はそこまで進んでいたというのだろうか。思わず立ち止まった羊飼いに、魔獣は長い尾を揺らしながら静かに振り向く。 ええから着いてこい、急かされるままに後を追うと、やがて先ほどの広大な畑に出た。見事な黄色い菜の花の上を、白い蝶が飛んでいる。 「ラファエルと連名で、ゼウス神からも書状を受け取ったのよ。内密に、と書いとったが主本人と話すなら構わんじゃろ」 「キザ男から? うわぁ、あいつ口軽いね。他には漏らせない話だって言ってたのに」 「うむ、ヘラも似たような事を言うじゃろうな。主らは気質の相性がええんじゃろう、サラカエルとも上手くやれとるように見えるしの」 「サラカエルと俺が? そうかなあ、どっちかっていうと嫌みばっかり言われてる気がするんだけど」 ケイロンは派手に笑った。作物の間を器用に通り抜け、またしてもあのイチゴ畑の前に立つ。予想通り、赤い実は次々にもがれていった。 「あやつは見た目と言動に反して小心者でのー。ついでに言うと寂しがりで堅物で、ワシャ、よう胃に穴を開けないもんだと感心しとるわ」 「うわぁ、昔王都の新聞に載ってた、早食い大食い選手権のアレみたいな食べっぷりだー」 摘んでは口に入れ、摘んでは口に入れ、を繰り返す医師の早技に半ば感動していると、大粒のものを一つ放られる。 慌てて受け止め、ニゼルは真っ赤なそれをしげしげと見つめた。照りよく、鮮やかで、見るからに――実際に美味だったそれだ。 ちらと視線を送ると、遠慮するなとばかりに手が振られる。一口で食べきろうと努めてみるも、やはり半分ほどを収めるのが限度だった。 「ヘラはの、新世代でありながらワシらのような魔獣にも分け隔てなく接すると、有名な神じゃった。養育された場が良かったんじゃろう。 偏見や恐れを理解に変え、何にでも挑む娘じゃったよ。あやつは変わる事を恐れなかった。ウリエル達とは正反対の気質とも言えような」 「……それは、分かる気がするな。藍夜って、平々凡々とか、そういう暮らしが好きそうだし」 「かつてのヘラの別邸がそうじゃったからのー。ニゲラの事もそうよ、変わらず変えず、付かず離れずでまどろっこしいったらなかったわ。 ヘラもやきもきしとったようじゃが、ある意味図太く、寛容じゃったからの。自分の……サラカエルとの事もあったからかもしれんがの。 皮肉なもんよ、ラグナロクが起きて初めて自分の落ち度に気付いたようなもんじゃ。ウリエルだけでなく、サラカエルも、ゼウス神もの」 ヘラとサラカエルの関係は、ケイロンにはばればれだったのだと宣告される。ニゼルは、自分の事でもないのに顔から火が出る思いだった。 俯いていた視界の端に、ひらりと柔らかな色が降る。花弁だ、見上げた先、イチゴ畑を見守るような位置に立派な桜が植えられていた。 アンの髪の色だ……木漏れ日がちらちらと揺れ、薄紅の隙間に白金色の光を落としている。ニゼルは目を細めて、儚げな香りを吸い込んだ。 今、自分がどんな顔をしているのか想像も出来ない。もしかしたら、この五感でさえヘラと共有し始めているのかもしれない。 ニゼルは、小さく苦笑しながら残りのイチゴに齧りつく。甘酸っぱい、意識しなければあっという間に消えてしまう、繊細な味わいがした。 「仕方がなかった事なんだって。誰かが死んで、その代わりに誰かが否応なしに生き延びてしまうのは」 「うむ?」 「サラカエルがね、俺と藍夜の故郷が魔王に滅ぼされた時に、そう言ったんだ。ねえケイロン、サラカエルはさ、本当に寂しがりなんだね」 「……うむ、そうじゃろうのう」 ヒトも、魔獣も、神獣も。天使も、神々が創造した世界でさえ。色を変え、儚い光を放ち、微かな残り香を残して、何時か終わりを迎える。 自分もそうなのだろう、ヘラを解き放つ事は、自分の命と引き替えに殺戮の天使の心を救ってやる行為そのものに、違いないのだ。 「暁橙、藍夜……間違って人間に生まれちゃったウリエルの弟は、ウリエルが死にそうになった時、迷いもしないで庇って死んだんだって。 凄いよね、俺はそこまで勇気ないよ……でも、死ぬのは怖いけどさ、そういう事じゃないんだよね。サラカエルは、泣いたりしないかな」 案じている、祈っている、他の誰でもない、自分にとって宝に等しい者達の全てをだ。今自分は笑っている、そんな気がした。 「泣いたりはせんだろうが、気を遣ってやらんと、ネチネチやられるかもしれんのー。ああ、ウリエルには黙っといた方がええじゃろうの」 「あー、うん。藍夜はねー……怒り狂って妨害してきそうだし。俺の覚悟をなんだと思ってるのー、みたいな?」 「うむ、あの子は、あんな性格しとらんかった筈なんじゃがのー。もっとこう、気弱での……ま、それだけ、主に気を許しておるのだろ」 愛されとるの、カラカラと気持ちのいい声で笑われ、やめてよー恥ずかしいなー、からかいなのか楽しまれたのか分からずに赤面する。 イチゴのへたをどうするか悩んでいると、医師はニゼルの手からそれをひょいと奪い、そーれとばかりに畑の中へ放ってしまった。 「ニゼル。ヘラはワシの呑み仲間であり、友じゃった。よう、あの子らの話をしたもんじゃ。主の亡骸も、手厚く弔ってくれるじゃろう」 「辛気くさいの、苦手だなあ。いいんだ、すっごく長生きしちゃったから、きっと星か煙になれると思う。痛くなかったら、何でもいいや」 覚悟なら、出来ていたつもりだったのだ。 ケイロンが自分を呼んだのは、畑仕事を手伝わせる為ではなく、その意思が本当に確かなものか、確認する為だったのだろう。 後悔などするわけがない、ニゼルは医師に強く頷き返した。こんなに綺麗な色彩に囲まれた場所ならば、神獣達の体調にも良い筈だ。 ヘラを埋め込まれた事で、たくさんの縁に結ばれる事が出来た……それを思うだけで、悲哀よりもわくわくとした喜びが湧いてくる。 「ケイロン。藍夜とサラカエル、それと出来れば琥珀達の事、宜しくね。皆して全然、口先ばっかりだから」 「うむ。任されよう、主も元気での。きっと、良い旅路になるじゃろう」 これは、決して悲しみを辿る為の道ではない。自分が生きた証、生かされた証を残す為の、旅立ちの道だ。喜びに繋げる、生命の燃焼だ。 不確かな闇に灯を点すように、不安定な暗がりを振り払うように、白昼の中、確かに笑った。手を伸ばし、無骨な手のひらと握手する。 心は決まった。あとはキザ男を待つだけだ――視界を眩く燃やす春の陽光を見上げる。涙を落とさないよう、ぼんやりと両目を細めた。 |
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