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楽園のおはなし (2-41)

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「眠れないのかい?」

予想通り、屋根裏部屋に引っ込んだ対天使は、眠りもせずに起きていた。簡素な家具を部屋の中央に掻き集め、薬の調合に勤しんでいる。
それはなんだい、反射で尋ねてみるも、「眼」で視れば分かるのじゃないかな、とはぐらかされた。肩を竦め、机を挟んで彼と向かい合う。

「やあ、あの間抜けの寝相はそこまで悪いのかな、ウリエル。いや、鳥羽藍夜と呼ぶべきかもしれないね、この場合」
「僕は、ニゼルよりも自分の寝相の方が気に掛かるところだよ、サラカエル。君まで無理に古い名で呼ばなくとも、問題ないさ」

今代のウリエル、「藍夜」は小さく嘆息した。悩み事かい、サラカエルは見越していたように紅茶を差し出してくる。
短く礼を言って一口味わった後で、やはり僕にはハーブティーの方が合っている、と藍夜は胸中で独白した。
勧められるままに椅子に腰を下ろし、殺戮の調合術を黙って見守る。話したい事があるんだろ、微かな笑みに促され、藍夜は小さく頷いた。

「告知というのも厄介なものだね。残留する事が定められた記憶がいっぺんに頭に流れてくるから、だいぶん混乱しているよ」
「ま、ガブリエルの仕事だからね。捕まるのが趣味みたいな天使だし、どこかしら抜けているんだろ」
「よしたまえよ。どこで聞かれているか、分からないじゃないか」
「聞かれたところで痛くも痒くもないからね」

すり鉢で粉末状にしたものを、丁寧に量りながら混ぜ合わせる。サラカエルの仕事という事は、中身は毒薬だろうなと藍夜は目星をつけた。

「様々な事を思い出したよ。君と初めて顔を合わせた日の事、ニゲラの事、ヘラ様の屋敷での暮らしに……ニゼルや、ヤコブの家族の事も」
「ふん。それで?」
「サラカエル。『ミリアム』はどうしたんだい」

ほんの一瞬、空気に緊張が走る。殺戮は、視線を手元に落としたまますぐに作業を再開させていた。

「どうしたって、何の話かな」
「話を反らさないでくれたまえよ。『眼』で、視たんだ。あの日、何があったのか。話してくれてもいいんじゃないのかい」
「ふん。ヤコブが着けていた天使除けの護符を、早急に無効化する必要があったからね。加護を打ち消すには術者を封じてやるのが一番さ」
「……だから、殺してしまったのかい。彼女が望んだわけでもない事なのに」
「僕の銘を忘れたわけじゃないだろ。その口振りからするとヤコブの記憶もあるようだし、恨みたいなら恨めばいいさ」

もしニゼルがこの場にいれば、「その言い方は卑怯だ」と真っ向から噛みつきそうだな、と考えて藍夜は口を閉じる。
生憎、自分はそこまで口達者な性格でもない。サラカエルの繊細な手つきを見ながら、我知らず深い溜め息を吐いていた。

「彼女は、ミリアムは、恐らく悪魔か堕天使と多重契約を交わしていた。行き着く先は、悲惨な死のみだったろう。サラカエル、君は……」
「僕は『殺戮』だよ、ウリエル。最も天使らしからぬ天使として名が知られているくらいだ、悪いけど、慈悲でしてやったわけじゃない」

早口でまくし立てると、殺戮は薬を透明な小瓶に移し替える。表面に何かのラベルを貼り、革製の小袋に詰めて素早く懐に滑り込ませた。
顔を上げた時、サラカエルは彼にしては珍しいほど大きく、深い溜息を吐いてみせる。表情に怒りのようなものが見え、藍夜は口を閉じた。

「僕達は良くも悪くも天使だ、本分は果たさなければならないだろ。君だって『審判官』だ、告知を受けた後ならなおさらさ」
「サラカエル……怒って、いるのかい」
「まさか。ただ、天使として在るならいつ審判を起こせと命令が下るか分からないから、心積もりはしておいた方がいいと思ってね」
「そこは分かっているとも。僕はただ、せめて彼女の弔いくらいはしたかったと、」
「覚醒したてで寝ぼけているのかな。あの時、君の身柄を確保しようと、天使に、あの魔王ですら居合わせたんだ。そんな暇なかった筈さ」

やはり怒っているのではないか、藍夜はその一言を発する事が出来ない。俯きがちになった対天使の前に、殺戮は一冊の手帳を差し出す。
机の上に置かれたそれ。黒い革張りの、古びた手帳。藍夜は、その使い込まれた様子の手帳に見覚えがあった。
思わず手に取り、開きもせずにまじまじと見つめていると、対天使が小さく失笑したのが聞こえる。
サラカエルは常のように首を傾げていた。彼は、今は笑ってくれている。

「君のだろ。あの間抜けが五月蠅いから、とっておいたんだよ」

ニゼルが? 聞き返すより早く、藍夜は体に染み着いた感覚を頼りに手帳を開いていた。
懐かしくてたまらない……鳥羽藍夜の時代に、日記やオフィキリナスの経営状況を書き込んでいた愛用の手帳である。
目を細めながらページをめくっていると、ふと手帳の中ほどに挟み込まれていた羽根ペンが、するりと床に落ちてしまった。
拾ってみると、銀に艶めく三つ編み状の手芸品が、器用に羽根ペンに結んであるのに気がつく。そういえばと、それを手に取って見つめた。

「サラカエル。手帳もそうだが、わざわざ僕の為に保管しておいてくれたのかい」
「あの間抜けが五月蠅いから、仕方なくだよ」
「シルバーウルフの護符、これはニゼルの手製だろう。綺麗に整えてあるが、定期的に手入れをしてくれていたのじゃないのかい」
「……気のせいさ」
「気のせい、で片付く話ではないと思うのだがね。アルジル羊と違って、彼らの毛は汚れやすかった筈さ。加護もまだ生きているようだし」
「やあ、そんな事よりウリエル。中身、悪戯書きでもされていないか、きちんと目を通しておいた方がいいと思うんだけどね」

居たたまれなくなったのか、殺戮は調合器具を慌ただしく片付け始める。君も不器用なものだね、藍夜は微かに微笑んだ。
サラカエルは、自分――鳥羽藍夜の我が儘にずっとつきあってくれていたのだと、改めて思い知る。
ニゼルを護り、自分を探し、双方の傍に寄り添って長い旅路を共に歩いてくれていた。どれほどの間、再会を待たせてしまっていただろう。
彼は、自分の想像以上にこちらを気遣っていたのに違いない。それでいて天使の役目も果たしているのだから、感動すら覚えてしまう。

(ミリアム……いや、『お袋』。さようなら、どうか……来世でも、お元気で)

二度も肉親を亡くし、最愛のニゲラさえ護る事が叶わなかった。しかし、思い返せば自分には陰ながら支えてくれる心強い仲間が傍にいる。
そんな幸せな事を忘れてしまっていたのだ、自分は疫病神で、親不孝者なのだと。それは、如何に彼らに対して失礼な想いだっただろう。
二度と、喪失したりしない。今度こそ自分が、彼らを護り抜いてみせる……頭を振り、覚悟を決めた。

「ありがとう、サラカエル。迷惑を掛けてばかりですまなかったね。これからは君とずっと一緒だ……不甲斐ないだろうが、宜しく頼むよ」
「今更。恥ずかしい事を言っていないで、今からでも少しは間抜けや騎獣の躾をきちんとつけておいて欲しいもんだよ、ウリエル」

藍夜は声を出して笑った。彼お得意の嫌みが、ついに自分にも飛ばされたのだ。鳥羽藍夜の生を介して、彼とはより親密になれた気がする。
何を笑っているんだか、対天使は鼻を鳴らしてきびすを返した。そのまま紅茶を淹れ直し、わざとらしくこちらを無視して飲み始める。
君も大概なものだね、口には出さず、冷めきった紅茶を口に運んだ。兄弟子にも美味いと絶賛される茶は、今も上品な香を立て続けている。






「くわぁ〜……あ、そうだ。ここ、どこだったか分かんないんだっけ」

一夜明け。カーテン越しの外の空気は、まだ冷たく薄暗い。隣で爆睡する親友の頭を軽く撫でてから、ニゼルはのそりと寝具を抜け出した。
今代のウリエルは、ヤコブの肉体がベースにされている。並んで寝た際、彼の頭が鳥羽藍夜より高い位置にある事に戸惑ってしまった。
うーん、一度唸ってから、水差しの中身をグラスに開けて飲み干す。近くで汲まれたものなのか、水はとにかく冷たく、透き通る味がした。

(アンは、もう起きてるかな? 山の中かー、流石に勝手に出歩いたらまずいよね)

アンブロシアがサラカエルの指示で繋いだという山小屋。いくらなんでも早起きすぎたのか、鳥のさえずり一つ聞こえてこない。
すっかり醒めてしまった目をこすりながら、オフィキリナス程度の広さしかない廊下を、とぼとぼと歩く。
せめて時間だけは知っておきたいなと、昨日、告知待ちの際に皆で集まっていたリビングに顔を出してみた。あいにく、誰の姿も見えない。

「……えっと、こういう時は台所に、」
「やあ。アクラシエルなら、まだ夢の中だよ」
「うわぁっ、んもがっ!」

こういった誰もが寝静まっている時間は、見回りと称した殺戮の天使がうろつくか、台所で一人飯をしているかのどちらかだ。
そう踏んで居間から出ようとした、正にその時。ニゼルは、背後から音もなく伸ばされた手で口を塞がれ、目を白黒させてしまう。

「んむ、ふぁらふぁへふっ」
「静かに……って、どこかで見たようなシチュエーションだな、これ」

見たような、というよりは最早、自分が早起きした際の恒例行事みたいなものだ――ニゼルは目だけで、背後の天使に振り返る。
思ったより早く、サラカエルはすんなり手を離してくれた。首を傾げ、自分の言葉を待っている。彼はどこか、疲れたような顔をしていた。

「おはよう、サラカエル。今朝はもうご飯食べたの?」
「そうでもないかな。少し、見回りをね。またいつ、魔王やミカエルが来るか分からないから」
「うーん、それなんだけど、藍夜への告知は終わってるわけでしょ? しばらくは、様子見に徹するんじゃないかなあ」
「へえ、その根拠は?」

殺戮は、僅かに語尾をつり上げる。何やら挑戦的だなあと、ニゼルは愛想笑いを返した。

「根拠って言われると困るんだけど……なんとなく? 覚醒したら高位天使になってるわけだし、連れ去りにくいんじゃない?」
「やあ、答えになってない珍回答だね」
「うっ、朝から嫌みくさいなー。でもほら、そこまで緊張しなくても、アンが結界張ってくれてるんでしょ? 少しくらい息抜きしたら?」

何ならサンドイッチ作ってあげるよ、笑い返そうとした瞬間、ニゼルは天使に引き寄せられる。上げかけた悲鳴は手で封じられてしまった。
何事、混乱しながら視線を走らせると、視界の端に見知った姿を見つけた。手のひらに声を塞がられる以前に、言葉をなくしてしまう。
ニゼルは、忙しなく瞬きをした。深々と頭を下げる金緑の髪と、その横、ふてぶてしい構えでこちらを見つめる二人の男。
結界が張ってある筈なのに、どうして……羊飼いの疑問に続くように、サラカエルが深い溜め息を吐く。

「はあ……お久しぶりです、先生。それに、ゼウス様」
「ほう、わたしよりラファエルの名を先に出すとは。少しばかり信仰心が足りていないのではないか、殺戮」
「こら、サラカエル。申し訳ありません、ゼウス様。それと、お久しぶりです、ニゼルさん」
「……ンー、んむー」
「殺戮、ニゼル君を離してやるといい。わたしも他に聞かれたくない話を持ってきたのだ。『話がある』と、前に言付けた事があったろう」

そろりと手を離した殺戮ともども、羊飼いは思わず彼と目を見合わせた。着いてこい、そう言わんばかりに歩き出した大神の背を追う。

(……あれ? 『器』、変わってる)

違和感があった。ニゼルは、先行くゼウスの肉体がインディコール=グレイスのものではない事に、部屋に招かれる最中ようやく気がつく。
見た事もない若い男。インディコールと似た面立ちの美しい青年だった。大神が器を支配している為か、瞳が黒み掛かった青色をしている。
身勝手だ、そう思った直後、ゼウスはラファエルに目の前の扉を開けるよう指示した。室内は暗く、すぐに治癒の天使が灯を点してくれる。

「ここって?」
「客間として使われていたようだ。さて、ニゼル君。座るといい、長い話になるやもしれないのでね」

座るよう促され、大人しくソファに腰を降ろしてみたが、サラカエルの方は横に立ったまま背後で手を組んだだけで微動だにしない。
彼が大神を毛嫌いしている事は、長いつきあいながらなんとなく感じ取れていた。深くは追求せず、ニゼルは話を始めるよう大神に促す。

「ほう、殺戮。ずいぶんとニゼル君と親しくなったようだな」
「……」
「えっと……サラカエル?」
「……聞こえているよ。それで、ゼウス様。この間抜けに話とは、一体なんでしょう」

敵意が隠しきれていない。
ニゼルは慌てて天使の太ももを二、三度叩いてやり、落ち着けと目で諭した。サラカエルは片眉を上げてこれを見下ろし、首を傾げる。
ぴりぴりとした空気が和らいだ。ほっと大きく息を吐き、ゼウスの次の言葉を待つ。大神は、愉快愉快、とばかりに笑っていた。

「いや、失礼。ふむ……何から話をするべきか」
「あのさ、藍夜が起きてきたら黙ってないと思うんだけど。早くしてくれない?」
「君ね……僕には注意したくせに、自分は何の我慢もしてないじゃないか」
「へへ!」
「ふ、まあ構わないとも。そうだな、では手短に済ませるとしようか。本題から話すとしよう」

「本題」。その言葉には、何らかの意図を思わせる、強い語気が滲んでいる。
ニゼルははっとしてゼウスの顔を見た。大神は、双眸を細め、冷徹な表情を浮かべている。

「ニゼル=アルジル。君の肉体の深層には、赤い豹カマエルによって地母神ヘラのロードが埋め込まれている。我々は、それを回収したい」

何を言われているのか、ニゼルには分からなかった。同様と困惑が同時に押し寄せ、困り果て、思わず隣の天使に目線を送る。
ニゼルは言葉を呑んだ。サラカエルは、一切の感情を削ぎ落とした顔でその場に佇む。動かず、騒がず、ただ口を一文字に結んでいた。
しかし、自分には手に取るように彼の考えている事が解読出来る。勝手だ、変わっていない――大神への呆れと失望といった感情だ。
この十数年、否、数十年もの間、接触してこなかったというのにこんな話を持ち出して、ゼウスは協力を得られると思っていたのだろうか。

(『本当に、自分本位の愚弟だな。気持ちは分かるぞ、おチビ』)

その感覚が、はたして彼に友愛を感じるニゼルのものなのか、それとも親愛を抱くヘラのものなのか……一瞬にして分からなくなった。
今、確かな事はただひとつ。殺戮の天使は今、強烈な怒りと焦燥に身を焼いている……頭を切り替え、ニゼルは大神に向き直った。

「うん、いきなりそんな話されても。はあ? って感じなんですけど」
「気持ちは分かるよ、ニゼル君。しかし、わたしは至って真面目だ。冗談などでこのような話、出来る筈がない」
「本当、なんですか。今のお話は」
「言葉を慎め、殺戮。わたしは今、ニゼル君と話をしているのだぞ。お前が……個人的に困る、という感情なら、多少理解出来るがな」
「……!」

一睨みされた直後、サラカエルは表情を強張らせて身を固くする。ニゼルは咄嗟に彼を庇うようにして、彼の体の前に手を広げて伸ばした。

「ふ、そうきたか……まあいい。ニゼル君、話を続けても構わないかね」
「……したいなら、勝手にすれば? 今の聞いた感じじゃ、しょうもない話みたいだけどね」
「ふ、君は本当に……いや、今はそれどころではなかったな。さて、どこから話したものか……そうだな――」

――ニゼルは、ラファエルが微かに表情を曇らせたのを見逃さない。しかし、今は治癒の天使を気遣っている余裕もない。
以降の大神の話が、あまりにも現実離れしていた為だ。整った笑みを顔面に貼りつけ、ゼウスはすらすらと続きの言葉を発する。

「我々、オリンポスの十二の柱……かつて天上界を治めていた神々は、天使カマエルの手によりロードへ変えられ、長きに渡り封じられた。
 前に話したが、奴は我々以前の世代である古の神に傾倒していてね。恐らく、我々をロードに変換する事で、支配復権を企てたのだろう。
 だが、同時期に発生したラグナロクによって計画は途中頓挫……我々はロードという遺物の姿のまま、下界に落ちる事になってしまった」
「……カマエルは、キザ男達をロード化した後で回収しなかったって事?」
「もう話に追いついたか……カマエルもまた、ラグナロクによって実験を中断するより他なかったのだろう。回収出来なかった、が正解か。
 無論、中には実験途中の神もいた……わたしの力の具現、肉体としての資質は、トバアイヤ所持の雷霆に切り離されていたというわけだ」

ニゼルは、親友がよく振り回していた高位神具の形を思い出した。ただの通称かと思いきや、「雷神の」というのは真の名であったらしい。

「そっか。藍夜が持ってた雷神の雷霆って、本当にゼウスの力そのものだったんだね」
「ふ、ミカエルに伝えられた時は驚いたがね……さておき、ロード精製は赤い豹にとって大々的実験だった、ラグナロク後も続いたからね。
 わたしよりも悲惨なのは、ヘラだった。彼女はロードと人間の融合化……カマエル独自の実験の要として、奴の手のうちにあったのだよ」
「え? 融合化って……」
「自覚がなかったわけではあるまい? 人間とロード、つまり、ヒトと神を交配抜きで交わらせた場合、何が起こるか。下らん実験だろう。
 君はその被検体として、ヘラともども選ばれてしまったのだよ。トバアイヤに飲ませる為の水汲み、即ち……冥府の河に向かう道中でね」

ふと、ラファエルが淹れた香草茶が運ばれてくる。気楽に飲み始める大神を前に、ニゼルはくらくらと目眩がする思いだった。
カマエルを初めて見たとき、不思議な既視感があると思っていたのだ。実験……まさかあのとき、そんな事が自分の身に起きていようとは。
黙り込むニゼルを余所に、紅茶にしてくれ、とゼウスは治癒の天使にカップを戻す。彼は変わらず、自信に満ち溢れた振る舞いだった。
一瞬、躊躇うように固まったラファエルだったが、彼はすぐに頭を下げて戻っていく。冷ややかな目を投げた後、大神は視線を前に戻した。

「実験は成功した。ヘラは君の中に定着し、君の寿命を延ばし、魔力を底上げし、中級ロード程度なら君一人で使いこなせるにまで至った。
 しかしだ、我々の調査によれば、カマエルは実験を次の段階に進めようとしている。つまり、融合化を果たした個体の分離、解体作業だ。
 これを強引に進めてしまえば、互いの生命の根幹や魔力が反発し合い、どちらも消滅する事になるだろう。君だけでなく、ヘラも同様に」

ガタン、と大きな物音が響く。同時にニゼルは左肩に強い痛みを覚え、はっと顔を上げた。
サラカエルだ。苦悶と悲哀、言葉に表しようのない悲痛な叫びを抑えるような決死の表情を顔に浮かべ、身を前に乗り出している。
耐えられない、そんな馬鹿な話がある筈がない、あまりにも惨すぎる――冷静さを欠いた彼の、あまりにも珍しい変貌だった。

(ああ、そっか。サラカエルは、本当にヘラの事が好きなんだ)

顔を伏せれば、乾いた笑いが口から漏れる。ニゼルは、話を聞く限り、もしかしたら「そう」ではないのかとあらかじめ予想を立てていた。
彼のふとした仕草や言動に、逐一高まる鼓動がその証拠だと……それなのに、本当に、その予想は当たってしまっていたのだ。
「殺戮の天使は、地母神ヘラをひとりの女性として愛している」。しかも、今、彼の最愛のひとは自分の中に埋め込まれているという。
あれほど彼は血眼になって彼のひとを捜していたというのに、こんな皮肉な話があるだろうか。ニゼルは胸が張り裂けるような思いだった。
自分の中に、見知らぬ栗色の髪の女がいる事には早くから気がついていたのに。もっと早く、それを打ち明けていればよかったのか。

(あのひとが、ヘラだったんだ。凄く綺麗なひとだったし、もしかして何かの神様かなー、なんて思ってたのに……)

……頭を振る。どのみち、それを口にしたところでサラカエルの想いは報われない。彼女は、ヘラは、今も変わらずゼウスの妻なのだ。
顔色を窺うように、天使を見上げた。静かにこちらを見返した殺戮は、ばつの悪い顔で、やっと肩から手を外してくれる。

「どうだ、重い話だろう。そこでだ、ニゼル君、殺戮。我々は、カマエルが見失った『ロード化したヘラの残骸』を見つける事に成功した。
 そこに赴きロードを器に返還すれば、少なくとも彼女は復活を果たす事が出来る。代わりにニゼル君、君は寿命を精算する事になるがね」
「……寿命を、精算? それってつまり、」
「端的に言えば、死ぬ、という事だ。トバアイヤ同様、君もヘラのロードの力を受け、肉体が不老不死と化し、ロード使いにもなれていた。
 ヘラを本来の器に戻す事でそれを無効化し、本来の君の生存可能年数へ換算する。当然、君は消滅するだろう。それが寿命というものだ」

神とヒトは共存出来ない。大神は言外にそう宣告し、ヘラを返せ、とニゼルに訴えた。
どうしよう、どうしたら……回らない頭で混乱に振り回されながら、ニゼルは無意識にサラカエルの顔を見上げる。
同時に言葉を呑んだ……彼は、これまで一度もこちらに見せた事のない、悲しみに暮れた表情を滲ませている。ニゼルは愕然とした。

(ああ……こんな事は、ない。こんな顔をさせたくて、「俺」は『わたし』は、「君」と『お前』と共にいたわけじゃないのに)

……ばらばらに散らばったパズル。味がいまひとつ定まらない煮込み料理。仕上げの一色が決まらない描きかけの絵画、未研磨の宝石。
それらが不意に、神がかった閃きで完成に至るように……ニゼルはふとサラカエルから視線を外し、ゼウスに静かに微笑みかけた。

「いいよ。その場所教えて。ただし、俺がヘラに器を返したら、ヘラ自身の話に耳を貸す事が条件。天上界にすぐ戻れーとか、論外だから」
「!? なっ、何……何を言い出すんだ、この馬鹿、間抜け! 自分が何を言っているのかっ、」
「承知した、約束は果たそう。では、そちらの心積もりも用意もあるだろうから、二、三日待つとしよう。時が来たら、ミカエルを遣わす」
「ラファエル、今の言質ね。いいよー、あ、でも俺死ぬのか。痛かったら嫌だなー」
「ばっ、」
「……ふ、君には適わんな。では、後ほど。ニゼル君、英断に感謝するよ」
「……! ま、待っ、」

サラカエルが胸ぐらを掴んでくる。これは初体験だ、そう考え、瞬時に「今のはヘラの感覚だ」とニゼルは一人頷いた。
乱暴に突き飛ばされ、ソファに身を沈める。瞬きを繰り返すニゼルを見下ろし、殺戮は珍しく兄弟子を見送りもせずに声を荒げた。

「君は馬鹿か、間抜け以上の間抜けだ! 死ぬんだぞ、死んでしまうんだぞ!! 分かってるのか!?」
「……えっと……サラカエル、ゼウスもラファエルも帰っちゃったけど、見送りとか、」
「はっ、馬鹿か、馬鹿だったな! ああ、忘れてたよ、君は本当に大馬鹿者だ! せっかくウリエルが鳥羽藍夜として帰ってきたのに!!」
「うーん。あんまり大きい声出さないでくれる? 藍夜が起きちゃうよ」
「ふん、怒られたらいいさ、君みたいなのは!」
「……サラカエル」

手を伸ばし、夜色の髪を撫で、指で梳く。天使は、今にも泣き出しそうな顔でこちらを見た。
もしかしたら友達になれたのかな、ニゼルはその一言を口にしない。微笑みかければ、二色の瞳が悲哀に揺れる。

「ここまでヘラの力でズルしてきちゃったようなものだし。自分でも長生きだなーって思ってたけどさ。なら、ちゃんと返してあげないと」
「……君は、馬鹿だ」
「あれっ、間抜け呼びじゃないんだ……うん。ね、サラカエルも逢いたいでしょ? それに、人間は自然の摂理に反しちゃいけないんだよ」
「……本当に……大馬鹿者だ」
「うーん……俺も、今ならそう思うよ。でも、こればっかりはね」

親友は、一度は土に還り、またここに戻ってきてくれた。自分もそうなのだ、終わりにしなければ、新たな始まりは芽吹いてくれない。
自分はこのときをずっと待っていたのかもしれないと、ニゼルは思う。ゼウスの話を聞いたとき、心は不思議と穏やかだった。
自然な事だ、当たり前の決まり事、運命、宿命。何より、大切な友人の悲願を絶つ事など、自分には出来そうにない。
羊飼いは改めて、目の前の天使の頭を優しく撫でる。サラカエルは目を見開いた。夜と黒に、柔らかな青年の笑みが映っている。

「もう、終わらせなきゃね」

カーテンの隙間から、一筋の光が射し込んだ。夜が明ける、また白昼がやってくる。やおら立ち上がり、思いきりカーテンを開いた。
目映い金と紅の色彩が、赤紫の瞳を艶やかに塗り替えていく。ニゼルは、振り返ってサラカエルに笑いかけた。新たな旅の始まりだ、と。





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 UP:19/04/20