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楽園のおはなし (2-39)

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……時間は少々、遡る。

誰かに名を呼ばれた気がして、暗闇を振り払った。かっと目を見開き、ニゼルは不自然なまでにはっきりとした目覚めに戸惑う。
緩慢な動きで起き上がり、壁時計を見てまだ夜明け前であると知った。暖かな季節の筈なのに、どこか空気が冷えているように感じる。
ふと首を回すと、同室のサラカエルの姿が見えない。どこに行ったんだろう、誰にともなく呟いて、ニゼルは彼を探すべく静かに宿を出た。

「アンは……まだ寝てるか。流石に起こしたら可哀想だよね」

窓越しに、台所に灯が点いていない事を確認してから表通りを北に進む。このまま街外れを目指せば、ヤコブの家に着く筈だった。
ちゃらちゃらと護符を揺らしながら、朝もやの中をぶらぶらする。その実、殺戮探しを本気でするつもりなど端からなかった。
彼が思い立ったように旅仲間の輪から外れるのは、彼の本業――殺戮、ないし拷問作業に勤しむ用事がある時だろうとニゼルは踏んでいる。
「人間の分際で天使に気遣いとはね」、相も変わらずの嫌みが、すぐ近くから聞こえたような気がした。

「……っあ、あれっ?」

ふと立ち止まる。サラカエルの不機嫌そうな顔を想像して苦笑いしていたニゼルの横を、何者かが無言で通り過ぎて行った。
流れる黒色、すれ違いざまの人好きのする笑み……いつの日か邂逅した、黒塗りの魔王そのひとだ。
たまらず勢いよく振り向いたニゼルは、視線の先、魔王とはまるで無縁であろう人物の姿を見て、目を瞬かせる。

「おっ、おばあちゃん! あのっ、今、すっごく格好いいひとがこっちに来なかった!?」

善き羊飼いの街に着いて早々、食料の買い出しの際にアンブロシアともども親しくなった、ハーブ売りの老婆ミモザだった。
何故か彼女は、軒先に並べたばかりの朝摘みの香草を、わざわざ籠に戻し始めている。見慣れた青灰の眼が、ニゼルを見上げて微笑んだ。

「あらあ、まあ、まあ、ニゼルさん。ずいぶんと早起きなのねえ」
「えっ、あ、うん、まあね! ミモザおばあちゃん、さっきの黒髪のひとは……」
「黒髪の? ああ、さっき店に来た人ね。ずいぶん素敵な人で、あたし、こんな歳でときめいちゃったわあ。ニゼルさんのお知り合い?」
「うっ、ま、まあ、そんなとこかな? あの、何か言ってなかった? ……何もされてない?」

間延びした声が特徴的なこの老婆は、柔らかな普段の表情を、更に柔らかいものにする。頬をほんのりと染め、嬉しそうにはにかんだ。

「あの人ねえ、あたしのハーブを褒めてくれたの。帝都にいるうちの息子なんかより、うーんとハーブの事を分かっているみたいだったわ。
 それにとても不思議な事を言うの。あたしは息子のお嫁さんと気が合わなくて、この街に来たんだけど、今日、二人が迎えに来るよって」
「迎えに!? 息子さん達が、これからここに来るって? 本当にそう言ったの?」
「ええ、そうなのよ。悪戯であたしを担いだんだと思うけど……早く荷造りをした方がいいって。嘘だと分かっているけど、嬉しくてねえ」

ミモザのハーブが素晴らしい品質を誇る事は、真珠やシリウスの食の進み、アンブロシアの料理の出来映えから、明確に証明されている。
魔王は、どういった意図でこの老婆に期待を持たせるような真似をしたのだろう。真意が読めず、ニゼルはミモザに愛想笑いを返した。
……刹那、朝の静けさを掻き消す、無粋な車輪の音が響き渡る。驚いて振り向いたニゼルは、一台の馬車がこちらに疾駆してくる様を見た。

「――母さん!! 探したよ、やっぱりここにいたのか!」

ミモザの店の前で荒々しく停まった馬車から、若い男が飛び出してくる。よくよく見れば、瞳の色がミモザの青灰と全く同じだった。

「あら、あらあら、ねえ、ニゼルさん。これ、あたしの息子よ。帝都で、お嫁さんのお洒落なお店を手伝っている筈なの」
「え、あっ、うん……なんとなく面影があるから、そうじゃないかなーって。本当に、迎えに来たんだね……」

ニゼルもミモザも、驚いて若者を出迎える。ミモザの息子は興奮しているのか、言葉にならない声をまくし立て、実母の目を白黒させた。
そんな中、彼に続いてもう一人、別の人間が馬車から颯爽と降りてくる。長い金色の髪を優美に揺らす、とびきりの美女だ――

「あなた。そんなに狼狽えて、みっともないわ。お願いだから下がっていて」

――とんでもなく偉そうな物言いに、ニゼルは思わずぽかんと口を開けきった。隣から、ミモザの「息子のお嫁さんよ」との注釈が入る。
言われると同時、ミモザの息子はすごすごと引き下がっていった。ぼんやりと美女を見上げ、ミモザは居心地悪そうに身じろぎしている。
嫁姑争いだ、一触即発の空気に、ニゼルは間に入るかどうか躊躇したが、彼が二人の女性に声を掛けるより早く美女の方が動いていた。

「お義母さん! 探しましたよ。どうか、どうか私達と帝都に戻って下さい!」
「!?」
「……あら、まあ、まあ。でもねえ……こんな何のとりえもない年寄りなんかが一緒にいたって、」
「いいえ! 私のハーバリウムにもフレグランスにも、お義母さんのものが一番よく馴染むんです! 他の業者の物なんて、使えません!!」
「えっ、ええ? えっとー……ミモザおばあちゃん?」

嫁側は非礼を詫びるかのように、腰から上をしっかり直角に曲げて、深々と頭を下げている。ミモザは、困ったような顔で苦笑していた。
ハーバリウム、フレグランス……どれもよく知らない単語だが、ハーブを原料とする帝都で流行りの品だろうとニゼルは予想する。
美女の服も装飾品も、爪の先端まで、どれもが色とりどりに飾りたてられていた。夫の衣服からして、彼女自身の稼ぎだろうと見て取れる。
予想が的中していたのか、腰に釣り銭の束や大量のメモを下げる――仕入れ担当と思わしきミモザの息子は、うんうんと何度も頷いていた。
他人事じゃないでしょう! 妻の叱責、ついでに背中にフルスイングの張り手が飛ぶ。あまりの大音に、ニゼルは肩を跳ね上げていた。

「こんな年寄りの育てたものなんて、帝都住まいのお嬢さん方に申し訳立たないわあ。あたしには、田舎での暮らしの方が……」
「お義母さん! またそんな卑下して、私はお義母さんといたいのに……私の両親は鬼籍だから……結婚する時らそう言ったじゃないですか」
「でも……あたしなんかが若い夫婦の邪魔をするわけには、」
「駄目です、私と来て下さい。私、お義母さんのハーブも、お義母さんの手料理の味も、何もかも忘れられないんです。お願いします!」
「まあ、お嫁さん……」
「そんな他人行儀な。どうか、リラと呼んで下さい。お義母さん」
「リ、リラ、さん? いやだ、なんだか照れるわねえ」
「お義母さんっ!」

「なんだこの親子劇場」。ニゼルはミモザの息子ともども取り残され、目の前でひっしと熱く包容を交わす二人をただ呆然と見つめる。
俺の立場って……夫側が泣き言を呟いた瞬間、羊飼いはようやくはたと我に返る事が出来た。こんな事をしている場合ではないのだ。

「ミモザおばあちゃん、これからしばらく、天気が崩れるっていうんだ。嵐が来るって……帝都に向かうなら、急いで準備した方がいいよ」
「お義母さん。また西で小競り合いがあって、検問でとても時間をとられたんです。私達も手伝いますから、支度をしましょう」

慌ただしく旅支度を始めるミモザ達を見送り、ニゼルはすぐにとって返した。「嵐が来る」。ある意味、嘘は言っていない。
上空、いつしか夜明け前のぼんやりとした空が、半透明の薄い黒色の膜に覆われつつある。ドーム状の表面に、黒い雷光が見えた。
魔王の結界だ、本気でこの街を滅ぼそうとしている。何故、行く先々でこんな事が起きるのだろう……頭を振り、北を目指して駆け出した。

「――あっ、ヤコブ!」

途中、意外にもニゼルは目的の人物のうち一人を見つけて声を掛ける。朝刊を籠から取り出し、郵便受けに差し込むヤコブだった。

「よう。っていうか早いな、宿に配るのは場所的に一番最後だぞ」
「えっ? あ、いや、新聞はいいんだ。それより……」

言いかけて、どう説明したものかと口ごもる。ただでさえ天使に嫌悪を示す彼に、魔王がどうこうと話して状況を理解して貰えるだろうか。
ニゼルの言葉を待ち、肩を竦めたヤコブの視線が、ふと羊飼いを通り越して遠くの空を見つめた。

「……なんだ、あれ」

どことなくサラカエルに似た顔が、怪訝に歪む。つられて振り返ったニゼルは、魔王の結界の下に、複数の白色を見つけて言葉を呑んだ。
無数の天使だ……目立つ白色は、広げられた天使の翼だ。目視で数えられる数ではない。以前、喰天使のアジトで見た光景とよく似ている。

(そんな、魔王だけじゃなくて天使まで!? でもなんで? 魔王の手下って言ったら、堕天使とか悪魔とか、そういうのじゃないの?)

混乱しかける頭に、ふと上から軽めの衝撃が降った。険しい顔ながら、ヤコブが小さく首を縦に振り、落ち着けと諭してくる。

「なんだろうな、今日は祭りか何か、あったんだっけ?」
「なっ、何もないよ! 俺だって意味分かんな……」
「はいはい。俺もよく分かんないけど、話し合いで平和的解決、とはいかなさそうだし。なんか、剣とか槍とか持ってるし」
「……っ、」
「落ち着けって。俺は、印刷所に顔出してくる。社長の奥さん、身重なんだ」
「えっ、あっ、ヤコブ!? 待ってっ!!」

ニゼルが制止するより早く、ヤコブは二輪車に跨がり、走り去ってしまった。どうしよう、羊飼いはいよいよ混乱する。
街は、昨日までは平和な土地の筈だった。魔王に狙われる要素も、天使達が攻めてくる理由も、ニゼルにはまるで見当もつかない。
強いて言うなら、ヤコブだ……告知を受理し、ウリエルとして覚醒すべき唯一のヒト。彼は今、実母によってその存在を隠蔽されている。
もし、何らかの切っ掛けでそれが暴かれたのだとしたら。或いは、自分が彼に気安く接触してしまった為だとしたら。ニゼルは頭を振った。

(仮に、そうだとして。だからって、何も街ごと滅ぼさなくたっていいのに!)

ウリエルが復活する事で、不利益が生じるとでもいうのだろうか。考えていても仕方がない、羊飼いは、殺戮を探そうと一歩を踏み出す。

「……やあ、ヤコブを逃がしたんだね。なら、ガブリエル頼みでいく事にするかな」

声は、真横から聞こえた。ばっと勢いよく顔を上げ、ニゼルはやはり気配も立てずにそこに立つサラカエルを見る。

「サラカエル! どこ行ってたの、なんか天使とか魔王とか、わんさか沸いてきてるんだけど!」
「やあ、害虫みたいに言うのはやめておきなよ……ま、想定内さ。それだけウリエルは必要とされているわけだ。対としては誇らしいよ」
「嫌み言ってる場合ー!? もう! そうだっ、ヤコブ、さっき印刷所に行くって言ってたんだ。俺はどうしたらいい?」
「少し落ち着いたらどうかな。天使と魔王の配下は睨み合いで手一杯らしいから、こっちはその間に用を済ませておけばいいだけの事さ」

これが本当の平和的解決だよ、殺戮はくつくつと笑い、ニゼルはいつから監視していたんだ、と憤慨した。しかし、揉めている猶予もない。

「ウリエルを強制的に覚醒させる。実際にそうするのは、告知天使様だけどね」
「ガブリエルが? でも、どうやって? 連絡の取りようもないのに」
「僕達に鳥羽藍夜の転生を知らせに来たという事は、告知の用意自体は出来ているのにそれが成せなかった、という事さ。分かるかい」

親友ともども、サラカエルはとにかく遠回しな言い方ばかりを好む。しかし、無駄に十数年、否、数十年を共にしていたわけではない。
一瞬黙考して、ニゼルはあっと声を上げた。殺戮は回答を促すように口を閉じ、片眉を上げて羊飼いを見る。

「そうか……ヤコブのお母さんが護符を使ってヤコブを隠してたから、告知が出来なかったんだ。つまり、」
「ご名答。ま、駄賃も褒美もなしだけどね」
「もう、冗談言ってる場合?」
「はいはい。今回は、護符の解除、或いは結界の破壊が僕達の仕事さ。手っ取り早いのは、術者に護符の作用を放棄させる事かな」
「あー、それ、断られそうな気がする。俺の予想だけど、ヤコブのお母さんは息子を自立させたくないんだと思う。大事で、大好きすぎて」
「言い得て妙だね。というか、単純に彼に依存しているだけじゃないかな。自立すべきは、彼女の方だと思うよ」

たった一人の肉親、忘れ形見、最愛のひと……ニゼルは、親友を亡くした日の事を思い出して、胸が締めつけられるような思いだった。
こちらの心情を察してか、サラカエルは首を傾げて失笑する。ニゼルはむっと睨み返したが、意外にも天使は真面目な表情を浮かべていた。

「枷を着けて、鎖を巻いて、手元に置くだけなら易いものさ。けど、本当に愛しているなら相手を信じて手を離すのも、一つの愛の形だろ」
「……え、きゅ、急にどうしたの」
「やあ、僕だってたまにはまともな事くらい言うさ。気休めみたいなもんだろ」

大真面目に愛の定義を語られ、ニゼルは不思議とどぎまぎする。何で俺はときめいてるんだーと悶絶する羊飼いに、殺戮は鼻を鳴らした。
……ニゼル=アルジルには、地母神ヘラに関する因縁が存在する。その仮説じみた前提を、サラカエル側から打ち明けるつもりはなかった。
想いを告げる可能性が万が一にもあるのなら、それはヘラ本人に限っての話だ。なおも悶える青年の襟を掴み、気をこちらに向けさせる。
ヤコブの母の元へ赴け、殺戮はニゼルにそう告げた。どうするつもりだと尋ねられ、僕は僕の仕事をするだけさ、とはぐらかす。

「君に貸した月天の護符は、僕にとって簡易転送装置でもあるんだ。僕自身がヤコブの家に入れなくても、君が一歩でも中に侵入していれば
 それを介して僕も内部に入り込む事が出来る。前に、オフィキリナスに結界を展開した時の事を覚えているだろ。要領は、あれと同じさ」

ヤコブの母ミリアムについては、彼女がほんの少しの間、外に出ている時に限ってのみだが、事前の観測を行っておいた。
彼女がヤコブに、ひいては、ヤコブの父ヨハネに対して異常な執着を見せている事も把握している。
サラカエルは、ニゼルに多くを語らなかった。これから自分がとる行動は、銘に相応しい殺人という汚れ仕事だ。止められては適わない。

(邪魔をされるのは本意じゃないし……ま、軽蔑されるならそれまでの話さ)

考えて、一瞬口を閉じる。自分はどうやら、ニゼル=アルジルには嫌われたくないらしい。

「……僕も、ウリエルのお人好しが移ったかな」
「え? 何、何か言った?」
「いや、何も。さあ、仕事だ。ウリエルを横取りされたら、ここまでの年月が全て水の泡だよ」

たった一歩、小屋の中に爪先を入れておくだけ。ある意味、これは羊飼いにとって殺人幇助にあたるかもしれないと、殺戮は首を傾げた。
何も考えていないのか、それともウリエルの覚醒に胸を躍らせているのか。ニゼルは目をきらきら輝かせて、丘の上へ走っていく。

「とはいえ。ガブリエルが間に合わなければ、どのみち無駄な作戦か」

ヤコブ自身は、単独で別行動をとっているとニゼルは話していた。流石に告知の銘持ちも、対象を眼前で死なせるような事はしないだろう。
そこまで間抜けでは……最悪の状況を想像したサラカエルだが、ふむ、と急に気を取り直してニゼルの後に続いて身を翻した。
街にはアンブロシアを始め、ニゼルの不在に気付いた体の騎獣達が出ている気配がある。些か不安も残るが、いないよりはましだろう。
僕も甘くなったな、とは口にしない。いい加減、自分も対の覚醒を心待ちにしていたのかもしれない……翼を広げ、護符を頼りに飛翔した。






「おやっさん、早く!」
「ヤコブゥ! お前さんも、こっちに!!」

印刷所の最下層。必要最低限の荷物を抱え、レティ社の社長とその妻は、突然乗り込んできたヤコブに先導され、地下室へと潜り込む。

「俺はいいから! 全員揃ってるな、ほら、もっと奥に!!」

血相を変えた青年は、手近な金属パイプを手に背後を気にしていた。ほどなくして、複数の羽ばたきと印刷機が破壊される音がついてくる。
理由は知れていた。空からやってきた天使だ……彼らの出現は、ヒトに祝福を与える時か、もしくは殲滅する時のどちらかと決まっている。
伝記や童話を出版する職業柄、レティ夫妻もそれを把握していた。狭い地下室だが、自分達と従業員が収まるだけの広さはある。
中には、家族や家屋、職場の安否を案じる者の声もあった。混乱や暴動が起きかねない状況だったが、それを制したのはヤコブの声だ。

「おやっさん、鍵をかけたら絶対に開けるなよ。何があっても、絶対に開けちゃ駄目だからな」
「おいっ、お前さんはどうするんだ、ヤコブ!」
「ヤコブ君、あなたもこっちに!」
「……従業員は印刷所の宝、だろ。俺は若くて頑丈だから、大丈夫」

皆まで言わせず、ヤコブは鋼鉄製の扉を強引に押し込み、押さえ込む。すぐに施錠される音がした。言いつけが守られた事に安堵する。
ふと手にしたパイプに一瞥を送り、こんなんで対抗出来るわけないよなあ、とヤコブは自嘲した。

「っと、ここにいたら……出来るだけ離れないと!」

地下室へ続く扉から離れ、角を曲がり、鉄筋構造の階段を駆け上る。踊り場から眼下を見下ろし、白い翼を見つけるや否や、

「おい! どこを探してるんだ、こっちだよ、間抜け!」

声を張り上げ、天使達の注意をこちらに集めた。何の疑いもなく追ってくる有翼人に、ヤコブは逃走しながらほくそ笑む。
……理由は分からないが、自分は天使に狙われているらしい。ニゼルと別れた後、逃げ惑う人々を誘導する中で気付いた事だった。
まさかと思いながら恩人を逃がそうと印刷所に入った瞬間、青年を追うようにしてそれらは押し寄せる。偶然ではないのだと確信した。
自分が囮になれば被害は最小限に留められる。そう考えたヤコブだが、逃げ遅れた従業員が目の前で殺害される様を見て、考えが変わった。

(俺が犠牲になれば済む話でもないのか。どうしてだ、何故なんだ? 俺達が何をしたって言うんだ……とにかく、皆から引き離さないと)

自分が追われている、その仮説こそ思い込みだったというのだろうか。それでも、馴染みのある顔ぶれが惨殺されるのは我慢ならない。
当初の予定通りに声を張り上げ、注目を集めるようにしてひたすら逃げ回る。ふとヤコブは、自宅に残されたままの母の安否が気になった。

「そうだ、お袋は……」

裏口から通りに飛び出すと同時、ヤコブの前を勢いよく一台の馬車が通り過ぎていく。その荷台を、やはり複数の天使が追っていた。
槍を投擲しようとした者のうち、一人が突然失速し、地面に落下する。ぎょっとして、ヤコブは目を見開いた。
天使の白翼に、野生の狼に似た獣が噛みついている。似ていると思ったのは、狼にしては体格が大きく、爪牙が太く鋭い為だった。
剥き出しの犬歯が恐ろしい音を立て、羽根を喰い千切る。翼にも神経が通っているのか、血が飛び、天使は取り乱したように喚き散らした。

「うわ、わ……な、なんだ、これ」

現実味がまるでない。それでも、土埃や血の臭いは本物だ。思わず後退り、ヤコブは獣と天使の争いから離れようとする。
足が震えた。どう考えても、自分一人がどうこう出来る状況ではない。目をつぶり、逃げようとして――背後にいた何者かと、ぶつかった。

「っ、う!」
「――こんにちは。酷い顔色だね、怖い夢でも見たのかな」

それは、とても美しい顔で柔らかく微笑む。惨状に似つかわしくない、場違いな美貌の青年だった。

「あっ、あんた、一体!?」
「ああ、その様子だとザドキエルの事は何も覚えていないんだね。残念だな。覚えていたなら、代わりに何かしてあげられたのに」
「……? ザド、なんだって?」

青年は、なお甘く微笑む。言葉に詰まったヤコブの口元に、魅惑的な指が触れた。「喋るな」、そう命じられたような気がして息を呑む。
その瞬間、ヤコブは嫌な汗がとめどなく頬を伝っていくのを感じた。今、目の前に在るのは、ヒトの姿をした怪物そのものだ。
よく目を凝らせば、青年の黒塗りの服はおろか、皮膚の表面ひとつひとつにさえ、天を駆けるあの漆黒の雷が纏わりついている様が見える。

「怖いと、そう思うのかな。ふふ……君のこんな姿、ザドキエルにも見せてあげたかったな。きっと、二人で楽しめた筈なのに」

あの子は僕のお気に入りだからね――立て続けにわけの分からない事を告げられ、夜色髪の青年は恐怖以外の感情を上乗せし、顔を歪めた。
彼の微かな変化を、魔王は興味深く観察するような眼で見る。笑い声がさざ波のように寄せては返し、ふとヤコブの唇は解放された。

「お母さまが、心配じゃないのかな?」
「な、何……どういう意味だ、お袋に何かあったのか!?」
「ふふ……急いで帰った方がいいかもしれないね。ヒトは、両腕の中に抱えられる分の荷物しか、大切に出来ないそうだから」

体中に圧し掛かっていた重苦しさが消失する。黒塗りの青年の言葉に、ヤコブははっと顔を上げ、礼を言うのも忘れて駆け出していた。
今代のウリエルのとの別れを惜しむように、魔王は目を細めて微かな笑みを零す。そうして、彼はふと表情を消し、天を仰いだ。
懐かしい音がする。射干玉の瞳に、金色に光り輝く、眩い光を孕んだ大きな翼が映った。またしても、空から新手の天使が降りてくる――

「……何故、ここにいる。まさか、君もウリエルを回収しようとしているのか……『兄者』よ」
「久しぶりにまともに顔を合わせたのに、そんな挨拶は酷いな。元気そうで何よりだよ、僕の可愛い『ミカエル』」

――片や、天使を統轄する天使長。片や、堕天使の頂点たる魔王。大翼の羽ばたきが宙を打ち、決してそれ以上の距離を詰める事はない。
かつて、二人は仲の良い兄弟だった。神々の取り決めで兄が堕天して以降、双方の心身は遠く離れてしまっていたが、それでもあの頃は……
我に返り、ミカエルは周囲に散らばる天使に視線を送り、すぐにヤコブを追うよう指示を出す。しかし、それを魔王が見逃す筈がない。

「ウリエルの新しい器になんて、興味はないよ。ここに来たのは……ただの仕事さ」

人好きのする笑みが、空気を凍らせた。何らかの反論を口にしかけたミカエルだったが、それより早く、無数の黒雷が天より降り注ぐ。
たちまち、彼の周りは阿鼻叫喚の地獄絵図と化した。なおも手を緩めぬ実兄に、天使長は苦悶と悲痛に歪んだ顔を向ける。

「サミル! 君ほどの者が、何故……何故、このような真似をする!!」
「仕方がないさ。僕には、そして君にも、個々の矜持と役割がある。けどね、無闇に犠牲を払うのは悲しい事だと思うな」
「相変わらず、分かったような口を……皆、怯むな! 我らの神聖なる地を取り戻す為……邪魔はさせない!」

若いなあ、魔王は小さく失笑しながら黒雷を放った。その隙間を縫うように、黒毛の魔獣らが、手慣れた様子で天使の軍勢を強襲していく。
皮肉にも、天使長と魔王の対峙は金と黒の閃光で大気を鮮やかに塗り替え、それにより帰途を急ぐヤコブの姿を隠す形となった。
街は、混乱に満ちている。夜色の髪が揺れる間に、告知天使除けの護符が、ちかちかと銀色の光を反射させていた。





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 UP:19/04/11