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楽園のおはなし (2-38)

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生まれつき、家柄に恵まれた方ではなかった。それだけでなく、器量も要領も悪く、いくら勉学に励んでも結果が追いついてくる事もない。
不細工というほどではなかったが、他のぱっとしない娘達に混ざっていても、端から存在しない者のように扱われる事も多かった。
運動が苦手で動作の一つ一つが重く、かといって人見知りとあがり症も酷くて、余所で愛想よく振る舞う事すら出来ない。
それがあたし、ミリアムという女だった。卑屈で根暗で無愛想で、視界に入るだけで心底嫌になる女。
両親は「この子は恥ずかしがり屋だから」と何かある度にあたしを庇ってくれていたが、それも幼少期を過ぎるまでの話だった。
あたしは二人に感謝しようとしても上手く物を言えなかったし、先述の通りの性格だったので、そのうち諦められてしまったらしい。

『……ム、ミリアム。そんな顔しないの。ほら、笑って。笑った方がとっても素敵よ』

……その一方で、同じ家に生まれていながら、姉は美人で努力家と評判だった。劣等感など皆無という風に明るい気質で、人当たりもいい。
十代のうちに見合い婚をして、早いうちに余所の街へ嫁いで行ったけれど、あたしはそれだけで心底安堵したのを覚えている。
ただでさえ自分に自信がないのに、姉のような悩みもなさそうな優れた人間が近くにいると、それだけでどうしようもなく辛かった。
八つ当たりだという自覚はある。けれど両親と姉、教師と姉、婚約者と姉……そういったものを眺める疎外感は、本当に辛くて惨めだった。
あんな素晴らしい美人には、あたしのような醜い女の気持ちなんて一生掛かっても分かるわけがない。
「笑って」。姉によく言われたけれど、それが身内贔屓のお愛想だって事くらい、あたしにだってすぐ分かる。
恵まれている人、優秀な人、有能で皆から愛される人。そういった人間は、そうでない者に力や才を分け与えるべきだ。
……そんな事を考えながら、懸命に学園に通い続けた。思春期の頃には、あたしを庇ったり、窘めようとする人間は誰もいなくなっていた。

『あれ? 君、ハンカチを落としていないかい。これ、君のだろ』

そんなときだった……今でも、はっきりと覚えている。あたしはあの日、齢十四の誕生日を迎えたばかりだった。
誰にも覚えられていなくて、祝いの言葉一つすら貰えなくて、とても悲しかったから、涙を乾かそうと教室を出た矢先。
天空を通した渡り廊下で声を掛けられて、振り向いた先。王子様か貴族様じゃないのかと思える、とても素敵な男性が立っていた。

『え、あ、あの……あたし……』
『はい。この生地、羊毛で織られているんだね。手作り? とても素敵な色に染めてあるね』

手渡されたのは、確かに、両親が飼っていた羊の毛で織った手製のハンカチ。タデを摘んで必死に染めたのも、あたしだった。
すっかりぽうっとなったあたしは、お礼はおろか、その人の名前さえ聞けないまま、笑顔で立ち去っていく背を見送るばかりだった。

『……見て。ヨハネさんとアンナさんよ』
『……やだ、ミリアムなんかと話したら根暗が移ってしまうのに』
『……でも、本当にお似合いのお二人よね。高等部を出たら、一度式を挙げるのですって』

固まったまま我を忘れていたあたしは、すぐ近くから聞こえたクラスメイト達の声にはっとする。
廊下の曲がり角で、金の髪のあの素敵な人は、姉によく似た美しい少女に手を挙げて、二人仲睦まじそうに肩を寄せ合いながら去っていく。
ヨハネとアンナ。学園の中でもトップクラスの成績を修める、美男美女同士の年若いカップル……誰もが羨む、高位貴族同士の許婚。
あたしは、頭を横から鈍器で殴られたような気になった。何故なら奇しくもアンナという名は、あたしの姉と綴りすら同じ単語だったから。

『とても素敵な人。あたしを見て、笑いかけてくれた。あたしを気味悪がらず、ハンカチを拾ってくれた、褒めてくれた……これが恋なの?
 なのに、姉さんと同じ、あの娘……あんな娘がいるだけで、あたしは告白する事さえ許されない。何度あたしの邪魔をすれば気が済むの』

生まれて初めて、あたしは他人を憎んだ。これまでも両親や姉に暗い感情を向けた事はあったけれど、ここまでの憎悪は初めてだった。
なんとしてでも、あの人に振り向いて欲しかった。あたしを見て、あたしを愛して、あたしを必要として欲しい……それだけだった。
でも、相手は高位貴族の子息と令嬢。正攻法で勝てる筈がない。寮と学園の敷地を行き来するだけでも、護衛が着いたりするくらいなのに。
……悩みに悩んだ末、あたしは絶対に踏み込んではいけないと噂されていた、学園の、とある秘密の場所に忍び込む事にする。
「禁じられた書庫」――立派な蔵書が揃った学園の巨大図書館には、禁断の魔法や伝説を記した怪しい書ばかりを封印した部屋がある、と。
どうせ叶いもしない恋なんだ、駄目で元々だって宜しいでしょう……その一心で、夜の清掃日として定められた日を狙い、寮を抜け出した。
市場の裏通り、人の寄りつかない不気味な物売りから薬を買って、司書に盛る。誘惑に成功したあたしは、まんまと図書館に侵入した。
物売り、司書。口止め料も兼ね、それぞれに貞操を捧げる事になってしまったけれど、それでも封じられた書庫に入った甲斐は十分あった。

『……悪魔の、召喚書?』

カビ臭い書物の中から、ぼんやりと光る、一冊の本を見つけた。見た事もない字で書かれているのに、あたしはそれを解読する事が出来た。
とても不思議な気分だった。自分がこれから、何でも出来る、何者にも成れる、どんな事だって叶えられる……そんな気持ちにさせられた。
夢中で読み進め、「悪魔」とやらを喚び出す材料や道具を揃えて、新月の夜を待つ。体を清め、薄布一枚だけを体に巻き、寮の窓を開けた。

『――あらぁ? 青臭いニオイがすると思ったけど、お子様じゃない。うふふっ、アナタ、悪魔がどんな生き物か分かってるのよねえ?』

正直な話、悪魔だ、魔術だなんて、半分くらいは信じてなかった。でも、残りの半分は、藁にも縋る思いで試してみた事だった。
禁じられた書庫、悪魔の召喚……驚いた事に、噂は本物であったらしい。窓の向こう、暗い空に、美貌の少女と複数の黒い影が浮いている。
少女は、背中に伝説の天使様みたいな金に輝く翠の翼を生やしていた。あたしは、恐怖と畏怖でまるで身動きが出来なくなっていた。

『ふんふん、そうねえ。アナタ、好きでたまらないヒトがいるのね? 一途って素晴らしい心掛けよねえ』
『! ど、どうして、それを……』
『あらぁ、あたしを何だと思ってるのかしらぁ? 任せておいて頂戴、代償を支払う心構えが出来ているなら、その願い、叶えてあげるわ』

怯えるあたしを慰めるように、少女が、黒い影達があたしを取り囲む。耳元で甘やかな声で囁かれ、あたしはすっかり力が抜けてしまった。
布を剥がれ、ぼうっと頭と視界が霞んでいく中、あたしは黒い影に圧し掛かられ、数日前に物売りや司書にされたように貪られていく。
……強いて言うなら、影達はあの二人とは比べものにならないほどに上手く、あたしの心身を震わせ、咽ばせ、満たしてくれた。
あの黄色の髪の少女は、窓際に優雅に腰を下ろして、うっとりとした笑顔であたし達のそれを見守るばかりだった。

『アナタの願いは、すぐに叶うわ。けど、忘れないで……あまり高望みしないように、ね。悪魔はね、代金の支払いにとっても煩いのよぅ』

天国にさえ至ったと思えた一夜の後、眩い金色の朝日に紛れて少女が笑う。あたしは、夢心地のままに小さく頷いた。
どう考えても、ただの夢でしかなかった。物売りと司書との事も、今夜の事も、全部が夢の中の出来事ではないのか、と。

『――やあ、おはよう、ミリアム。君の姿が窓から見えたからね、君に挨拶したくて、寄り道する事にしたんだ』

……けれど、少女と影達が消えたその日の早朝。ふらふらの体で登校しようと寮を出たあたしは、あの素敵なヨハネに、声を掛けられた。
とても綺麗な笑顔で……彼にふりほどかれたらしいアンナが、噴水広場の真ん中で、幽霊でも見たような顔で呆然と座り込んでいる。
本当に願いは叶えられたんだ――あたしはふらつく足を叱咤して、ヨハネに駆け寄った。彼は、あたしを強く抱きしめてくれた。
ああ、ああ……なんて、幸せなんだろう。いっそあたしの骨を折りたいのじゃないかと思えるほど強い力で、ヨハネはあたしを腕に収めた。
彼と抱擁を交わしながら、あたしは彼から放たれる香水の匂いにうっとりする。アンナが、泣きながら走り去っていく姿が見えた。

『ああ……ああ……ざまぁ、みろ』
『ミリアム、ミリアム……君は本当に素敵だね。今すぐ、君を僕の物にしたい……構わないかな』
『ヨハネさん……ううん、ヨハネ。もちろんよ、あたし、あなたが大好きなの……』

熱に浮かされるように、それこそ、悪魔に手招きされるように。あたし達はとって返すと、女子寮の一番奥の物置に籠もり、肌を重ねた。
彼の体は、術は、年相応に若くて未熟だった。けれどあたしは幸せだった……アンナが一生得られないであろう快楽に、懸命にのめり込む。
物置の外が騒がしくなっても、次第にそれが遠退いても、あたし達は止まれなかった。何度も何度も彼を受け入れ、あたしは確信する。

『ああ……悪魔が、あたし達を祝福してくれている。あたしのお腹には、ヨハネの子が宿るのだわ』

それは、茨の道に違いなかった。ヨハネとアンナの婚約は、学園はおろか、学園の外、両家の間や貴族社会の中にも既に周知されていた。
あたしは言葉巧みにヨハネを誘惑した売女、略奪者、盗人として強く糾弾された……ヨハネはあたしを庇ってくれたけれど、限界があった。
親には罵られ、わざわざ婚家から様子を見にきた姉には泣かれ、あたし達は逃げるように院の奥、誰も寄りつかない部署に進学する。
「天使研究所」。鋼鉄製の扉のすぐ横に、あの黄色の髪の少女の肖像画が掛けられていた。彼女は、告知天使ガブリエルという名前らしい。
平たい腹をさすりながら、あたしは天使研究に精通していたというヨハネを懸命に手伝った。理解者はいなかったけれど、幸せだった。
悪魔が、ガブリエルが、あたし達を見守ってくれている……あたしにとって、その事実だけが心の支えである事に、違いなかった。

『こんな筈じゃ、なかった』

悪魔の助けがあったのか、ヨハネはあたしとの関係を悪く言われるわけでもなく、天使研究の若き第一人者として名を揚げていく。
医師の診断で身籠もった事が確定し、あたしがそれを告げた直後、ヨハネは感動するでも、喜ぶでもなく、絞り出すような声で呟いた。

『こんな筈じゃ、なかった』

無機質に変化した彼の顔に、あたしへの愛が見つけられない。あたしを見る目が、とても冷たい。夢から醒めたとばかりの、一声だった。

『……でも、彼とあたしには子供がいる。あたしには悪魔がついてくれているのだもの、彼は、あたしの傍にずっといてくれるのよ……』

……夜色の髪という、明らかに不自然な子が生まれてしばらく経った、ある日。
ヨハネはあたしに何も言わずに、夏期休暇の申請を学園に早期提出して、実家がある南の地方へと帰省していった。
ショックだったけれど、あたしとの一件があって以降、彼は家族とろくに口も利けずにいたらしいから、あたしは彼の帰りを待つ事にした。
きっと、すぐに院に戻ってきてくれる。そう信じて寮で眠りに就いた、あの日。あたしの枕元に、あの告知天使が舞い降りた。

『ミリアム、己が身を夜の子に捧げた咎人よ。汝の生んだ子は、未熟な天使である。わたくしの導きで、彼はいずれ真の天使となるだろう』

「生まれた子は特別な子、天使である」。そう告げられた、あの暑い夏の日。ヨハネが故郷に帰ってすぐの、あの満月の日。
あたしが「告知」という名の通知を受け、心底喜んでいたその頃。南方の故郷の自室で、ヨハネは独り、首を吊っていたという。
遺体の下には、裏切りを働いた己を責める文言と元婚約者への想い、そして、あたしを心から愛せなかった旨を記した遺書が残された。
昔から彼をよく知る人物、アンナ本人は、彼の死に憤りながらもこれを悲しみ、ごく親しい身内の中だけで葬儀を済ませる事にしたという。
……そんな悲しい話を、あたしは夏期休暇が明けた頃、クラスメイト間に行き交う噂話を通じて、ようやく知る事になった。
彼は、女に天使を孕ませる事が出来た特別な人間で……あたしに、彼の面立ちによく似た美貌の子を授けてくれた、唯一の味方だったのに。
あたしは、周囲の咎めるような針のように鋭い視線に耐えきれず、まだ小さな我が子ヤコブを抱いて、帝都内にある実家に戻った。
両親は激怒したけれど、同じく乳飲み児を抱えた姉に説得され、あたしが外に一切出ない事を条件に、あたし達を匿ってくれる事になった。

『ミリアム、お前の為じゃない。若くして亡くなったヨハネさんと、その子の為だ。アンナのように万人に愛して貰えると思うな』

なんて酷い仕打ちだろう、学園にいた冷たい人間と同じような目で、両親はあたし達の事を見る。姉も、どこか態度がよそよそしかった。
あたしとヤコブが、あたしとヨハネが、一体何をしたと言うのだろう。悪魔の手を借りていたとはいえ、確かに愛し合った仲なのに。
惨めな日々が、また始まった。あたしはとても耐えられなくて、何度も何度も悪魔を喚んだ。
その度に、悪魔はあたしの周囲の世界を、あたしにとって有利になるよう、心地いいものへとさりげなく導き、変えていってくれた。
両親も、姉も、近所の人々も、病院の医師達も、大学の偉い人達も、殆んどの人があたしとヤコブに優しく接してくれるようになった。
中には、それが通じない相手も稀にいた……気に病む事じゃない、そんな時もある。黒い影達は、そう言ってあたしの心身を癒してくれた。

『おかあさん。おれ、おとうさんみたいな、りっぱなけんきゅうしゃになりたい』

幼いヤコブは哀れなあたしに同情して、必死に勉学に打ち込み、成績優秀、容姿端麗な美少年として、輝かしい成績を修めてくれた。
そのうち、あの子は研究者ヨハネによく似た無類の天才児として院に呼び出され、研究施設に直に招かれるようになっていく。
あたしはあの子が誰よりも秀でるよう、何度も悪魔に身を捧げた。何度も何度も……正直、ヨハネがいない日々は寂しくて辛かったから。
あの子は、日に日にヨハネに顔立ちが似ていく。愛しいあの人に……あたしはいつしか、どこの誰にもヤコブを渡したくなくなっていた。
院で友達が出来たと聞けば、悪魔にその子の家が滅ぶように頼み、好きな人が出来たと聞けば、悪魔に相手の娘を誘惑して心変わりさせる。

『お袋、親父より出来の悪い子供でごめんな。苦労掛けたから、病気もさせたし』
『いいの、いいのよ、ヤコブ。あたしは大丈夫だからね』
『ああ……もう少し、院で頑張ってみるよ』

次第にヤコブは孤立し、それと同時に、奇行を繰り返す不気味な魔女として、両親はあたしに、ヤコブごと家を出ていくよう言ってきた。
人の心を大量に動かす事は出来ない……悪魔にそう言って泣かれたあたしは、仕方なくヤコブを連れて親戚を頼り、南方の土地へと逃げた。
この頃から、悪魔達はあたしの召喚に応えなくなっていた。あたしは病気がちになり、そのせいで代償に不満があるのだろうと、予想した。






「……それが、何故。どうして、なの……」

今、あたしは見慣れた影……よくよく見れば、黒毛の大きな狼に寝具の周りを取り囲まれ、そのうち特に大きな一頭に圧し掛かられている。
やけにヤコブに馴れ馴れしく接していた、あの空色の髪の男が帰った翌日。あの子が朝の配達に出て行った直後、悪魔達はやってきた。
召喚した覚えはない。叶えたい願いを口に出した記憶もない。だというのに、狼達は荒い息を弾ませて、あたしを強い力で拘束している。
こんな事は初めてだった。嫌な汗が浮かび、なのに喉が震えて上手く言葉が出てこない。赤黒い口から唾液が滴り、あたしの頬を濡らした。

「な、何故、どうして……?」

誰も応えてくれない。それどころか、あたしの反応を楽しむように、彼らは笑い声に似た音で遠吠えする。
あたしは震え上がった。狼のそれが相手では、人間のあたしはきっと簡単に壊れてしまう。それに、見た限り狼達は腹を空かせていた。
抱かれるだけでなく、恐らく同時に喰い殺される。何故、どうしてこんな事に……あたしはいよいよ、剥き出しになった無数の牙を見た。

(何故、何故来てくれないの、何故あたしに何も応えてくれないの……ガブリエル!)

目を閉じて身構える。顔面に、牙が立てられる気配があった。そのときだった――

「やあ、少しは、自分のした事を省みた方が身の為なんじゃないかな」

――熱いものが、顔全体に降り注ぐ。種ではない、それよりももっと生臭く、ぬるりとしていて、恐ろしいもの。

「! っあ、ああ、ああ……! あ、悪魔!?」
「失礼な人間だな。あの間抜けですら、僕を悪魔呼ばわりした事がないのに」

あたしの目の前で、あの黒狼は頭を粉砕されていた。脳髄、血液、それらを一身に浴び、あたしは眼前、突然姿を見せた者を思わず罵る。
それは不思議と、見慣れた顔をしていた。ヨハネ、否、ヤコブだ……最愛の息子によく似た面立ちの黒衣の男が、あたしを覗き込んでいる。
夜色の長い髪に、やや鋭い目つき。美貌の青年。彼は、髪と同じ色の翼を四枚背中に広げ、あたしの顔を至近距離から見つめていた。
あたしはそれだけでぽうっとなって、言葉をなくす。黒衣の青年は、一度眉根を寄せて鼻を鳴らし、あたしから体を離した。

「『黒の結界』が展開されたから、もしやと思って来てみれば。あの間抜けを先回りさせておいて、正解だったな」
「……? ごめんなさい、何の話?」
「ふん。ところで君の飲んでいる薬だけどね、調べてみた感じ、単なる咳止めみたいだよ。治るものも治らないさ」
「ああ……これはね、不治の病なの。『知り合い』にそう聞いているわ。一生物の病気だって」
「不治の病、知り合い……やあ、よく言えたもんだね。あの子の関係者のうち、あの間抜け以上の間抜けなんて初めて見たな。感心するよ」

見知らぬ青年は、どこかから水を満たしたグラスを取り出して、その中に何らかの粉薬を溶かしてみせる。
それは何、そう尋ねると、君のような人間によく効く薬だよ、彼は小さく首を傾げた。飲むように促され、グラスを受け取る。
……あたしは、ヨハネやヤコブの容姿が、とても好きだった。だから、何の疑いもなく、ぼうっとした頭でその水を一気に喉へと流し込む。

「省みもしない、か。脆弱、いや、傲慢だな。とてもじゃないけど、こんなのを相手にしなきゃいけないなんて、悪魔の連中に同情するよ」

おかしな事に、飲んだ直後、急激な眠気に襲われた。視界が揺れ、脳が揺れ、まともに身を起こしていられない。
あたしは、黒衣の青年に背中を支えられるがまま、寝具に横になる。彼の声が遠退き、世界がどんどん暗く沈んでいった。
ああ、眠い。なんて眠いのだろう。でも、不思議と心地いい。こんな感覚、ヨハネに愛して貰って以来だ……あたしはそっと目を閉じた。

「ま、君には感謝してるよ。君がいなければ、今代のウリエルは生まれてこなかった。生きたまま喰われるよりは……せめてもの、慈悲さ」

世界が暗い、あまりにも冥い、とても眠い。ミリアムが二度と醒めぬ眠りに就いたその日、善き羊飼いの街の上空に、黒い膜と雷鳴が疾る。
サラカエルは、自前の毒薬を専用の袋にしまった後、窓の外のそれらを睨み上げた。とって返し、家捜しをして幾つかの道具を袋に収める。
ミリアム。悪魔に魅入られ、身を捧げ、ウリエルという高位天使を身籠もらされた女。ろくでもない人生だねと、殺戮は嘆息した。

「あっ、サラカエル! ……ヤコブのお母さんは?」

小屋の外には、白毛の騎獣を連れたニゼルが待機させられている。
早朝、まだ日も昇らないうちに朝の散歩に出たというこの青年こそ、密かに展開された魔王の結界にいち早く気がついたのだ。

「片を付けてきた。ほら、ここらは僕が始末するから、君はウリエルを迎えに行くんだ。振り返らない方が身の為だよ」
「うん、そっか……分かった、ありがとう。サラカエルも、無理しないでね。よし、行こう! シリウス!」

余計な世話だよ、そう嫌みを言うより早く、一角獣と羊飼いは街に駆け下りていった。二人の背を見送ったサラカエルは、再度首を傾げる。

「夫や子の幸せより自分の充足、自分よりも親友やその身内の幸福……どちらの人間が、より滑稽だろうね」

感傷的だな、一度苦笑した後、殺戮は四枚翼を広げて鋼糸を抜いた。高位天使ウリエルの固有能力は、世界を根底から覆す力の一つだ。
彼が告知前にその身を狙われるであろう事は、端から予想出来ている。だからこそ、対である自分が引き付け役を担うのが最良だと考えた。
ミリアムと自分を囮にし、悪魔、天使の軍勢を分散させる。一度はヘラに身を匿って貰った自分達だ、二度と捕らわれるわけにいかない。

「しくじったらどうなるか、分かっているといいんだけどな。あの間抜け」

もう天空が騒がしい、失敗は許されない。だが、ヤコブという青年の身柄だけは何としても保証してみせよう。
それこそが、ミリアムという傲慢な人間への最後の手向けだ――サラカエルは、口端を釣り上げた。





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 UP:19/04/08