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楽園のおはなし (2-37)

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朝刊を配り終え、朝昼兼用の食事と晩飯の材料、母親の薬を買い込んだ夜色の髪のヤコブは、道草を食う事もなく、真っ直ぐ自宅に戻った。
彼は勤勉な青年であり、病状が芳しくない母の事は常に彼に暗い影を落としていたからだ。二輪車を小屋の脇に止め、急ぎ玄関に向かう。

「……ん?」

そのとき、彼の視界に鮮烈な色彩が過ぎった。艶やかな薄青、冬の空を切り出したような柔らかな髪が、緩やかに棚引いている。

「あっれ、帰ってきた。えっと、こんにちわー、お邪魔してまーす」

振り向いた矢先、脳天気そうな声で挨拶をしてきたのは、中性的な顔に、尖晶石に似た印象的な赤紫をあてがった一人の青年だった。
まるで見覚えのないこの青年に、ヤコブは不思議な既視感を覚えて息を呑む。思わず見とれてしまうほどに、彼は強い存在感を放っていた。
母が寝坊した彼の代わりに放牧していた羊達が、柵を挟んで青年の手のひらに頬を寄せ、嬉しそうな顔でじゃれついている。
簡単に他人に懐くような種ではない。年老いた彼らが、噛みつきもせずに自ら撫でろと他者に身を委ねにいくのは、本当に珍しい事だった。

「ねえ、この子達すっごく人懐っこいねー。顔つきからすると……少し歳いってるよね? 毛はモコモコだし、大事にされてるんだねー」

言われて初めて我に返り、ヤコブは青年の元に駆け寄る。薄い肩を掴み、思いきり引っ張ると、容易に柵から引き剥がす事が出来た。
うわ、と間抜けな声が流れる。そのまま勢いに乗せて細い体を突き飛ばし、柵の前に立ち塞がり、鋭い目線で睨みつけた。

「え? 何、俺何かした?」
「帰ってくれ。うちは見学や体験学習なんて事はやってない」
「別にー。乳搾りも毛刈りもやった事あるし。っていうか、何なら君より上手いかもだし」

威嚇のつもりだったが、空色髪の青年に堪えた様子はない。きょとんとした、なんとも言い難い間抜けな表情がヤコブを見つめている。
なのに返してくる言葉は生意気としか言いようがない代物だ。ヤコブはじわりと腹を立て、置いていた荷物を拾って小屋の中に引っ込んだ。
乱暴に帰宅した息子の様子に、母親は驚いて寝所から顔を見せるが、彼はそれに気付かずに荷物を片付け始める。頭が沸々と煮えていた。

(なんなんだ、あの不躾極まりないやつは。旅行か観光か知らないけど、うちに何の用なんだ)

帝都から逃げるように越してきて以来、帝都の人間もこの土地の人間も、ごく一部を除きヤコブとその母にとって毒にしかなっていない。
誰も信用してはいけない、親しみを抱けば、後から裏切られたときに苦悩する。
夜色の髪の青年は、気がつけばいつしか、誰に対しても冷たい態度で接してしまうような性格になっていた。

「ヤコブ、お帰り……どうしたんだい、そんな大きな足音を立てて。街で何か、あったのかい」
「お袋、寝てろって言ったのに……なんでもない、先に羊達を見てくる。お袋は飯でも食っててくれ」

……来訪者ことニゼルは、一度首を傾げてみるものの、そんなヤコブの気など知った事ではないとばかりに懲りずに羊を撫で始める。
母に寝直すように言い、更に彼女の背中を押して無理やり寝所へと押し込め、荒く嘆息した。怒りが収まらないと、夜色の視線を走らせる。
とって返すや否や、ヤコブはいつもより乱暴に羊達の餌である乾燥牧草を詰めた桶を手に掴み、ずかずかと見知らぬ青年の元に向かった。
はたとこちらを振り向く、赤紫の瞳。何故かその色彩と面立ちを目にすると、奇妙な怒りと焦りが沸いてくる。
ヤコブはおもむろに桶に手を突き入れると、鷲掴みにした多量の牧草を、力いっぱいニゼルの服めがけて投げつけた。

「ぶわっ! ちょ、ちょっと、何!?」
「帰れって言っただろ! うちの羊は皆年寄りで、ストレスに弱いんだよ!」
「そんな大声出した方がよっぽどストレスだよ! 何、なんでそんな怒っ、ぶわっ、ぺっぺっ!」
「魔除けの塩ってやつだ、ほら、さっさと帰れ!」
「いや塩じゃないよね!? 牧草だよね!? やたら草のいい匂いがするけど、どう見ても塩じゃないよね!?」
「塩は高くて買えないんだよっ、バーカバーカ!」
「何それ、子供じゃあるまいし! っていうか、家畜のご飯粗末にしちゃダメでしょ!?」

掴んでは投げ、投げられては投げ返し。雪合戦さながらに草をぶつけ合う二人を余所に、羊達は飛散した分を首を伸ばして引き寄せる。
もしゃもしゃと彼らが咀嚼する様を見て、はたとニゼルとヤコブは手を止めた。荒い息を誤魔化すように嘆息し、夜色髪の青年が柵に入る。
いいなー俺も入りたいなー、そう言いかけたニゼルだったが、じろりと夜色の瞳にきつく睨まれ、挙手した腕をそっと下に戻した。

「あんた、一体何者なんだ。どこから来た? 観光だったらこの街は外れだぞ、大した見所もないからな」
「観光かー、観光とはちょっと違うんだけどねー。俺、昔羊の世話してた事があってさ。ぼーっと羊を眺めるの、好きなんだよね」
「こんな寂れた牧場の羊なんか、面白くもなんともないだろ。麓手前を右に行けば、もっと大きくて広い、見学も出来る大農場があるのに」

懐から安物の羊皮紙を取り出し、烏の羽根で作った羽根ペンで簡単な地図を書き記すと、ヤコブはそれを無理やりニゼルに押しつける。
受け取った直後、空色髪の青年は瞬きを繰り返しながら、地図、そして仏頂面で背を向けたヤコブを見比べた。
くすっと、小さな笑いが噴き出される。怪訝な顔で振り向いたヤコブは、首を傾げてこちらを見る青年の、どこか切なげな笑みに固まった。

「なんかさ、お人好しだよね。迷惑だって思ってるなら、反応しなきゃいいのに」

言われて初めて、もっともだ、と思い当たる。よほど面白い顔をしていたのか、眼前の旅人は再び――今度は隠しもせずに、噴き出した。

「う、なんだよ、悪いか。お袋が他人様には優しくしろとか言うから、仕方なくだよ」
「そっか、お母さんと暮らしてるんだ。で、それこそおかしいよね。帰れ、って相手に親切して、ますます居座られたらどうするつもり?」
「……い、今みたいにか」
「あー、そうだねえ。俺、居座ってるかもね。ねえ、羊触らせてよ、絶対ストレスなんか掛けないから!」

先ほどの意味深な笑みはどこへやら。空色髪の青年は、しつこく、しかし無理強いはしないという口振りで駄々をこね始める。
ヤコブにとって、同年代とはまではいかなくとも、歳の近い相手と会話が弾んだのは久しぶりの経験だった。

「……大学にいた頃は、結構お喋りだったんだな。俺」
「えー? 何か言ったー? あ、ねえ、お母さんにも挨拶してっていい?」
「そこまでしてくれなんて頼んでないだろ。あんま調子乗んな」

結局、家畜達の手入れは横入りされてしまっている。全部は渡してなるものかと、ヤコブはむきになって手当たり次第にブラシを走らせた。
盗み見すれば、本当に気持ちよさそうに身を任せている羊達の様子が目に映る。あそこまで喜んでくれた事が、今まであっただろうか。
ああ、そうか……妙な怒りと焦りの正体は、彼への既視感と自由気ままな性格への嫉妬だ。初対面だというのに、どういう話だろう。
確信して以降、ヤコブは自分の器の狭量さに辟易としてしまった。気にしても仕方がないと、むすっと口を一文字に結んで作業に戻る。

「ねえ、最近変わった事とか、変な事とか。何かなかった?」
「変わった事って? 例えば、なんだよ」
「うーん。そうだなー、空から恐怖の大魔王が降ってきたとか、ぴかぴか眩しい天使が枕元に立ったとか」
「……どっちも嫌な展開だな。っていうか、あんたも天使とか信じてるくちか」
「いや、別に? 俺の知り合いが、昔そういうのを研究してたからさー」

ふと、会話は途切れた。ニゼルは、文句を言いつつも話を合わせてくれていたヤコブが、険しい顔をしているのに気付いて手を止める。

「えっと、どうしたの。俺、なんか変な事言った?」
「……俺の親父も、そうだった」
「え?」
「天使の研究だよ、帝都では有名で……よく言われたよ、お袋と結婚したのは、研究熱心なあまり天使に取り憑かれたからじゃないかって」

それ以上を語るつもりはないのか、ヤコブは再び仏頂面を浮かべて、口を閉ざしてしまった。嫌な思いをした、そんな顔だ。
……ニゼルは彼が新たなウリエルの器である事を、彼の対存在であるサラカエルや、数日前に姿を見せたガブリエルから聞かされている。
「彼は親友の生まれ変わりだ。出来れば親交を持つとまではいかなくとも、人となりくらいは、告知前に触れておきたい」。
そう願うのはただのエゴだっただろうか……かつての鳥羽藍夜もまた、事情があったとはいえ、天使に対して強い嫌悪感を示していた。
高位天使という種の本能がそうさせるのか、それとも――気付けば、胸元に頬を寄せる羊の丸い眼に、自分の間の抜けた顔が映っている。
はたと我に返り、鼻から頭頂にかけてを撫でてやった。深くは追求せず、ニゼルはかつての友にそうしたように夜色髪の青年に笑いかける。

「いいんじゃない? ほら、世のひとってイケメンの事を天使みたいって例えるじゃない。君も見た目だけは格好いいし、そういう事だよ」
「なんだそれ。っていうか、だけ、は余計だろ。そっちこそ見た目『だけ』はお綺麗な顔してるじゃないか」
「あー、俺そこまで強調してなかったし、むしろそこ気にしてるのにー。酷くない?」

彼は生前と変わらず、根は真面目で善良なのだろう。自分とは大違いだ。ニゼルは苦笑を滲ませながら、破顔した。

(……ガブリエルは、告知もしないで何をやってるんだろう? まさか、また誰かに捕まったりしてないよね)

数日前を思い返す。宿に泊まっていたニゼル達の前に現れた告知天使は、「トバアイヤが転生を果たした」とだけ告げて姿を消した。
そもそも、生まれ変わった時点で告知しておけば、こうして自分達が新たな器の様子を探りにくる必要もなかったのだ。
彼女の考えがまるで見えない……先の応酬で機嫌を直したのか、ヤコブが「少し休憩しないか」と声を掛けてくる。頷き返し、後に続いた。






「高位天使には、それぞれが司る御力や領域を象った『シンボル』が存在する」。
親友を亡くした後、ニゼルはサラカエルから天上界や天使達の生態、何よりウリエルについての話を聞き、彼らについての多くを学んだ。
少しでも彼らの事を知り、近くに在る為の理由になりたかったからだ。殺戮は嫌な顔一つせず、自分が乞うままに応えてくれた。
……サラカエルのシンボルは言うまでもなく、欠けゆく月だ。自分は、大層な護符を彼から預かっていたのだと思い知る。

『ガブリエルは百合の花、ミカエルなら瑠璃玉と月桂樹、先生は白い鳥の風切り羽根さ。もっと言えばガブリエルは月も支配権があるから、
 僕の加護とは相性がいいともいえるね。だからこそ、その月天の加護から魔力を吸収してアスモダイから逃れる事が出来たんだろうけど』

ニゼルは、自分の首から未だ下げたままでいる月天の護符を見下ろした。旅の最中、時折サラカエルが加護の強化を施してくれている。
曰く、鳥羽藍夜の頼みだ、と。わざわざ口に出すという事は、嘘半分といったところかもしれない。過保護だよねーとは、言わずにおいた。

「――ほら、茶。安物だけどな」
「あ、ありがとう。えっと……」
「ヤコブだ。そういえば、全然名乗ってなかったもんな」
「俺はニゼル、仲間と旅をしてるんだ……あのさ、その、首から下げてるやつ綺麗だね。ちょっと見せて貰ってもいい?」

故に、ニゼルはヤコブが百合と月を象った銀の護符を着けている事に驚いている。顔に出さずにいる自分を、誉めてやりたいくらいだった。

「別にいいけど。お袋がこういうの好きなんだよ、ほら、家のあちこちにも似たような絵とか模様とか、色々描いてあるだろ?」
「う、うん。そうだねー……あのさ、ヤコブのお父さんって天使の研究をしてたんだよね。お母さんもそうなの?」
「オカルトっていうの? それ系の話が好きなんだとさ。親父には一目惚れしたってだけで、研究の中身はどうでもよかったんじゃないか」
「どうでもいいって。それなら、こんな飾りつけなんてしないんじゃない?」
「意味があるのかも不明だしな。目に見えないなら、天使様は凄いのよーとか言われても実感沸かないし。親父ももういないのに」

俺は興味ないしな、そう言って苦笑いする青年は、嘘を吐いていないように見える。ニゼルは、ヤコブから借りた首飾りに視線を落とした。
純銀製、満月に抱かれる百合の花。月の外周を、ミミズが這うような――古代語で綴られた何らかの祝詞が、細かい銀細工として囲っている。
一見は、いかがわしい呪いや魔術を彷彿とさせる大ぶりの護符だ。しかし、告知天使を筆頭に、天使達からすれば恐るべき品に違いない。

(サラカエルが教えてくれたんだ。この祝詞の紋様の意味するところは、『天使除けの結界』そのものなんだって)

見渡して驚いた。彼の言葉通り、小屋の内装のあちらこちらに天使除けの紋章、祝詞、結界といった多くの術式が展開されている。
ヤコブ自身も、この銀の首飾りは実母に贈られたものなのだと言っていた。彼の母とは、一体何者なのだろう。

(祖先のどこかに人間以外の種族の血が混ざると、子孫達の系譜のどこかに、魔力を持つ人間が生まれてきたりするんだっけ)

ロード使い、飛び抜けた身体能力や優れた霊感を有する者、占星術師、預言者……稀に世に姿を現す、奇跡の御力を持つ特別な人間達。
彼の母親もそうなのかと思いきや、ヤコブの言葉から、それらの予想は簡単に覆されてしまった。護符を彼に返しながら、ニゼルは考える。

(もし俺の記憶通り、あの護符がガブリエルから姿を隠す為のものなら……ヤコブのお母さんは、息子に告知を受けさせたくないって事?)

帝国周辺では、神話、天使崇拝は愚かしい文化だと軽んじられる傾向があった。ホワイトセージで暮らしていた身だから、よく覚えている。
一方、ヤコブの父親は帝都で暮らしていた身でありながら知識を有していたし、母親に至っては天使除けの手法さえ知っていた。
彼らは天使という存在をないがしろにしている帝都の者と異なり、逆に、親しみを抱いている立場とばかり思っていた。
裏を返せば、天使達の生態を熟知し、その習性を逆手にとる事も出来る。これらの天使除けが、正しく作用しているかどうかは分からない。
だが、未だ不在のガブリエル、ヒトのままのヤコブ……それが彼の母親が「異端」である何よりの証ではないのかと、羊飼いは唾を呑んだ。

「大丈夫か、顔色、よくないぞ。番茶……口に合わなかったか」
「そんな事ないよ。昔、友達のご家族からご馳走になったお茶に似てる味だなあって。ねえ、ヤコブは趣味とかないの? 天使様以外で!」
「はあ? いや、働くので手一杯だし」
「えー、何かないの? お茶とかどう? ハーブティーとか言うじゃない。ここは緑も豊かだし、育てやすいんじゃないかなー」
「ハーブ植えるのにだって種が要るし、鉢や肥料だってタダじゃないだろ。うちに、そんな金ないから」
「ええー? そっか……ケチなのは変わらないんだ……」
「ケチじゃなくて、守銭奴。聞こえてるし。何なら、ここで茶の代金請求してやろうか」
「うわ、地獄耳! やめてよ、仲間達に怒られちゃう!」

確認しなければならない。もし彼女が天使を欺き、拒絶する事が出来る存在であるなら、ヤコブはウリエルになる前に生涯を終えてしまう。
それはそれで彼の人生だ。しかし、サラカエルの心情を思えば――否、ニゼル=アルジルからしてみれば、堪えられる仕打ちではない。
ここにくるまで、かなりの月日を要した。覚悟とまではいえないが、自分も親友の転生を見届けたいと無理を言い、殺戮達に同行したのだ。
……正式に天使として覚醒した後は、彼にヤコブとしての、或いは鳥羽藍夜として生きた記憶や思い出は残っていないかもしれない。
再会した後、つい初対面である事を忘れて馴れ馴れしく接してしまい、完膚なきまでに拒絶されてしまうかもしれない。

(それでも、藍夜は寿命を終えたんだ。今度はちゃんと、サラカエルに返してあげなくちゃ)

それでも興味があった、好奇心は疼いた……つまりはいつもの悪癖だよねと、ニゼルはヤコブ本人に気取られないよう自嘲の笑みを零す。
訝しむような顔で、夜色髪の青年がこちらを見た。彼が他人の変化に敏感であるのは、鳥羽藍夜の頃から何一つ変わっていないらしい。

「えっと……ああ、そろそろ宿に戻らないと。長居しちゃってるし、仲間が心配してるかもしれないし」
「そうか、俺も昼のバイトに行かないとだしな……っていうか、滞在費ぼったくり金額だろ? 観光もほどほどにしといた方がいいぞ」
「うーん、あはは。でも、ずいぶん働くんだね。疲れてない?」
「お袋の薬代が高くついてるからな、仕方ないさ。俺なら大丈夫。まだ若いし、平気だろ」

肩を竦めて、ヤコブは一足先に奥の部屋に声を掛けてから表に出てしまう。馴染みのある仕草に、つい着いて出るのが遅れてしまった。
慌てて席を立ったニゼルは、ふと、奥の部屋から彼の母親と思わしき女性が顔を出し、こちらを見ているのに気付いて頭を下げる。
顔色が悪い。ろくに栄養を摂っていないのか、頬も首筋も痩せていた。時折、彼女の体を切り刻むようにして、湿気を帯びた咳が放たれる。
思わず駆け寄り、背中をさすった。一瞬驚いたように羊飼いの顔を見上げた女は、花が綻んだように小さく笑う。

「ごめんなさいね、こんな格好で。あの子が家にお友達を連れてくるなんて、とても珍しい事だから」
「お、お友達だなんて。やだなあ、まだ全然そこまでじゃ、」
「無愛想な子で、誰に似たのか……でも、あたしにとっては、何より大切な宝物なの。あのひとと愛し合った、何よりの証明だから……」
「旦那さんとは恋愛結婚だったそうですね。ヤコブさんから聞きました。天使の研究をしていた、凄い人だったんだって」
「ええ、そう。あたしは、あのひとの事が大好きだった……今はもういないけれど、でも、ヤコブがあたしの元にいてくれたら……ねえ」

「それが、彼の運命をねじ曲げてしまう願いであったとしても」。決して、彼女が明確にそう言葉にしたわけではない。
しかし、ニゼルはたった今、彼女にそう宣戦布告されたような想いだった。こちらの心を見透かすように、ヤコブの母はにこりと微笑む。

「このあたりは、日が暮れるとあっという間に暗くなるから。まだお昼過ぎだけれど、そうだねえ、お早く、帰られた方が宜しいと思うわ」
「あ、ありがとう御座います。そうします……お茶、ごちそうさまでした」

恐らく、二人の家を出れば、すぐに殺戮の天使と合流出来る筈だ。最早、慣れてしまった感覚だった。
その光景すらも、この女性は見抜いているというのだろうか。果たしてサラカエルは、彼女にどんな感情を抱くだろう。
悟られないように微笑み返した。昔から、それこそハイウメやインディコールに対しても、必要であれば満面の笑みで対抗していたのだ。
彼女が何者であれ、敵対関係である確率は高いといえる。自分は、ヤコブの、鳥羽藍夜そのひとの心を尊重する事が出来ているのだろうか。
今すぐ、かつての親友に尋ねてみたくなった。すっかり冷えた茶を、あおって飲み干す。逃げるようにして、ニゼルは小屋から飛び出した。





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 UP:19/04/05