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楽園のおはなし (2-36)

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「鳥羽藍夜が死んだ」。戻ったニゼルがぽつぽつと告げた報せに、一番早く泣き始めたのはアンブロシアだった。
信じられない、そう言わんばかりの表情で言葉をなくした娘の目から、ぼろぼろと大粒の雫が滴り落ちる。
ニゼルは、困ったような笑みでそれを見た。親友と揃いの、かつて自分で編んだアルジル羊毛製のハンカチで、そっと涙を拭き取ってやる。

「……嘘。……早くない?」

悲痛な声色と共に、琥珀が席を立った。本当だよ、淡々とした口調で、ニゼルは簡単に返事をする。

「むしろ、今までよく保った方じゃないかなあ。雷霆、あんなに色んなひとから使うなって言われてたのに、全然お構いなしだったから」
「……ニゼル=アルジル。お前は、辛くはないのか」
「うーん、なんか実感わかなくって。これからどうしようかなー、墓守は星の民のひと達に続けて貰えばいいだけだけど」
「ニジー。ケツは、そういう事を言ってるんじゃないと思うんだケド」

琥珀、そしてシリウスが同時に眉間に深い皺を刻んだのを見て、羊飼いは苦笑いのような、それでいて今にも泣き出しそうな顔で微笑んだ。
騎獣は、たったそれだけの反応で言葉を喉奥に押し込んでしまう。琥珀もシリウスもいいこだなあ、胸中でのみ、感心を吐き出した。

「藍夜の家はさ。輪の国の血筋を引いていたから、お墓や墓参りの習慣をすっごく大事にしてたんだよね。けど、俺の家は結構曖昧でさ……
 命を刈り取る事も含めて羊を飼ってたから、たとえお墓をたてたとしても、亡くなった人にしがみつくような真似はしてこなかったんだ」

ちょっと薄情だよね、今度こそ表情に苦いものを滲ませて、ニゼルは居合わせた面々に笑いかける。

「死んだ人は、一度冷たい地面の下に行って、生前の行いの善悪を裁かれてから星になって、天から降るようにして生まれ変わるんだって。
 死んだら必ず地下に行かないといけないんだって。それを守らないと、冥府の神の仕事がなくなってしまうからって……藍夜が言ってた。
 うちの羊だって藍夜だって、それに暁橙やマトリクスさんだって、今頃同じところにいる筈だよ。なら少しは寂しくないんじゃないかな」
「そんな、そんな輪廻転生のおとぎ話などどうでもいい。お前は今、辛くないのかと俺も妻も聞いているんだ、ニゼル=アルジル」
「ここで俺が『藍夜が死んじゃった、どうしよう』なんて取り乱したら、困るでしょ? 俺も困るよ、本当に落ち着いちゃってるんだから」

一角獣の咎めるような視線が、身を抉っていくようだった。羊飼いは小さく嘆息して、泣き止まないアンブロシアの背中を撫でてやる。
こちらを見つめ返す葡萄色の瞳は、何かを訴えかけているようだった。肝心の本人は口元を震わせるばかりで、声が形になろうとしない。

「ほら、どのみち、あのままにはしておけないからさ。暁橙の時と同じだよ……きちんと、見送ってあげなくちゃ」

食事を終えた魔獣らを急かし、片付けを急がせる。そこでニゼルは、つい先ほどまでいた筈の殺戮の姿が、まるで見えない事に気がついた。
どこに行ったんだろう……疑問が口をついて出かけたところで、ふと隣のアンブロシアが服の裾を弱々しく掴んで、引いてくる。
娘は、何かを躊躇うように視線を床上に這わせた。小声で促してみると、泣き腫らした目を拭いもせずに、布を掴む手に力を込める。

「ニゼルさん。サラカエルさんの事なんですけど」
「アン? サラカエルがどうかしたの?」
「あの、対天使というのは――」

アンブロシアは、何かを決心したように顔を上げた。しかし、不意に彼女の発言を遮った者がいる。

「――ふん、『対天使は対を喪うと酷い虚無感に襲われる』、『だから気に掛けてやってくれ』だろ、アクラシエル。余計なお世話だよ」

二人の肩をそれぞれ掴み、サラカエルが無理やり会話を打ち切らせたのだ。あまりの強引さに驚いて、二人は殺戮の顔を見上げた。
サラカエルは、小馬鹿にしたような表情で悲劇の天使を嘲笑う。びくりと肩を跳ね上げさせるアンブロシアの手を、ニゼルがぐっと掴んだ。

「サラカエルは寂しくないの? 藍夜が死んじゃったんだよ。俺は寂しいって思ってるけど、サラカエルは平気なの?」
「昔から審判の度に失ってるんだ、今に始まった事じゃないさ。アクラシエルと一緒にしないで欲しいね。仕事柄、痛みには慣れているし」
「でもさ、審判のときはウリエルの護衛をしてたんだよね。今回みたいにサラカエルだけが無事、ってケースは稀なんじゃないの?」
「やあ、なんて応えて欲しいのか知らないけど、そのうちまた生まれてくるだろ。子供じゃないのだし、気に病むだけ損だよ」
「何それ? 子供っぽく拗ねてるのはどこの誰なの、アンに八つ当たりしないでよ。辛いなら我慢しなきゃいいのに、意地張りすぎでしょ」
「……やあ、人間の分際でよく喋る口をお持ちだね。慣れておかなきゃいけない事例なんて、ヒトの世にだっていくらでもあるだろ」

殺気は感じられない。ぶつかり合っていた目線を、サラカエルの方が先に外す。
ニゼル達の気遣いを鼻で笑い飛ばし、男は足早に喫茶店を出て行った。

「……大丈夫。サラカエルって、藍夜そっくりだから」

思いのほか強い力で手を握り返してきたアンブロシアに、ニゼルはそっと笑みを投げる。任せろとばかりに、羊飼いは天使の背中を追った。

「サラカエル! ……あ、」

幸い、サラカエルの速歩は存外緩やかだったらしい。すぐに追いついた事にほっとするニゼルだが、殺戮の目線は羊飼いには向けられない。
黒い衣服の向こう、鳥羽暁橙の墓の真横に、二人は見知った男の姿を見つける。相手は、こちらに気付くと同時に深く頭を下げた。

「お久しぶりです。ニゼルさん、サラカエル」
「ラファエル。どうしてここに」
「……先生」

翠の瞳が柔らかく微笑む。その笑みに、僅かに悲しみの情が滲んでいるような気がした。

「ゼウス様から伝言です。『トバアイヤの転生が確認された際に、話がある』と……しばらくは、告知天使の動向待ちとなりそうです」
「そうですか。彼の方は、ずいぶんと気がお早いようですね」
「そう言わないでくれ、サラカエル。ゼウス様の器の消耗が予想よりも早くてね……あの方なりに、焦りがあるのだろう」

今のは聞かなかった事に、そう言う顔は疲れていて、鳥羽藍夜の死を悼みながらも未だ大神の傘下にある事に胸を痛めているように見える。
ある意味、板挟みだ。彼には彼なりの苦労がありそうだなあと、言葉を選びながら慎重に物言う天使に、ニゼルは呆れたように嘆息する。
それでも心を変える事は難しい。インディコールの顔を思い浮かべただけで、全身に鳥肌が浮くような嫌悪感が沸いて仕方がなかった。

「っていうか、俺はあいつに会いたくないんだけどねー。話って、今は駄目なの?」
「へえ、君はウリエルの弔いを投げると。そう言いたいわけか」
「そんな事言ってないでしょ。ただ、ラファエルも大変そうだなーって」
「僕は大丈夫ですよ、ニゼルさん。ただ、いくら転生すると分かっているとはいえ、親しい者が亡くなるのは……不慣れで、いけませんね」

伝えるべき事は伝えたと、ラファエルは丁寧にもう一度頭を下げた。お疲れ様、胸中でニゼルがそう返す頃、既に天使は姿を消している。
器の消耗。治癒の天使やアンブロシアでさえ、仲間の死を悼むというのに。大神にとっての他者とは何なのだろうと、羊飼いは息を吐いた。

「……話、か。ろくでもないもののような気がするな」
「同感ー。藍夜の見送りをしようって時に、蛇足だよねー」

着いてこいと、サラカエルはニゼルを促す。彼の事だ、親友が寿命を終えたその瞬間、恐らく傍でその光景を見守っていたのかもしれない。
黒塗りの背中が、やけに小さく見えた。そういえば、喪服代わりの服なんて持ってなかったな――天使の後に続きながら、霞んだ目を拭う。
ふと、冷たいものを手の甲に受けて空を仰いだ。彼の日のように、また、細やかな俄か雨が降っている。牧草を、強く踏み抜いた。






……どこかで、誰かが自分の名を呼んでいる。

目を開いたとき、見知らぬ風景が広がっていた。暗い、どこまでも冥い、寒々とした空気が滞留する暗闇だ。
そうか、自分は死んだのだ――なんとなしに、そう思う。眠気に流されるまま目を閉じ、椅子にもたれた後。そこから先の記憶はなかった。
直前まで感じていた強烈な眠気はおろか、痛みも餓えも、悲しいと思う感情もない。「死」が思いのほか優しいものであった事に驚く。
あのように、冥いところに少しずつ沈んでいく感覚を現世では老衰と呼ぶのかもしれないと、オフィキリナス店主はひとり頷いた。
耳を澄まし、藍夜はふと肩を竦める。死者が辿り着く地、冥府。その入り口は、常にレテ河のせせらぎが流れている筈だった。
しかし、水音はおろか匂いすら漂ってこない。ここはレテ河の岸辺ではないのだろうか……考えても仕方がないかと、周囲を探る事にする。

(そういえば……ニゲラと逢えたのは、こんな暗闇の中だった)

あのとき。喰天使に敗北し、生と死の狭間を彷徨ったあの日。自分はこんな漆黒の空間の中で、彼の日の最愛の女性の姿を見る事が出来た。
考えてみれば、今の状況はあのときとよく似ている。もしや、また彼女を目にする事が叶うのではないか。儚い希望が脳裏を掠めた。

『――っ、う!?』

刹那、視界が閃光に塗り潰される。思わず手のひらを眼前に構えた藍夜は、そこではっと息を呑んだ。
閃光。確かに「眩しさ」を感じたのだ。だというのに、彼を照らす眩い光は、闇を煮詰めたような真っ黒な色をしている。
冥い光の奔流。藍夜は薄目で、そろりと光の出所を探った。全身が黒塗りの光に照らされ、闇の中にその有り様を浮かび上がらせている。

『……これ、は』

そうして顔を上げた、その瞬間。閃光がなりを潜め、ようやくまともに視界が開けた、その刹那。
目の前に、いつしか一本の巨木があった。巨木と分かったのは、その大樹に若々しい葉と、瑞々しい果実が鈴なりに実っていたからだ。
全てが黒一色に塗り尽くされた、見事な林檎の木。艶めく果実の一つ一つに、呆然とそれを見上げる自分の顔が映し出されている。
微かに、冷たい空気に苹果の香りが綻んでいた。確かに黒という不可思議な色をしていたが、紛れもなくそれは林檎の木なのだと確信する。
何故、こんなところに果樹が生えているのか。そして何より、ここは一体どこなのか……混乱を振り払うように、藍夜は頭を振った。

 ――、

心臓が跳ね上がる。今度こそ、誰かに己の名を呼ばれた。どこからともなく、何者か分からない、それでいて妙に聞き覚えのある声が響く。
あたりを見渡しても、ここに在るのは自分と黒い林檎の果樹ひとつきり。だというのに、藍夜はまるで胸が締めつけられる思いだった。
知っている誰かが、自分を呼んでいる。その人物の姿も思い出せないのに、その事実が、自分が酷く薄情者であるような気分にさせられた。
たまらない、いてもたってもいられない。拳を握り、焦燥に身を焼くように口を開く。なんとしても見つけなければと、言葉を探した。

『誰か、……誰か、いるのかい!』

大きく声を張り上げれば、名を呼ぶ声が遠退く感覚を覚えさせられる。慌てて口を閉じ、冥い光の中、気配のする方に目を向けた。
……いつしか、何かが、何者かが、木の根本に佇んでいる。その姿はまるで目に見えないのに、確かにそこに誰かがいると、藍夜は知った。
こちらを見ている。名を呼んでいる。こちらに来いと、近寄れと、夜の砂原に吹く弱々しい風のような音で、藍夜の名を呼んでいた。

『……ああ……君は。あなたは……』

漆黒の影、冥い光を宿す眼差し、木の根本にただ在るだけの、たったひとつ、唯一無二の存在。
たとえばそれは、春の日のぼんやりとした朝焼けや、夏の日の満天の星、秋の日の真っ赤な黄昏の空、冬の日の純白の雪景色のように。
また、刹那的で儚く、途方もなく遠いところにある、それでいて身近なところからこちらを見守るだけの、掴み所のない夢現のような。
そのように、実体という概念自体が朧げなものが、鳥羽藍夜――審判官ウリエルという生命を、真っ直ぐに見つめている。
暁にみる夢。白昼のさざめき。黄昏の色。真夜中のまどろみ……包み込むような柔らかさと穏やかさを内包する、漆黒の光の塊。
それと向かい合っただけで、自分はこれまで、とても大切な事を忘れていたのだと思い知った。歩みを進め、殆んど無意識に手を伸ばす。

『すまなかったね……あなたは、ずっと僕を捜していたのだろうに。ここに来るまで、ずいぶんな時間が掛かってしまったようだ』

ぼんやりと透ける影をすり抜けて、伸ばした手のひらは大樹の幹に触れた。樹皮越しに、木の根が地下から水分を吸い上げる音が聞こえる。
母胎の中の赤子が微かな鼓動を奏でるように規則正しい音色は、次第に鳥羽藍夜という存在を、冥い光の中に落とし始めていた。

『僕を、連れて行ってくれるのかい。お願いだ、どうか僕の友人らには、あなたの……』

声は掠れ、視界は眩み、音が遠退き、全身から力が抜けていく。抗い難い心地よさに、ついに藍夜は両目を閉じた。
ゆっくりと、ヒトとして在った筈の器が七色の砂粒に変換され、肉体から剥がれ落ち、鳥羽藍夜という人間を消失させていく。
……黒塗りの大樹は、傍らのぼうとした冥い影とともに、その様子を静かに見守っていた。
葉がざわざわと音を立てて揺れ、果実がいっそう黒く艶めき、彼という存在をただ暗く冷たい地の底へ手招くように、穏やかに其処に在る。
刹那、一陣の強烈な風が吹いた。世界が遠退く、波にさらわれるように離れ行く。藍夜の五感は、すぐに遠い地へと誘われた。
一時の夢のように、酷く懐かしく見えた黒の林檎とその傍らにある影は、あっという間に心から剥離されていく。






(――どこかで、誰かが自分の名を呼んでいる……)

「……ブ、……ヤコブ。起きなさい」

はっと目を覚ますと、目の前に中年の女の青白い顔があった。歳は三十代の終わりを迎えようという頃で、お世辞にも美人とは言い難い。

「あれ……ここは?」
「どうしたのだい、この子ったら、まだ夢を見ているのかしらねえ」
「……夢? そうか、夢か。いや、なんでもない」

ようやく頭が冴えてくる。そうだった、俺の名は「ヤコブ」。この小さな掘っ建て小屋に暮らしている、まだ青くさい若造だった。
そしてこの目の前にいるひとは、自分にとって最愛の女性だ。両目をこすり、まだ起きたくないと主張する体に鞭を打って跳ね起きる。
ぱらぱらと視界をかすめる夜色の髪。父にも、そして眼前の母にもまるで似ていない珍しい色だ。俺自身は、この髪が全く好きでなかった。

「……うー……それにしても、眠いな」
「無理をしてはいけないよ。何なら、今朝の配達は休みますとあたしから連絡をしておこうか」
「いや、それは流石に不味いと思う。いいよ、大丈夫だから」

寝具の横に置いた小さな棚から、髪を結う紐を取り手早く纏める。うなじ付近で一つ結び。肩甲骨あたりで留めていても、やはりうざい。
散髪してしまえば済む話だが、母が昔からこの髪をいたく気に入っているので、ずるずるとここまでなんとなしに伸ばしてしまった。
伸びをして平たい靴を履き、寝具を離れる。咳き込みながら着いてこようとする母を、俺は片方の手のひらを上げ、ぴっと向けて制止した。

「じゃ、行ってくる。配達が終わったらついでに薬を貰ってくるから、ちゃんと寝ててくれ」
「……ごめんね、ヤコブ。お前くらいの歳なら、まだ遊びたい盛りだろうに」
「どうしたんだよ、お袋。大丈夫だから、ほら、寝た寝た!」
「ああ、そうするよ。帰り道には気をつけるんだよ」
「子供じゃないんだし、問題ないから……あー、あと、朝飯と昼飯適当に買ってくるから。起きてないで、本当にちゃんと寝ててくれよ」

母……お袋は、長い事原因不明の病を患っている。咳が止まらず、本来備わっていた筈の体力は落ち、気落ちする事も多くなった。
こうなった原因はだいたい見当がついている。お袋は今は亡き親父が大好きだった。俺が二十歳の頃に死別したので、寂しいとは思わない。
ただ、十年以上の片思いを経て結婚に至ったというお袋にとって、親父の死は何より耐え難いものだったのかもしれないと俺は思う。
住み慣れた地を離れ、こんな田舎なのか都会なのか分からない半端な街に暮らす事を強いられ、日に日にやつれていく姿は見ていて切ない。
それでも、俺達はこの街に……「善き羊飼いの住んだ街」に移住するよりなかった。元の故郷では、俺達は鼻つまみ者になっていたからだ。

「おはよう、盗っ人の息子。ああ、元院生だったっけ?」
「ひひっ、おいおい、言うなよ。相手は『天使様』だ、呪われるぞ」

お袋が大学合格の折に買ってくれた古風な二輪車を引いて坂を下る途中、別の牧場の跡取りであるガキどもが、すれ違い様に俺を嘲笑う。
金の掛けた服と装飾品をちらちら光らせ、にやにやと意味深に笑うその顔は、この街に来て数年経った今も腹が立って仕方なかった。
そもそも、俺は「お袋が泥棒だ」とは思っていない。わざとらしく頭をぺこりと一つ下げて、屁でも何でもないという風にまっすぐ進む。
ガキどもの悔しそうな声が聞こえた。結局のところ正直である方が後々勝つんだ、俺は気取られないよう口端を吊り上げ、二輪車に跨がる。

「……今日は洗濯日和だなあ。後で布団でも干しとくか」

それより雨漏りを直す方が先かもしれない、ぶつぶつと口内で段取りを練りながら、表通りに面するちっぽけな印刷所に車輪を急がせた。

「おーう、ヤコブ! 今日は数分遅れたな。お袋さんの具合、悪いのかい」
「待たせて悪い、おやっさん。いや、俺が寝坊しただけ。急いで配るから、時給引きは勘弁してくれ」
「ははは、バカ言うな。時間を気にしてくれんのはお前さんくらいのもんだ! 他の配達員も、ちったあ見習えってなあ」
「あー、またそういう事言う。奥さんに叱られるだろ、やめとけって。言いたくなるのも分かるけど」

独特のふわふわとした臭いは、印刷に使っているインクが豆から造られているものだからだと聞いた事がある。
善き羊飼いの街の唯一の新聞社、レティ社は、情報収集から編纂、試し印字に本印刷、それら発行物の配達まで、幅広く業務を担っていた。
奔放な記者や編集者、作業員に配達員と、様々な人間がこの印刷所に出入りする。俺は、ここの社長さんにすっかり世話になっていた。
俺や親父とは真逆の、人情味溢れる豪傑だ。貯えもないまま帝都を放り出された俺とお袋を哀れんで、早朝の配達業務を任せてくれている。
当初は、必要最低限の金さえ用立ててくれていた。ここ以外の場所、時間を使ってがむしゃらに働けど、未だに完済の目処は立っていない。

「って、愚痴はこのくらいにしておくか。働かざる者食うべからず、だったよな」
「いやあ、しっかり者だなあヤコブは。よし、そら、今日の分だ。広告のせいで重たくなってるが、宜しくな」

社長さんはその昔、経理を任せていた腹心の部下に脱税を謀られ、罪をなすりつけられてこの街に越すはめになったという。
善き羊飼いの街……この街はその実、何らかの事情で帝都にいられなくなったならず者達を受け入れる罪科の街として知られる街だ。
そうは言っても、南方の土地にしてはここら一帯は空気が澄んでいたから、お袋の病状を考えてみれば引っ越してきたのは正解だった。
先の牧場跡取りのように、あからさまに見下してくる連中も中にはいるにはいるが、お袋はもちろん俺自身も悪い事はしていない。
堂々としていればいい。そうする事で、いつか俺達の事を本当の意味で理解してくれるひとが、現れるかもしれない。俺はそう信じている。

「じゃ、おやっさんも夕刊の刷り、頑張ってくれ。奥さんに宜しくな」
「おう。嫁ちゃんはなあ、今大事な体だからな。稼ぎ時だ! ヤコブ、お前さんも運転気をつけるんだぞ!」

片手を振って、印刷所を後にした。籠と後ろの荷台に山のように積んだ朝刊を崩さないように紐できつく縛り、二輪車を慎重にこぎ出す。
今朝も、とにかく嫌みったらしいくらいによく晴れていた。代わり映えのない、所詮は負け犬同士が肩を寄せ合うだけの、その日暮らしだ。
それでも、俺はこの暮らしを気に入っている。蔑まれようと、馬鹿にされようと、お袋がいてくれるならそれだけでいい、俺は幸せ者だと。

……代わり映えのないものなど、本当はこの世にはひとつとして存在しない。このとき俺は、まだそんな簡単な事さえ知らずにいた。
日常を叩き壊すものは、ある日、音もなく突然目の前に現れる。今日という日は、まさにそんな始まりの日に違いなかった。





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 UP:19/03/31