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楽園のおはなし (2-35) BACK / TOP / NEXT |
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「呆れた。いや、今回ばかりは本当に呆れたよ。どこまでウリエルの足を引っ張れば気が済むんだろうね」 「うう……言わないでよー……っていうか、なんかここのところずっと俺に冷たくない? サラカエル」 「二人とも、その辺で止したまえよ。ニゼル、君も反論などしていないで休んでいたまえ」 もう少し上等な寝具でもあればいいのに、とは誰も口にしなかった。現在、酔ったニゼルによって一行は完全なる足止めを喰らっている。 ふにゃふにゃとした声からは、反省の色は見えなかった。そのせいか、或いは彼に地母神の影を見るからか、殺戮のあたりは異様にきつい。 窘めながら、藍夜は短く嘆息する。ニゼルの周囲には目覚めた鷲馬達がちょろちょろしており、寝ろという方が難しい事のように思えた。 「ねえ、見てよ藍夜。俺、モテモテじゃない? 人間の女の子にはモテなかったんだけどなー」 「馬鹿な事を言うものじゃないよ、君の場合は仕事、いや、羊にかまけていたせいだろう。気にする事はないよ」 「うん、うーん、それはいいんだけどねー……珊瑚ー? 痛いよー、俺は軟骨でも生肉でもジャーキーでもないんだよー」 白羽根の真珠は羊飼いの横でうろうろするだけだが、黒羽根の珊瑚はやんちゃ全開で、髪を嘴で引っ張ったり、頬を突っついたりしている。 散々弄ばれながらも、ニゼルは柔らかい羽毛を前に、にやにやと幸せそうに笑っていた。完全に手出し無用である。藍夜は二回嘆息した。 「ウリエル、ちょっと」 「……なんだい、サラカエル」 ふと対天使に手招きされ、馬小屋の裏手に出る。 「どう思う。あの間抜け、まさかと思うけどヘラ様と同一人物だと思うかい」 ヘラの話か、身構えた通り、サラカエルの声には重いものが含まれていた。件の女神に恩義があるのはどちらもだ、藍夜は小さく頷き返す。 「はあ……やっぱり、君もそう思ってたか。嫌だなあ、あんな間抜けがヘラ様だなんて」 言い返そうとして、言葉を呑んだ。対天使の声には僅かながら、柔らかさ、つまり親愛の情のようなものが込められていると感じたからだ。 存外、彼はニゼルの事をさほど悪く思っていないのかもしれない。一人頷いてから、藍夜は窓越しに小屋の中を見る。 相変わらず、羊飼いはヒッポグリフの双子に纏わりつかれていた。琥珀とシリウスが剥がそうとしているが、逆効果のように見える。 「ニゼルの良いようにさせるさ。僕には、遺せるものが何もないからね」 「また、そんな言い方を……ウリエル、君は命が尽きてもそのうち戻ってこられるのだから、」 「その頃にはニゼルが寿命を全うしているかもしれないじゃないか。サラカエル、彼がヘラ様であるかどうかは、憶測の域を出ていないよ」 仮に。もしかしたら。ひょっとすると……その予想は、あくまで希望的観測にすぎないのではないか。 いつまでもこの日々が続けばいいと願っているだけ、その場しのぎのぬるま湯に浸っているだけ……藍夜はサラカエルに苦笑を返した。 「昨夜の話と矛盾するがね、僕も今は簡単に死ぬつもりはないよ。少しはニゼルを見習って、気を抜いて過ごしてみようと思っているんだ」 「いや、あれは。あの間抜けは、何も考えてないだけのようにしか見えないけどね……」 「言わないでおくれよ。何、病も気からというそうだからね。琥珀達を見ていたら、僕も過去にこだわり過ぎているように思えたから」 「へえ、それは……いい心がけなんじゃないかな」 「ありがとう、サラカエル……それで、ヘラ様とニゼルの関連についてなんだがね」 「うん?」 「僕としては、ニゼル本人に自覚がないようだからあまり問い詰めないようにしようと考えているんだ。君はどうかな」 「どう、と言われてもね」 対天使は返答に困った、という顔をする。首を傾げ、喉奥で小さく唸った殺戮は、鼻で笑うようにして嘆息した。 「君の言うように確定ではないしね。というか、ヘラ様があんなのと一緒とか考えたくもないよ」 「……なんだろうね、話が堂々巡りになってきているような気がするんだが」 「そもそも、言ったところできょとんと間抜け面をされるのが目に見えているじゃないか。僕はそんな間の抜けた応酬は御免だよ」 それもそうか、藍夜は腑に落ちないような心地半分で頷き返す。そりゃそうだよ、サラカエルはついにそっぽを向いてしまった。 ……ニゼルとヘラ。種族も身分も立場も、本来はまるで異なる筈の二人。 似ている、同一と思わせる兆候が重なりすぎて、近頃は戸惑いは濃くなるばかりだ。特に、サラカエルはたまったものではないだろう。 彼はかつて、ラグナロクの直前、不在にする事の多かったアンジェリカに代わり、ヘラの仕事の補佐や身の回りの世話を買って出ていた。 ヘラが自然体の我が儘を振る舞い始め、対天使の感覚経由でリラックスした心地が伝わり、自分も嬉しく思っていた頃に事件は起きたのだ。 平和な世界にも、いつか終わりは訪れる。その覚悟が足りないばかりに、自分自身、ここ最近は落ち込んでしまう事も多かった。 「問題ないさ、サラカエル。ニゼルは、僕が命を終える時でさえ態度を変えずにいるだろう。僕もその図太さに、あやかりたいだけなんだ」 このままではいけない――藍夜は、精一杯の笑顔で殺戮を見る。サラカエルは、片眉を上げ、物言いたげな顔で口を一文字に結んでいた。 「……ふん、なら、あの酔っ払いを早速どうにかして欲しいもんだね、ウリエル」 「いや、それは……流石に無理難題というものじゃないかな、サラカエル」 彼の嫌みは、親愛の証だ。隠さずに苦笑いをしていると、訝しむ鋭い目線が突き刺さってくる。 片手でそれを流し、一行と今後の予定を打ち合わせるべく、藍夜は馬小屋に戻った。 ……季節は移ろい、変わりいく。時間は、惜しんでいるときこそ早くに過ぎ去るものだ。 琥珀から借りた神具の撮影機を構えながら、ニゼルはレンズの向こうに立つ親友の姿をじっと見た。 夜色の髪、左右異なる色の瞳、成人過ぎの男性にしては低い背丈。相変わらず綺麗な顔をしている。ただ、彼は疲労しているように見えた。 二人を囲むのは、青々と光り輝く草原、年季の入った建築物、微かに鼻を突く動物の体臭だ。 澄んだ空気を慌ただしく運ぶ風は、二度目の初夏の訪れを告げている。 「どうしたんだい、ニゼル。撮らないのかい」 「……うーん、そうしようかなーと思ってたんだけどねー」 羊飼いは、苦笑と共に自身の足下、次いで頭上に目を向けた。 彼の腰から下には幼い複数の一角獣が纏わりついていて、頭には黒羽根の珊瑚が特等席とばかりにどしりと乗っている。 では真珠はというと、二人にとって馴染み深いある建築物の前で、両親に抱えられながら、自慢の白い羽根を整えて貰っていた。 ……馴染み深い建築物。二階建ての淡い色で統一された煉瓦造り、一方、屋根は赤混じりの茶色の煉瓦が覆い被さり、愛らしい印象がある。 劣化していた木製の柵は全て新しいものに差し替えてあり、牧草をぐるりと大きく囲み、既に牧場としての機能が取り戻されていた。 元アルジル牧場。かつての故郷を前に、しかしニゼルと藍夜は、感傷に耽る暇を与えてくれない仔供らを前に苦笑する。 「ほら、君達、離れたまえよ。ニゼルが困っているじゃないか」 「藍夜、あーいや。動物苦手なんだから、無理しなくても大丈夫だよ」 「しかしね、ニゼル。というか、珊瑚。君はまたニゼルに乗っているのかい」 「なんだろうねー、これ。癖になっちゃってるよね……ほらっ、珊瑚! 退いた退いた!」 投擲された鷲馬は、ころころとボールのようによく転がり、起き上がると同時にぷるぷると小さな頭を振った。 懲りずに寄ってくる仔に、二人は遊び半分ながら、やいやい言い合いながら、彼を羊飼いの頭から引き剥がそうとする。 ――あれから数年を掛けてイシュタル帝国を離れた一行は、パーピュアサンダルウッド王国に戻るや否や、北の地を目指して旅を続けた。 シリウスの助言を元に、故郷ホワイトセージ近辺に移り住んだという星の民の現状を確認する、というのが建て前の旅路である。 心境は複雑だった。殊に、藍夜に至っては最愛の家族の墓守を辞めて数年が経過している。 だというのに、転移術は鳥羽藍夜の体に負荷を掛けるからと、サラカエルをはじめとした天使達が使用に賛同しなかったのだ。 『大げさ? いやね、ウリエル。この間抜けも人間の身なんだし、無理をさせて後から文句を言われたら、たまったものじゃないからね』 『そうですよ、藍夜さん! わたしからもお願いします。シリウスさんやアンバーくんだって、仔育てしながらの移動になるんですよ』 ……従って、財政難から廃墟となりつつあるホワイトセージの街並みを徒歩で抜けた一行だったが、新たに目にした光景には驚かされた。 移住した星の民は、丘の上の環境が合っていたのか、元オフィキリナスとアルジル牧場の周辺で和気あいあいと暮らしていたのだ。 随分と図太い精神だね、着くと同時にこちらを見ながら嫌みを飛ばしたサラカエルの顔を思い出し、ニゼルは小さく噴き出す。 とはいえ、藍夜は到着から数ヶ月のうちは沈んでいた。鳥羽暁橙の墓の前で、日没まで無言で立ち尽くしている事もあったと記憶している。 それでも、周囲による気配りや、新しく産まれた元気いっぱいな一角獣らを前に、彼の表情は少しずつ明るくなっていった。 落ち込んでいる暇もないからね、ここ最近の鳥羽藍夜の口癖である。一度取り出したカメラを鞄にしまい、ニゼルは雲一つない空を仰いだ。 「ここに来てから、もう一年が経つんだねー。なんだかんだ、平和だよね」 「というかね、ニゼル。僕達はいわゆる、無職というやつなんだが……このままではよくないと思うのだがね」 「えー? もっとゆっくりしてていいんじゃない? よく分かんないけど、シャムさん? も生活を保障するって言ってくれてるし」 「シャムさん、か。確か、星の民の神官長だったね。何故僕達にそこまでしてくれるのだろう」 「さあ。俺がシリウスの雇用主だからとか? そういえば、あのひとシリウスに凄くよそよそしいって聞いたなあ。何か揉めたっけかなー」 移住の話を持ちかけたのは、他でもない、自分とシリウスだ。出会った当初、青ざめた顔でこちらを見た老婆の慄く姿が脳裏を過ぎる。 ニゼルは、すっかり話しそびれていた一連の流れを親友に話した。藍夜はふむ、と頷いて、しばらく考え込む仕草を見せる。 「しかしね、いくら予想したところで彼女の本心など、僕には皆目見当もつかないところだよ」 「がくっ、って、何それ? 藍夜が気になるって言うから話したのにー!」 「僕にだって分からない事の一つや二つあるというものさ。さて、ニゼル。そろそろ昼食時だろう、牧草の支度を済ませてしまおう」 いつもの彼なら、もう少し理屈をこねて思考を巡らせるところだろうに……早くに打ち切られた話に、羊飼いは小さく首を傾げた。 とはいえ、のんびりしている猶予もない。藍夜に促され、慌ててその背中を追う。 実際、無職とは名ばかりで、ニゼル達は故郷をなくした星の民のケアを、彼らの生活を手助けする形で担ってしまっていた。 食事の支度、毛並みの手入れ、餌となる牧草の刈り取り、天日干しの作業など、気がつけばそれなりに多忙な日々だ。 乾燥させた牧草を桶に詰め込みながら、ニゼルは隣で使い慣れないフォークに悪戦苦闘する親友の丸められた背中に苦笑する。 いつまで、この平穏な生活を続ける事が出来るのだろう……誰もが口に出来ないその不安を、笑みを止めると同時に喉の奥へ押し込んだ。 (少しでも藍夜の姿を残しておけるようにって、写真を撮ろうと思ったんだけど……やっぱり無理だなー、割り切れない事ってあるよね) 柵の前に向かい、桶をまだ人型変化が出来ない未熟な一角獣らの眼前に置いてやり、自分達もお昼にしよう、と二人は頷き合う。 見れば、既に琥珀達の姿はアルジル家の横から見えなくなっていた。おおかた食欲旺盛な珊瑚に喚かれでもしたのだろう。 よほど急いでいたのか、珍しく、シリウスの愛刀が壁際に無造作に立て掛けられたままになっていた。 「ニゼル。忘れ物をしたんだ。応接間に寄ってくるから、君は先に行っていたまえ」 「え? うん……分かった、一人で大丈夫?」 不意に掛けられた言葉に振り向いたニゼルは、何故か藍夜の姿がぼんやりと霞がかっているように見えて、目をこする。 子供じゃないのだから平気さ、親友は朗らかに笑い返し、きびすを返して、老朽化の進んだオフィキリナスへと入って行った。 時々、文句を並べる声が聞こえてくる。あれなら床に足がハマるって事もなさそうだよね、苦笑混じりに嘆息して、喫茶店側に急いだ。 「あっ、ニゼルさん。牧草干し、お手伝い出来なくてすみません」 テーブルに追加の料理を並べながら、アンブロシアが羊飼いを歓迎する。予想通り、鷲獅子と一角獣の夫婦は食事の真っ最中だった。 肉がウマい、俺は喰わんから分からん、と、二匹はニゼル達の前で堂々とイチャついている。仲良しで宜しいと、頷きつつ配膳を手伝った。 「いいよいいよ、大丈夫! それより、アンこそ大変だったんじゃない? 珊瑚も結構、食べるみたいだし」 「大丈夫ですよ。そこは、シリウスさんがお料理を手伝って下さってますから。アンバーくんも、お皿を片付けたりしてくれてますし」 唐突に名前を出された琥珀は、得意げにむふん、と胸を張ってみせる。すかさず、行儀が悪いぞ、とシリウスから注意が入った。 オフィキリナスの喫茶スペースは、星の民らによって元通りとまではいかなくとも、小綺麗に外観と機能を整えてある。 食事や休息を摂るには十分だった。先に食餌を終えたらしい鷲馬の双子が、ニゼルの足下にすり寄ってくる。 なんだか子猫に懐かれたみたいだなあと、珊瑚の嘴の周りをタオルで拭いてやりながら、羊飼いは二匹の腹の辺りを指でくすぐってやった。 「やあ、間抜け。牧場側の一角獣どもの調子はどうだい」 ふと、視界に影が差す。見上げた先、珍しくネクタイを外し、上着を脱いだ姿のサラカエルが、ふ、と小さく休息の溜め息を吐いていた。 彼もまた、星の民のアフターケアに駆り出されている顔ぶれの一人だ。 下手に魔獣――ヘラの別邸で飼われていた鷲獅子の調教経験があったからか、ニゼル達よりもずっと多く呼び出しを喰らってしまっている。 最近、星の民のひとらは俺達にちょっと甘えすぎなんじゃないのかな……口には出さず、うーん、と唸っていたニゼルだったが、 「へえ、返事なし、と。随分と偉くなったもんだ」 「うわ、痛っ! ちょっとサラカエル、デコピンはやめてよ!」 ……顔には出ていたのか、殺戮に指で額を小突かれてしまった。すかさず、とばかりに真珠の嘴が天使のスラックスをついばみ始める。 どうも、白い鷲馬はサラカエルがニゼルをからかう様が気に入らないでいるらしい。足下を突っついてくる仔を、天使はあっさり無視した。 「うーん、牧場側の仔達なら凄く元気かなー。毛並みもいいし、眼だっていつもキラキラしてるよ」 「ふん、そうかい」 「うん? 何、どうしたの。何か引っ掛かる言い方だけど」 「いや、気がついていないならいいさ。これといって、僕達には何の害もない話だから」 どこか含みのある物言いをしたサラカエルだったが、彼はそそくさと紅茶を淹れに立ち去ってしまう。何気なく、ニゼルは彼の後を追った。 アンブロシアと入れ替わる形で台所に侵入した殺戮は、テーブルに出される直前のご馳走の中から、肉を一切れ摘まんで口に放る。 マナーにうるさい彼がする行動ではない。びっくりして固まっていると、なんとサラカエルは、もう一切れを摘まみ上げ、ニゼルに向けた。 食べろと、暗に命令されている。理解が追いつかないまま、羊飼いは素直に照りのある鉄板焼きの肉を、口の中に迎え入れた。 「……? これ、何のお肉だろ。食べた事ない味だなあ、美味しいけど」 「やっぱりか。君の間抜けぶりには、ある意味感心するよ」 「はい? もう、さっきから何なの、サラカエル」 「この肉を始めとした材料は、数年前、星の民の里で食材を渡してきたのと同じ男から贈られたものさ。アクラシエルも、大したもんだよ」 「数年前? あれ? えっと、それって確か、オフィキリナスが動いてたときにも来てたっていう人だよね?」 「人、か。本当にヒトだとよかったんだけどね」 少し筋がある。硬めの歯応えだが、噛めば噛むほど独特の匂いと旨味、肉汁が口内に広がった。 どちらかといえば美味い部類に入る肉だ、ニゼルは純粋にそう評価する。 煮込みが最適だろうにね、サラカエルは何故か眼前の料理に嫌みを飛ばした。彼もまた、アンブロシアの料理には満足してくれていた筈だ。 何故今になって、目の前のそれを嘲笑うのだろう。ニゼルはわけが分からない、という代わりに、親友の癖に倣って肩を竦めた。 「ま、いいさ。それで、間抜け。もう昼も過ぎる頃だっていうのに、ウリエルはどうしたんだい」 「もう、自分から話を振っといてそれなんだから……藍夜? えっと、藍夜はオフィキリナスに忘れ物をしたって……」 何故か。何故かは、確信がまるで持てない。 だというのに、声を出した直後、ニゼルは不意に胸の内に不穏な影が差したのを感じて、はっと顔を上げる。 サラカエルの呼び止める声が聞こえた。それすら振り払い、羊飼いの足はもうきびすを返して、オフィキリナスの応接間に駆け出している。 嫌な予感がした――開け放たれたままの玄関を抜け、入ってすぐ、古びてはいるものの、見慣れた景色の広がる部屋に飛び込む。 「……藍夜?」 嫌な予感ほど、よく当たるものだ。 オフィキリナス元店主は、いつものように、店主専用の特等席に腰を下ろしていた。 使い込まれた手帳は机上に広げられ、ニゼルがある記念に彼に贈った銀毛の護符つきの羽根ペンは、インク瓶に刺さったままになっている。 風が窓から入り込み、彼の夜色の短髪と、シャツの襟を忙しなく揺らしていた。射し込む陽が、荒れかけた室内を不意に明るく照らし出す。 ……親友は、静かに両目を閉じていた。微動だにしない体は、本当についさっき、うたた寝を始めたばかりのように羊飼いの目に映る。 「藍夜……藍夜。藍夜……疲れちゃったの?」 肩に触れ、静かに遠慮がちに揺さぶってみた。答えは返されない――ニゼルは、うん、そっか、とぽつりと息を吐く。 男性にしては長かった睫毛が揺れ、左右異なる色の瞳が空気に晒され、羊飼いを見つめ返す事は、もう二度となかった。 風がそよぐ、快晴の陽が慰めとばかりに草原を輝かせる。それは奇しくも、彼の弟、鳥羽暁橙が落命した日と同日の出来事だった。 |
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