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楽園のおはなし (1-9) BACK / TOP / NEXT |
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屋外からその気配が近付いたとき、琥珀は四冊目の分厚い本を読み終わろうとしていた。 藍染の如何にも難しそうな書物には、著者の嗜好と偏見に塗れているものの神に仕えていた動物達の生態が事細かく記してある。 タイトルは「神話世界における幻獣たちの息吹」。自分のように現存している魔獣もいるのに幻とは何だ、小さな反発を覚えた。 惰性で読み進めはする。最後から数えて二ページ目、著者の遍歴と既刊紹介が始まろうという矢先、ふと鼓膜に飛び込んできたのは 小屋の主やその弟、友人とは全く異なるタイプの足音だった。足がもつれそうな勢いがあり、漏らされる呼吸も荒く聞き取りやすい。 首だけ動かし応接間の方を見る。店の正面玄関は短い通路から応接間に通じていて、客であるならそちらから訪れるのが普通だ。 足音の主は迷わず街とは逆方向、丘の北側から駆け上って来た。出かける直前、店主が自分に言い残した言葉を反芻する。 「君から見て挙動不審であるなら、床に押さえ付けて」……どうだろう、まだ挙動不審かどうかは判断し難い。 琥珀は微かに首を傾げた。床上に弛緩しきっていた身体をのそりと起こし、喫茶店の奥、裏手口が見える椅子の陰まで移動する。 (何してんだろ?) 裏手口、丸い曇り硝子の向こうには確かに人影があった。店主と背丈はどっこいどっこいだが、ぼんやり見える髪色が明らかに違う。 あれもだいぶ肌は白かったが、少なくとも記憶が正しい限り、髪はピンク色などではなかった筈だ。 ひっきりなしにドアノブを回す音。鍵が掛かっているのか、何度かガチャガチャと開閉を試みる音が聞こえてくる。 普通の客なら開いていないと知れば引き返す、若しくは別の入り口を探すだろうし、ちんけな泥棒なら窓からの侵入を考えるだろう。 あの店主の事だ、施錠は抜かりないだろうしそのうち諦める筈。琥珀もそう踏んでいた。しかしこの来訪者はそうではなかった。 開かないと知るや、琥珀の見ている前で聞いた事もない言語――どこか聞き覚えのあるような気もする発音だった――が発せられる。 刹那、店内の空中に青紫の光が生まれた。球体状の光は瞬く間に不可解な文様、記号を形成し、扉を中心に巨大な図形を描き出す。 光で構成される、古代文字並びに魔力誘導記号を記した円形の図形。 記憶喪失とはいえ、たった今、書物を通じて得た知識を見誤るほど、自分も馬鹿ではない。 「!? な、なんで魔法陣、」 疑問はすぐに解消された。魔力行使専用の円、即ち「魔法陣」は一度だけ大きな振動と破裂音を室内に轟かせ、瞬時に消える。 その衝撃たるや、棚にしまわれていた食器ががしゃがしゃ悲鳴を上げ、隠れていた琥珀が肩を跳ね上げるほどだった。 効果は何か、少なくとも攻撃魔法ではない筈だ。琥珀は嘴を大きく上に向け、口内に溜まった唾を飲み込んだ。 ドアノブが回される。同時に琥珀はぱっと前傾姿勢を取り、扉が開け放たれるその瞬間を待った。 (施錠を破る為だけの魔法って……聞いた事も見た事もないケドさ〜、なんていうかぁ) 「せこっちいなぁっ!!」 魔法を操るものは、自分のようによほど賢い魔獣、神獣、或いは神々そのもの、そしてその遣いに当たる天使にのみ限られる。 稀にヒトにも才能ある者も出るが、大半は開花せずじまい、若しくはロードで補助しなければ使い物にならない事が殆んどだった。 普通に考えてこれがヒトであれば針金や金属片を用いてのピッキングに挑むか、先述の通り別の侵入経路を探るかにするだろう。 獣であるなら匂いで分かるし、神であるなら一つ魔法を使うのにわざわざ祝詞を紡ぐ必要もない。 ならば今、あの扉の向こうにいるのは。 「姉さんっ!!」 「――歯ぁ食い縛れ〜、このクソ天使っ!」 双方の叫びは互いの声で掻き消された。力強く後足で床を蹴り、大きく前へ。眼前、一瞬怯んだ相手のすね目掛けて翼を振るった。 金翼が艶やかな軌道を描いて、白く細い足に絡みつく。次いでそれを勢い付けたまま離してやると、相手の身体が傾いだ。 脚で床を踏み抜き、逆の翼で倒れ込む相手の背中をふわりと受け止め、翼をしまうのと同じ方向へ自身の身体ををぐるりと回す。 あとは遠心力に任せるまで。相手は面白いほど容易く足をもつれさせ、勢いを削がれながら床上に倒れた。 翼を背中に戻しながら軽く前足を二の腕、胸元に押し当てる。殺すな、と言われたのを思い出した。踏み抜かないよう注意を払う。 「っ、!? ンンッ!!」 「――えーと、殺さなければイイんだっけ?」 「! っくぅ、」 「あ、ちょっとぉ、動かないでよ〜。肋骨、折れちゃうからさっ」 第一印象として、気の強い娘だと琥珀は考えた。 肋骨に重みを掛けられ、起き上がるどころか呼吸するのも苦しいだろうに、目を潤ませながらも彼女の視線は真っ直ぐだった。 思った通り、背中にはトリ型の翼が生えている。白を基調としたどこか薄汚れた羽根は、彼女が呻く度、微かに青紫の光を零した。 ちらほらと揺れる葡萄色の砂のような、微かな光。その美しさに一瞬目を奪われた。 微かな身じろぎ。喉奥の苦鳴を聞きつけ、前足にグッと体重を込める。娘は白い頬をぽっと紅くして、固く目を閉ざした。 得てして天使とは美しい生き物の代表格と言われているが、実際目の当たりにするとその評判にも納得させられてしまう。 透き通るような白い肌に、ところどころ金糸が混ざる桜色の髪、羽根の燐光と同じ色の瞳が収まる丸い双眸。柔く脆そうな身体。 胸の膨らみは鷲の足を通じても明らかで、他の外見からしても女性性と判別出来る、イコール、位の高い天使である事は明白だった。 (何かな、誰かと待ち合わせ……ううん、ないなぁ。それなら藍夜がそう言ってく筈だし) 問題は、そんな高位天使が何故金にがめつい店主の経営するちんけな店に一人で現れたか、という事だ。 位の高い者というのは総じて、例えばヒトもうそうだ、高い金を払うか見返りを与えるなどして、自身の身を護らせる為の護衛を雇う。 この娘は扉を開けたあとも無防備だった。護衛はおろか案内人一人もつけていない。それがいっそう不自然さを際立たせた。 天使は身分が高ければ高いほど特有の魔法を操るという。「神」の命令に服従し、課せられた専用の責務を果たす見返りに。 とはいえ、古の時代に現世の全てを自在に治めていたという「神」の住む世界は、嘗て神界で発生した大規模な天災によって失われ、 当時神々に仕えていた天使ともども散り散りバラバラになったそうだ。 それを証明する希少な残骸がロード然り遺跡群然りという話。 何か目的があってここに乗り込んで来たのか。店主の雷霆と相打ち覚悟で、神々の手掛かりになりそうなロードを強奪に? いや、そりゃないな――琥珀は首を左右に振った。前のめりになり正面から娘の顔を覗き込む。娘はなお表情を息苦しさに歪めた。 開錠の手段はどうあれ、娘は勢いよく店内に入り込んできた。 それこそ迷いもしなかった、商品目当てならもう少し躊躇や警戒の意を示してもいい筈。それこそ藍夜の言う挙動不審といった風に。 天使という貴重な存在、一人旅、ましてここはロードを取り扱う古物商店。いくら魔法を好きに使えても、自身がいつどんな危険な目に 合わされるかもしれないのに、あまりにも無用心すぎる。そういえばさっき何か言ってなかったか。店に入る直前、祝詞の直後に。 「……っ、ん、ふぅ」 「ん? あれ、何か言いたい事あんの?」 「っん、んん」 足に違和感。考えを中断して見下ろすと、娘は必死に前足をペシペシと叩いていた。問いかけてみると、しきりに首を縦に振る。 どうだろう。逃げ出そうとしているのではないか。或いは魔法による反撃か。それとも。 暫し考えた琥珀だったが、確かにこのままでは埒が明かないとも思い直す。藍夜らがいつ帰ってくるかの保証もないし、何より暇だ。 正直ずっと暇だった。どの本も内容は似たり寄ったりだし、グリフォンの項目は尽く悪く書かれているし、天使だの神だの面倒くさい。 知りたいのは知識であって宗教ではない。仮に抵抗されても自分には問題ない、頭からバリバリ食べる為の口実が出来るだけだ。 一人、ウン、と大きく頷いた後、琥珀はそろりと大仰に前足を退かした。念の為、腕の方は踏み付けたままにしておいてやる。 「! う、わっ」 するとどうだ。腕が踏まれているのにも構わず、拘束が解けるや否や、天使はがばっと勢いよく跳ね起きた。 そのまま体当たりしてくる。琥珀は彼女もろとももんどりうって倒れ込んだ。 辛うじて翼を広げ、床に対し斜めに展開させ重心を固定する。これでもし万が一、向こうが何か仕掛けてきても反撃出来る。 大勢を逆転させようと足掻いた。天使は首にひしと抱きついて離れない。こいつ……調子乗っちゃって! 怒鳴りかけたその瞬間。 「アンバーくん。無事、だったんですね」 「!? あん、ばー?」 ぽつりと何事かを天使が呟いた。恐る恐る目線を動かすと、娘は目頭からほろほろと大粒の涙を零しているではないか―― 「良かった、良かった! 姉さんもあの方もいなくなってしまって、わたし……わたし!」 「!!? ちょっ、やめっ、はははは、はっ、離してよ〜!!」 「? え、あ……はい。ご、御免なさい」 ――なんだかこちらが悪者になったような錯覚に陥り、琥珀はもがいた。慌てふためく自分に対し、天使は意外にもすんなり離れる。 ぜいぜい荒い息を整えながらちらと視線を投げた。娘は小さく咳を繰り返しているものの至って元気そうで、今は床に正座している。 葡萄色の大きな瞳。正面から見つめられると、何故か酷く居心地の悪さを覚えさせられた。呼吸が落ち着いたところで向き直る。 「あの、さ」 「はい」 「その、アンバーって、何?」 「えっ? なにって……『アンバー』はアンバーくんの名前じゃありませんか」 「えぇ? なにそれ、ぼくの……名前? アンバーって?」 互いに「何を言っているのか分からない」といった顔を見合わせる事になった。天使は丸い目を瞬かせ、琥珀は眉間に力を込める。 天使は小さな声で「はい」、と答え、正座を正し、視線を真っ直ぐこちらに向けてくる。琥珀からの返事を待っているようだった。 泥棒の方がまだマシだったんじゃないか。一連の流れを脳裏で逆再生してから、呑気に構える相手に琥珀は嘆息した。 「アンタ何者? どこから来たの?」 「えっ? どこ、と言うと」 「えっ、じゃなくてさぁ〜。聞きたいのはコッチだよ。ぼくキオクソーシツってやつらしくて、昔の事なぁ〜んにも覚えてないんだよね〜。 そんないきなり現れて『わたしは貴女の事知ってます』、みたいな言い方されたって何も覚えてないし、すんごく困るんだけど〜」 「何も、何もって。そんな、本当に何も覚えてらっしゃらない?」 「ウン。まぁね〜。ぼくの事知ってるなら教えて貰えたらイイナーって思ったんだけど」 ここまでぶっちゃけても大丈夫だったのだろうか? 琥珀は内心焦った。鳥羽藍夜は「怪しい者は取り押さえておけ」と、そう言った。 なのに何故自分はこんな質問をしているのか。涙を拭う仕草、外見、雰囲気。どれを取っても早熟な若者そのものではないか。 これに聞いて何を知る事が出来るというのだろう。自分は判断を間違ったのではないだろうか。 どこか間抜けそうで腑抜けているように見える、天使の娘。 天使とは皆こうなのか、もっとこう……伝説上の存在であるのだから、神々しいものであると思っていた。 琥珀は首を傾げた。娘は涙を変わらず零し続けており、こちらの質問に答えようとしない。 「泣いてたって何も分かんないんだけど。ねぇ、ちょっと。聞いてる〜?」 「き、聞いてます」 「ふぅ〜ん。じゃあさ、なんか答えてよ。あのさ、」 「……『アンブロシア』です」 「えっ?」 今度は琥珀が聞き返す番だった。 聞き取れなかったわけではない、言葉の意味が掴めなかったわけでも。ただ琥珀は、その言葉に聞き覚えがあった。 「わたしの名前、アンブロシアです。思い出せませんか」 「あん、ぶろしあ? あ、え〜っと、神々の秘薬っていうのの原料の?」 「そう、なんですけど。そうじゃ……本当に、何も覚えていないんですね。アンバーくん」 「ええ? ちょっと待ってよ、なんで泣くの〜?」 「アンブロシア」。 確かにその名を聞いたとき、酷く胸が苦しくなった。しかし思い出せるのは微かな、ちくりと針で心を刺されたような、僅かな刺激。 何故泣かれるのか、何故自分を「琥珀」ではなく「アンバー」と呼ぶのか。何者で、何の目的で一人でこの地を訪れたのか。 根本的な疑問は解決されていない。それでも琥珀は、眼前のこの娘が泣くのを黙って見ている事に抵抗があった。 背中や鼻先がむずむずする。泣いていたって確かに何も解決しやしない、せめて目的の一つだけでも聞き出す事が出来たなら。 尋問、詰問するつもりでいたのに、泣かれてばかりでは居たたまれないし言葉に詰まる。 「……声がすると思ったら、とんだ客のようだね」 「! あっ、あ、藍夜っ!?」 変化は何の前触れもなく齎された。不意に割って入る声。振り向くと紙袋を抱えた店主と、目を丸くした彼の弟の姿がある。 言い訳を考える琥珀に対し、天使の顔からさっと血の気が引いた。彼女は信じられないものを見るような目で鳥羽藍夜を見た。 「でかしたね、琥珀。あとで干し肉をあげよう。さて、『天使』がこの家に一体、何の用だと言うのだろうね」 硬直するグリフォンと天使アンブロシア。 店主・鳥羽藍夜が性格に難のある男である事は、ファーストコンタクトである程度知っているつもりだった。 緩衝材として弟・暁橙や、友人ニゼルの存在が大きくある事も。それでもまだ話の通じるところや理解ある部分もあると思っていた。 それがどうだろう、今や双方を見据える店主の目は親の仇を見るかのように異様に冷えている。琥珀は一度身体を震わせた。 天使が何か言い掛ける。その瞬間、天使と藍夜の間に青白い電撃が迸った。 伸ばされた天使の指が宙で一瞬躊躇いを見せ、肩を竦ませると同時に驚愕と困惑、恐怖で足をその場に縫い付ける。 「あ、兄ィ!?」 「藍夜!」 琥珀と暁橙が制止したのは殆んど同時だった。我ながらよく声が出せたものだと、発した後で感心してしまう。 「なんだい、暁橙。琥珀」 「な、なんだじゃないよ。どしたのさ、急に。おっかない顔しちゃって」 予想に反して、藍夜からの返答はきちんとあった。それでも声は冷たく、視線はまるで針のよう。反論するのに勇気が要った。 藍夜の後ろ、壁にもたれるようにしている暁橙が一歩前に歩み出る。藍夜の意識が一瞬そちらに向いたのを、琥珀は見逃さなかった。 杖を突いている。足の具合は思った以上に悪かったのだろうか。なら藍夜の機嫌の悪さもこれが原因であるのに違いない。 「ほらぁ、暁橙だってビックリしてるし……っていうか足、悪かったの? 治療代とかぼくも出した方がいい?」 台詞が尻すぼみになってしまった。それでも効果は多少なりとあったようで、藍夜の視線が若干緩んだのが見て取れる。 彼は立てていた左手の指数本をきゅっと丸め、そのまま拳を作った。攻撃中止――室内の空気が和らいだのを琥珀は感じた。 そんな大して掛かってないよ、暁橙は気遣い無用だと宣言し、琥珀とアンブロシア両名に、とりあえず座ったら、と片手で椅子を示す。 琥珀がちら、と藍夜に目線を投げると、彼は両目を閉じ、持っていた雷霆を壁に立てかけてから、やや離れたところに腰を下ろした。 アンブロシアがその雷霆をじっと凝視している。再度、暁橙が椅子を勧めると、彼女ははっと我に返ったように慌てて着席した。 黙っていると沈黙ばかりが過ぎていく。藍夜は腕組みさえして目を閉ざし、わざとらしいほどに俯いていた。 困ったように一度苦笑して、暁橙が棚からクッキーを持ってくるよう言ってくる。 なるほど、琥珀が指示された棚に向かうと、食器とコップの類の間に瓶詰めの布包みがあった。香ばしい小麦とハーブの匂いがする。 器用に嘴を駆使して扉を開け、瓶ごと取り出し、羽先でテーブルに並べた。気を利かせたアンブロシアが皿数枚に取り分ける。 彼女の顔は些か緊張しているように見えたが、皿上の焼き菓子の香りには表情を綻ばせた。 藍夜が見ていたら嫌味の一つでも飛ばしていたかもしれない、琥珀は練りこまれたハーブの花弁の枚数を数えながら鼻息を噴かした。 一番にクッキーを摘んだのは暁橙だった。口に含むや満面の笑みを浮かべ、食べるよう勧めてくる。曰く、ニゼルが焼いたものらしい。 クッキーを摘みながら自己紹介を交わす。アンブロシアが「天界から旅をしてきた」と経緯を告げるも、藍夜は目を閉じたままだった。 名乗り返すどころか頷きさえしない。流石に暁橙が困惑の色を表情に滲ませ、兄ィ、と声を掛けるも、彼はやはり沈黙していた。 ……自分は馬が嫌いだ。 歴史も浅く、ヒトの言いなりになるだけの家畜同然の分際で、ごく一部の神々を背に乗せた事があるというだけで偉ぶる馬が。 藍夜にとっては天使がそうなのだろうか。 アンブロシアに対する物言いや態度から、彼が天使を快く思っていない事は明白だった。後足で頭の裏を掻き、琥珀は嘆息する。 「……琥珀」 「うん? えっ、あ、なぁに? 藍夜」 それが合図だった。 腕を組んだまま、藍夜は左目だけを半分開いて琥珀を見る。視線に剣呑さが浮いていた。自然と身が固くなる。 「僕は天使などと馴れ合うつもりはないんだよ。名乗りはしても目的を言わず、ここに来た理由も話さない。信用出来ると思うかい」 「えぇ〜。なんでそれ、ぼくに言うのさ」 「おや、僕は『怪しいものは押さえておけ』と君に留守を任せたつもりだったんだが、思い違いだったかな」 「! あー、あー、そう、それねぇ。う〜ん、そう、そうなんだけどさぁ〜」 「分かったら今からでも捕まえておきたまえ。椅子に縛りつけるのは、僕がやる事にしよう」 「!? 兄ィ!」 「暁橙。この店の店主は誰だったかな」 それを言われてしまえば、弟といえど口を挟む事は出来ない。黙り込んだ暁橙を置き去りに、藍夜は店の奥に姿を隠した。 手に巻かれた麻紐を持ってくる。クッキーを一枚だけ咥え、琥珀も重い腰を上げた。緩慢な動きで天使に近寄り、葡萄の瞳を見上げる。 「えっと。あの、さ」 「いいんです。分かっていますから」 「え……」 無垢な瞳は笑っていた。胸に棘が突き刺さったような気がして、琥珀は微かに目を見開く。 アンブロシアは琥珀の誘導待たずにして、藍夜に言われるまま、椅子の一つに座り直した。細い手足が紐で固定されていく。 これで良かったのだろうか。藍夜は何をするつもりなのだろう――疑問は尽きない。立ったまま、琥珀は店主と天使の動向を見守った。 初めに混沌があった……とぐろを巻く蛇のような、或いは枝葉を伸ばす林檎の木のような、そんな複雑に入り組んだ構造の混沌が。 切っ掛けは何であったか、今となっては誰も知れない。ある瞬間を境に、混沌より一柱の神が生まれた。 後に「原初の神」と呼ばれる事となるそれは、腕一振りで空を、瞬き一つで海を、足一踏みで大地を、この世界に形成した。 基盤、そして支柱となるであろう幾つかの神を作り出したそれは、神の暇潰しに付き合える幾許かの財産を残し、世界から姿を消した。 もとより混沌とて気紛れで原初の神を吐いたようなものだ。気が済んだのか、件の神が姿を見せる事はそれ以降一度もなかった―― 「――混沌、原初の神、ね。ふむ、初期に近しい『エノク書』にも、確かにそう記してあるが」 「椅子に縛り上げた」アンブロシアを前に、鳥羽藍夜は黒い表紙の古書のページを幾つか捲り、頷いた。 肯定するように天使の娘もまた「縛られたまま」頷き返す。 「この『神の暇潰し』に相当する財産というのが、今で言う天使と、ヒトの始祖になります。今でも彼等を信仰する遊牧民がいると…… とはいえ随分古い話で、彼等を知る天使も多くありません。近代文学では混沌も原初の神も存在自体なかった事にされていますし」 「致し方ない事だね。エノク書も今となってはただの学術書だ、いっそ百科事典と呼んでも差し支えないだろうね」 「原初の神より生み出された古き神々が、天使に命じて造らせた神々の知恵の結晶、天界の至宝『エノク書』。まさかヒトの世界で、 ここまで写しや改訂版が発刊されているとは思いませんでした。全然貴重じゃないですよね……噂では、聞いてはいたんですけど」 床に伏せたまま、琥珀が壁時計を見る。時刻は昼などとうに過ぎ去り、夕刻を示していた。 もう一度彼女が視線を動かすと、視界の端では、椅子に座ったままの暁橙が壁に背を預けぐうぐう眠りこけている。 昼食を食べた後で飲んだ痛み止めが効いた、といえば好意的だが、オフィキリナス店主と天使の問答に飽きたというのが正しい。 暁橙はある意味賢いんだなぁ、琥珀は嫌味抜きで感心した。 「それで、この二百八十六ページの項目なんだがね、」 「ちょっと〜。藍夜ぁ。ぼく、おなか減っちゃったよ。なんかオヤツ食べようよ〜」 「……林檎でも摘んでいたまえ」 放られる赤い果実を眼前に転がし、琥珀は不服げに頬を膨らませ……るような動作を取った。アンブロシアが苦笑している。 (なにさ、呑気に笑っちゃって〜。バラバラのギッタンギッタンにされちゃいそーなフンイキだった癖にぃ〜) 侵入者アンブロシアを拘束した後、鳥羽藍夜が実行したのは、なんて事はない、情報収集という名の質問攻めだった。 知識欲、好奇心、探究心。藍夜が持つそれらを満たすのに、このおっとりとした雰囲気の天使は正に打ってつけだったらしい。 とはいえ、彼も始めのうちは彼女が店内に侵入した経緯や目的、意図など集中的に聞き出そうとした。しかしそれも徒労に終わる。 「実姉・アンジェリカの気配を追ってここに来た」。 彼女の目的はそれ以外に何もなかった。高品質のロードも、店が建てられた土地も、僅かな食料や金銭さえ不要だと彼女は宣う。 そうして事実、彼女はそれらに一度も目をくれなかった。ずぶ濡れの服を替えたいとさえ、一言も言わなかったのである。 しかし侵入した事は事実であるから、自分が分かる範囲で、答えられる事だけでいいなら、何でも疑問に答える。 ……彼女は藍夜に真っ向からそう言い、彼とて不承不承といった様子で会話を始め、殺気や緊張といった類の空気は緩和させられた。 甘く見ていた、琥珀は苦いものを噛む心地でそこにいた。藍夜の如何なる質問にも、アンブロシアは全力で答える気でいるらしい。 何せ、「侵入した目的は何か」の問いから軽く三時間は経過している。 暇潰しに外にでも出ようとすれば、そんな金塗れの姿では目立つだろう、と叱責が跳んできた。 開き直って、暁橙を見習って寝ていれば良かったかもしれない。何度目かの欠伸を噛み殺し、金ぴかの神獣は床に伏せた。 「なるほどね。ふむ、ヒト個人に与えられるロードの適性はやはり、天使や神にさえも分からないのか」 「はい。稀に天使や神の姿を直視出来る人がいるのと同じですね。生まれつき体内に魔力を宿しているんだと思います」 「となると、僕や暁橙がロードを使役出来るのも、単なる偶然か、或いは才能――」 ――ふと気付けば、室内はとても静かになっていた。 藍夜は視線を巡らせる。暁橙は末端の席で寝こけ、琥珀も尾を大きく振りながら床に伏せ、如何にも暇を持てあましている風だった。 視線を感じる。苦笑を浮かべたアンブロシアと目が合う。藍夜がこちらを見たのに気付くと、彼女は慌てたように顔を引き締めた。 どうしてこうもゆっくり話をしているのだったか。一度瞬きして、藍夜はじっと彼女を凝視した。何度も桜色の睫毛が上下する。 彼女の目的、「生き別れの対天使アンジェリカ」。聞いた事のない名だと藍夜は思う。 すらすら澱みなく天地創造の経緯を語るほど、古い知識を有する彼女だ。天使の中ではそれなりの地位にあったのに違いない。 彼女を縛り上げた後、琥珀から聞き出した話を思い返す。扉破りに用いられた魔法陣は、ごく短い祝詞で形成されたという事だった。 オフィキリナス裏手口の扉は、用心深い父が輪の国屈指の鍵職人に直接依頼し、二重構造で取り付けたものだった。 魔法を用いたといえば容易く開くようにも聞こえるが、魔力に対する耐性は元からある程度付与されている。 再度、藍夜はアンブロシアを見た。 緊張しているのか、途端に慌てふためく彼女だが――とんでもないものを捕縛してしまったかもしれない。今更、藍夜は息を呑む。 「雷神の雷霆」があるとはいえ、相手は天使だ。自分や弟よりもそれらの扱いに長けているだろうし、何より自前の魔法も早く紡げる。 縛っておいたのは正解だったかもしれない。無意識に嘆息していた。 それが気掛かりになったのか、アンブロシアが「大丈夫ですか」と声を掛けてくる。頷き返す事を、藍夜はしなかった。 「……あの、すみませんでした」 「なんだい、急に」 「せめて、事前に一言入れるなりしてから訪問すればよかったですね。結局、姉さんもいないみたいですし」 俯いてしまった天使を見る。前髪は殆んど乾いていたが、小さな雫を気紛れに床に落とす。一度くしゃみをして、彼女は身を縮ませた。 太古の時代、神々がその姿をロードに変えられ、自らの楽園を瞬時に失ったとされる世界異変「ラグナロク」。 その規模はあまりに大きく、彼らに仕えていた天使らとて無事では済まされなかったという。 多くは命を落とし、幸いにも災厄を逃れた者は、ヒトの住まう地に散り散りになった。 生き別れとなった天使を、神々の園なき今、広大なヒトの世で探し出す事は不可能に等しい。生きているかさえ怪しいものだ。 姉に授けられたという不思議なペンダントが放つ微量の魔力を辿り、天界崩壊後、彼女はたった一人で、長旅を続けていたという。 しかしそれが何の導きになるというのだろう。ややもすると彼女の姉はラグナロクを見越し、気休めにペンダントを託したのではないか。 そう考えた方が自然だった。事実、姉の強い気配に呼ばれて来たというオフィキリナスには、琥珀以外に女性など居はしない。 母など論外だ、姉妹がいるとは聞いていないし、とうに亡くなって、今では父と共に店のすぐ横の土の底にいる。 「寒いのかい」 「えっ? いいえ、そんな事ありません」 再度響いたくしゃみに片目を開け、藍夜は短く問う。返答は予想した通りのもので、彼女は何でもなさそうにへらりと微笑んだ。 嘆息が漏れる。驚いたように目を見開く彼女を他所に、藍夜は椅子から立ち上がった。琥珀が顔を上げる。片手で伏せるよう指示した。 「僕だって無情というわけではないんだ」 引き出しから取り出した果物ナイフで、彼女を縛る紐を切った。そう固く結んだつもりはなかったが、白い肌に薄っすら鬱血の跡が見える。 違う、色が白いから目立つのだ――頭を振り、手を差し伸べた。彼女は不思議そうな面持ちで、その手と藍夜の顔を交互に見つめる。 「何をしているんだい。まさか、また縛られでもしたいのかい」 「えっ!? い、いいえ、そんなまさか!」 「なら早くしたまえ。僕の気が変わらないうちにね」 おずおずといった風に、彼女は手を伸ばした。途中で面倒になって思い切り掴み、有無を言わさず立ち上がらせてやる。 彼女の身体がふわりと一瞬浮いたのは、青紫の光を零す翼が広げられたせいだった。とん、軽い音と共にアンブロシアは床に立つ。 有難う御座います、穏やかに彼女は笑った。なんだか酷く居心地の悪さを覚え、藍夜は小さく咳払いする。 彼女は間違いなく「天使」なのだ。過去、己の両親を自身の目の前で惨たらしく殺した者と同じ――果たしてそうだろうか。 否、確かに天使だ。藍夜は自分に言い聞かせるよう、強く頷く。惨い真似はしないが、過去を忘れ、油断する事は決して出来ない……。 琥珀が身体を起こした。慰めるつもりなのか、嘴で拾い上げた先の林檎をアンブロシアに手渡す。娘はこれにも笑顔で応えた。 殆んど反射で、藍夜は双方から視線を外していた。 「……さて、もうじきニゼルがオヤツを持ってくる筈さ。お茶でも飲もうか」 「そんな。いいんですか、わたしも?」 「えぇ〜、いいよいいよぉ〜、どーせ飲まないって言っても藍夜、淹れちゃうんだからさぁ。モッタイナイよぅ」 「琥珀。君は誰がここの主であるのか、今一度考えてみるべきだね」 「えぇ〜。分かってるよぉ、天下無敵の藍夜さまさまでしょ〜」 「ア……じゃない、琥珀くん。逃げた方がいいんじゃ」 服をどうにかしてやらないといけないな――琥珀の頭頂を小突いてから、未だ外套を肌に貼るアンブロシアの姿に、藍夜は首を傾げた。 琥珀は早くも林檎を剥いて貰い、破片一つを摘んでいる。気遣っているのか甘えているだけなのか。知らず、藍夜は苦笑していた。 「はっ! おやつぅ!! ニジーさんの!! オイラのおやっ……あれ?」 「暁橙。君は夕飯には痛み止めを飲まないといけないんだから、控えておきたまえ」 琥珀が林檎の感想を述べると同時に、がばと跳ね起きる弟。互いに顔を見合わせ、琥珀は爆笑、アンブロシアも釣られて笑った。 色々と考える事はある。出来れば考えたくない事も、自然と思い出してしまう事も。とはいえ、今はニゼルに話を聞いて貰いたかった。 暁橙の怪我、琥珀の今後、新たな来訪者……ハーブの香りなどを抽出させる間、藍夜は深い嘆息を零しながら、椅子に身体を預けた。 林檎の匂いが宙に溶けている。そうだ、次はカモミールにしよう――はしゃぐ皆の声を聞きながら、彼は両目を閉じた。 |
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