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楽園のおはなし (1-8) BACK / TOP / NEXT |
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「あっ、おはよう。兄ィ、ニジーさん」 「おっはよぉ〜う」 喫茶店の隣室、居住スペースの一部であるちょっとしたリビングには、二人が用意したと思わしき簡単な朝食が並べられている。 待ちきれなかったのか、琥珀は既にハムを乗せた無醗酵パンに舌鼓を打っていて、隣席の暁橙に頭を撫でられていた。 「おはよう、って暁橙! 足、怪我してるのに」 「ううん、コハが手伝ってくれたから大丈夫だよ。こいつ頭いいねー、一回教えたらすぐ覚えてさ」 「ふふ〜ん、ま〜ぁねぇ。そんじょそこらの魔獣とは、出来が違うんだよね〜」 「そっか。偉いね、琥珀。ところで暁橙、その、『コハ』って何?」 「琥珀でしょ、こいつの名前。あだ名つけてみたんだ」 なんだか拍子抜けしてしまった。暁橙の足元、首を懸命に伸ばし、暁橙のサラダ皿からこっそりハムをくすねようとしていたグリフォンに、 「家主より先に食事を摂ろうとはどういう了見だい」と藍夜が噛み付く。朝一から相変わらずだね、とは暁橙もニゼルも口にしない。 琥珀が言い返そうとするのを制し、次いで藍夜を宥めてから、ニゼルも暁橙の向かいに腰を下ろした。 席に着いても憮然としたままの藍夜だったが、弟からハーブティーを勧められ、一口飲んだところで口を閉ざした。 「そういえばニジーさんが名前付けてやったんだって? 琥珀ってなんかいいよね〜。古代のロマンって感じがするよ」 「なんだい暁橙、宝飾品に興味があるのかい。取り扱いでも始めてみようか」 「ううん、そういうんじゃないよ、兄ィ。大昔の樹液だっていうから、神話に出てくる神様とどっちが長生きなんだろって思っただけ」 食事は昨夜に比べ、穏やかに進んだ。結局ヨーグルトを気にしていた琥珀は、ニゼルから小皿に分けて貰っている。 匂いの強いものが単純に受け付けられないのか、香味野菜やハーブを使ったソースなどは無言のまま前足で暁橙に押し返していた。 「かみさまぁ〜? えー、暁橙そんなの信じてるんだ。いっがい〜」 「意外って。そうかなあ、ほら、ロードだって実在してるんだし、ロマンがあっていいじゃんか」 「ふぅん、ロマンねぇ。ロマンだけじゃお腹膨れないってのに、ニンゲンてふっしぎー」 「あのね、琥珀? それは分かってるけど、男って総じてロマンが好きなんだよ。俺も暁橙も、もちろん藍夜もね」 「……僕は何も言っていないのだがね、ニゼル」 「え、いいじゃない。俺も好きだし。ふふー、それにグリフォンなんて初めて見たし! 神話時代の生き証人なんでしょ」 神様、神話。そういった話を振る事で、少しでも記憶を取り戻す切っ掛けになれば――とはいえ昨日の今日では難しいようだった。 「そういうもん?」、グリフォンは興味ないと言わんばかりに、早々と林檎の切れ端を突付く作業に戻っていった。 無言で顔を見合わせるものの、それ以上は口にせず、三人は食後のハーブティーで喉を湿らせる。 ニゼルはちらりと隣の藍夜を盗み見る。 いつも寝起きが悪い彼だが、今日は特に口数が少ない。何より食事作法以外の小言を発していないから、沈黙が余計に目立つ。 朝から様子がおかしいとは思っていた。 彼が起きるより早くこちらは目覚めていて、うなされているのを起こすか否かで迷っていたから。悪夢の中身は凡そ予想がついている。 彼が一日でも早く、ゆっくり眠れるようになる日が来れば。夜色の睫毛が塗れそぼるのを、隣で眺めているだけの自分が情けない。 (俺は藍夜より年上で……まあ一個だけだけど、でも――) 失う悼み、不条理に奪われる悲しみを、幼い頃に早くから経験してしまった彼の事だ。 昨夜の話しぶりからして、彼が行く当てのない琥珀を無下に放り出すつもりがない事も分かっている。 彼女のオフィキリナス入居は殆んど決まったようなものだ。よくて用心棒、または同居人、悪くてペットといったところか。 結局のところ、事ある毎に正面から小言を落とすのだって、「放っておけない」という彼なりの無言の意思表示のようなものだ。 (――天使、神様、ロードの事だって詳しくないけど。藍夜の事は解ってあげたいな。不器用にも程があるから) ふと、お座り、伏せ、死んだふりなどの芸を仕込もうとして、なかなか上手く行かず苛立っている藍夜と、げんなり顔の琥珀を想像した。 何この可愛い生き物たち! 誤魔化す代わりに小さく咳き込み始めたのを、小首を傾げながら琥珀が見上げてくる。 「暁橙。片付けが終わったらすぐ医者に診せに行くからね」 「あ、うん。そう言うと思ってもう着替え出来てるよ。予約はまだだけど」 「街の藪医さ、そう混んでなどいないよ」 暁橙が微かに眉間に皺を寄せた。藍夜は無言で茶を啜って見て見ぬ振りを決め込む。 兄弟のうち、兄の方は街の面々と折り合いが悪いのをニゼルは知っていた。両親、職種の事も含め、陰口を叩く者に彼は反抗的だ。 自分一人で通院した時も遠回しに嫌味など言われた事もある。暁橙も聞き及んでいるかと思ったが、そうでもないのだろうか。 「ね〜ね〜、ニジー」 「うん? ああ、なに、琥珀?」 裾を嘴で引かれた。ふっと空気が和らぐ。 彼女の底抜けの明るさは、暁橙の存在同様に、この家に良い影響を及ぼすかもしれない。内心、ニゼルはほっとした。 「あのさあ、暁橙とか藍夜、出かける準備してるでしょー。どこ行くの? もしかしてお出かけ?」 「そうだよー。暁橙の怪我を診て貰いに、朝一で街に下りるんだって」 「へえ〜、ほんとー? いいなあいいなあ〜、ぼく遺跡の外ってよく知らないんだよね〜。だからさ、ぼくも――」 「――君は店に留守番だよ、琥珀」 容赦ない宣告。ぴしゃりと言い切り半開きで目線を投げてくる店主と、落胆ぶりを隠しもしない魔獣。 「ええーっ! 何それ、ぼくもお出かけしたーいー!! やーぁだー! もうご飯だって食べちゃったし、する事ないもーん!」 「君の記憶に関わりそうな文献を数冊出しておくから、それに目を通しておくんだ。そんなに言葉が話せるなら字も読めるんだろう」 「ぶ〜。そりゃあさぁ、そこらのグリフォンとは違うから読めるけどさ〜……ふーんだ。藍夜のケチー、ドケチー、大ケチー、けっちんぼー」 ああ、それを言ったら! 暁橙が叫ぶより先に藍夜の手は翻り、即座に握られたお玉がグリフォンの嘴を横から叩いていた。かつーん、非常に良い音が響く。 目尻に涙を滲ませ、「動物虐待!」などと喚き散らす琥珀を他所に、彼は涼しい顔でお玉を鍋に戻し、ハーブティーの残りに口を付けた。 ニゼルは無意識に笑顔を浮かべていた。あくまで、顔面にだけ。 「動物、ね。そんな事より記憶の手掛かりを探る協力は惜しまないで貰いたいものだね。何も覚えていないというのも不便だ」 「ぶぅ〜。いいよぉ、分かったよー、ふーんだ、いいもーん。藍夜なんかキライだもーん」 「ああ、そうかい。好きに言いたまえよ」 「むうーっ! ばか、ばかばかばか藍夜のばぁ〜かっ!!」 「……あー。あのね、琥珀。ああ言ってるけど、あれって琥珀の事心配してるって意味だから。気にしないでね」 「ニゼル、君は朝から饒舌なものだね」 ほんとの事でしょ、といつも通りに幼馴染に押し切られ、形無しの店主は空のカップに口を付けながら片眉を吊り上げた。 琥珀は流石にそれ以上粘る事はせず、藍夜の寄越した書物を床上に広げ始める。獅子の尾はひっきりなしに左右に揺れていた。 「では、頼んだよ。飲み水はここ、小腹が空いたら、そうだな。林檎でも摘んでいたまえ」 「ほえーい。しょうがないな〜、りょーかーい。ねえ藍夜、オキャクサンが来ちゃったらぼくどうすればいーい?」 「ああ、表に『定休日』の看板を下げていくよ。大抵は引き返す筈さ」 「? 大抵? それ以外は?」 ニゼルの肩を借りながら弟が表に出たのを見届けてから、藍夜は灰茶の外套を羽織り、ふむ、と小さく頷いた。 経験上、店を留守にした時の来客のパターンは「ろくでもない」事を知っている。彼女もすぐに学習してくれる事だろう。 「君から見て挙動不審であるなら、床に押さえ付けていたまえ。間違っても殺してはいけないよ」 「……うむ。全治一ヶ月といったところかの」 空気が固まるとはこの事だ。街の一角、オフィキリナスから見て一番近い街医者の医院内。こじんまりとした造りの個人経営。 ところどころカバーが薄れた丸椅子に座り、巻かれた包帯の上から足を擦りながら、暁橙は眼前の老人を見上げる格好で固まった。 「え? あの、え? マジで? え、先生? ちょっとそれって冗談にしては重たく、」 「何を言うか、この馬鹿もんが。応急処置が良かったからこの程度で済むんだぞ。下手すりゃ骨が折れとるわ」 「歩行補助の杖、痛み止めと湿布、出しておきますから。消耗品を使い切ったら、また来て下さい」 口をへの字に曲げ顎に蓄えた白髭を撫で回す医者と、彼の傍らに佇む――確か孫娘の筈だ――無愛想な看護婦を交互に見比べた。 彼らの主張、診断結果は自分がどう駄々を捏ねても緩和されないものであるらしい。すらすらと滑らかに書かれるカルテが恨めしい。 そう、恨めしかった。他でもない、自分がだ。大した事のない怪我だと高を括ってみればこのザマだ、兄にまた心配を掛けてしまう。 役に立ちたいという想いが空回りしているのではないか。とはいえ、発掘稼業以外に店に貢献出来るスキルなど何もない。 兄はこと自分に対して心配性のきらいがある。役立つ、立たない以前に、暫く日常生活の上で小言が増えるのだろう。自業自得だ。 (あー、やっちゃった。やったなあ、これ、うわあ) 長時間に及ぶ正座、兄の片手には黄金に輝く雷神の雷霆。琥珀という名の野次も飛ぶだろう。自然と項垂れてしまった。 「ほれ、いつまでそうしとる。次の患者の迷惑だろう。さっさと出ていけ」 「うっ。は、はぁい」 杖を突きながら立ち上がると、後ろから思い切り手のひらで尻を叩かれた。転びそうになるのを踏み止まる。 セクハラだ、パワハラだ。このジジイ、今日からオイラの怪我が治るまで一日一回、柱の角に足の小指ぶつけてろ! さりげなく口内から呪っておく。効果があるのかどうかは知らないが。 「暁橙。どうだった? 早く治りそう?」 「あ、ニジーさん……えっと、兄ィは?」 待合室は人でごった返していた。耳を澄ましていないと、高めのトーンであるニゼルの声を取りこぼしかねない。 「藍夜なら外で待ってるって。人込み、やっぱり苦手だってさ」 「うん、そうだね! オイラ知ってる。兄ィってそうだった」 自分たちが物心つくよりもずっと前から開いていて、老若男女問わずこの盛況ぶりなのだから、確かに腕のいい医者だろう。 しかし暁橙はよほどの事がない限りここに訪れるのを良しとしなかった。注射や苦い薬はもうずっと苦手だが、それだけではない。 「(見て、アルジルさんとこの)」 「(ああ……どうしてまた鳥羽家のと一緒に?)」 「(遺跡荒らしと同じだよな。ニゼル君、騙されてるんじゃないか)」 「――ほら、暁橙! さあ、混んでるんだから、早く会計済ませちゃおう?」 「うん。分かってるよ、ニジーさん」 にこにこと屈託なく笑うニゼルの丸い目。その横、後ろ、影、受け付けの窓越しに、自分たちを眺め、見つめてくる視線が幾つもあった。 赤ん坊、幼子はいい。痛みや熱に夢中で、他所に関心を向ける余裕がない。問題は、付き添いの家族や若者といった大人たちだ。 目が合えば笑いかけてくる。店は順調かと声を掛けてくる者もいる。誰もが鳥羽暁橙、ニゼル=アルジルに友好的だ。 そんな中、暁橙が無意識に、若しくはニゼルが会計をする為にふと目を反らした瞬間、彼らの唇はぼそぼそと雄弁に動くのだ。 「ごらん、『化け物』の仲間だよ」と。 (うん。そりゃね、兄ィが避けて通るんだから、余計な憶測だって飛ぶのもアリなんだよね) ニゼルの肩を借り、受付けに会釈してから内履きを棚に戻す。この笑顔の娘の名はなんと言ったろう、名札を見るのを忘れてしまった。 兄はああいう性格だから、気にしていない振りをする為に街から距離を取る。理解者など近しい者だけで十分だと嘘を吐く。 だがどうなのだろう。本当は街の者にも理解して欲しかったのではないか。頑なになったのは、何も父母の葬式からではない。 店を継ぐと言ったところで、自分も兄も当時は幼い子供だった。自分には聞こえなかったが、兄には美味しい話も振られたのでは。 可愛げがない、頑固で生意気、がめつい。言ってしまえばそれまでだが、藍夜は店を、ロードを手放すという選択だけはしなかった。 眼の力で、今の――未来を予見したのもあるかもしれないが、兄弟二人生き残った時点で周囲の要求を見抜いていたのかもしれない。 「暁橙、注射痛かったでしょー。昔からずぅっと駄目だったもんね」 「うわあ〜、今日のニジーさん、なーんかいっじわるぅ」 「へへー。いやあ、なんかさ、藍夜と暁橙と三人で街に来るのって久しぶりじゃない? テンション上がっちゃって」 「医者も終わったし店にはコハがいるしね。どっかでお茶しようよ。兄ィは文句言うかもしれないけど」 「だねぇ。高い! とか、不味い! とか、接客態度がなってない! とか」 「『こんなものハーブティーとは言えないね。水を頼んだ覚えはないのだがね』、とかね」 「すっごい、暁橙。似てる似てるー!」 ……誰しも、本能に忠実になるときがある。自分の家族を守る為、暮らしを潤す為、より良い生活基盤を築きたいと願うが故に。 欲求を満たしてくれるものを眼前に見出したとき、本能の赴くままにそれに期待し、胸躍らせ、出来るだけ多くを手に入れようとする。 「やあ、お疲れだね。二人とも」 「藍夜。終わったよー。そんなに掛かんなかったよ」 「だろうね、昨日のうちに冷やしておいて正解だったろう? 暁橙」 扉を出てすぐ、ちょっとした狭い階段を降りたところ、看板のすぐ横に、独り佇む兄の姿があった。 「うん。大助かりだったよ、兄ィ」 期待を裏切られたとき、見返りが満ち足りないものであったとき、果たして何人が己の言動を卑しいものに変えずにいられるだろう。 兄に、自分に、「余所者」や「ロード」、「オフィキリナス」といったものを重ね見る者の目を、音のない唇の動きを見る度、そう思う。 独り他人を避けるように振舞う兄や、その親友の背中もまた然り。趣旨や方向性こそ違えど、「相容れない」姿勢は頑なだ。 とはいえ、無理に話し合わせたところで双方の関係が改善されるとも思えない。互いに生活に求めるものが違いすぎるのだから。 父母の代から続く摩擦と行き違い。哀しい事だとは思えたが、それでも自分は鳥羽の生き様を好いている。ニゼル同様、兄の味方だ。 「それで、薬などは処方されたのだろうね」 「あ、うん。痛み止めと専用の湿布でしょ、腫れにも効くやつ。あとこの杖ー」 「杖か、ふむ。低級ロードで代用出来たかもしれないが」 「ねえ、藍夜。流石にそこは値切らなくていいんじゃないの……」 ニゼルの髪色、自身の背丈、陽が出ているにも拘らず外套で身をすっぽり覆う兄。人々の視線が刺さるのはそれだけが理由ではない。 ニゼルに誘われるまま近場の喫茶店に入る。木目が目立つ家具と象牙のカーテンを見送り、バルコニーに出て、個々に茶を頼んだ。 バルコニーは街の通りに対しうんと大幅にはみ出すように作られていて、店内に入り二階にまで来なければ中の様子を伺えない。 人の姿はちらほら見られたが、表通りにいるよりは好奇の視線に晒されずに済むようだった。鮮やかな手腕だと暁橙は感心する。 すぐ出てきたレモンティーの氷を匙で突付きながら、ふと思い出したように「全治一ヶ月」を兄に告げてみた。案の定、 「そうかい、分かったよ――三日で完治したまえ」 藍夜は頬杖を突きながら満面の笑みを浮かべてみせる。無駄に顔が整っているだけに薄ら寒い、痛みだって吹っ飛ぶというものだ。 ここがもし人目の付かない、そう、例えば自室やオフィキリナス内であったら、間違いなく土下座か正座コースのどちらかだろう。 最早、乾いた笑いしか出なかった。 「藍夜。暁橙にも無理があると思うよ?」 「いいや、僕の弟であるというなら何とでもなる筈さ」 「ソウダヨ兄ィ。オイラモサスガニソンナノムリダヨ、ジョウダンキツイヨ」 「うんうん、出来る事と出来ない事くらい区別付けてあげないと、暁橙が可哀想だよ」 「なんでもいいが、『こんなものハーブティーとは言えないね。水を頼んだ覚えはないのだがね』。本当にね」 くどいようだが、今度こそ暁橙もニゼルも乾いた笑いしか出なかった。藍夜は金にがめついだけではない、人嫌いであり、かつ地獄耳。 基本性格であった筈なのにすっかり失念していたと、二人は処方箋を睨みながら、じっとりした溜息を漏らすばかりだった。 「ふむ、ついでに昼食も買っていこうか。琥珀の肉もね。鷲と獅子の身体だ、果物や野菜などでは消化不良を起こし兼ねないからね」 「あ、はい」 「うん、うん。そうだね、兄ィ」 涼しい顔、もといどこか満足げな表情でハーブティーを飲み干し、まず藍夜が席を立った。若干目を潤ませる暁橙を促し、ニゼルも続く。 容赦ないが、これも鳥羽藍夜なりの愛情表現、言うなれば飴と鞭……そう思い込まなければやっていけないと、改めて二人は思った。 白ペンキで塗り潰された簡素な杖は、床を突く度こつこつ軽快な音が響く。藍夜が会計を済ませる間、先にニゼルと暁橙が外に出た。 人の通りは先程より俄かに増したように見えた。喫茶店の向かい、時計店の入り口すぐ上の掛け時計は十時手前を指している。 日差しが暖かい。暁橙に負担を掛けないように姿勢を正し、一度背伸びしてニゼルは目を細めた。 大理石や石灰を混ぜた煉瓦張りの表通りは、昼になる頃には日光でぽかぽかと良い塩梅に暖められる。 人通りがなければ仰向けに転がってみたいと思えるほどだった。柵に寄りかかり、二人は暫し人々の姿を眺めた。 「待たせたね。では、市場に向かうとしようか」 背後に立つ夜色の髪の少年。ぱっとこちらに向けられた複数の視線に、何らかの色が差された。柵をすり抜け彼が堂々と先頭を行く。 手入れの込んだ革靴に上等の外套、ぱりっと仕上げたスラックス。彼が通りを歩き出すと、人々が自ら左右に別れ、道を開ける。 杖を鳴らす弟と彼を支える親友に目線を投げながら、好奇と羨望、侮蔑など気にも留めない姿は、まさしく一世帯主の名に相応しい。 「うーん。やっぱり兄ィってカッコいいよね」 「うん。いや、暁橙がいいならいいんだ。ほんと、藍夜は格好いいしね」 兄は真っ先に手近な八百屋に立ち寄った。幾つか香草を手に取り、愛想笑いを浮かべていた店員と何やら話し込んでいる。 次第に双方、顔が真剣みを帯びてきて、周囲の客が何事かと立ち止まり、聞き耳を立て始めた。 すぐに去るところを見ると、大した事ではないのだろうが……互いに頷き合い、暁橙もニゼルもそっと耳を澄ます。 「このクレソン、近辺で採れたものにしては葉が小さいと思うがね。産地が違うのではないかな」 「まあ、そうです。近隣都市の菜園採りです、朝採りなんで鮮度は抜群かと」 「高いね。これでは殆んど茎だらけじゃないか、違うかい?」 二人は思った。鳥羽藍夜が街の面々と不仲であるのは、父母や店の因縁というよりも、彼の気質そのものが原因ではないのかと。 「ニジーさん……オイラ、オイラはっ!」 「うん。もう藍夜はお金と結婚すればいいと思うよ」 なんだか悩むのが馬鹿らしくなってきた。未だ値切ろうとする藍夜の背を見つめ、次いで顔を見合わせ、目を閉じ、同時に天を仰ぐ。 するとどうだ、朝に比べて、うっすらと北の空に暗い雲が出てきたように見えた。この時期は雨など滅多に降らない筈だ。 珍しい事もあるもんだ、暁橙がぼんやりそれを見上げていると、羊達が心配だ、隣でニゼルが小さく呟く。 「あー、じゃあ、急いで買い物して帰ろうよ。オイラも今日は仕事無理だし」 「今日は、じゃなくて、当分は、でしょ? 藍夜ー。早く行こうー」 「待ちたまえニゼル! あと一押しで、」 「駄ー目ですー。もう、あんまりやってると俺、藍夜の事嫌いになっちゃうからね?」 しぶしぶ合流するオフィキリナス店主。まだ粘れたものを、そう悔しがる彼に適当な相槌を打つ事で、ニゼルは嫌味を受け流した。 本当に「友達」がいないんだな、兄ィって……うっかりが多い暁橙も、流石に今日はそこまで失言しないでおけた。 黒雲は次第に勢いと速度を上げ、雷鳴を孕ませながら、徐々にホワイトセージに接近しつつあった。 ――遠くで誰かの声が聞こえる。 「はぁ、っふ、は……」 オオキタイモの大振りな葉の下、強まる雨脚にすっかりブーツは濡れてしまった。初夏だというのに足が指先から冷えている。 大きく息を吸って、口元に当てた手に息を吹きかけた。肺で体温と共に温められた蒸気が、一時的にかじかんだ指を解してくれる。 足が限界を訴えていた。体が冷え切ったからではない、長旅に食料も底を突き、路銀も最後の一枚を四日前に使い果たしたばかり。 身体を温める為の材料がもうないのだ。ブーツだけではない、突然の豪雨にマントも服も全て濡れ、体温を急激に奪っていく。 「力」を使えば多少は持ち直すかと思っていたが、想像より遥かに事態は深刻であったらしい。 祝詞を唱える為の唇は震え、意識だって碌に集中状態を維持出来ない。これでは力の行使など不可能も同然だ。 力なくその場にしゃがみ込む。考えなしの旅ではあった、こうなると否応なしに自分が未熟者である事を思い知らされる。 一面に広がる青々とした牧草地帯は、点在するオオキタイモに養分を吸われてもなお、丘のふもとを優しく包み込んでいた。 若草が布越しに心地よい弾力性を返してくれる。満ちる青い草原を見つめていると、嘗て自分が暮らしていた場所を思い出す。 (西洋菩提樹、迷迭香、カモマイル、トリカブト……あとは、あとは……なんだったかしら) 広々とした屋敷のほぼ中央。こじんまりとした造りの庭園には、四季折々の美しい花と香草、一部毒草の類が敷き詰められていた。 世話焼きの乙女と、常に彼女の傍らにあった男、そして自分。在りし日に庭園で過ごした日々は、今でも色褪せる事のない宝物。 忘れた事はない、忘れる事など出来はしない。確かな幸福がそこにはあった。現在(いま)となっては全て失われてしまったが。 (もう歩けないわ。ここまで来たのに、来れたのに。御免なさい、姉さん) 項垂れるとすぐに眠気がやって来た。ここで朽ちるというならそれもまた運命、抗うつもりもない。そうして重い瞼を下ろす。 ――何か、遠くで甲高い音が聞こえたような気がした。それは何者かの声のようにも感じられた。ぱっと顔を上げる。 自分の視界の端の端。丘の上、可愛らしい造りの大規模な小屋が複数と、それに相対するような小さい木造家屋が一軒、見える。 「! また、だわ」 先の音は視界の右側、木造家屋から届けられるものだった。ここからでは遠くて屋内の様子がよく見えない。 甲高い音。金属が擦れ合う、或いは鋼を打つような。音に混ざって魔法力のような気配も飛んでくる。忙しなく未熟な魔法の紡ぎ。 震える膝を叱咤して立ち上がる。刹那、 「っ! あっ、熱っ!?」 バチッ、鎖骨の辺りで何かが弾けた。マントの下、ワンピースの奥に手を突き入れ、首の周辺を慌てて探ってみる。 指に違和感――指先でシャラリと小気味いい音を立てたのは、幼い頃から大切にしている特殊硝子のペンダントだった。 無色透明の中に、蒼色の不思議とごつごつしたな石が閉じ込められている。実の姉が、いつかの誕生日祝いにくれた特注品。 「肌身離さず持っていてね。わたしも、ほら。こうして持っているから――これでもうずっと一緒よ」……優しい姉だった。 姉の持っている方は赤い石が硝子の中に込められていて、なんでも、お互いを「呼び合う」性質があるらしい。 自分と姉は歳が大分離れていて、周囲に出来不出来を比べられる事が多かった。 自分は決して姉ほど聡く賢くなかったが、それでも姉は変わらず優しかったし、何でも言い合えるほど仲が良かった。 例えばこんな雨の日は、二人で合羽を着て、おやつに食べる林檎を手を繋いで街まで買いに出掛けたものだ。 (また、鳴いてる) 甲高い音。手のひらの中で、石が微かに震えているかのような印象を受けた。石そのものが微かに青く光っているように見える。 先ほどから鳴る音は、この蒼石と繋がって発せられているものであるらしい。石を介し、硝子全体が鈍く重い熱を持っている。 指で表面を撫でると、時折、電撃にも似た青い火花が迸る。目を閉じて耳を澄ますと、また、あの音がした。 音に呼応するように火花は散り、皮膚や鎖骨にちょっとした刺激を伝えてくる。まるで、さあこちらにおいで、と誘うように。 (……姉さん。そこに、居るの?) 熱さに構わずペンダントを強く握る。音は次第に大きくなっているような気がした。呼ばれている――そんな直感があった。 ふうっ、一つ大きく息を吐き出して、なけなしの荷を詰め込んだ肩掛けの鞄から小さなナイフを取り出す。 御免なさい、短く謝罪しながら、茎の半ばほどからオオキタイモの葉を一枚削ぎ落とした。 水滴を弾くように出来ている葉は、この辺りでは子供の絶好の遊び場、若しくは緊急の傘として古い時代から重宝されている。 出身地の近くにも自生していたからよく知っている。ぶるんと一度水滴を振り払い、鞄の紐に押し付けるようにして片手に持った。 雨の勢いが殺がれる事はなかった。もう一度深く呼吸して、ずぶ濡れのブーツで一歩を踏み出す。牧草がぐしゃりと悲鳴を上げた。 「彼女」は長い旅をしていた。 蒼い石、微かな気配、「目撃した」というヒトの数少ない証言だけを頼りに、果てしなく長い旅を……。 木造家屋が近付く。音が近い。「トリ型の翼」を広げた、力を僅かに展開させる事で姉の気配を辿りやすくなるからだ。 「っ姉さん!!」 ヒトの気配はなかった。思い切って、目の前にある扉の取っ手を掴み一回し。胸の高鳴りに呼応して、翼が青紫の燐光を零す。 次の瞬間、彼女の世界はぐるんと回っていた。悲鳴を上げる暇もない。向こうの反応が早過ぎて、何が起きたのか理解出来なかった。 やっと姉の行方の手掛かりに辿り付けた――そればかりに夢中で、「小屋の中に何がいるのか」確認するのを忘れていた。 背中に強い衝撃、飛び散る雫、詰まる呼吸。オオキタイモの葉が、天井に向かってふわりと舞い上がる。 「――えーと、殺さなければイイんだっけ?」 鼓膜に落とされたのは、荒い呼気と獣の匂い。琥珀色の鋭い双眸が、己が葡萄色の瞳を至近距離で覗き込んでいる。 |
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