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楽園のおはなし (1-10)

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「あれっ? 藍夜、お客さん?」
「やあ、ニゼル。いや、客と言えば聞こえはいいがね」

ニゼルがオフィキリナスを訪れたのは、藍夜が最後のカップをアンブロシアに手渡したのとほぼ同時だった。
玄関から入ってすぐ、応接間に誰もいなかったので真っ直ぐ喫茶店の方に来たらしい。手には木綿の包みが一つ同伴していた。
幼馴染を招き入れるでもなく、眉間に皺を刻み、座ったままの藍夜を訝しまずにいられるほど短い付き合いではない。
まあ座りたまえよ、藍夜が勧めるより早く、ニゼルは包みも置かずにアンブロシアの眼前に立った。

「君、誰?」

ストレートな物言い。夢中で林檎を啄ばんでいた琥珀がぱっと頭を上げ、茶を啜ろうとした暁橙の手が止まった。
双方とも、もしくは藍夜も含め急に全員が会話を切ったのがよほど異常に見えたのだろう。天使は瞬きを数回繰り返し、固まった。

「ニゼル。そう急かさないでやっておくれよ」
「でも、藍夜」
「彼女は天使、アンブロシア。ついさっき賢姉を訪ねて来た。生憎、空振りだったらしいがね」
「天使? ……へえ、そうなんだ」

ニゼルの声色はまるでこの場にいる事を咎めるかのようなものだった。困惑しきった目が藍夜に向けられる。
対し、藍夜は言葉で応えず小さく肩を竦めてみせた。

「紹介しよう、アンブロシア。彼はニゼル、この近くでご両親と牧場をやっている。僕と暁橙の幼馴染だよ」
「そう、ですか。あの、ニゼルさん。アンブロシアといいます、お話の通りこちらにお邪魔させて頂いています。これから、」
「俺、ニゼル。ニゼル=アルジルね」

どこかたどたどしい娘の自己紹介に、藍夜は俄かに目を細める。対照的に、ニゼルは穏やかに微笑んだ。
友好を向けようとした天使の声を遮るように、且つ、「これから宜しく」といった類の言葉をニゼルは言わなかった。
笑顔とは裏腹に、真意は刺ある言動そのままで、彼はアンブロシアの来訪を歓迎しないと明白に意思表示していた。
アンブロシアもそれを感じ取ったのか、それ以上を告げず、葡萄の瞳は忙しなく床上を這う。
藍夜はこれといった仲裁もせずに目を閉じた。
オフィキリナス店主らが「天使」の手によって壮絶な最期を迎えた事実を知る彼だ。藍夜同様、エノク書や伝記を読破する事を好みながら
彼は決して藍夜の前でだけは「天使」の項目に対して良い反応を示さない。それは現実に実物の天使を前にしても同じ事であるらしい。
本当なら質問攻めでもしたいだろうに、どうにも僕に気を遣い過ぎる――とはいえ、ニゼルの極端な態度は満更嫌いでもなかった。
近隣住民に「色々な意味で」評判のいい「牧場の跡取り息子」としてはどうかと思うが。
口端を微かに持ち上げ、藍夜は改めてニゼルに座るよう声を掛ける。
言われて初めて気が付いたという風に、彼は藍夜のすぐ近くに腰を落ち着かせた。

「ニゼルさん、っていうかニジーさんはオイラ達におやつとかご飯とか持って来てくれるんだ。すんごく料理上手いんだよー」

ニゼルの二の句を待たずに、暁橙が喫茶店の隅から声を張り上げる。
あからさまではあったが、弟のこういった気質は店に必要不可欠とも感じる。自分もニゼルも彼ほど他人を気遣える余裕がない。

「ちょっと、暁橙ー。それ、褒め過ぎだってば」
「えっ、だって本当の事だし。オイラ達ちっちゃい頃に両親亡くしちゃってさ。それからずっと気に掛けてくれてるんだ」
「俺だけじゃなくて、父さんも母さんも、でしょー。もうやめてよ、恥ずかしいなあ」
「ふぅ〜ん、ふぅ〜ん。アレだぁよねぇ〜、暁橙って料理ぜぇーんっぜん出来なさそうだもんね〜」
「うっ。お、オイラだって頑張れば目玉焼きくらい……」
「え、『目玉』焼くの? なぁんだ、ニンゲンって意外と色んなモン食えるんだね〜」
「いやさあ、その目玉じゃなくてさあ」

苦笑するニゼルの横顔を、アンブロシアは食い入るように凝視している。琥珀の野次はおろか暁橙の話も聞こえていないようだった。
それが妙に気になった。藍夜はそっと自身の顎に手を当てる。とはいえ、琥珀ほどではないが自身もそろそろ腹が空いてきた。
気になっていたニゼルの土産は、見慣れた焼き菓子だった。解かれた布巾の中は木の実とカカオの香りに満ちている。
「フロランタン・ショコラ」。
クッキー生地に飴掛けしたナッツを乗せオーブンで焼き、周囲をチョコレートでコーティングしたニゼルの得意料理の一つだ。
甘いものを苦手とする藍夜も好んで食する為、小さい頃からうんと作る回数を重ね、今では職人顔負けの仕上がりになっている。
中身がフロランタンと知るや、藍夜は己の顔が綻ぶのを感じた。見ていたのか、琥珀が信じられないものを見るような目で固まっている。

「早速頂くとしようか。いつもすまないね、ニゼル」
「えっ、なに藍夜、いつも持って来てるじゃない。急にどうしたの? 別にいいけど」
「何、ちょっとね……アンブロシア、すまないがそこの引き出しから食器を頼まれてくれないか」
「……」

返事がなかった。
困惑と混乱、戸惑いを色濃く滲ませた表情を浮かべ、アンブロシアはその場に縫い付けられたように身を強張らせている。

「えーっと。アン?」
「――えっ、あっ、え!? あ、はい?」

ニゼルが覗き込むと同時に、彼女ははっと我に返った。すぐにその視線は反らされる。
顔を真っ赤に染め上げ、慌てふためき、散々彷徨った視線は何事かと半ば叫ぶように藍夜に向けられた。
間違いない。藍夜は確信した。半ば鎌を掛ける要領で彼女に用事を振ったのだが、彼女が意識を向けているのはニゼルだ。
こちらの話を無視しているのではない。彼女は――自己紹介のくだりから察するに――初対面のニゼルに引っかかる何かがあるらしい。

「食器を頼まれてくれないか。アンブロシア」
「え、あっ。は、はい。すみません、ぼうっとしちゃって」
「いや、」

構わないさ、そう続けようとして、ふと藍夜はニゼルから何か言いたげな視線が向けられているのに気が付いた。
なんだい、別に何も、何もって態度ではないだろう、何でもないですー……目だけで会話は成されていたが、ニゼルが先に視線を反らす。
つまるところ、折れるべきはこちらであるらしい。彼に気取られないよう一度嘆息して、藍夜は重い腰を上げた。
ニゼルのすぐ横、空のカップを出して先ほど淹れたばかりのハーブティーを注いでやる。

「(なんだい、ニゼル。何か言いたい事でもあるようだね)」
「(別に、って言いたいとこだけど。藍夜、あの娘見てて何か気付かない?)」

ニゼルが視線で示したのは、フォーク(琥珀の分は除外してあるらしい)を取り出し、手の中で数を合わせるアンブロシアの姿だった。
アンブロシアだけでなく、ニゼルも彼女に何か感じるものがあるというのだろうか。

(まさか……好意、いわゆる『一目惚れ』というやつではないだろうね)

眉間に皺をたっぷり刻んでみるも、それでも答えは分からず、否、色恋どうのを否定して欲しくて、藍夜は幼馴染の顔を見下ろした。
ニゼルはニゼルで、なんて顔してるの、と眉間に皺を刻み返してくる。小声で閃いた事を耳打ちすると、

「はあ!? いろこ……っ何それ、違うよ!」
「なんだ、違うのかい」
「全然違うよ、っていうか、なんでホッとした顔してるの」

思い切り否定された。どうも今日は冴えていない。弟と友人に悪口を言われ、値切りに失敗し、午後から雨で洗濯物も干せずじまい。
その上、そうだ……アンブロシアが魔法で開けた裏口の修理を忘れていた。暁橙は怪我をしているし、自分がやるしかないではないか。
「面倒な事になった」。本音を混ぜこっそりぼやくと、ニゼルはますます顔を歪めてみせた。情けない、そう言う代わりに溜息まで吐かれる。
どうやらこれも「はずれ」らしい。

「藍夜。アンびしょ濡れなんだけど、服とか貸してあげなかったの?」
「ああ、『それ』かい。忘れていたね」
「忘れ……ああ、そう」

怒られはしなかった。だが、心底呆れたという風に重い溜息を吐かれた。肩身が狭くなるような思いがして藍夜は唇の端を震わせる。
構わず、ニゼルはアンブロシアに一度皿をテーブルに置くように言うと、藍夜が何か言うより先に彼女の手を取った。
琥珀や暁橙の視線に送られながら、応接間に続く廊下とはまた別の入り口からオフィキリナス内部へ彼女を連れたって行く。

「兄ィ」
「藍夜ぁ」
「何も言わないでくれたまえ、二人とも」

残念なものを見る目を浮かべる一人と一匹を前に、店主は忌々しげに歯噛みした。






「ごめんねー。藍夜って、ああ見えてどこか抜けてるところがあるからさ」
「い、いえ。そんな事……あの、ところでこの部屋は」

オフィキリナスは二階、店主とその家族の居住スペースのとある一室に、ニゼルらはいた。
雨雲と相俟って室内は薄ら暗い。幼少の頃より見知った壁掛けのランプを掴み、発火装置のつまみを弄り、オレンジの火を灯す。
互いに背を向け合い、ニゼルは洋服箪笥を下から順に開けていき、アンブロシアは言われるがまま乾いてしまったマントを脱ぎ始めた。
室内には埃混じりの匂いが満ちている。もうずっと使われていないみたい――アンブロシアはしきりに周囲を見渡した。
店舗と同じく、板張りの壁。応接間や喫茶店とは異なり、床には群青色のラグが敷かれ、部屋の隅には観葉植物の鉢がある。
点々と並べられた家具は全て象牙色に彩られており、壁に点在する橙色の硝子をはめたランプと相俟って、一種の夜空を彷彿とさせた。

「あー、ここね、藍夜のご両親の寝室。結構広くて綺麗でしょ?」
「藍夜さんの? あ、それじゃあ」
「うん、そう。二人が亡くなった時からずっとこのまま。藍夜が片付けようとしなくてさ」
「そうですか……あの、そんな、悪いです。服ももう乾いてますし、わたしはこのままで大丈夫ですから」
「何言ってんの。それまだ乾いてないよ、風邪引いちゃうって。そんなお客さん放っておいたら、俺達おばさんに怒られちゃうよ」
「でも」

言い淀むアンブロシアの頭頂部めがけ、とーう、声を上げながらニゼルは唐突に手を振り下ろした。
チョップはかわされないままストレートに命中する。
驚きに目を見開き、瞬きを繰り返す天使をじっと睨み、彼女が怯えるように身を強張らせた瞬間を見届けてから、

「さっきは御免ね。嫌な言い方しちゃって」

ニゼルはぱっと輝くような笑顔を浮かべた。再度、アンブロシアは丸い目を忙しなく開け閉めしてみせる。

「藍夜のご両親、昔、天使に酷い目に合わされてさ。俺も藍夜もそれ見ちゃって、それからちょっと天使が駄目なんだよね」
「酷い目、ですか」
「うん。あ、でも、アンがそういう事したんじゃないって事くらい藍夜も分かってると思うよ。ただ俺も藍夜も割り切れないっていうか」

ニゼルの言葉は一瞬途切れた。壁の一点、その先、どこか遠くを見るように目を細めた彼の横顔にアンブロシアはただ言葉を詰まらせる。
亡くなられた藍夜の両親を思い出しているのだ、きっと良い人々だったのだろう。
赤紫の瞳の奥には、悲しみだけではなく、どこか優しい雰囲気も宿されていた。言葉にされなくても読み取れるものもある。

「素敵な方々だったんでしょうね」
「うん。藍夜の事も暁橙の事も大好きだった。藍夜のお父さんはちょっと無口で、マナーに厳しい人だったけどさ。お母さんも優しくて」
「ニゼルさんは。その、こちらのお店の方とずっとお付き合いがあったんですか」
「え? ああ、うん。藍夜が生まれた頃からもうずっとね。牧場手伝って貰ったり食べ物分け合ったり……ほら、ここ、街から離れてるからさ。
 藍夜のお父さんもお母さんも、アンは知ってるかな? 北方の島国の出身でさ。ここの人達と、ちょっと文化の違いとかあったみたいで」
「確か、輪の国(ワノクニ)、でしたよね」
「そうそう。『慣れない土地で苦労してるでしょうから、アンタお兄ちゃんなんだから助けてあげなさい』、って母さんによく言われてた」

ところで全部脱がないでよ、俺、また藍夜に誤解されたくないからね!
もはや下着姿も同然のアンブロシアに咳払いしながら、ニゼルは箪笥から取り出した適当なワンピースを彼女の肩に掛けた。
また、とはどういう事だろう。首を傾げながらも彼女は素直にワンピースを着込み、器用にスカートの裾などから脱いだ下着を取り出した。
ニゼルに指示されるままあらかじめ彼が持ち込んだ空籠にそれらを詰め、頭に厚手の布を宛がわれる。

「はい、とりあえずこれで拭きなよ。たぶん、藍夜か琥珀が今お風呂焚いてると思うから」

布からは微かにカモミールの香りがした。考えてみれば、鳥羽藍夜が皆に配っていた茶は皆ハーブを煮出したものだった。
この地域では愛用されているのだろう。髪を拭くでもなく、アンブロシアは目を閉じ、ずずーっと音がする勢いで布の匂いを嗅いだ。
匂いフェチなの? 彼女がしつこく匂いを嗅ぐのを目の当たりにし、さしものニゼルも彼女をじっと凝視する。

「えーっと、アン? アンちゃーん、どうしたの? なんか匂う?」
「……有難う、御座います」
「え?」

沈黙に耐え切れず声を絞り出してみる。
するとどうだ、ニゼルの眼前、布で髪ごと両頬をまるごと包み込むようにして、アンブロシアはほろほろと涙を流していた。
その表情はどこか哀しげでさえあった。ぎょっとするニゼル。彼女は途切れ途切れながらも、言葉を続けた。

「わたし、姉さんを探してここまで来ました。藍夜さん達には少し話したんですけど『ラグナロク』ではぐれてしまって……本当に長い旅路で。
 けどどうしても諦めきれなくて……姉さんは花が大好きで、特にこのカモミールは同僚さんに頼んでよくお香を作って貰っていたようでした。
 その、匂いを嗅いだら……なんだか、姉さんの事や、昔天界にいた頃の事を思い出しちゃって。すみません、急にこんな話をしてしまって」
「ううん。お姉さん、って。アンのお姉さんって、どんな人、いや、天使だったの?」
「姉さんは……天界でも名の知られた高位天使でした。けど、務めを抜きにしても誰からも好かれるひとで、わたしと違ってとても綺麗で」

務め、ってなんの事だろう――敢えてそれには触れず、ニゼルは小さく頷いて続きを促す。

「ニゼルさんと同じ空色の髪に。スピネルやガーネットみたいな本当に綺麗な赤紫の瞳で、どんな方も一度話しただけで虜になるほどでした。
 姉さんには、結婚を約束した方もいたんですけど……姉さんは『どんな方とも対等に話をしないとね』って、いつもそう言っていましたから」
「え、なに、アンのお姉さんには婚約者がいたって事?」
「はい。姉さんもその方の事を本当に愛していて、二人ともとても仲が良くて。幼かったわたしにも本当によくして下さいましたから」
「それじゃ、その婚約者、えーと、アンの義理のお兄さんともはぐれちゃったって事?」
「はい。姉さんからこのペンダントを『ラグナロク』が起こる前に『少し早いけどお誕生日のお祝い。お揃いの首飾りよ』、ってくれたんです。
 お義兄さんが知り合いの職人さんにわたし達用に作ってくれるよう頼んでいたらしくて。姉さんとわたしは『対天使』なんです。だから……」
「ついてんし? え、っと、確か天使の中でも珍しい亜種だって」
「はい。互いに惹かれ合う、ソウルメイト、のようなものです。このペンダントには中級(ストレンジ)・ロードの力が込められていて、互いに石を
 呼び合う性質があるんです。姉さんとお揃いで色違いのものを持っていましたから、石の反応を手掛かりにしてここまでやって来たんです」
「婚約者、頭いいね……アンとお姉さんの事、よく分かってたんだ。だからロードをペンダントに加工したんだね」
「はい。あの方もそうでしたし、姉さんは優しいひとでした。きっと会えると、そう信じてます……無事じゃないなんて、ある筈ないんです」

それで俺を見て固まってたのか! 決壊した天使を前に、ニゼルは苦いものを噛んだような心地でいた。
話してみると、彼女は外見通り、いや、下手をするとそれ以上に精神が幼い印象を受けた。彼女の姉や義兄は気付いていたのだろうか。
ニゼルの髪と目の色自体、ホワイトセージはおろか、サンダルウッド王国の中でも珍しいものと言われる機会は多かった。
天使の基本容姿が金髪青瞳と言われる以上、姉と重ねて見てしまうところは――例え無意識であっても、ないとは言い切れまい。

「っ、ごめ、なさい……こんな、こんな事言っても見つからないものは……し、仕方ないのに」
「アン……」

掛ける言葉が見つからない。
ここに来て、姉と同じ珍しい髪色の自分を見て気が緩んだのだろうか。嗚咽は止まらなかった。
長旅だったと彼女は言っていた。「アンのお姉さんも義兄も、妹ほったらかして何やってんだよ!」、つい先ほど藍夜が歓迎していないという
それだけの理由で彼女の目の敵にしていた事も忘れ、ニゼルは歯噛みした。最悪のパターンも想定出来る結果と言えるのも、もどかしい。
自分とて、両親を亡くして以来、鳥羽藍夜が弟の手前、動揺や寂しさを気取られないよう気丈に振舞っていた様をよく知っている。
アンブロシアとて、初対面の人間らを前に好きで愛想よく笑っているわけがない。
旅の疲れもあるだろう、藍夜曰く「空振り」だった事実も、彼女にとっては如何ほどのダメージとなり得たのか。

「仕方なくなんて、ないよ。全然」

居たたまれなさなど既に通り越した。布越しに数回、アンブロシアの頭にぽふぽふ手を乗せてやる。

「え……」
「アンはさ、お姉さんの事、諦めるつもりないんでしょ?」

しゃくり上げながらも、彼女は真っ赤に泣き腫らした目でニゼルを見上げた。これ見たらまーた藍夜に誤解されるんだろうなあ、苦笑しながら
ニゼルはふわりと鳥羽兄弟に向けるような、いつもの人好きのする笑顔をへらりと浮かべて見せる。アンブロシアはまた瞬きを繰り返した。
透明な雫が零れ落ち、さながら燃え尽きた流星群のように群青色に溶け込んでいく。

「俺はそれでいいと思うよ。手伝うとか一緒に探してあげるとか、そんな気軽には言えないけど。藍夜も暁橙もお人好しだしさ」
「……」
「ここって色んなワケありの人も来るし、二人とも頭いいしさー。琥珀……店にいたグリフォンなんだけど、あの子も悪い子じゃないし」

ふと、部屋の入り口付近の床上に、黒い影が差しているのが目に付いた。
立ち聞きなんて趣味悪いんだ――心の中でこっそりからかって、ニゼルはわしわしと乱暴にアンブロシアの髪を拭いてやる。

「きっと、アンの力になってくれると思うよ。どのみち、旅なんてずっと続けてたらお金にも困るしさ。俺はお姉さんの代わりにはなれないけど、
 本読んだり、調べたり、うちの牧場のお客さんから話聞いたりするくらいは出来るから。まあ、藍夜に聞いてみないと分かんないけど――」
「え……」
「――ここでの暮らしのルールとか生活費とか、そりゃあもう五月蝿いだろうけど。ねっ、藍夜!」
「……ふん。また随分と無茶振りをしてくれたものだね、ニゼル」
「!? あっ、藍夜さん!?」

やはりそうだ。部屋の入り口、扉の影から姿を現したのは、店主・藍夜その人だった。

「風呂を焚いたのでね、君さえ良ければ身体を温めてきたらどうだい、アンブロシア。ニゼルが五月蝿く言うから仕方なく、だがね」
「えっ、で、でも、服まで貸して頂いたのに……」
「何を言っているんだい。ここに居座るからには貸出料も含め、君にも働いて貰うよ。で、君は料理は出来るのかい。今まで惣菜ばかりでね」
「そんな……わたしの我が儘で、そこまでご迷惑をお掛けするわけにはいきません」
「ぶ、っふ!! い、いいじゃない。いいんだよ、アン。藍夜も暁橙も、美味しい女の子の手料理が食べたいんだよ。料理下手だから!」
「ニゼル。レシピさえあれば僕だって調理くらい難がないという事、よもや忘れたわけではないだろうね」
「ええー? あれぇ、なんの事だっけー? ふふ。嘘。冗談だよ、藍夜」

堪え切れず、ニゼルは爆笑。藍夜は苦虫を噛んだような顔で彼を睨みつけ、次いで、アンブロシアに半開きの目線を投げた。
彼女を招き入れた直後の吟味や猜疑といった眼差しではなく、夜と黒色の瞳の奥には確かな優しさ、照れ隠しが見え隠れしている。
ぽろり、と一際大きな雫を一粒零し、アンブロシアは我に返ったように慌てて両手で自身の涙を拭った。
頭を包む布を取り外し、胸元にそれを引き寄せ、抱き締めるように微かな香を吸う。

「はい。姉さんに教えて貰った簡単なものだけ、ですけど」

青紫の瞳を収める丸みを帯びた双眸を紅く腫らしながらも、彼女はぎこちなくも、ようやくふわりと笑んだ。
伝記に登場する神獣、琥珀の瞳のグリフォン。高位の対天使の片割れ、桜色の髪の天使。
賑やかになりそうだ、と警戒半分、好奇心半分で心をざわつかせながら、オフィキリナス店主は満面の笑みの幼馴染を見て、苦笑した。





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 UP:14/03/12