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楽園のおはなし (2-34)

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「……ごめんくださいまし、中にどなたか、いらっしゃるのではございませんか」

突然、扉代わりの板切れが叩かれる。アンブロシアはびくりと肩を跳ね上げて、ぷうぷうと柔らかい寝息をたてる鷲馬の仔から目を離した。
幸か不幸か、彼らの母も、対の天使達もぐっすりと熟睡している。疲れが溜まっているのだろう、ここは自分がしっかりしなければ。
任せて下さいねニゼルさん、胸中で今は不在のムードメーカーに宣言し、天使の娘はムンと両手に拳を作って気合いを入れ、立ち上がった。

「あの、すみません。今少し取り込んでいて、手が離せませんので……ごめんなさい、急ぎの用ですか。どちら様でしょう?」

決意したところで、そうそう変われるものでもない。つい正体不明の相手を気遣ってしまい、アンブロシアは自分の性分に落胆する。
とはいえ、事前に結界は多重に張り巡らせてあった。相手が誰であれ、簡単に破られるものではない筈だ、娘は自分にそう言い聞かせる。

「名乗りもせず申し訳ありやせん。わたくしは、以前オフィキリナスに食材を届けていた者です。その、ホワイトセージの変の後くらいに」

返事を聞いて、あら、と驚きの声が出た。ほぼ同時に無意識に警戒心が緩んでしまった事に、アンブロシアは気がつけない。
……ニゼルが琥珀を連れて「家出」した当時、休養に専念していた藍夜を助けたのが、毎日決まった時間に彼の店に届けられた食料だ。
それ以前より、喰天使が店を荒らした頃から届けられていたそれらは、ニゼルが離れて以降も滞りなく送りつけられていたと記憶している。
誰が、何の目的で、見返りひとつなく。初めこそ警戒していたアンブロシアも、動揺と慣れからか、次第にそれを疑問視しなくなっていた。
むしろ、今となっては見知らぬ配達人に厚意すら感じているほどだ。その証拠に、娘はぱっと表情を明るくしてしまう。
ここにきて、また差し入れがあるとは予想もしなかった。琥珀には精を付けて欲しいし、何なら少しでも藍夜の体力を回復させてやりたい。

「はい、覚えてます。あの、お陰様でとても助かりました。本当に有難うございます」
「……それは、よろしゅうございました。此度もわたくしの主人からそちら様に差し入れをしておくよう、仰せつかっておりやして」

扉を開けろと、暗に言われているのだと気付く。流石のアンブロシアも、それについては躊躇した。
手負い、もしくはお産直後の魔獣は気が立っている事が多い。あの大神に鷲獅子が食ってかかった時点で明白だ。
出来る事なら不安要素は取り除いておきたい。取っ手に手を伸ばしかけるも、それに触れるまでには至らない。娘は逡巡する。

「……やあ、開けてみたらいいんじゃないかな」
「!? サッ、むぐっ」

そのときだ。不意に背後から声を掛けられ、同時に目の前の板切れが易々と押し開かれた。
開けたのはサラカエルだ。寝起きとは思えないほど、彼の声や視線はしっかりしている。口を手で塞がれたまま、アンブロシアは瞬きした。
彼が気配もなく背後に立つのはいつもの事だ、彼女が驚いたのは、開かれた扉の前がもぬけの殻だったからに他ならない。

「やはり、ね。舐められたもんだよ、僕も」

殺戮の語気が怒りに震える。視線の先、つい数秒ほど前まで何者かが立っていたと思わしき場所には、本当に誰の姿も見られなかった。
代わりに、いつもの見慣れた白い木箱がぽつんと置き去りにされている。中には食料の類、そして珍しい事に、酒瓶が一本詰められていた。
そろりとサラカエルの手を外し、木箱を抱える。蓋のない、しっかりとした造りの箱。これまで深くを考えた事はまるでなかった。

(でも、そうですよね。普通に考えたら、これっておかしな事なんですよね)

火炎瓶か何かじゃないよね、横から手を出して酒瓶を透かして眺める殺戮をちらりと見て、アンブロシアはもう一度箱の中に視線を落とす。
誰が、何の目的で、見返りひとつなく、何故ここまでしてくれるのか。しばし黙考して、娘はひとまず木箱を手近な机に置いた。

『あれ、シア……それ、どーしたの』
「あ、起こしちゃいましたか。内緒ですよ、それより、まだゆっくりしていて大丈夫ですから」

シリウスはニゼルと里の後片付けに出ている、と簡単に説明し、鷲獅子の頭を軽く撫でる。琥珀は納得したと主張する代わりに眼を瞑った。
すると立て続けに鷲馬の双子が目を覚まし、次々に餌を寄越せと鳴き始める。お乳痛くなるんだよねー、と琥珀は小さく文句を垂れていた。
微笑ましい一連の流れに苦笑する。状況は、少しずつでも良い方に向かい始めているのかもしれない。
落ち着いたら、今後をニゼルさん達と話し合おう――視界の端からサラカエルに手招きされ、アンブロシアは彼の元に小走りで駆け寄った。

「サラカエルさん? どうかしたんですか」
「いやね、この酒なんだけど。これの送り主とやらは、何を考えてこれを寄越したんだろうと思ってさ」
「えっ? どういう事ですか」
「……流石の君も、においを嗅いだら分かるんじゃないかな」

いつの間にか、勝手に封が開けられている。犯人が誰かは、言うまでもないだろう。
ニゼルさんに知られたら「不用心なのはどっちなの」なんて言われるんじゃないかしら……娘は口を閉じて、促されるまま鼻を近付けた。

「……! あの、これって」
「ああ、久方ぶりに見たよ。ますます、さっきの主人とやらが何者なのか気になるところだね」

瓶の中からは、言葉では言い表し難いとてもいい匂いが発せられている。
強いて言うなら、季節の花が清流の流れる渓谷の風上から微かな芳香を運んでくるような、上品な質のものだった。
人間が嗅いだなら、その場で恍惚となり物言わぬ人形になり果ててしまうほどの、危険極まりない、ヒトならざる者が仕込んだ至高の逸品。
……神々が、己の存在を構成させる力を補填する為に口にするという、特別な酒だ。当然天使の身にも毒となるそれが、ここにある。
記憶が正しければ、天上界、ないし下界の秘境と称される特定の場所でのみ、製造法と材料の調達が確立されている貴重なものの筈だ。
アンブロシアは、自身の名前と同一の存在である中身を満たす酒瓶をサラカエルの手から受け取って、しげしげとボトルを眺めた。

『あ、そのニオイ覚えてるよ。女神様が「疲れた〜」って言いながら呑んでたヤツでしょ』
「アンバーくん」
『大丈夫〜、直に嗅いだワケじゃないから鼻曲がんないよ。それより、それって女神様専用のお酒だよね。誰が呑むの?』

それは、思わず口ごもった瞬間、殺戮が何かに反応して小屋の入り口に目を向ける。
つられて視線を動かした娘は、出ていたニゼルとシリウスがとぼとぼと歩いてくる姿を見つけて、馬小屋から飛び出した。
何故か、ふたりとも元気がないように見える。後で聞けばいいかと思い直し、ぶんぶんと勢いよく手を振った。

「ニゼルさん、シリウスさん!」
「……あれっ、アン? ごめん遅くなって、皆もう起きてるよね?」

言われて初めて、既に太陽が真上に昇っていた事に気がつく。目の前の草原が、陽光を受けて青々と光り輝いていた。

「すみません、実はずっと真珠ちゃんと珊瑚くんを眺めてて、まだご飯の支度が出来ていないんです」
「あー、ふたりともほんっと可愛いもんねー。いいんじゃない? 急ぎの旅でもないんだし」
「里の者から調理器具を借りてきた。火を起こすとしよう、外で煮炊きするといい」

言葉通り、シリウスは調理器具を詰め込んだリュックを提げている。
小屋の前に広げるや否や、彼は手際よく瓦礫片を集め、簡単な調理場を組み立ててくれた。
サラカエルが周辺を警戒にあたると言い出し、居合わせた面々は食事の支度をする事にする。水がなかったと、娘は視線を泳がせた。

「そう案ずるな、ここからそう遠くないところに飲み水に使える川がある。行けば、すぐに分かる筈だ」
「そうなんですか。わたし、ちょっと行ってみますね。ニゼルさん、アンバーくん達をお願いします」
「えっ、アン、一人で大丈夫?」
「はい。少し眠りすぎて、体も鈍っていますから!」

小川の位置をシリウスから聞き出して頭に入れ、アンブロシアは手近なバケツを掴んで馬小屋を一時離れる事にする。
新鮮な葉物、小麦の香がたつパンに、艶めく肉と乳製品。そして極めつけはあの酒だ。きっと豪勢な食事になるに違いない。
ほどなくして、白毛の一角獣の言う通り、馬小屋から数百メートルといったところにそう広くない、緩やかな流れの清流を見つけた。
まばらに生える木々の木漏れ日と、艶々と光る小石の道も相まって、とても気分をよくさせてくれる。
鼻歌混じりに岸に屈み、一度バケツを洗ってから、川の水を拝借した。透き通るそれは、昨夜の事件のおぞましさなど欠片も連想させない。
腕が鳴るわ、娘は重くなったバケツの取っ手を両手で掴み、急いで皆の元へ戻ろうと立ち上がる。

『――、』
「……え?」

アンブロシアが顔を上げた、その瞬間。川の向こう岸に、ひとりの女の姿が見えた。
女だと思ったのは、体の線が細い上に、着ている白いローブから長い髪が零れ落ちていたからだ。
目の前の清流のようにさらさらと流れる、美しい髪。ふと女の顔が上げられ、冥い肌色の上に、見知った赤紫の瞳が浮かぶ。
アンブロシアは、心臓を裂かれた想いだった。バケツを取り落としてしまった事にも気付かず小川に駆け込み、背を向けたそれに追い縋る。

「待って! 姉さん!!」

中ほどまで来たところで、ようやく、女の姿が消え失せている事に気付いて愕然とした。
夢の中でみる幻、霧の中に溶ける伝説の幻獣のように、影一つ、残り香一つすら残されていない。
腰まで浸かった分、あっという間に体が冷えていく。眼前を木の葉が一枚流れ過ぎた時、悲劇の天使ははっと我に返っていた。

「……姉さん……どうして……?」

声が震えているのが分かる。空色の髪、赤紫の瞳、線の細い体……どう考えても、探し続けていた対天使アンジェリカに違いなかった。
アンブロシアは、自身の腕を掻き抱く。ようやっと会えた、長きに渡って捜していたひと。やっと、その姿を目にする事が出来た。
だというのに、手に握られた漆黒の鎌は、彼女が死者の蔓延る地底の国より馳せ参じた、死の遣いである事を物語る。
死ぬ事を赦されず、冥府の王の命のまま、現世の魂を屠る為に在る存在。何故、彼女は転生出来ずにそのような身に陥ったのか。
生気の失せた、最愛の姉の背中が網膜に焼きついて離れない。体が震え始めている事にも構わず、アンブロシアはただ対岸を見つめていた。

「『わたしの事をどうか忘れないで……それだけが数少ないわたしの望み』」

微かに聞こえた言葉を反芻させる。忘れる筈がない、忘れられようのない大切なひとなのに……娘はぐっと唇を噛んだ。
何故、姉はあのような悲しい言葉を残したのだろう。何故、どうして、誰が彼女を……視界が急速に霞み、耐えきれず両手で顔を覆う。
そうしてアンブロシアは、自身の背後に何者かの気配が寄った事に気がつけない。
空色の髪、赤紫の瞳。落下したバケツを拾い、その人物は出来るだけ明るい声を心掛けて、娘にそっと声を掛けた。

「アン? ……大丈夫?」
「っ! あ……」
「風邪引いちゃうよ。遅いから、どうしたのかなと思って」

柔らかい春の日差しのような微笑みが、悲劇の天使に向けられる。
ニゼル=アルジル。姉と同じ身体的特徴を持つ青年は、片手でバケツを持ち直し、空いた手をアンブロシアにそっと差し出した。
反射的に、泣きながらその手を掴む。不思議と、芯まで凍てついた感情が、優しく溶かされていくような気がした。






「お姉さんが? そんな、冥府の遣いって……」
「はい。わたしも、何かの間違いだと思うんですけど」

水を汲んだ後の、ちょっとした散歩道。零さない程度にバケツを揺らしながら、ニゼルはようやく泣き止んだアンブロシアと緩い坂を上る。
すぐ近くの川で、彼女は落命した筈の対天使に会ったと話した。喰天使そのひとも、アンジェリカを自ら手に掛けたと話していた筈だ。
「現世の魂を刈り取り、冥府に連れ去る為の死の遣い」。世界の理に反し、許されない罪を負った者のみが行き着くという終わりなき厳罰。
姉は今そういった状況にあるのだと、アンブロシアは酷く落ち込んだ顔で説明する。ニゼルは懸命に彼女の背中をさすってやった。
……さぞかし驚いたに違いない。それと同時に、姉は唐突に「妹が自分の事を忘れている」と、そのような物言いをしたと言う。

「ショック、でした。姉さんは、薄情なわたしに失望したのかもしれません」

勝手な言い分だ、口には出さずにニゼルは憤慨していた。確かに、ここ最近のアンブロシアは、姉を捜す事を忘れ去っていたように見える。
しかし、彼女が如何にアンジェリカを大切に思っているのかは、部外者である筈の自分でさえ知っているのだ。
遣いとして存在していながら、空色の髪の天使が何を考え、何を思って妹の前に姿を見せたのか、羊飼いには分からなくなっていた。

「アン。お姉さんの受け売りじゃないけど、実際にここのところ、アンジェリカ探しの事、忘れてたよね?」
「うっ。そ、そんな事は……あの、すみません……」
「あ、いや、ごめんごめん。怒ってるわけじゃないんだ。その、確か対天使って、片方を喪うとすっごくショックを受けるって聞いたから」
「? あの、よくご存じですね」
「うん? うーん、藍夜かサラカエルに聞いたんだったかなー。よく覚えてないけど、確かそんな感じだったよね?」
「はい……もう、自身の使命を投げ出してしまうほどに打ちひしがれる事もあると聞いています。どれほどかは個体差があるみたいですね」

ニゼルはアンブロシアが、どこか他人事のような物言いをしていると気がつき、首を傾ぐ。実際に、現状、彼女は姉を失っている筈だった。
しかし、落ち込んでこそいるものの、そこまで失意の底に飲まれていないように見える。個体差……そんな言葉で説明出来るものだろうか。
ノクトがいれば少しは解説して貰えたかも、ニゼルは喉奥で小さく唸り、見えてきた馬小屋を目指して一気に速歩を速めた。

「シリウスー! 水、汲んできたよー!」
「戻ったか、ニゼル=アルジ……おい、どうしてそんなにずぶ濡れなんだ?」
「へへ。気持ちよさそうだったから、アンと水浴びしてきちゃった」

一足早く、シリウスは鉄板で何かを焼いている。一方、騎獣の叱責に立ち止まってしまったアンブロシアを庇い、ニゼルはへらりと笑った。
風邪を引くぞ、呆れたような声をやんわりと受け流し、二人は火の近くに身を寄り添わせながらしゃがみ、暖をとる。
シリウスが替えの服を探しに小屋に入ったのを見計らってから、ニゼルは鉄板の上で香ばしい匂いを立てるチーズに鼻をひくつかせた。
嗅ぎ慣れた匂いだ、最早、産地の名称まで頭に浮かんでしまっている。隣のアンブロシアが、ほっと安堵の息を吐いた。

「あの、これ、たぶん、ニゼルさんが大好きな羊のチーズですね」
「うん、みたいだねー。相変わらずいい匂いだなー」

……いい匂い。口ではそう言いながら、しかしニゼルは、不思議と食欲をくすぐられない事に驚き、何度も瞬きを繰り返す。
ほどよい焼き色、とろけるチーズ、付け合わせの羊肉のステーキ、ハーブを利かせて焼いたパン。どれもが自分の大好物だった。
それなのに、つまみ食いしようという気すら起こらない。自分はどうしてしまったのだろう――焦げないように忙しくチーズをかき混ぜる。

(おかしいな……色々あったから、疲れてるのかな)

見ると、アンブロシアは暖をとるので精一杯のようだった。暖かくなってきたとはいえ、星の民の里は高原地帯に似た気候をしている。
全身濡れ鼠では、流石に冷えて仕方がない筈だ。ニゼルは、スティックで纏めたチーズを器用に肉に塗りたくり、娘の目の前に突き出した。

「え? あの、ニゼルさん……」
「いいからいいから。シリウスには内緒ね……って、あれっ、お酒もある? いいねー、分かってるね!」

戸惑いながらも、思わずといった体でスティックを受け取ってしまった娘を見守り、ニゼルはふと視界に入った酒瓶に手を伸ばす。
アンブロシアが何やら声にならない悲鳴を上げたが、構わず中身を手近なグラスに注いだ。
透き通る、ほんのり色づく青い色。宝石を液体にしたらこうなるのだろう、透明、薄氷、青、紺と、くるくると変化する色彩に目を見張る。
たまらず、ニゼルは気品溢れる香りのそれを一気にあおっていた。想像していたより遥かに強いアルコールが、急激に喉を焼いていく。

「――あっ、馬鹿!? どこまで間抜けなのかな、君は!!」
「サラカエ……ッニゼル、それは呑んではいけない!」
「……ふわ? え? 何、どうしたの二人とも? これ、すーっごく美味しいよ……?」

夢心地、快楽、幸福感、充足感。頭がぽーっと茹で上がり、ニゼルはふわふわした心地にへらりと笑みを浮かべた。
何故か、血相を変えて駆け寄ってきた親友達がボトルを奪っていく。それは自分にとって、とても酷い仕打ちのように思えた。
珍しく不満全開にして、羊飼いは空になったグラスをくるくる回す。二人の呆れたような、それでいて困惑したような嘆息が鼓膜を打った。

「ニゼル、君、大丈夫なのかい」

親友は、心底心配してくれている。困惑と混乱、こちらを気遣う視線が、妙にくすぐったい。

「ウリエル、こんな究極の間抜けなんて放っておけばいいさ。ふん、何も調べずに安易に口にするなんて……信じられない神経だね」

殺戮は、嫌みの中に呆れと焦燥を滲ませていた。その不器用さがとても愛しいものに思えて、にやにやとした笑みが止まらない。

「いいでしょー、すっごく美味しかったんだもーん。なんか、久しぶりに美味しいご馳走を口にしたー、って感じ! ……」

わたしの食事は不味いですか、半泣きになったアンブロシアをシリウスが必死に慰めている。
馬小屋の奥からは、今度は琥珀達母子による騒がしい餌やりの声が聞こえてきた。
「ニゼル」はくつくつと喉を鳴らし、この混沌とした状況を楽しむ。そう、こんな、何気ない日々が一番退屈せずに済むのだった。
楽しい、嬉しい、幸せだ……あらゆる感覚が、現実から剥離されていく。「ニゼル」は不敵に親友らを見つめ返し、凛としてそこに立った。
注げ、そう言わんばかりに得意げな顔でグラスを差し出してくる豹変した青年に、サラカエルは一瞬体を強張らせる。
眉根を寄せた藍夜に一瞥を送り、なんと彼は、「神族専用」とされたその酒を、ニゼルの手に握られたグラスに恭しくそっと注いでみせた。

「サラカエル!? 君、一体どういうつもりなんだい! ニゼルの身に何かあっては!」
「ウリエル……いや、これは、その……模造品というべきかな、そんな類の品だよ」
「模造品? そんな馬鹿な、しかしその香りは、」
「『――うむ。偽物とは言え、最高の味わいだな。美味いぞ!』」

慌てふためく藍夜に視線を向けずに、「ニゼル」は二杯目を喉に流し込む。サラカエルににこりと満足げに微笑み返し、味を賞賛した。
殺戮は、何か物言いたげに唇を噛み、顔を俯かせている。構わず、彼の手から酒瓶を強奪すると、手酌で三杯目を注ぎ直した。
流石に藍夜が手を伸ばし、妨害してくる。彼の必死な表情には、彼が友人を如何に大切にしているかが現れていて、とても興味深く見えた。

「『ふふ、どれ、調子が出てきたぞ! アンバーの様子でも見てくるか』」
「……ッニゼル、君、一体どうしてしまったんだい!」

腕を掴まれ、歩みが止まる。ゆるりと振り向いた友人の瞳は、常の鮮やかな赤紫とはまるで異なる色に染まっていた。
藍夜は、信じられないものを見るような目でそれを見る。子牛の眼を思わせる、射干玉の黒瞳。彼には、その様に見覚えがあったのだ。

「……ニゼル、君、それは。その瞳は――」
「――え? あれ、俺……藍夜? どうしたの?」

五感が、心が、次第にニゼル=アルジルに戻されていった。はたと我に返った羊飼いは、急に脳天に上がった酔いにぐるりと目を回す。
ふらついたところを、サラカエルが支えてくれた。藍夜と二人掛かりで切り株の上に座らされ、未だにぼうっとする頭を横に振る。
オフィキリナス店主を見上げる友人の表情は、アルコールでほんのり朱くなっているものの、いつもと変わらない呑気そうな顔をしていた。
藍夜は、心底ほっと息を吐く。スカートの裾を絞っていたアンブロシアも、何事かと身を乗り出していた。
一斉に囲まれ、ニゼルは目を白黒させる。え、何、と本人が一番先の現象を覚えていない体であり、一同はそっと互いに目を見合わせた。

「ニゼル。君は今は、本当にニゼル=アルジルなのかい」
「えっ!? えっと、どうしたの藍夜、俺は俺だよ? あれー、まさかあれだけで酔っぱらっちゃったのかなあ……」
「……どこのものか分からない品を、いきなり口にするものじゃないよ。不用心なものだね」

友人に長い説教をかましながら、藍夜はふと考える。
子牛の黒瞳、どこか偉そうに見える高嶺の花……サラカエルを盗み見た彼は、対天使の歪んだ表情を見て、己の予想に息を呑むしかない。
「ニゼル=アルジルは地母神ヘラの転生した姿」ではないのか。
口にするのも憚られる恐るべき仮説は、不安と焦燥で彼の心を焼き尽くすようだった。見上げてくる眼は、常の尖晶石の色に戻されている。





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 UP:19/03/10