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楽園のおはなし (2-31) BACK / TOP / NEXT |
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ガタンと、大きく壁が軋む音がした。肩を跳ね上げ、アンブロシアはそろりと背後に視線を向ける。 琥珀とラファエル、そして大神がいる筈の旧馬小屋は、未だどっしりと結界の中に居座り続けていた。何事もない事にほっとする。 (……ニゼルさん、無事だといいんですけど) ニゼル、そしてノクトとの約束が脳裏を過ぎった。自分は琥珀と彼女の仔らを頼まれたのだ。決して、何者もここを通すわけにはいかない。 招かれざる客を弾き返すのが、今の自分の務めだと気を引き締める。気合いを入れるようにぐっと拳を握り、きっと前を睨み上げた。 「……フフッ、おや、アクラシエルではないか。そんな姿で、まさか何かを護った気にでもなっているのかね」 そんな折に、よりによって一番会いたくない人物がやってくる。顔から血の気が引いていくのを感じ、娘は慌てて首を横に振った。 赤混じりの金の髪、鮮血に似た赤色の瞳。背に生やす白い大翼は、目的と手段はどうあれ、彼自身が堕天使ではない事を強く主張する。 赤い豹、カマエル。天上界にいた時代には一度も接触した事のなかった、探究心に満ちる高位天使。 当時聞きかじった噂やシリウスの証言、大神の話から、彼が自分達にとって用心すべき危険人物である事を、アンブロシアは把握していた。 「お、お久しぶりです、カマエル様」 「久しい? フフッ、君と私はあまり面識がなかったように思うのだが。そんなに声を震わせて、どうかしたかね。気分でも悪いのかな」 「い、いえ、そんな事は。それよりカマエル様こそ、どうしてこんなところに……」 聞いた後で、しまった、と唾を飲む。カマエルは、こちらの心情を見透かすように薄く笑った。 堕天使を率い、星の民の里を我が物顔で実験道具の一つとして定め、なおシリウスと琥珀に手を伸ばす男。 何故、彼が直々に出てきたのか……アンブロシアは、はっとして天を仰ぐ。光の槍の重奏は、未だに止む気配がない。 「派手な演奏会だろう? 彼らは時間稼ぎの要員として、よくやってくれているよ」 「そんな! サラカエルさんやミカエル様までもが囮だと言うんですか」 「フフッ、ミカエル……つまり、大神ゼウスまで出てきたという事か。道理で、転移術がうまく動作しないわけだ。困るじゃないか」 かっと、頭に血が上る感覚が走った。アンブロシアは、舐めるような目でこちらを見る男を、凛とした強い眼差しで見つめ返す。 「後々困るのはあなたの方です、カマエル様。同胞をないがしろにするその精神、堕天使のそれと何も変わりません。恥を知って下さい!」 「アクラシエル、君が『至宝』の管理を担う特別な天使の一人である事は私も知っているとも。しかしだ、口には気をつけたまえ」 「いいえ、黙りません! あなたは、この小屋の中のものに用があるんですよね。わたし、絶対に渡しませんからっ!!」 すうっと、赤い眼から温度が失せるのを娘は見た。生き物を意志持つ生命として見なさない冷淡な眼差しが、悲劇の天使を見据える。 気圧されそうになるところを、必至に耐えた。約束は、約束だ――任せてくれた二人に失望などされたくない。 カマエルは、退かないアンブロシアを見て一瞬片眉をつり上げる。再び薄い唇が弧を描き、困ったお嬢さんだ、と低い声が漏らされた。 「ヒッポグリフを知っているかね。古来より数が少なく、また出生率も繁殖の成功例も極めて低い希少種だ。天然物となれば、なおさらに」 「お断りします。生まれてくる仔は、シリウスさんとアンバーくんが慈しむ事こそ正しい在り方。あなたの為のものではありません」 「フフッ、地母神の元で過ごすうちに『探究』する精神を失ったかね? 君も君の賢姉も、『知恵』を司る至宝の護り手だろう。惜しいな」 「生命が存続する上で、ときに増加し、ときに絶滅するのも自然の理に寄り添う事です。滅んでしまうのなら、それが鷲馬の運命でしょう。 識りたいと思う事、保護したいと願う事は、知性ある生き物の証明かもしれません。ですが、あなたのそれはあまりに強引で、傲慢です」 困るのなら勝手に困っていればいいよ――ニゼルがこの場にいればそう言うのだろうと、アンブロシアは胸中で自分に言い聞かせる。 己の為に他の意志も命運も見て見ぬふりをする赤い豹のやり方を思えば、自分は今危険な反抗をしていると嫌でも理解出来るのだった。 予想した通り、カマエルはくつくつと笑っている。はっきり拒絶されたというのに、彼は心底愉快そうに笑い続けていた。 その手が不意に挙げられ、指が鳴らされる。びくりと怯え、構える娘の前に、どこからともなく仮面をつけた堕天使が複数舞い降りた。 散らされる黒い羽根、表情の見えぬ顔、何より、着地し、武器を抜いた後でも無言のままにぼうと立つそれらに、アンブロシアは唾を飲む。 「普通ではない」。彼らには、生き物としての息遣いや気配が、まるで備わっていなかった。言いようのない恐怖に息が詰まる。 「アクラシエル……私は、女性をいたぶるのは趣味ではない。しかし、手段を選べないときというのは、得てしてままあるものだ」 どうしよう、どうしたら。結界を重ね掛けしようという思考すら奪われたかのようだった。直後、カマエルが古代語で何らかの命令を放つ。 危ない! 群がる凶器を前に、アンブロシアは腕を伸ばして即席の結界を展開しようとした。しかし、どう考えても間に合わない。 (……っ姉さん!) 刺し貫かれる、覚悟に目を閉じた、その瞬間。ふと、一陣の風が頬を掠める。 「――お止しなさい。あなた方にも、悪戯に命を粗末にする責務などないでしょう」 目に映る、水色。視界を淡い青、冬の空の色彩が覆い、娘は何度か瞬きした。薄く張られた結界は、決して自身が展開させたものではない。 恐る恐る手を伸ばすと、それは水面が宙に浮いているような、不思議な感触を返してくれる。指が触れた場所にぼんやりと波紋が広がった。 驚くべき事に、その極薄の結界は一瞬にしてアンブロシアと堕天使らの間に広げられ、その全面で凶刃を受け止めてくれている。 水面のような性質を有していながら、その結界は突き立てられた武器の全てを優しく包み込み、ただただ静かに表面を波立たせていた。 抜けず、落下もせず、また押し込む事も適わず、仮面の天使達は各々の柄を掴んで無表情のままにもがいている。 「こ、これ、この結界は?」 「莫迦な。何故、貴様がここにいる」 愕然として脱力するアンブロシアと、苛立ちに塗れた声を荒げるカマエル。両者の視線は、頭上、水の結界の真上に向けられた。 ……いつしかそこに、一人の天使の姿があったからだ。柔らかく棚引く橙混じりの金の髪、冬空の色を宿す瞳、透き通る水色を帯びた大翼。 羊飼いが好んで用いる牧畜用の杖を手に、中性的な容姿の天使は苦笑する。柔らかくしなやかに翼を羽ばたかせ、彼は静かに着地した。 纏う空気を例えるなら、母胎に宿される羊水そのもの。慈愛に満ちた目でカマエルを見つめ、青年はアンブロシアに小さく頷いてみせる。 「来たるべきときが来れば、自ずと勝利の扉は開かれるもの。ご無事で何よりでした、アクラシエル」 「……あなたは……ニゼルさん達に羊を分けて下さった、牧場の?」 「ええ、あのときはハルと名乗らせて貰っていました。ニゼルさん達は息災ですか。ここに来るまでの間、大変でしたね」 「『勝利』の階層の天使、ハニエルか……莫迦な、ラグナロクで命を落としたのではなかったのか」 「いいえ、カマエル。わたしは落命などしていませんよ。成すべき事があり、先に地上に降りていたのです……あなた方と、同じですね」 柔らかく微笑む天使と、怒りに眼を燃やす天使。相反するとはこの事だと、アンブロシアは胸の前で祈るように手を組み合わせた。 それと同時に、焦燥で気が逸る。姉と同じ「隠されし至宝」の守護者が二人もこの場に現れた……何らかの兆候か、それとも。 「私の、崇高なる計画の邪魔をするか。旧い同胞とはいえ、看過出来るものではないぞ」 「カマエル。あなた、盲目的であるのは変わりないようですね。いけませんよ、それでは本当に大切なものまで見失ってしまいます」 「私に……説教するな! 私を諭して良いのは、」 赤い豹は皆まで言わない。刹那、武器を手放した堕天使達が、一斉に素手で殴りかかってくる。 冬空の天使は、アンブロシアに自分の手のひらを見せ、後退するよう促した。同時に紡がれる言葉の列に、娘は小さく息を呑む。 古代語、それも異常なまでに速い詠唱だ。聞き慣れない祝詞はしかし、強力無比なものである事を瞬時に推測させた。 「結界っ、」 「ふざけるな! 勝利を司る者が、何故!」 繰り出される拳打が二人に届く事はない。先ほどの武器を絡め取ったものより厚い水面が、勢いのほどに黒衣を吸い込み、飲み干していく。 凌いだというのに、ハニエルの顔には寂しげな笑みが浮いていた。このひとはカマエルを哀れんでいるのか――悲劇の天使は押し黙る。 「カマエル、何も討ち滅ぼす事が勝利というものではありません。わたしが今成すべきは、この場に在る妊婦を庇護する事なのです」 「何? 莫迦な、天使が鷲獅子風情を護るというのか!? 何故そこまで、ニゼル=アルジルに荷担する!」 「アクラシエル、そろそろ産まれても良い頃です。中に戻り、ラファエルを助けてあげて下さい」 「はっ、はい!」 「待て! 私の実験の成果だぞ、勝手な真似は許さん!!」 「それは誤りですよ、カマエル。生まれてくる仔らは誰のものでもありません。あなたも賢いひとですから、そこはもうお分かりでしょう」 アンブロシアが屋内に飛び込んだのを見計らい、ハニエルは堕天使を捕らえる結界に手で触れ、構造を微細に調整した。 仮面に覆われたままの顔面が内部から自然と引きずり出され、一時停止していた呼気が戻される。 殺す気はないのか、呻く赤い豹に、そんな野蛮な真似はしませんよ、冬空の天使は常と同じ苦笑を返した。 「宜しいですか、わたしは本来、妊婦や月に寄り添う女性を陰ながら守護する存在。好き好んで、この場に割り込んだわけではないのです」 カマエルはハニエルの言わんとする事が読めずにいるのか、憮然とした顔で押し黙っている。 無理もないだろうなと、ハニエルは背後の扉に結界が厳重に張られるのを見届けてから、一歩を踏み出した。 「何を言っているのかね、現時点で、こうして私の邪魔をしているではないか。貴様も、密かにヒッポグリフを狙っていたのではないのか」 「カマエル。あなたがあの幻獣達を造るべく、様々な試行錯誤をなさっていた事は一見で分かります。さぞ苦労された事でしょう」 「……何が言いたい?」 「邪魔をする意図はないのです。彼らに産ませ、育ませ、その後に目的の為に借用すれば宜しい。強奪すれば、反感を買うのは必然ですよ」 カマエルが一歩、後退る。否定と懐疑に満ちた眼差しが、ハニエルを凝視した。 「貴様は先ほどから何を言っている? 私から、いや、奴らから鷲馬を奪いに来たのではないと言うのか」 「ええ。わたしは、ヒッポグリフ自体に用も義理もありません。ただカマエル、あなたに今、退いて頂きたいだけなのですよ」 「今? どういう意味だ、貴様の話はまるで脈絡がない」 「そうでしょうね。『使わなければあなたの目的は果たされないのですから』それなら後々、成熟する時を待てと、そう言っているのです」 「!? 貴様……連中の味方をしているのではなかったのか。血迷いでもしたのかね?」 冬空の天使はこう言うのだ。「今は手出しをせず、必要になった頃に借りに来ればいい」と。 真意が読めず、理解も出来ず、カマエルは半ば呆然とした顔でかつての同胞を見る。ハニエルは、いつものように柔らかく微笑した。 刹那、背筋を冷たいものが這う感覚が走る。私はこれを恐れているのか――赤い豹は剥き出しにした歯を強く噛みしめた。 「そんなに怯えないで下さい、カマエル。わたし達は、古き良き仲間ではありませんか。争いなんて、無益です」 「何が仲間か。私の求めるものは貴様の言う、馴れ合いと妥協の果てに手に出来るものではない。研究材料は、常に手元に置くべきなのだ」 「いけませんよ、わたしは争いたくないのです。あなたが今あの鷲獅子を連れ去ると言うのなら、わたしは邪魔に入らなくてはなりません」 「黙れ、この偽善者が! 何が勝利の階層か、それを司ると公言するなら、それこそ私を止めてみせるがいい!」 その瞬間、両者の周囲に恐ろしく冷たい風が吹きつける。はっと風上に目を向けた二人は、そこにあの黒塗りの男が立っているのを見た。 魔王か、カマエルは苦しげに顔を歪めて呻き、サミル、ハニエルは意外なものを見かけたという驚きの声を漏らす。 「――こんにちは。今日は死に様を看るのに相応しい、素晴らしき快晴の日だね」 人好きのする笑みが、両者を睥睨した。黒色の風と、帯電する雷の間を縫うようにして、青年の周りに黒毛の魔獣が沸いて出る。 「魔王……何故、ここに」 「無論『お仕事』だけど、それが何か? ……ふふ、今日は仲良しの記す天使は不在なのかな、赤い豹」 「くっ……ハニエル、貴様があれをここに連れてきたわけではないだろうな」 「いいえ。正直、わたしも罰を与えられるほどの悪事を、星の民が働いていたとは思えません。カマエル、ここは退いた方が良さそうです」 「逃がすものか」、魔王の口が確かにそう動いたのを、二人は見た。しかし、双方共にまだ成さねばならない事がある。 目配せと同時、ハニエルは水の結界を喚び、カマエルは逆探索の術を紡いだ。刹那、黒き雷が宙を裂き、二つの気配に爪を立てる。 ぐるぐると魔力が渦を巻き、反発し合い、激しい衝撃音と閃光を迸らせた。震動、烈風。たたらを踏んだ魔王サミルは、静かに両目を開く。 「……逃げられたか」 感情の籠もらない声が、乾いた空気に溶かされた。牙を食い込ませた筈の天使達は、跡形もなく姿を消している。 流石、探索能力を扱う天使なだけあるかな……自嘲と敵意に口端をつり上げ、黒塗りの青年は片腕を下へと振り下ろした。 周りを徘徊するように闊歩していた獣達が、手のひらの動きにあわせて鼻を動かし、喉奥で唸る。 「深追いはしなくていい。リリスの様子だけ見てきて」 二言だけの命令を聞くや否や、魔獣は一斉に小屋の影、或いは青年の影に飛び込み姿を消した。小さく息を吐き、ゆるりと背後に振り返る。 牧草を踏む音が迫っていた。黒塗りの瞳は、ようやくこの場に辿り着いた人物らの姿を、黒曜石を磨いた鏡であるかのように映し込む。 「あれっ、君は……」 間の抜けた声が、空気を打った。同時に、魔王の眼前に鋭い雷の鞭が襲い来る。 「うわっ、藍夜!?」 「ニゼル=アルジル! 相手が相手だ、下がっていろ!」 「そうとも、ニゼル。よもや、僕の邪魔をしようと言うのではないだろうね」 対抗したのは、黒塗りの雷だ。祝詞を用いるでもなく、堕天使の頂点は直立したまま雷霆の一撃をやんわりと受け流した。 弟の仇を睨みつけ、藍夜はなお前に出る。親友の怒りと焦りを止めようと、ニゼルは懸命に彼の腕に手を伸ばした。 ふと、赤紫と漆黒が重なる。羊飼いの目には、やはり魔王がどこか苦しんでいるように映った。 「こんにちは、いや、そろそろこんばんはかな。久しぶりだね、トバアイヤ」 「気安く呼ばないで貰いたいものだね。何故、ここに。まさか僕に討たれたいが為などとは言わないだろうね」 「……ふふ、敵討ちか。君達が新しく飼い始めた騎獣も、そうして安易に報復行為に出たんだ。流石、似たもの同士といったところかな?」 「……何、」 「シリウス! 魔王といったね……君は、言ってもいい事と悪い事の区別もつかないというのかい!」 「藍夜! 待って、それ以上、雷霆使わないで!!」 「ニゼル! 止めないでくれたまえ!」 さざ波のような含み笑いが、宙に解ける。不意に、悲しげな顔で微笑んだ魔王に、三人は無意識に言葉を呑んだ。 「忘れてしまったのかな。『本当に大切なもの』は、腕から滑り落ちてしまう幻のように儚いもの……大神に、仔を奪われてもいいのかな」 はっとして、シリウスが駆け出す。ニゼル達があっと声を上げる間もないうちに、白毛の一角獣は魔王の横を通り過ぎていった。 意外にも。意外にも、サミルはシリウスの邪魔をせず、すんなりと道を譲って見せたのだ。扉が蹴破られ、騎獣は小屋に飛び込んでいく。 「……どういう、つもりだい」 「どうもしないよ……ふふ、僕は個人的にあの大神に恨みがあってね」 それが何を指すのか。その謎に踏み込む事は、何故か憚られた。笑みの形に双眸を細めていたサミルは、ふと表情から感情の類を消し去る。 思わず身構えた藍夜を庇うように、ニゼルが親友の前にさっと飛び出した。決死の表情で両腕を広げる羊飼いを、射干玉の瞳が睥睨する。 「――しかし……あくまで。あくまで、それを庇い立てすると言うのですか。我が主よ」 「……えっ?」 「ニゼル! 下がっていたまえっ、」 「安心するがいい、トバアイヤ。いや、『ウリエル』。二度も『殺戮』の恨みを買う趣味はないからね」 どういう意味だい、藍夜が叫ぶと同時に、突然強烈な風が吹き荒れた。 草を、土を、小屋を、そしてニゼル達自身をも薙ぎ払う勢いの強風に、二人はただ互いにしがみつき合う事しか出来ない。 音が遠ざかり、まともに呼吸が出来ると気がついた頃には、あたりは風に荒らされた風景ばかりが散らされている。 予想した通り、魔王の姿は消えていた。頭上に視線を向ければ、あの透き通る黒い結界も失せている。明るい橙、夕焼けが広がっていた。 「……ぁ、そうだっ、琥珀!」 「小屋は、屋根以外は無事のようだね……ニゼル!」 「うんっ!」 考えなければならない事は、山のようにある。しかし、二人は皮肉にも、魔王の促した「大切なもの」の確認を優先せざるを得なかった。 生まれてくる筈の、新たな生命。もし、シリウスの到着が間に合わなければ。母体である琥珀の身に何かあれば……不安は尽きる事がない。 小屋に飛び込んだとき、二人は咳き込み、くしゃみを連発する羽目になる。漂っているのは、散乱する牧草くずと木片の山だった。 そんな中、微かに鼻を突く特有の臭気がある。小さな声に釣られるようにして、ニゼルと藍夜は物音の元に顔を向けた。 「琥珀! シリウス!」 枯れ草に埋もれるようにして、黒金の羽毛がうつ伏せになっている。寄り添う白毛の一角獣は、緩慢な動きで二人に振り向いた。 「……ニゼル=アルジル」 憔悴した顔だ。まさか、「駄目」だったのか……嫌な想像が一気に溢れ、ニゼルは藍夜が止めるのも聞かずに枯れ草を踏みつけ駆けつける。 しおれた羽根に縋るようにして、シリウスの隣から手を伸ばし、魔獣に触れた。巨体は微かに上下に動いており、ひとまずほっとする。 「琥珀? ねえ、大丈夫、起きてる?」 「……あの、ニゼルさん」 「アン……」 背後から声を掛けられ、振り向きざまに見つけたアンブロシアの切なげな顔に、ニゼルはぐっと声を詰まらせた。 ふと目を凝らすと、娘の腕に蔓植物で編まれた籠が抱えられているのが見える。大きな籠だ、それこそある程度の重量に耐えられそうな…… 「アン? それって、」 『……に、じー……』 「! 琥珀!?」 「ニゼル=アルジル。妻は、俺が看ている。お前も欲しがっていただろう……抱いてやれ」 「シリウス? えっと、それってどういう意味……」 皆まで言うよりも早く。そろりと慎重な歩みで寄ってきたアンブロシアが、ニゼルの前に静かに籠を差し出した。 後から着いてきた藍夜と顔を見合わせ、二人は内心はらはらしながら籠の中身を覗き込む。 ……琥珀が、小さく笑ったような音が聞こえた。蔓と葉に囲まれ、その中身は琥珀同様、丸めた体を小さく上下に揺らしている。 真っ白な羽毛、真っ黒な羽毛。恐る恐る手を伸ばすと、微かに濡れた羽根の、柔らかく頼りない、ふわりとした極上の感触が返された。 赤紫の瞳が、驚きと歓喜に大きく見開かれる。言葉が出せず、ぱくぱくと忙しなく口を動かすだけの羊飼いに、元店主は小さく頷き返した。 「どうやら無事に産まれていたようだね。琥珀、よく頑張ったじゃないか」 「うわ、わあぁ……これ、夢じゃないよね? アン、俺の頬ちょっとつねってみてくれる?」 「夢ではないというものだよ、というより夢にしてしまっては琥珀もシリウスも不憫だろう、ニゼル。アンブロシアは手が離せないのだし」 「だ、だって! だって、ほんとに……本当に……」 寝息が聞こえる、呼吸が解ける、時折羽根が細かく動く。 今まさに、鷲獅子が産み落とした双子の鷲馬が、蔓籠と天使の腕に護られ、安らぎと幸福の眠りに就いていた。 羊水に濡れた羽毛を、ニゼルはもう一度そっと撫でる。確かな鼓動と温もりが、暗闇に点される灯火のようにそこに在った。 穴だらけの小屋に、名画に描かれる祝福の画に似たオレンジ色が射し込む。お誕生日おめでとう、満面の笑みと共に新たな命に話し掛けた。 |
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