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楽園のおはなし (2-30)

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目の前が、真っ赤に染まっていた。気付けば、既に凶刃が空を切っている。
可憐に微笑む顔も、細い体も、母譲りの柔らかく長い髪も。記憶の中の妹は、穢らわしい欲望とは無縁のように穏やかな娘だった。
それがどうだ。そのどれもが全て、穢され、汚され、踏みにじられ、蹂躙されている。約束など、誓いなど、端から存在しなかったように。
「あにさま」、そう紡ぐその雌は、俺の知るエライではなかった。それなのに、それは確かに妹の顔で俺を見る。

『あにさま……ごら、あなたも……また……ねえ、はやく……はやく、きて』

頭に血が上ったと、瞬時に理解した。しかし、煮えたぎる脳が理性を呼び戻す事を拒絶する。気がつけば、目の前が真っ赤に染まっていた。
「また」と妹は口にした……あの雄は、俺達の幼なじみは、よりによってあそこにいる雄どもと同じようにエライを我が物顔で喰ったのか。
斬り捨てたと同時に、俺は全てを知ったのだ。長は、里の者達は皆、古く良き孤高の一角獣である矜持を捨てたのだ、と――

「シリウス!!」

――背後から掛けられた声に応える事など、とても出来そうにない。
振り向きざま跳躍し、軽々とその夏空の色の横をすり抜け、俺は凶刃を妹を下から抱く雄もろとも刺し貫く。
柔らかそうな胸から下腹部にかけ、吸い込まれるように銀光が飲まれていった。軽傷で済んだのか、妹を貪っていた中年が雄叫びを上げる。
一度刀を抜き、妹の頭部を横から払うように手で押し退けてやると、俺は返す刃で雄の口内へ切っ先をまっすぐにねじ込んだ。
鮮血、苦鳴、鮮血。肉という肉を破る鈍い感覚が手に跳ね返り、強烈な臭気が鼻を突く。構わず腕に力を込め、柄を一気に振り下ろした。
死そのものの感触が、全身に突き刺さる。後は無我夢中だった。周りにいた者を、種族関係なく斬り捨て、ねじ伏せ、生命を手折っていく。

「――シリウス、シリウス! 待って!!」

悲鳴に似た仲間の制止を、俺は聞く気になれなかった。自負する脚力で扉を蹴破り、妹と同じ白毛のたてがみを揺らして、塔を駆け下りる。
父から譲り受けた刃なら、まだ手放さずに有していられた。血がこびりつき、不快な臭いを纏おうと、今の俺にはどうしてもこれが必要だ。
……里が朽ちいく運命に晒されていると知った、幼少期。ラグナロクの後、身を寄せ合うようにして生きてきたのだと語っていた両親。
その寂しげな笑みを、里の者や俺達兄妹に誇りを持てと諭した賢さを、よりによってあの連中は穢らわしい欲望のままに冒涜したのか。
吐き気がする、おぞましい、汚らわしい、許し難い、憎い、憎い、憎い……ああ、憎い。決して許せるものではない。
それほど欲の赴くままに生き、恥を晒してまで民を延命させたいというのなら、次期長候補であるこの俺の手で終わらせてやる。
こんな里など、故郷など必要ない……星の民という神々さえ手出し出来なかった誇り高い一族は、今日を以って歴史上から姿を消すのだ。

『ああ……エライ……父、アルデミラン、母、アリデッド。我が血肉を有していた誇りよ、その勇姿よ。今……俺もそちらに往く』

里には、血と絶望の臭いが漂っていた。人型をとり、二足でしかと草を踏む。顔を上げると、里のあちこちに白と黒の雷が降っていた。
終わりにしよう――一歩踏み出し、二歩駆け足、三歩で一気に疾走する。刃が、眼前、黒い体毛の魔獣ごと手負いの一角獣を切断した。
赤と黒が宙で交わり、周囲の魔獣が怯えた眼で俺を見る。血濡れの口に千切れた同胞の毛が下がるのを目にしても、俺は何も思わなかった。

「どうした。肉が喰いたいのだろう、見ての通り、天上の露は甘く食べ応えのある味だぞ」

ふと、目の前の家屋の窓に、見知らぬ不気味な男の顔が映る様を見る。その瞬間、俺は、自分が今笑っているのだという事に気がついた。
何が穢れを厭う種か……けだものの咆哮が耳を突き、胸の内が一気にざわつき、頭に血が駆け上る。俺は刃を振り上げた。
不意に脳裏を過ぎる過去がある。父はかつて、この大業物「天ノ露」で、万が一の折に妹と我が民を護るよう、幼い俺に言いつけた。
決して、私欲の為に振るってはいけないと……「俺には、もうどこにも帰る場所はない」。俺はその時、初めてその事実を知ったのだ。






「――ッシリウス、シリウス!! 待って、待ってったら、」
「ニゼル、落ち着きたまえ!」

南の塔の高き場所、騎獣に取り残されてしまったニゼルは、親友の声にはっと振り返る。
視線の先、藍夜の顔と体は、白毛の一角獣の凶行によって、べっとりと赤黒く濡れていた。
気が遠のきそうになるのを、懸命に堪える。頭を振り、涙を落としそうな目を両手で擦ろうとした瞬間、手首を掴まれた。

「ニゼル、君も今、とても口には出来ない姿だよ。そんな手で目を擦ってはいけない」

痛めてしまうよ、親友は苦いものを噛んだような顔で嘆息する。彼の憔悴した表情にニゼルもようやく我に返り、ごめんと口にした。
藍夜は頭を振り、しゃがんで斬り捨てられたゴラの首に指先をあてがう。駄目だ、とその口が掠れた声色を吐き出した。
見るも無惨な姿に変わり果てた鳶色の一角獣。手を首から外すと、親友はゴラの両眼に目蓋を下ろさせる。悲痛な面持ちで溜め息を吐いた。

「どうしようもないさ。僕だって、まさかシリウスがここまで暴走するとは、夢にも思わなかったからね」
「藍夜……瞳術で、こうなるって視えてたわけじゃなかったんだね」
「塔の内部を偵察しただけだったからね。いや、しかし、止められなかった。ニゼル、この一件、僕にも責任があるというものだよ」
「そんな事ないよ、藍夜のせいなんかじゃない。俺が雇い主だっていうのに、止められなかったから……俺のせいだよ」
「エライ嬢の仕事を視ていたんだ。それなら、こうなる事もある程度は予測出来る筈だった。僕の落ち度さ」

いつものように肩を竦める親友の声は、しかしだいぶん沈んでいる。俺も似たような声なんだろうなと、ニゼルはきゅっと唇を噛んだ。
生存者を探そう、そう言う藍夜に倣い、裸の山を慎重に漁る。意外にも、外側にいた雌雄が盾となったのか、中にはまだ息のある者もいた。

「……酷い」

呟いた直後、ニゼルは手を止める。思わず口を突いて言葉は、血濡れの惨状ではなく、貪り合っていた雌雄の様子に触れて出たものだった。
とっくに仔を身ごもり、腹が出ている者。全身のあらゆる部位に、種がこびりついている者。香煙にやられたのか、白眼を剥いている者。
穢れを嫌うというユニコーンの概念を覆す光景が、目の前に無言のままで広がっている。吐き気を覚え、ニゼルは一度神獣の山から離れた。
自分にはシリウスの怒りのほどを推し量る事は出来ない。しかし、大切に育ててきた存在を無惨に扱われた彼の心痛は痛いほどよく分かる。
生まれては死にいき、命運に紡がれ運命に切られる……それら生命の理を軽視するこの仕打ちに、ニゼル自身も強い怒りを覚えていた。

(アルジル羊みたいな家畜ならまだしも、意志あるシリウスの妹さんだよ? こんな事をさせる為に育ててきたわけじゃないだろうに)

惨く、悲しい。目を閉じ、引きずられないよう自分に言い聞かせた。振り返ると、既に親友は生き残った神獣達の傷の確認を取っている。
急いで駆け寄ると、ここは任せておきたまえ、と告げられた。理解が追いつかず困惑の眼差しを向ける羊飼いに、店主は小さく顔を歪める。

「ニゼル、君はシリウスの雇い主じゃなかったのかい。今の彼を誰が止められると言うんだい、最早、君しかいないじゃないか」
「それはそうだけど! でも、こんなところに藍夜を一人置いてなんか、」
「冷たい事を言うようだがね、このままでは琥珀が未亡人になりかねないというものだよ。君はそれでいいのかい」

ニゼルは首を左右に振った。藍夜は小さく嘆息して、胸ポケットから出したハンカチで、ニゼルの顔を拭い始める。

「聞きたまえ。僕には雷霆がある、翼を使えば飛んで逃げる事も出来るのだよ。しかし君はそうじゃない、サラカエルの加護があってもだ」
「生身の人間だからって? だから俺は、藍夜の力になれないって、足手纏いだって、そう言いたいの?」
「そんな事言っていないじゃないか。ニゼル、僕は口下手で、かつ生き物の扱いが不得手なのだよ。察してくれたまえよ」
「……もしかして、一緒に行ってもシリウスのフォローは無理だよ、とかそういう意味?」
「君ね、いちいちそんな言い直さなくともいいじゃないか。意地が悪いものだね」

汚れたハンカチを腰に下げ、藍夜は憮然とした顔でニゼルを見た。香煙の作用を考慮すれば応急処置しか出来そうにないがね、と彼は呻く。

「シリウスは誇りを掲げるあまり、我を忘れた。しかし、彼にも落ち度はあった筈なんだ。放っておくわけに、いかないじゃないか」
「うん……そうだね。こんなの凄く悲しいし、虚しい弔いだよね」
「そうとも。なかった事には出来ないんだ、君なら分かるだろう。さあ、急ぎたまえ。処置が終わり次第、僕も行こう」

「月天の加護」を外気に触れさせておくよう勧められ、ニゼルは素直に首から下げていた銀細工を、服の上へと垂らした。
ほんのりと輝く銀光纏う欠け月を見下ろすと、いざという時、本当に殺戮の天使がすぐ駆けつけてくれるような気分にさせられる。
親友は、無言でその銀細工に手を伸ばした。言葉短く何かを唱え、これでいい、と力強く頷いてみせる。

「瞳術、つまり光の応用を施しておいた。よほど強いもの以外の目には、君の姿は映らない筈さ。シリウスを頼んだよ、ニゼル」
「うん。藍夜がやる事なら、サラカエルも嫌みなんて言わないと思うしね。ありがと、藍夜。藍夜も絶対、気をつけてね」

互いに頷き合い、それぞれに背を向け合った。一度首飾りを握りしめ、ニゼルは急いで杖による灯りを点し、暗い塔を駆け下りていく。

「はあ、はあ……シリウス、どこまで行ったんだろう」

地上に出た後、ニゼルは何者かが強引に森を進んだ跡である木々のアーチを通り、森を抜けた。鋭い刃で裂かれた葉に、ごくりと唾を飲む。
足下を照らしてみると、転々と一定間隔で続く足跡が見えた。シリウスのブーツ痕によく似ている。まず間違いないだろうと道を急いだ。
ほどなくして、先ほど訪ねた町に出る。今のルートは裏手になるのか、脳内にある初見の町並みと建物の並びが一致しない。
遙か遠くに、藍夜が張り巡らせた雷の結界もどきが見えた。シリウスもここにいるのだろうか、ニゼルは杖を回し、誘導を開始させる。

「あっ、待って待って」

するすると橙の光帯が延びていき、慌てて後を追った。近くから魔獣の唸り声がいくつか聞こえたが、迫ってくる気配は感じられない。
刹那、ニゼルのすぐ横を黒毛の狼が駆けていったが、当たり前のように無視される。藍夜達の加護は上手く作用しているようだった。
胸を撫で下ろし、光の誘導にただ従う。シリウスと合流したら、どうしよう――考えながら走っていた羊飼いは、前をよく見ていなかった。

「っ、わあっ!」

角から出てきた何者かとぶつかりそうになり、慌てて踏みとどまる。顔を上げると同時、ニゼルは言葉を失った。
……背筋が凍るとは、この事だ。目の前にいたのは、死人にしか見えない一人の男。
青白い肌に、目の下の深いくま、ぎろりと鈍く光る黒塗りの眼光、石炭で塗り固めたように黒くてろてろと輝く光沢を流す黒い髪。
目深にフードを被り、足下すら覆う長い外套を着ている。外套は髪と同じ黒色で、鋏で切り抜いた夜空で全身を包んでいるかのようだった。
異様だと思うのは、纏う空気だ。冥い地から這い出た亡者のように生気も覇気もなく、ただぬうとその場に立ち尽くしている。
それでいて、男には言葉で現し難い強い存在感が備えられていた。呆然とそれを見上げていたニゼルは、彼が瞬きしたのを見て我に返る。

「えっと、すみません、前をよく見てなくて……怪我してませんか」

へらっと愛想笑いを浮かべた直後、あたりに微かな風が吹いた。これまでの血生臭い空気を薙ぎ払う、恐ろしく冷たい、極寒の風だ。
途端に嫌な汗が全身に噴き出し、言葉が出せなくなる。目の前にいるものがとてつもなく恐ろしい怪物に思え、今度こそニゼルは硬直した。

『……よ……夜の、子供よ』
「? ……っ」

よく冷やした鋼鉄を思わせる、無機質な声。響きに複数の風を含ませるそれは、暗い洞窟の中で反響する不気味な水滴の音に似ている。
怖い、恐ろしい、逃げ出したい。なんとか助けを呼ぼうと口を動かすも、まるで音が出てこない。その場に足が縫いつけられたようだった。
男は黒瞳に冥い光を宿し、じっとニゼルを見下ろしている。「死」を形作るとこんな姿になるのだと、そう言われているような気がした。

『夜の子供よ。月と大地に護られし子よ……己が天命を、今こそ迎え入れよ』

「死」が、目の前に立っている。恐怖で引きつった顔で、ニゼルは男の黒瞳の奥に、黒い炎が勢いよく燃える様を見た。
手が伸びてくる。ああ、そうか、俺はこれから死んでしまうんだ――漠然とそう確信し、羊飼いはぐっと目を閉じた。

『……お待ち下さい、御方様』

そのときだ。不意に聞こえた声に、強引に意識が呼び戻される。眼前、伸ばされた筈の男の手は、ぴたりと宙で動きを止めていた。
振り向けば、声の主と思わしき一人の女の姿が見える。ニゼルは、そのローブに身を包む女に見覚えがあった。

「君は確か、レテ河の……」

息を呑む。以前、喰天使に敗れた親友を助ける為に訪れた冥府の入り口、レテ河。そこで番犬に襲われた際に、間に入ってくれた女だった。
目深に被るフードから、やはり見覚えのある空色のまっすぐな髪が零れ落ちている。虫に喰われたような穴の開く肌も健在だった。
女は、ニゼルに構わず黒い男を正面から見据えている。御方様と、彼女は口にした……二人は知り合いなのだと、思わず両者を見比べる。

『何故、止める。この子供に何がしかの因果があるというのか』
『それは申し上げられません。どうか、お許し下さい』

女は男の配下か、或いは目下の立場にあるらしい。深く頭を下げ、しかし一歩も退かず、下がらず、ただちらとニゼルを見た。
ここはわたしに任せて逃げなさい、そう諭されたと確信する。羊飼いは二人をもう一度見比べて、さっと頭を下げてから駆け出した。

(逃げなきゃ、行かなきゃ……シリウスを、探さなきゃいけないんだから……)

とても勝ち目のある相手とは思えない。女の眼差しに甘えるまま、ニゼルはひたすら走り、その場から一目散に逃亡する。
先ほど感じた「死」の恐怖が、今も全身にしぶとく纏わりついているような気がした。あの二人が何者か、知りたいと考える余裕もない。
こんなの俺らしくない――不甲斐なさに歯噛みする。しかし、今はあの黒い気配から何とかして逃がれたいという思いでいっぱいだった。

「っ、うわっ!」

足が滑り、派手に転ぶ。草いきれに混じる血の臭いに、ニゼルは転んだ体勢のまま、溜まらず自身の鼻を摘まんだ。

「……っつ、むぁ……あっ!?」

そうして、探さなければならなかったものを視界に映す。距離にして十メートルほど先、あの白く棚引くたてがみ、長髪の背中を見つけた。
騎獣シリウス。抜かれた刀を手に、彼はしんと佇んでいる。血を浴びせられただけで寝込んでしまった獣と同一の存在とはとても思えない。
何故なら彼は、真っ白な髪も、薄亜麻色の羽織物も、これまで一度も抜刀する事のなかった刀さえ、夥しい量の返り血に染めていた。
周囲に散らばる死体も相まって、彼が立つその場所が、まるで遠い何時か、別次元の世界のように思えてしまう。

「――ッ、シリウス!!」

言葉にし難い感情が、体の奥底から湧いて出た。怯んでなるものかと、自分に喝を入れるように声を張り上げる。
白毛の一角獣は肩を跳ね上げた。緩慢な動きで振り返ったそれは、何の感情も籠もらない表情を顔面に張り付けている。
それを目にした瞬間、ニゼルは頭に血が上ったのを感じた。やおら起き上がり、衝動に突き動かされるように騎獣の元に歩み寄る。
目の前に立つと同時、腕を伸ばして胸ぐらを鷲掴みにした。力いっぱいに引き寄せ、呆けたようにしか見えない顔を至近距離で睨み上げる。

「シリウス、こんなところで何してるの! エライちゃんもそうだし、今一番大切にしなきゃいけないものまでほったらかしにしてっ!!」

怒りでどうにかなってしまいそうだった。間近で怒鳴られ、シリウスの眼に辛うじて色彩が戻ってくる。

「ねえ、君はこれから『お父さん』になるんでしょ! このまま、滅びいく一族の空っぽな玉座にしがみついて生きていたいわけ!?」
「お前は……ニゼル、アルジル……」
「気安く呼ばないで! 俺は、こんな腑抜けな一角獣を選んだ覚えないんだから! しっかりしなよ、父親になるって決めたんでしょ!?
 それとも何、琥珀なんてどうでもいい、カマエルにそそのかされただけで、一時の快楽に揺らいだだけだって言いたいの。無責任だよ!」

鷲掴みにしていた手を掴まれ、二の句を呑んだ。見上げた先、白毛の一角獣は歯噛みし、悔しげに表情を歪めている。
ああ、大丈夫だ……ニゼルは根拠もなく確信した。実際、シリウスの両眼は憤怒の色を残しているものの、しっかりと光を取り戻している。
強く握り返してくる手のひら。血濡れのそれから目線を外し、羊飼いは自身の騎獣の眼をしかと見上げた。
強い意志を感じさせる藍色が赤紫をまっすぐに見下ろして、首を小さく縦に振ってみせる。

「馬鹿な事を……言うな。俺は、どうでもいい雌を端から手に入れようとは思わん」
「……それ、琥珀にちゃんと言ってあげなよ。きっと喜ぶよ?」
「断る。調子に乗られても迷惑だ」

不機嫌そうにそっぽを向く青年に向け、ニゼルは苦笑混じりに嘆息した。改めて、「恋」の力は絶大だなあと感心する。
シリウスは、危ないから下がっていろ、と数歩下がった。刀を払って血を飛ばし、顔に付着した鮮血もろとも布で拭くのを、黙って見守る。
ようやく落ち着きを取り戻したか、そう見込んだニゼルは、どうしても分からなかった事を本人に直接問いかけてみる事にした。

「ねえ、シリウス。さっき何があったの? エライちゃんの事、すっごく大事にしてたんでしょ」
「……それは、」
「シリウス? えっと、もしかして、あんまり言いたくない?」
「構わん。しかし、話しても理解を得られるかどうか……エライはあそこで、ゴラにも抱かれていた。あいつは、それを黙っていたんだ」
「え? あ、ゴラってさっきの……」
「俺とゴラ、エライは幼なじみだ。あいつは俺達兄妹の『婚姻を結ぶべきは好意のある者同士で』という方針に賛同していた、表向きはな。
 だが、今思えばエライに取り入る為の演技だったのかもしれん。俺に次ぐ次期長候補とされてきたが、特定の相手を作らなかったからな」

ニゼルと藍夜の耳には届かなかった応酬。久方ぶりに再会した妹と、反故にされた誓い、散らされた純潔。
元より、シリウスらは「穢れ」を厭う種なのだ……彼がこれ以上ないほどに激昂した背景を、ニゼルはようやく知る。

「ゴラがエライに惹かれている事は知っていた。しかし、エライは奴をそうは見ていなかった……俺は愚かだと思うか、ニゼル=アルジル」

苦々しい吐き出しに、ニゼルは首を振るより他にない。
もし、藍夜と自分、そして暁橙にそのような機会があったなら、自分達はどのような選択を採っていたのだろう。
……考えたところで、意味もない。エライ、そしてゴラの命は、次期長候補という若者の怒りによって既に手折られてしまった後だ。
白毛の一角獣は、後戻りの出来ないところに自ら立った。ニゼルは肯定も否定もせず、ただ己が騎獣に静かに頷き返す。

「シリウスが選んだ道だよ。償いをするにしろ、このまま殲滅を目指すにしろ、自分でけじめをつけないと。俺は最後までつきあうけどね」

それよりまず伴侶の元に行くのが先だけどね、大きな背中をばしっと叩き、手のひらに返る痛みを以って、自身にも喝を入れた。
確かな頷きと眼差しが返される。お産まで刻限はそうなかった筈だ――月天の加護を揺らしながら、羊飼いは橙の道標を、ゆるりと振った。
「選び取った道は、過去の亡霊が手招く茨の道だ」。唇には決して乗せず、慰め合いもせずに、ふたりは血濡れの草を強く蹴る。





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 UP:19/02/15