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楽園のおはなし (2-28) BACK / TOP / NEXT |
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その後、大神は事が済むまで休息すると言い、簡素な長椅子に横になった。こうも堂々と振る舞う様は流石だと、留まる者達は口にしない。 ラファエルが荷物の中から次々に厚手の布や頑丈そうな縄を取り出しているのを見て、アンブロシアは自分は何をすべきか、逡巡する。 琥珀の呻き声は低く、一定の調子を保ったままだった。治癒の天使の言葉に反して、今すぐお産が始まるわけではないのだろうと解釈する。 (こ、こんな事ならニゼルさんから羊の生態を聞いておくべきでした……ってアンバーくんは羊じゃないですし、わ、わたしはどうしたら) 「……アクラシエル、まず落ち着いて下さい」 「はっ、はい!」 声に振り向けば、苦笑いを浮かべるラファエルと目が合った。 「まだ掛かります、それまで君は、結界を展開しておいて下さい」 「結界、ですか」 「ええ。カマエルや星の民から、この小屋を隠しておいた方がいいでしょう。産まれた仔を奪われるのは心苦しいですからね」 「それもそうですね。分かりました、そうします」 ニゼルにここを任されたのだ、しっかりしなくては――拳を握って気合いを入れ、アンブロシアはいつも通りに結界を張ろうと手を掲げる。 しかし、その両手に魔力が手繰り寄せられる感覚はなかった。おかしい、もう一度……何度術を組み解いても、薄膜一枚すら喚び出せない。 こんな事は初めてだ、一体どうしてしまったのだろう。アンブロシアは下ろした両手を見つめ、その場に立ち尽くした。 ひとり慌ただしく湯を沸かしていた治癒の天使は、娘の様子がおかしい事を悟って手を止め、声を掛けてくる。 「アクラシエル? どうしたのですか」 「ラファエル様、それが……」 理由は、すぐに見て取れた。不意に視界が薄暗く染まり、天使達ははっとして窓の外に目を向ける。 先ほどまですっきりと晴れていた筈の空が黒色の硝子のような不可思議な膜に覆われ、地上に薄闇を齎していた。 透き通る純粋な黒色。至るところから血管のように細く伸びる黒雷がちりちりと揺らされ、天そのものが怒りに燃えているように目に映る。 酷く不気味な光景を見上げ、アンブロシアはラファエルの横顔にふと視線を移した。整った青年の表情は、畏怖の色に染まっている。 「ラファエル様。わたし、この現象を前にも見た事があります」 「……アクラシエル……実を言うと、僕もです。なんて事だ、まさかこんな時に?」 「はい。ホワイトセージの時と、一緒です。恐らくは、『魔王サミル』がこの地に現れました」 「その漆黒の雷は、堕天使の王が手下を引き連れて地獄から這い出でた証。破壊と退廃の歌を口ずさみ、彼の者が黒き死神を連れてくる」。 古くより、天使達の間で囁かれ続けてきた恐怖の言い伝え。昨日、件の王がニゼルと接触していた事を聞かされたばかりだ。 アンブロシアは震える肩を掻き抱いた。もしニゼル達に死を伴うような災いが起きたら……頭を振り、おもむろに手を伸ばして窓を閉める。 「たとえ、彼のひとがこの地に来ているのだとしても。ラファエル様、わたし達に出来る事はただ一つです」 「アクラシエル……」 「たとえ、この小屋全体を護る事は出来なくても。あなたとアンバーくんを中心とすれば、時間稼ぎをする事くらいは出来るでしょう」 「アクラシエル、君は自分が何を言っているのか分かっているのですか。その手法では君自身が、」 ラファエルは二の句を飲んだ。振り向いた娘は、実姉の高位天使によく似た柔らかい笑みを浮かべている。 「上空は、喰と殺戮が守護しています。わたしは、あのひと達の期待を裏切りたくないんです」 何より、天上界のいざこざに巻き込んでしまったニゼル達を失望させるような事はしたくない。かつてヘラに仕えていたという自負もある。 「仕えていた」。聞こえはいいが、自分は実のところ、何の役にも立っていなかった。喰天使が八つ当たりしたくなるのも分かる気がする。 ……大規模な審判の影響を受け、輪廻転生を経た後。ヘラの別邸に新たな器の身で引き取られてすぐに、ラグナロクは発生した。 あの時、そしてその前後に於いても、自分はノクトに責められた通り何ひとつ出来なかったのだ。しかし今は、当時の仲間がここにある。 「ラファエル様、そんな顔なさらないで下さい。わたしだって、そう簡単に冥府に下りたいなんて思ってませんよ」 「……やれるのですね? アンバーさんはもちろん、あなた自身。欠かす事なく守護出来る、と」 「あの頃は、何も出来ませんでした。でも、今は……気持ちの上でも、強くなれたような気がしているんです。魔王になんか、負けません」 アンブロシアは扉を開き、外に出た。漆黒の雷と、光の槍の豪雨、けだものの遠吠えと、一角獣の蹄の嵐。 全てが現実味に欠けていて、まるで自分が見知らぬどこかに連れ出されたような錯覚を覚える。 「落ち着いて……ここは確かに、天上の園のひとつ。わたしの世界の一欠片」 手を伸ばし、白と黒が交差する天に掲げた。祝詞をいつも以上に丁寧に唱え、言葉と術の初動を強くする。 魔王の力と自分の力が、反発し合う感覚が迸った。奥歯を噛み、弾き飛ばされそうになる体を叱咤して紡ぎを続ける。 護りたいものがある、守らなければならない約束がある、その覚悟が、押しつぶさんとする目に見えない圧力に抗い続けていた。 「――結界、展開しました! ラファエル様、アンバーくんをお願いしますっ!」 頭上に、はっきりとした手応えが走る。透き通る硝子光沢を持つ膜状の結界が、小屋の中、そして小屋の外をそれぞれ二重に覆っていた。 魔王の重圧を制した、それは天使の娘に確かな自信を与えてくれる。アンブロシアは術の継続を意識しながらも、毅然と前を見た。 迫りくる暴虐を、喰天使の黒炎が、殺戮の光槍が次々に貫いていく。皆さん、どうかご無事で――祈りを込め、そこに立った。 「悪夢だ……悪夢の再来としか、思えないね」 「藍夜、これってどうなってるの……」 立ち止まざる得ない。耳をつんざく悲鳴、血塗られた道、点々と散らばる肉塊と獣の足跡、天上の漆黒。 意識を強く保っていなければ、悪臭に手招きされるまま、冥い地に引きずり込まれてしまうような気さえする。 星の民の殆んどが集っているという居住地区に侵入すると同時、ニゼル達の目に凄惨極まりない光景が飛び込んできた。 シリウスは大丈夫だろうか、はっとして振り向いた羊飼いは、自身の騎獣が青ざめた顔そのままに、鼻と喉を手で押さえているのが見える。 血という穢れに弱い彼の事、耐えられるものではない筈だ。急いで駆け寄り、広い背中にそっと手のひらを添える。 「シリウス、その……こんな事聞いたらおかしいかもしれないけど、大丈夫?」 「ああ……だい、じょうぶだ、ニゼル……アルジル」 「大丈夫にはとても見えないがね。それに君、臭気だけではないだろう……この町は、君の故郷だ」 藍夜は苦いものを噛んだ顔を浮かべた。彼の言わんとする事が読めず、ニゼルは困惑したまま周囲に目線を走らせる。 「あっ、あそこ! ひとが倒れてる!」 「いや、ヒトではなく一角獣かもしれないよ。ニゼル、君はここにいたまえ」 ふと倒壊しかけた家屋の隅に、突っ伏したまま微動だにしない人間の姿を見つけた。一見で判断すれば、まだ負傷していないように見える。 駆け出そうとしたニゼルの腕を掴み、任せろとばかりに藍夜は頷いてみせた。騎獣を見ているように促され、気を逸らせながらも頷き返す。 親友の顔から、血の気が引いていた。この現象に思い当たる節があるのだろうか……何故か聞いてはいけないような気がして、口を閉じる。 「――うっ、」 「え? 藍夜?」 シリウスの背中を懸命にさすっていると、人影に近寄った藍夜の、唸るような、えずくような、掠れた声が聞こえた。 思わず目配せし、騎獣と共に彼の元に向かおうとする。刹那、親友から「来てはいけない」、と悲鳴じみた叱責が飛んだ。 「藍夜? どうし、」 「ニゼル、静かに!」 うろたえた直後、身を翻して藍夜が駆け戻ってくる。彼の顔は、先ほどと一変し、怒りか何かで紅潮していた。 その背後から、とてつもない速さで黒い塊が飛び出してくる。振り向き様、藍夜はニゼルを庇うようにして雷神の雷霆を前方に掲げた。 鈍い音、衝撃。咄嗟に、という風に雷霆を盾にした事で、親友は命を取り留める。黄金に組み付き牙をたてるのは、黒い毛並みの狼だった。 「くっ、う、」 「藍夜!! って、狼!? なんでっ、」 「ニゼル=アルジル、下がっていろ! 動物のにおいではないぞ!」 「こ、の……離したまえ!」 青白い閃光が走る。ロードの表面に浮かび上がる雷を見て取ると、黒狼は素早く牙を外して飛び退いた。 着地し、間合いを計るようにゆったりと歩きながらこちらを見ている。獣の口内と顔面が赤く濡れているのを見て、ニゼルは言葉を失った。 藍夜は、さっきのひとの死体を見たんだ――体中に悪寒と恐怖が駆け巡り、ニゼルは無意識に手を伸ばし、親友のシャツを掴む。 「ニゼル。『まだ一頭だ』、そう恐れるまでもないさ」 「藍夜……っでも、」 「トバアイヤ。そいつは、」 「魔獣、それも、ホワイトセージを襲撃したものとよく似ている。恐らくだが、アンブロシアが話していた『魔王』とやらの手下だろうね」 「魔王? あの、黒髪の男のひと?」 「詳しい話は後でというものだよ、ニゼル!」 言うが早いか、雷霆が唸りを上げた。迸る雷撃が四方から這い寄り、魔獣はたまらんと言う風に跳躍して距離を取る。 「さて、逃げよう、ふたりとも」 「え!?」 「俺とこいつだけなら走るまでだ、しかしすぐに追いつかれるぞ」 「着いてこられないようにするまでさ、集られては、それこそ逃げ場を失うからね」 有無をいわさず、走れ、そう命じられた。同時にシリウスに襟首を掴まれ、ニゼルはぐるんと視界が急転する中で悲鳴を上げる。 気付けば騎獣は本来の姿に変化し終えていて、その脚で駆け始めていた。慌てて長い首に抱きつき、振り落とされないようバランスをとる。 「まっ、待ってシリウス、藍夜は!?」 『おい、腕を放すな』 「ここにいるとも。シリウス、君、長の居場所へ案内してくれるかい」 親友を置き去りにしたかと焦るニゼルの耳に、馴染みの声が返された。駆ける騎獣のすぐ横、夜色の四枚翼を広げ、藍夜は雷霆を振り下ろす。 羽ばたきの最中に閃く、光の奔流。辛うじて後方に目を向ければ、無数の細やかな落雷が、雨霰のように広がっているのが見えた。 書物で読んだ自然現象、光のカーテンに似ている。細く調整された雷光の槍が薄ぼんやりと広がって、一種の結界を形成しているのだった。 こんな事も出来るんだ、呆然と感嘆の声を上げると、僕もやれば出来る子なのだよ、とどこか得意げな声が返される。 ニゼルは、眼前の光景を目に焼き付けようとした。残酷な景色とは裏腹に、青白い光と親友の翼が互いを強調しあい、美しく見えたからだ。 『このまま町を抜ける! 丘の上、石造りの塔が見えるだろう。あれが町の集会所だ』 「構わないよ、むしろ大歓迎さ。そこにカマエルもいるのだろうからね」 ……このまま、その場所に向かっていいのだろうか。ニゼルの胸中に、ふと言葉にしがたい負の予感が走る。 思わず純白のたてがみにしがみつき、それでもしかと前を見た。丘の上には、確かに灰色に濁る塔が建っている。 (あそこに行けば、シリウスは本当の意味で自由になれる、琥珀ともずっと一緒にいられる……でも、どうしても赦しが必要な事なのかな) 頭を振った。今更そんな事を言い出しても、仕方がない。もう、皆と共に天上の世界に来てしまっているのだ。 騎獣同士が惹かれ合っているのも見ている。シリウスが故郷に立ち寄る事でしがらみから解放されると言うのなら、それに越した事はない。 星の民を取り仕切る長、シリウスに交配用の人材を集めろと命じた一角獣。自分とは合わないだろうなと、ニゼルは嘆息した。 『――着いたぞ。降りられるか、ニゼル=アルジル』 「うん、大丈夫。ありがとね、シリウス」 集落の中心、小高い丘の上に、その塔はそびえ立っている。堅牢な造りは、籠城するにはもってこいだ。 短く刈られた草の上に降り、騎獣が再びヒトの姿に変化したのを見てから、ニゼルはそっと石造りの壁を見上げた。 「あれ? ねえ藍夜、シリウス。あれ、」 「煙が出ているね。中に、誰かいるという事かな」 「ああ。この惨状だ、避難した者が集まっているのかもしれない」 塔の最上階では食事か茶の準備か、枠のない窓からうっすらと煙が棚引いている。不思議と、その煙は宙のある部分で垂直に上昇していた。 目に見えない壁があるかのように、するすると伸びては消えていく。塔から煙の曲がっていく地点までは30センチほどしか離れていない。 結界かな、ぽつりと呟くと、その通りだ、騎獣の重い声が返された。星の民の中でも、長ら長寿の者は特に結界精製に優れると補足される。 「見ていろ」、おもむろにシリウスが手を伸ばすと、塔に指先が届かないうちに彼の手は無色透明の何かに阻まれ、動きを止めた。 「落命せずにいた者を匿っている筈だ。里に何かあればそうするよう、言い聞かせられてきたからな」 「えっと……じゃあ、どうやって入れて貰うの? まさか、このまま帰るとか言わないよね?」 「いや、ニゼル。ここから引き返すとしたら雷光の壁を抜ける事になるのだから、逆に僕達の身が危うくなるというものだよ」 「う、むむ。それもそっか。ねえ、シリウス」 「星の民同士で使っている合い言葉がある。そう案ずるな、ニゼル=アルジル」 言われるままに塔の外周を半周ほど歩いたところで、分厚い鋼と樫の木で造られた門の前に出る。 向かって右、手のひら大の小窓を目掛けて結界に拳を打ちつけ、シリウスは聞き慣れない言葉で何事かを囁いた。 小窓の向こうからも、若い男の声が返ってくる。二、三度その応酬を繰り返した後、ごごん、と鈍く重い音が鳴り響いた。 門が開かれる。がらがらと鎖が巻き取られるにつれ、薄暗い塔の中が露わになった。すると、先の小窓の奥から一人の男が顔を覗かせる。 「朝露と夜露に浸す刃……シリウス、よく無事だったな!」 「秋雨を集める川の渡り手……ゴラ、お前こそ生きていてくれたか」 「えーっと、シリウス? 知り合い?」 ばたばたと慌ただしい音がして、声の主は門から飛び出してきた。彼は目を丸くして、シリウスとニゼル達の姿をひっきりなしに見比べる。 「久しぶりだな! それにしても……驚いたなあ、下界の人間じゃないか。もしかしてお前の交配用か」 「おい、よせ。こいつはそんなんじゃない」 「うわー。交配用とか他人様、むしろ本人の前で言っちゃうんだー、へー、すごーい」 「……ニゼル、よしたまえ。相手は獣なのだよ、そういう言い方にもなるさ」 だって、と親友の窘めに唇を尖らせつつ、ニゼルはゴラと呼ばれた青年に一瞥を投げた。 歳はシリウスと同じくらいで、彼よりやや細身に見える。交配云々といった話を聞かなければ、暁橙寄りの好青年だと評価していただろう。 人懐っこい顔立ちが印象的だった。青年はニゼルの悪態に何度も瞬きして、「こいつ何なの?」とシリウスに小声で耳打ちしている。 「失礼、僕は鳥羽藍夜、こちらはニゼル。シリウスとは旅仲間の関係さ。長らに彼の事で少々お尋ねしたい事があり、足を運んだのだが、」 「え、ちょ、ちょい待ち。え? なに、そんないっぺんにもったいぶった言い方されても、頭に話が入ってこないんだけど」 「え? ゴラちゃんはバカの仔なの?」 「ニゼル! ……失礼、彼は交配とは好意のある者同士で行うのが最善、という持論の持ち主なものでね」 「はーい、潔癖症のニゼルでーす。こうでいい? 藍夜」 「……いや、もう、君が彼を嫌ってしまったのは理解したよ。少し黙っていたまえ、ニゼル」 「ゴラ。すまん、長にお会いしたい。今、中にいらっしゃるか」 口々にまくし立てられたからか、ゴラは更に瞬きを多くして、もごもごと口ごもった。シリウスがさりげなく間に入り、ニゼルを引き離す。 ご不在か、再度問いかけたシリウスの声に、ようやく青年ははっと我に返ったようだった。小さく頷き、着いてこい、と歩き出す。 ……塔の内部は思ったより広々としていて風通しもよく、空気が血なまぐさい事を除けば快適に過ごせる環境だろうと思われた。 ほんのりと明るい石畳に首を傾げていると、結界の補助効果が照明代わりの灯りを齎しているのだ、とシリウスが付け足してくれる。 我が騎獣ながら、自分の性格をよく分かってくれている――ニゼルは若干機嫌を直して、小走りで二頭の後に続いた。 「シリウス……町、見たよな? 酷いもんさ、皆、混乱してる」 「ああ。大変だったな」 「相変わらず淡白だな。俺とお前が小さい頃通った玩具屋の婆さんだって、喰われちまったのに」 ふたりの会話から、彼らは幼なじみのような関係なのだろうと予想する。口振りからしてゴラの方がシリウスを慕っているように見えた。 騎獣が口数少なくなったのは、実妹と琥珀の身を案じている為だろう。ニゼルは早く話をつけたいと思いながらも、何とか口を閉じていた。 急いては事を仕損じる、だったかな――鳥羽瓊々杵に教わった格言を脳内で反芻させ、落ち着かない胸のうちを無理やりに押さえ込む。 「……ん、あれ、藍夜?」 そしてふと、羊飼いは、自身の幼なじみが隣にいない事に気がついた。振り返ってみると、親友は雷霆を握ったまま立ち尽くしている。 薄明かりがあるとはいえ、距離があけば相手の表情を観察する事は難しい。ニゼルは腰から借り物のロードを抜き、手に握って駆け戻った。 「もしかしたら何か気に掛かる事があったのかもしれない。そうでなくても初めて立ち入る場所だ、藍夜は余計に慎重に動こうとする筈」。 ニゼルはそう考え、自分も力になれたらと杖を出してみたのだが、近寄ってみれば親友は眉間に深い皺を刻み、拒絶の姿勢をとっている。 ……何故かは分からない。だが、彼の歪んだ表情を見た瞬間、ニゼルは彼が、ロードを使う事を良しとしていないように思えたのだ。 言外に、使うな、自分に見せるな、そう言われたような気がした。立ち止まり、彼の顔がよく見える位置で見つめ合う。 「……藍夜? どうしたの?」 「……ニゼル」 「なあに? 何か、あった?」 顔色が悪い。そう気がついたのは、彼がわざとらしく大きな溜め息を吐いた瞬間だった。 すぐに神具を戻して駆け寄り、手を伸ばす。何事かと、ふたりの一角獣らもこちらに振り向いた気配があった。 構わず、ニゼルは親友の体を肩と両腕でしっかりと支えてやる。藍夜は、大丈夫だとも、と苦笑混じりに微笑んでみせた。 「大丈夫、じゃないんでしょ? どうする、少し休む? さっき力、結構使ってたでしょ」 「おや、君も大げさなものだね……問題ないよ、もう歳かもしれないが」 「何言ってるの、藍夜が歳なら俺だってそうじゃない。シリウス、長のところまでは、まだ掛かりそう?」 「あ、ああ。各階にはちょっとした詰所や休憩施設がある筈だ。一角獣に囲まれてもいいなら、そこで休息をとるのも手だろう」 構わないかゴラ、話を知人に振り、シリウスは彼とどこの階がいいかと相談し始める。大げさなものだね、親友は唇を震わせて強がった。 「だって、もしカマエルがここにいるならサラカエルがこっちに飛んできそうだもん。ウリエルを放っておけないーとか言って」 「いや、君ね、それは流石に……」 「ない、って言い切れる? 本当に? 藍夜は、本気でそう思ってるの?」 「……そう言われると、言い切れなくもないような気がしてきたが」 「もう、どっち!? もし藍夜が無茶したら、俺がサラカエルに嫌み言われるんだからね? それだけじゃない、今度は吊されかねない!」 恐ろしいんだからね本当に! 一通り喚き散らした後で、ニゼルは藍夜の顔を盗み見る。親友は、いつものように困り顔で笑っていた。 脳裏を過ぎる記憶がある。「人間の器でロードを行使し続ける事で、神具使いはその寿命を削っていく 」。鳥羽藍夜そのひとの言葉だった。 (ウリエルとして天使の力を使うだけならまだいいとして……雷神の雷霆は、強いロードだ。見慣れてるから気に留めた事もなかったけど) つい、今し方。あの、オーロラのように輝く大規模な結界は、告知天使の言う「近しい未来」に、より踏み込む行為だったのではないか。 思い返してみて、ニゼルは自身の顔から血の気がさっと引いていく感覚を噛みしめる。藍夜は不思議そうに目を瞬きさせていた。 親友を死に追いやろうとしているのは、彼が護ろうとするあらゆる身内だ……鳥羽暁橙を喪った事も、それに拍車をかけているように思う。 確信した瞬間、この件に深く彼を関わらせてはいけない、そんな予感が羊飼いの全身を駆け巡った。 予想などという甘いものではない、それは確信といっても過言ではない、これまでさんざん頼りにしてきた自身の「直感」だ。 「あの、藍夜? その、琥珀って大丈夫かな。見に行った方がいいかなーって思うんだけど、どう?」 「何を言っているんだい、君は。シリウスは君が好き好んで雇った騎獣じゃないか。ここで放置していくのは、無責任というものだよ」 「うっ、そこを突かれると……って、まだ黙ってシリウスを仲間にした事、根に持ってるの!? 性格凄すぎじゃない?」 「おや、よく言えたものだね、要は君が悪いのじゃないか。反省したまえ」 目の前で、鳥羽藍夜は笑っている、幸せそうに笑ってくれている。その見慣れた光景が、余計に胸を抉るようだった。 言っても無駄か、同時にそんな考えが浮かぶ。彼の事だ、たとえ命尽きようと、自分の我が儘に付きあい続けようとするだろう。 その好意を拒めば、かなり傷つく筈だ。自分は親友がまだウリエルでなかった頃、鳥羽夫妻の最期を共に目にした、唯一の存在なのだから。 「おい、具合はどうだ。ゴラの話では、二階ほど上に休憩所が整えてあるそうだが」 「いや、問題ないよ。先を急ごう、シリウス」 「藍夜って、雷霆振り回してないとストレスで死んじゃうんだって。流石、嫌み言わないと死んじゃうサラカエルの対だよねー」 わざわざ知人とこちらの間を往復してくれる律儀な騎獣に、ニゼルはくしゃりと笑い返した。 ……せめて、終わりが訪れるその時に。かつて、ニゲラがウリエルに望んでいたように、自分もまた鳥羽藍夜に願いを有しているのだ。 (藍夜が、藍夜らしく最期を迎えられるように。決して、無理強いでも、利己的でもなく、俺と藍夜が一番望む形で一緒にいられたら……) 耐え難い現実に引き戻され、感傷に浸ってしまったのか。それとも、喰い散らかされた神獣達の遺志に引きずられたのか。 どちらにせよ、親友はまだ存命なのだ。「終わったわけじゃない、彼に、生まれてきた事を後悔させたくない」。その意志から、頭を振る。 これは覚悟だ、ニゼルはひとり、そう考えた。近いうち大切なひとを失う為の決心、悼みを並べながら前に進む為の決意。 来たるべき時がきたら、自分は取り乱し、彼の死体に縋りつくかもしれない。置いていかないでと、我を忘れて泣き喚くかもしれない。 (でも、それじゃ駄目なんだ。終わりはいつか必ずくるって、自分の行いは自分に返ってくるんだって、そう理解しておかなくちゃ) ……ふと、ニゼルは「星の民」はどうなのだろう、と思い至る。 余所から血を引き入れ、結果として次期長候補に逃げられかけた、天上に住まう孤高の希少種。 彼らは、強引に連れ去った者達から種を奪い、或いは根付かせた、その代償を払う覚悟はあったのだろうか。 自由を望むなら、それに見合った対価は必要だ……シリウスの妹は、はたして本当に無事なのだろうか。 「……ル、ニゼル」 「っ、え、えっと? なあに、藍夜」 「なあにじゃないよ。立ち止まって、呼吸も落ち着いたからね。先を急ぐよ」 「あ、うん。ちょっと考え事してたんだ、ごめんね」 促され、彼の後に急いで続いた。ひたすら、螺旋を描く石段を駆け上がる。 手を伸ばせば届く位置にある、夜色の髪。さらさらと揺れるそれがいつまでも色褪せないようにと、ニゼルは身勝手に思考した。 |
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