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楽園のおはなし (2-27) BACK / TOP / NEXT |
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「……くわぁ〜あぁ、ねっむー」 どこをどう見ても早すぎる起床。布団を被って爆睡している親友を置き去りに、ニゼルは大広間を抜け、簡易キッチンに足を向ける。 物音が聞こえたような気がしたからだ。とはいえ、見渡す限り部屋の中はどこも真っ暗で、何者の気配も感じられない。 あわよくば軽食でも、と思っていたのに、不発となりそうだった。アンブロシアも寝坊なのかと首を傾げて、流しに通じる扉に手を掛ける。 「あれ、」 「うん?」 目に入ったのは、ランプの灯。薄暗い流し台の前、立ったままもしゃもしゃと何かを咀嚼するサラカエルを見つけた。無言で見つめ合う。 「……で、何か用かな。間抜け」 「え、あっ? サラカエル……って、それ、その肉! 生焼けだよ!?」 先に我に返り、口を開いたのは殺戮の方だったが、羊飼いの素っ頓狂な返事に彼は眉間に皺を刻んで見せた。 とはいえニゼルが悲鳴を上げるのも無理もない。サラカエルが自作したらしいサンドイッチは、野菜はほぼ素材の原型のままはみ出し放題、 垂れ下がる肉は半生で、流し台に赤い汁が滴る始末。そういえば料理してるところは見た事なかったなあと、ニゼルはしみじみしてしまう。 「生焼け……ああ、どうりで食感が悪いわけだ」 「そうだよ、もう……って、違う! なんでそのまま食べ続けるの、お腹壊すよ!?」 「やあ、朝から騒々しいな。少しは静かにして欲しいんだけどね、ウリエルが起きてしまうだろ」 「誰のせいだと思っ……もう、ほら、貸して!」 そのまま続けようとする天使の腕にしがみつく形で彼を止め、ニゼルは下げてあったフライパンを手に調理台に立った。 寝ぼけ半分なのか、それともまだ本調子ではないのか、サラカエルは食器棚に寄りかかる格好で羊飼いの動きを見守っている。 簡単な料理なら、牧場での暮らしで拾得済みだ。数分も経たないうちに、生焼けの肉は香ばしく美味そうなソテーに変わっていった。 「……ふん、君、料理出来たんだね」 「失礼だなあ。牧場って朝早いからね。母さんの代わりにやってた事もあっただけ」 面白くなさそうに片目を細めた殺戮に、皿に盛りつけたものを押しつける。我ながら上出来だなと、ニゼルはふふんと得意げに笑った。 しぶしぶといった体で受け取った天使の横に屈み、俺のも焼こう、と食料庫を適当に漁る。匂いにつられてしまったというのが本音だった。 「っていうかさ、サラカエルって自分の事になると適当だよね。無頓着っていうか」 「はあ……君にだけは、言われたくない台詞だけどね」 もしゃもしゃと、お互いひたすらに食べまくる。とはいえ、昨晩の琥珀の食事量の為か、食材の残りは心許なくなっていた。 もしかしたら、アンブロシアは朝市に出掛けたのかもしれない。どことなく鮮度が気になる葉物を口に押し込み、大きく息を吐く。 ふと視線を横に流すと、サラカエルとはっきり目が合った。途端、ニゼルの心臓が大きく跳ね、飲み込みかけていたものが喉に引っ掛かる。 「んぐっ、げっほごほっ!」 「いや、誰も盗ったりしないから落ち着きなよ」 「っ違うよ、死にかけてたの! ほったらかしとか、酷くない!?」 「ああ、死に損ねたら介錯くらいはしてやろうかなと」 「それってトドメ刺すって意味だよね、どっちにしても酷くない!? もー! 藍夜に言うからね!?」 そこでニゼルは、はっとして言葉を切った。眼前、食べかけのサンドイッチを手にしたまま、殺戮の天使が珍しく声を出して笑っている。 「っふ、はは、アッハハ……知ってるかい、そういうのをチクリ魔と呼ぶそうだよ」 「……っ、うわ、」 「? なに、どうし……やあ、君、顔が赤いじゃないか。長旅で疲れでも溜まったのかな」 「わあっ! だっ、だだっ、大丈夫! なんでもないから!!」 心臓が、早鐘のようにどきどきしていた。おまけに熱を計ろうとしたのか、額に手まで伸ばされかけ、慌てて距離を取る。 訝しむように眉根を潜めたサラカエルに、ニゼルはいつものようにあはは、と愛想笑いだけを返した。 (ちょっと! どうしちゃったんだ、俺……なんでサラカエルにドキドキしなきゃいけないんだろ?) 嫌な汗が背筋を這う。興味が失せたのか、殺戮は鼻で嘆息して再び食事に戻っていった。 落ち着け落ち着け、ニゼルは胸中で自分に言い聞かせる。呼吸が整ったところで、ちらと盗み見するように目線を動かした。 やはり視線が重なる。むしろ、サラカエルは羊飼いをまっすぐに見つめていた。どうしたの、恐々尋ねると、常のように首を傾げて見せる。 「いや、大した事じゃないんだ。大神に随分と生意気な口を利いていたから、どうしたものかと思ってさ」 「……うん? えーっと、心配してくれてるの?」 「そうじゃないさ。万が一、向こうに睨まれる事になったら面倒なだけだよ。僕だってミカエルや先生とはやり合いたくないからね」 強い、弱い、そういう問題だけではないのだと、殺戮は付け足した。 やっぱり遠まわしに心配してくれてるんじゃないか、口から出かけた言葉をニゼルはなんとか飲み込む。天使は小さく嘆息した。 「いいかい。これから天上界に向かうわけだけど、今度こそ単独行動は勘弁して欲しいね。それに乗じて大神が何をするか分からないから」 「何って、何?」 「さてね……昔から、あの方はヘラ様をはじめ、気に入ったものは何でも手に入れないと気が済まない性分だったから。それだけさ」 「……うん、そっか。やっぱり俺、あいつ嫌いかも」 「やあ、早速それか。間抜け全開な口は、本当に謹んで貰いたいんだけどね」 気持ちは分かるけどねと、サラカエルは小声でぼやく。ひとの事言えないじゃない、言い返してみるも、何故か鼻で笑い返されてしまった。 そうこうしているうちに、やはり買い出しに出ていたらしいアンブロシアがキッチンにひょこりと顔をみせる。 すぐに朝食にしますねと嬉しそうな満面の笑みを向けられ、二人は思わず顔を見合わせていた。 「……おはよう、にぜる」 「おはよう、藍夜。うわあ、珍しい。寝癖付いてるよー」 「おっはよー、ニジー! さぁて、今日も張り切ってゴハン食べるよ〜。シアー、宜しく〜」 「おい、ひとりで全部食べる気か。ニゼル=アルジル、何とかしろ」 「ちょっと、シリウス? 文句なら雇用主の藍夜に言ってよ、俺じゃなくてさ」 「……はあ。サラカエル、今日は頼んだよ」 「分かってるよ、ウリエル」 ぞろぞろと顔ぶれが揃い始める。皆、思い思いに食事を始めたが、数えてみると頭数が不足していた。 ラファエルやゼウス達だ。あてがわれた個室から出てこなかったのかと、ニゼルは藍夜と無言で顔を見合わせる。 放置しておけばいいよ、小声で呟く羊飼いに、先手を打たれていたのではこちらも困るというものだよ、と元店主は窘めた。 食事を続けるよう言い残し、二人はラファエルらの部屋へ足を運ぶ。何故か殺戮が着いてきて、ニゼルは再び内心どきまぎしてしまった。 ……訪ねてみて納得する。治癒の天使は、一足早く転送術の準備に取り組んでいるところだった。 取り揃えた材料が、部屋の中央に置かれた水瓶の中で液状となって混ざり合い、そろそろと不思議な赤色の煙を立てている。 「サラカエル、ウリエル。それに、ニゼルさん。おはよう御座います、よく休めましたか」 振り向くなり、ラファエルは表情を曇らせた。理由を尋ねると、曰く、流石に詠唱と魔法陣までは用意出来ていないのだという。 十分だと労う二人を余所に、ニゼルは室内を見渡し、ゼウスが不在である事に気がついた。もてなしが不満だったかなと考え、顔を歪める。 「ねえ、っていうか、ゼウスは? こんな狭いとこじゃご満足頂けませんでしたー、とか?」 「ニゼル。ラファエル先生、」 「ああ。ミカエルは星の民の里の偵察、ゼウス様は湯浴みをなさっておいでだよ。出来る限り、心身を浄化しておきたいと仰っていた」 「それは幸いだ。まず、けだもの共と人間体の連中に食事をさせてやって下さい、先生。五月蠅くされても困りますから」 ニゼルが嫌みを飛ばすより早く、サラカエルが会話に割り込んだ。数分前の事も覚えていないのかと、嫌み混じりに一瞥を投げられる。 「う、むむ……」 「ニゼル、先に戻っていたまえ」 「え、俺だけ? 藍夜とサラカエルは?」 「ラファエル先生にばかり負担を掛けてはいられないからね。先に術を仕込んでおくよ」 「やあ、ウリエル。僕と先生で十分だから、先に食事を済ませてきなよ。ここでゼウス様が戻られたら、そこの間抜けが五月蝿いだろ」 ……気遣われた。殺戮の意図に気付き、はっと顔を上げたニゼルは、いいから行け、とばかりにひらひら振られる天使の手を見る。 むず痒いような、気恥ずかしいような、妙な心地。口をもごもごさせながら、ニゼルはぱっと親友の腕を掴み、強引に部屋を後にした。 (な、なんだろう。なんか、急に甘やかされ始めてるような気がするんだけど) 何事か藍夜がごねていたように思えたが、今は複雑な心境の分析で頭がいっぱいで、応えてやる余裕がない。 火照る頬を叩き、羊飼いは気晴らしに親友を無理やり食卓の席に着かせる。肩を押さえ、彼がしぶしぶ着席したのを見てから横に並んだ。 「ッニゼル、君ね、」 「まあまあ、サラカエルもああ言ってるんだし。ほら、今のうちに英気を養っておかないと!」 「そうですよ、藍夜さん。アンバーくんに全部食べられてしまいますよ?」 追撃とばかりに、アンブロシアがデザートを運んでくる。こちらもこちらで、にこにことえらく上機嫌だ。 天使達の間で、何か気持ちの変化でもあったのだろうか。首を傾げながら、ニゼルは藍夜と同じタイミングでカップに口を付けた。 刹那、はたと瞬きする。久しぶりに若い香りの茶を飲んだような気がした。誰が摘んできてくれたハーブなのかと、親友と顔を見合わせる。 アンブロシアの話では、オフィキリナスにいた時に同じく、いつの間にか荷物の横に新鮮なハーブが詰められた箱が置かれていたそうだ。 不信なものを使うな、親友が小言をぼやき始めるが、ニゼルはこの良質な香草の山に、気が利くひともいたもんだなあ、と感心してしまう。 「まあまあ、いいじゃない。毒も入ってないらしいし、摘みたてっぽくて美味しいしさー」 「しかしね、ニゼル」 「……分かんねぇな。俺はコーヒーの方がよほど美味く感じるけどな」 「ノクト、何を勝手に飲んでいるんだい。そもそも、君には聞いていないというものだよ。引っ込んでいてくれたまえ」 「うーん。藍夜って、ほんと、ノクトの事嫌ってるよなあ」 ……準備が整ったとサラカエル達が声を掛けにきたのは、それからしばらく経ってからの事だった。 慌ただしく準備を済ませ、大急ぎで転送陣に足を乗せる。湯上がりの香がいやに鼻についたが、ニゼルはこれを無視して平常を装った―― ――前に一度、オフィキリナスからロードを持ち去ったノクトに連れられ、天上の狭間といわれる場所に転移させられた経験がある。 それでも、人智を越えた術が発動する瞬間を目の当たりにすると心が躍った。目を開くと、宿の一室とはまるで異なる風景が広がっている。 吹き抜ける爽やかな風、青々と流れる背丈の長い草、空にぽかりと浮かぶ白い雲。酪農を営むとしたら、これ以上ない理想的な場所だ。 遠くに望む可愛らしい丸い屋根の煙突から、ぽつぽつと煙が棚引いていた。誰が住んでいるのだろうかと、想像はかき立てられる。 異国情緒とはこの事だ。地上に比べると、初夏の気配が濃いように思えた。おおっ、感嘆の声を漏らすと、横から小さな咳払いが聞こえる。 「ニゼル。遊びに来たわけではないのだからね」 「うっ、わ、分かってるよ。ごめんってば」 小言、後に苦笑。親友は固い面持ちのシリウスに声を掛け、里の入り口まで案内するように促した。 頷き返した一角獣は、意を決したように歩き出す。その後ろに、真っ先に琥珀が続いた。 とはいえ、鷲獅子は足を引きずりながら歩いていて、彼女にしては珍しく緊張しているようにも見える。 調子悪いのかな、食べ過ぎじゃないのかい、二人は微笑ましく二匹を見送り、後に続こうとした。後ろから声を掛けられたのは、その時だ。 「あの、藍夜さん、ニゼルさん」 「アンブロシア? どうかしたのかい」 「いえ、アンバーくんの事なんですけど……」 駆け寄ってきたアンブロシアは、不安そうな顔をしている。何事かと聞こうとした時、すぐ近くでどさりと何かが崩れる音がした。 「! アンバーくん!」 「え、あれ? って、琥珀!?」 意識が逸れた瞬間、視界の端で琥珀がうずくまっている姿が見え、慌てて駆け寄る。 一番に駆けつけたのはラファエルだったが、彼は魔獣の顔を覗き込むや否や、表情を曇らせた。 お産かもしれません、血の気がみるみるうちに引く顔が、切迫した事態を告げる。あっという間に騒然となった。 ニゼルは天使に倣って琥珀の顔を覗き込んだが、痛むか尋ねても彼女は応えようともしない。脂汗が額に滲み、苦しそうに唸り続けている。 「どうしたんだろ、まさか陣痛……とか?」 「な、なんだと!? お、おい、俺はどうしたら……」 「こんな時に……ニゼル、」 「落ち着いて。特にシリウス、おとうさんになるんでしょ! ねえ、この辺に休めるところってない? 牧草の貯蔵庫とか、馬小屋とか」 「う、馬小屋ならある。先代の長が趣味で余所の里の雌を置いていた小屋だが、今はもう使われていない筈だ」 「うわあ、良いご趣味! まあいいか、うん、そこにしよう。すぐには生まれてこない筈だから、容態も看ておきたいし」 琥珀に原型に戻るように勧め、前脚の付け根を外側から撫でてやりながら、先導するシリウスに続いた。 集落と思わしき地点から道から逸れ、緩やかな坂を下り、一軒の古びた小屋の前に立つ。掛かっていた鍵は、喰天使が喰で破った。 「もしもーし……えっと、だいぶ、使われてないのかな?」 「俺や妹が小さい頃は、よくここで遊んだものだ」 中はほどよく広い空間で、床にはまばらに使い古しの牧草が敷かれており、ちょうどいい、とニゼル達は鷲獅子の巨体を座らせてやる。 どすんと彼女が膝を折ると同時、もうもうと牧草屑が宙を舞った。シリウスの言葉からして、今も子供達の格好の遊び場なのかもしれない。 改めて治癒の天使に確認を頼むと、ラファエルは嫌がりもせずに診察を始める。緊迫した彼の表情から、猶予がない事をニゼルは悟った。 「……そろそろであるのは、間違いないようですね」 へたっている羽毛から手を外し、天使は首を横に振る。シリウスが今にも倒れそうな顔をしていたが、腕を小突いて我に返してやった。 「そうですね、僕はケイロン先生より獣の出産については疎いのですが。人型変化時に影響が出たのですから、時間の問題でしょう」 「そっか。ありがと、ラファエル。じゃあ、琥珀には誰かついててあげた方がいいよね。どうする? 藍夜」 「シリウスがいなくとも、僕達は『金匙の羅針盤』を使えば長の元に辿り着ける筈だよ、ニゼル。彼には残っていて貰うのが最善だろうね」 「……藍夜、またロード使うつもりなの? いざって時に雷霆が使えなかったら、困るんじゃない?」 途端、二色の瞳に見つめ返される。思わず口をついて出た言葉に、ニゼルは自ら二の句を飲んだ。 「……大した事でもないさ」 親友は、ぎこちない動きで目を逸らす。ホワイトセージの事件を思い出したのだろう、彼の横顔には苦いものが浮いていた。 なんと声を掛けてやればいいのか分からず、羊飼いは無意識にそっと手を伸ばす。その手が藍夜の身に触れる事はない。 「……ふ、取り込み中のところ申し訳ないがね、ニゼル君。来客のようだ――相手を、ミカエル」 小屋中を揺らす、けたたましい音。不意に響いた地鳴りにはっと顔を上げた瞬間、大神がミカエルを喚びつけたのを見た。 姿を現した高位天使は、その手に素早く光の槍を剣として召喚し、扉を開いて外に出る。隙間から、蹄といななきを放つ群れの姿が見えた。 「ゆ、ユニコーンの大群!?」 「血の臭いを辿られたな。間違いなく、殺しにくるぞ。天敵を招いた、俺もろともな」 「そんなっ、そんな事させないよ! 藍夜、サラカエル、どうしよう!?」 「やあ、考えてなしだね……ウリエル、僕が厄介払いをしてくるから、そこの使えない一角獣と間抜けを連れて長に会いに行くといいよ」 「よぉ、俺は『上』のお守りでいいんだろ」 「へえ、流石に分かってるじゃないか、ルファエル。ならアクラシエル、ここは君に任せるよ」 「はい。ノクトさん、サラカエルさん、どうか十分に気をつけて下さいね」 「え? えっと? あれっ?」 「……仕方がないものだね。ニゼル、君、ここにカマエルがいる事。よもや忘れたわけではないだろうね」 「あっ、そうか! 堕天使!」 一角獣のいななきに紛れて、微かな羽ばたきの音が聞こえる。亀裂の走った窓に影が差し、それらが大挙して押し寄せてくるのが見えた。 慌てふためくニゼルの肩を、ノクトが強く掴んでくる。落ち着け、冷徹に細められた眼差しに、すうと混乱と焦燥感が引いていった。 ごめん、自然と出た謝罪に、気にすんな、喰天使はぶっきらぼうにそっぽを向く。冷静が戻され、ニゼルは己を鼓舞するように強く頷いた。 「よし。もしシリウスや琥珀にケチつけられても、今は俺がシリウスの雇用主だからね。悪趣味長の要求なんて突っぱねてやる」 「ふん、これだからね。しっかりと監視を頼むよ、ウリエル」 「僕の務めだからね、任せておいてくれたまえ。サラカエル」 「……えーっと……あれ? ちょっと、もしかして皆、俺の事馬鹿にしてない? 酷くない?」 出来るだけ早く戻ってきて欲しい、そう懇願するアンブロシアに強く頷き返し、ニゼルは宝珠の杖、藍夜は雷霆を手に掴んで前に出る。 シリウスが首を縦に振り、長い脚を突き出して裏口を蹴り破った。刹那、目に刺さる、光と光の奔流……眼前で、天使と神獣が争っている。 どれがどの天使か、遠目には分からなかった。堕天使なら翼は黒色なのだろうが、殺戮やミカエルの喚ぶ光が色彩を阻んで判断がつかない。 「――この世の終わり、って感じー」 「ニゼル、急ごう。琥珀の事もあるのだから」 「うん……そうだね、ごめん」 命が散る、落ちる、墜ちていく。羽根が、いななきが、四肢が、赤黒い血が、何もかもが瞬く間に千切られ、掻き消され、手折られていく。 胸を引き裂かれるような思いがして、ニゼルはぐっと唇を噛んだ。何故、互いに一番大切なものを抱えるだけで満足が出来ないのだろう。 悲鳴と苦鳴、爆音と轟音が鼓膜を打ち、駆け出した羊飼いの心を蝕んでいった。最悪な気分だ、見つからない事だけを祈り、必死に駆ける。 (怖くはない……争いそのものは、恐ろしい事ではない。いや、むしろ『私』が真に恐れているのは) 目の前で揺れる、親友の夜色の髪。いつかこうして、「誰か」と共に追ってくる「何か」から懸命に逃げていた事があったような気がした。 何から逃げていたのだったか……思い出そうとして、しかし意識があまりに逸れすぎていたのか、牧草に足を取られて転びかける。 立ち尽くし、ニゼルはまたしても襲いくる「現実味の欠けたせん妄」に肩を掻き抱いた。また、あの感覚だ。次第に周期が短くなっている。 自分が自分でなくなっていく、それは恐怖を伴う感覚の筈だった。しかし、今となってはそれを容易く受け入れている自分がいる。 それは、本来なら恐れるべき事ではないのか……羊飼いは完全に立ち止まり、そっと前を走っていた親友の姿を、目で探した。 「ニゼル! どうかしたのかい、疲れているのかい」 「藍夜……」 「顔色が悪いじゃないか、大丈夫かい。無理をしてはいけないよ、少し休んだ方がいいのじゃないか」 駆け寄ってくる、見慣れた姿。「ああ、藍夜だ、まだ生きてる、嬉しい」。ニゼルはほっとして、にこりと彼に微笑み返す。 一瞬怪訝な顔を浮かべる藍夜だったが、シリウスに乗るかい、そう気遣い、大丈夫だよ、とニゼルが返すまで慎重な姿勢を崩さなかった。 (失いたくない、奪われたくない……『あのとき』と同じ痛みと悼みを抱くのは、もう御免だ) 促され、後に続く。そのとき、ぼんやりと胸中に浮いた想いは、果たして誰のものだったのだろうか。 考えても仕方がない事だ、頭を振り、白昼夢の如き虚脱感を振り払った。争いの音を背に携えたまま、二人と一匹はひたすらに先を急ぐ。 |
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