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楽園のおはなし (2-26) BACK / TOP / NEXT |
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(真っ暗だ……何も見えない) それは、冷たい岩場の上に独りきりで捨て置かれていた。天が大きな悲鳴を上げ、時折、ぱっと視界をちかちか光らせる。 雨の臭いがした。もう殆んど動かせなくなった首をもたげて鈍色を見上げる。否、黒い、暗い、ひたすらに分厚い雨雲が迫っていた。 こんな体では、雨に打たれたらきっとひとたまりもない。それは血走った目を見開き、己の惨状を嘆き悲しむ。 溢れ、止めどなく流れる血潮。剥き出しにされた腹とその中身。赤黒い肉とそれを突き破る青白い骨。耳障りな掠れた呼吸音、微かな鼓動。 空を差す肋骨は、助けを求めて伸ばした両腕に見えた。全身を蝕んでいた激痛は、今は重苦しい恐怖と寒気にすり替わっている。 無理やり身を裂かれ、臓器の一つを持ち去られたのだ。死がすぐそこまで這い寄っていた。何故、何故こんな事になってしまったのだろう。 (……ああ……『神』が、わたしをこんなにしたのだ) 初めて大地に降り、それ以降は遺跡を転々としながら生きてきた。人間に目撃され騒がれた事もあったが、その度に逃げおおせた。 ラグナロクという悲劇。しかし、天上界でふんぞり返っていた神々やその下僕から解放されたというだけで、気持ちは晴れ晴れとしていた。 地上こそが「楽園」だったのだ。そう信じ、今日この瞬間まで、誰にも迷惑を掛けないよう、その日暮らしを楽しんでいたというのに。 (知っているぞ、分かっているぞ……あの『人間の被り物』をしていたのは……大神だろう) 今日、つい先刻。いつものように縄張りの一つに定めた渓谷を歩いていたとき、それらはやってきた。 見知った気配、嗅いだ事のある臭い。羽ばたきの音、二匹の天使とひとりの神……降り注いだ光の槍は、容赦なく身を穿ち、穴を開ける。 悲鳴を上げる暇も、命乞いする猶予もなかった。突如として現れた三つの人影は、好き勝手にこちらを蹂躙し、そして肉を抉った。 立ち去る間際、それぞれが「これもお前に出来る善行」、「悪く思わないでくれ」、「すまない」と言い残し姿を消していく。 そんな短い言葉で、何を償うつもりだというのか。持ち去られたもの、流れ出るもの、絞り出すもの、どれもが代用の出来ないものなのに。 (神は……我ら、古き善き獣から奪うばかりだ) 何故なのか。そんなにも、「新世代の神々」は我ら「古き世代の生き物」が憎いのか。 確かに、他者の肉を喰らい、余所の領域に侵入し縄張りを広げる事もあった。それでも一方的に害されるほどの罪があるとは思えない。 臓器一つ、生きながらにして奪われなければならないほど自分は罪深いと判断されたのか。それはいよいよ、最後の一呼吸を空に溶かす―― 「……こんばんは。そろそろ、雨だね」 ――その声は、突如として降って湧いた。眼前、岩場の上に立ち、その影は音もなく姿を現しそれを見下ろす。 黒髪は枝に残された数枚の枯れ葉のように心許なく風に揺れ、ぬうと出現した気配は息を詰まらせるほどに冷えていた。 浮かんでいるのは、柔らかな微笑み。同情か、憐憫か、関心か。ひたすらに甘やかなそれが、朽ちる寸前の怪物を見ている。 よくよく見れば、その影は纏う服や瞳の色すら漆黒で、さながら死者を冥府に連れ行く案内人のようだった。 「こんばんは。もう、お話しする事も叶わないかな?」 口を利け、そう言われたような気がする。臓腑を外気に晒したまま、それは、怪物は、それをなんとか見つめ返した。 黒塗りの男……それを視界に収めた時、背筋がぞくりと震える感覚を覚えて身が竦み上がる。 同時に、怪物自身はまだ自分に、恐怖を体感出来る余力があった事に驚いた。はっとして顔を上げると、男の満面の笑みと視線が重なる。 「そう、いい仔だね。君は、この世界を憎いと、恨めしいと、今はそう思っているのかな」 目を、逸らせない。黒い瞳の中に、漆黒に揺らめく不思議な色の劫火が見て取れた。 『――ッ、』 「痛むだろう、苦しいだろう? 憎いかい、恨めしいかい? もし君が『復讐』を望むなら、僕が僅かながら力を貸してあげよう」 『!? ……』 「ふふ……世界はね、君のような枠からはみ出たものを排除しようとする。住み慣れた住処を独占し、目下の者を統括するのに邪魔だから。 だからこそ、そんな邪魔者を己の思うまま支配した上に、剪定すらしてしまうのさ。神も天使も根本は同じだ……許し難いと思うよね?」 許し難い? ……そうだ、そうとも、許し難い。我らの仲間の何頭が、連中の危機感と称した憂患によって強引に手折られてきたのか。 見つかる度に逃げ回ってばかりだったと記憶している。魔力を帯びた毛皮や生き血目当てに、雌や子供、老体のものが屠られる事もあった。 何故なのか。何故、淘汰されなければならないのか。連中は古の神々の復権を恐れ、芽を摘む事に必死な小心者の集まりに過ぎないのに。 『ああ……呪わしい……忌々しい……恨めしい……憎たらしい……我らを踏みにじり、我らの祖を冒涜した、因果な餓鬼どもが』 「そう。ならば君は、復讐すべきなんだ。その怒りは、憂いは、嘆きは、至極全う正当なもの。君のその苦悶こそ、世界が受けるべき罪過」 瀕死の獣の眼に火が宿るのを、黒塗りの男は見る。魔獣キマイラ……複数の怪物を交配し、或いは針と糸で繋ぎ合わせた、古の怪物の一柱。 配下の者達が、口々に大神ゼウスらが探していると進言してくれた情報。まさか、ここまで惨い行いを受けているとは思わなかった。 否、考え直す。あの神は、己の為に姉である地母神や配下の天使さえ道具として扱う男。これくらいの仕打ちなら、何の躊躇もなく下す筈。 「君は古の時代に生まれ、野を駆け、数多の獣の標となったもの。さあ、己が『楽園』を追われた者達の嘆きを、今、晴らそうじゃないか。 憤怒……それが君の刃となるものの名だ。怒り、憎み、恨み、そして爪牙を以って罰するんだ。僕が君の新たな標となる。さあ、いこう」 不意に、赤黒い炎が怪物の身を燃やす。ごうごうと燃え上がり、次第に漆黒の煙を噴き上げ、遺骸を飲み尽くした後、雨雲の下を徘徊した。 ぐるりと弧を描き、黒煙は岩場の上にゆるりと立つ。やがてそれは、黒塗りの怪物の姿形を取って見せた。 黒毛の狼だ……それは、「キマイラの怨念」は、怒り、気を逸らせるように低く咆哮する。雨が、彼を避けるように遠慮がちに降り始めた。 「さあ、共にいこう。僕はサミル……叛逆するものの名だ。僕達の『楽園』は、僕達自らの手で取り戻すべきもの。後悔はさせないよ」 黒い雷が岩肌をなぞる。強力無比な魔力が、大神の足取りを追う。堕天使の頂点が、魔王が、新たな配下を引き連れてその場を立ち去る。 いつしかふたりの横に、サミルの影から抜け出した青白い長毛の魔獣と、赤黒い短毛の魔獣の二頭が付き従っていた。 新参である黒煙の獣は、ふと足を止め、王の直属の部下である二頭に恭しく頭を下げる。分かっている、労うように、二頭は小さく頷いた。 「『マルタ』、『マリア』。大神の目的地の目星はついているよ。先回りして、悪魔除けの罠がないか見てきてくれないかな」 『ヴゥ、』 『ヴァウッ』 頼んだよ、そう言いつけ、魔王がそれぞれの頭をぽんと軽く叩くと同時、二頭の魔獣は彼の期待に応えるべくその影に飛び込み、姿を消す。 魔王の影とは、彼と彼の従者を繋ぐ一種のゲートのようなものだった。古い天使の一部には、そういった古の秘術を行使出来る者もある。 ……そのように、天上界で指導を行っていたのは誰だったろう。不意に自嘲的に笑み、サミルはいよいよ本降りとなった空を見上げた。 「そう、目的地なら分かっているんだ。次の仕事場は、そこだから」 抉れ、掠め取れ、根こそぎ奪え……破壊と破滅の限りを尽くし、その地を血と惨状の一色に染めよ――震える唇が弧を描き、双眸は細まる。 黒煙のキマイラの眼には、彼が雨に紛れて涙しているように映った。思わず慰めるように、鼻先を彼の美しい手のひらに押し当てる。 「! ……ありがとう。大丈夫だよ、キマイラ」 にこりと優しく微笑むそれが、かつて故郷の土地で数多の者に恐れられていた存在である事を、このとき、キマイラは知る由もなかった。 共犯者、共謀者。力持つその美貌の青年が新たな標であり、その後押しだけが、黒煙の魔獣が現世に留まる心積もりとなった理由だ。 彼が何故、復讐に燃える魂を自ら選び、配下とするのか。その事情に首を突き入れられるほど、怪物の心は安まっていなかった。 「……ル、……サミル――」 『グルル……』 「大丈夫だよ、キマイラ。知り合いだから……お帰り。『リリス』」 新たな気配の到来。キマイラが頭上を警戒して唸ると同時に、サミルは親しい者に軽く挨拶を返すように片手を挙げる。 ふわりと、空気が踊った。眩い金と翠の光が交差して、直後、柔らかなトリ型の羽根がひらひらと舞い落ちる。 「――ごめんなさい、遅くなってしまって」 魔王の手に触れる、もう一つの手。宙から降下し、その人影はサミルの手を取って、静かに着地した。 黄色の髪は側頭部より上で結われ、螺旋を描きながら風に揺らされる。色白の長い手足。背に生える金の光沢に覆われた翠の翼。 雨天の中においても、その女の体からは扇情を煽るような芳香が漂っていた。艶めいた声色は、相手の機嫌を伺うように控えめに放たれる。 比類なき、美しい娘だ。言葉に詰まった黒煙の魔獣には目もくれず、紅玉に似た鮮やかな深紅の瞳が、魔王の黒瞳を間近から見つめた。 「いいんだ、時間なんて大した事じゃない……お帰り、お帰り……僕のリリス。ガブリエルは、息災かい?」 「ただいま戻ったわ、あたしのサミル。ねえ、どうしていきなり、他の女の話をするの」 「ふふ、ただの女性じゃないよ。君の……今は、大切な器じゃないか」 不服げに頬を膨らませる最愛の妻に、サミルはそっと口づける。「告知天使ガブリエル」。眼前、彼の妻の肉体は、今はそう称されていた。 ……ラグナロクの直後。仕事の都合でほんの僅かな間に離れていた際、魔王の妻は件の天使とある「契約」を交わし、その体を手に入れる。 何故彼女がそうしたか、サミルは知らない。しかし、彼は妻を信頼していたし愛していたので、器が変わった事に言及はしなかった。 それなのに、二人の絆を引き裂いたものがいる……彼の妻は、やはり彼が仕事で不在にしていた折に何者かに拉致され、行方不明となった。 『僕のリリス。古の頃から傍らにあった、僕の大切なひと……それを奪ったのは、どこの誰だ』 「魔王一派ではない堕天使の仕業」。血眼になって探したにも関わらず、手応えの感じられない情報のみが魔王の手に渡される事になる。 隠蔽工作に、悪魔除けの術が施されていたのは明らかだった。更に、ガブリエルという強力な天使と妻が肉体を共有していた事も仇となる。 捜索しようとしても、告知天使の気配と魔力、残り香が尽くサミルの術に反発し、発動を拒むのだ。魔王は自身に落胆し、愕然とした。 『【主】よ……僕の、偉大なるひとよ。僕は、最愛のひとすら、手にしてはいけないのですか』 ひたすら仕事に没頭する事にする。幸い、彼を慕ってくれる唯一の友人や多くの配下は、ラグナロクの後も彼の元を離れようとしなかった。 がむしゃらに仕事をこなし、崇高なる自身の「主」の為、求める「楽園」の形成の為、魔王は歴史の中、秘密裏に暗躍していく。 町を飲み干し、街を食い破り、ただ堕天使の頂点として破壊の限りを尽くしていった。 終わりの見えない作業に常に虚しさは付き纏ったが、可愛らしい友人や配下達が彼の心を都度癒し、なんとか仕事を続ける事が出来ていた。 大災厄の後、僅かに生き残った神々も重い腰を持ち上げ始めたと耳にする。多くの命が失われた今、彼らなら告知天使を捜そうとする筈だ。 ……魔王は世界を流離った。そして唯一無二だった友人を奪われ、いよいよ正気を失いかけたその瞬間、彼はある情報を手に入れたのだ。 「ねえ、リリス。僕は、君がガブリエルごとアスモダイに捕らわれているという事を知ったとき、怒りで目の前が赤く染まったのを見たよ。 許し難いと、そう思った。ザドキエルさえ神々の気まぐれに手折られて、僕から更にこれ以上を奪うのか、とね。昔から変わらないよね。 だから君が、よりによって『あの方』によって力を取り戻したと聞いたとき、僕は本当に嬉しかったんだ……救われたような思いだった」 黒煙の魔獣の背に揺られながら、二人は会えなかった期間の溝を埋めるように、身を寄り添い合わせる。 堕天使アスモダイの屋敷で、悪魔除けの術を緩和するべく「人間ニゼル」に自身を「リリー」と呼ばせた女は、魔王の胸に体を委ねた。 真の名はリリスという。魔王サミルの妻にして、古の時代、元は人間の祖のひとりとして造り出された、原初のヒト。 魔王と体を重ねた事で、今は心身共に悪魔という異形に変貌してしまった彼女だが、神々に飼われていた頃から本来は愛情深い性格だった。 「サミル、あたしの、サミル。ねえ、アナタの仕事は、きっと誰にも理解されないわ。でも、あたしが傍にいる……死が二人を別つまで」 「ありがとう、リリス。僕は大丈夫だよ、君が傍にいてくれるから……それに、機が熟せばいつか『神の正方』も生まれてくる筈なんだ」 「可愛らしい、アナタのお友達の子ね。あたしも、もっと仲良くなれるのかしら」 「僕が目指す『楽園』は『遠い何時か』、必ず訪れる。そのときには、逢えるさ」 黒色の雷鳴が轟く。魔王の来訪を告げる、鮮烈な歓迎の証たる、閃光と轟音のファンファーレ。 黒煙のキマイラは、眼前、ふと開かれた漆黒の穴に飛び込んだ。魔王の次なる仕事場に通じているゲートであると、直感で理解したからだ。 黒塗りの通路を、一頭と二人が真っ直ぐに駆け抜けていく。拓けた先は、青々と風に揺れる、緑一面の爽やかな匂いがしていた。 「――ただいま、戻りました。お待たせして、申し訳ありません」 声に顔を上げると、部屋の入り口にラファエルとインディコールが立っていた。ニゼルはぱっと立ち上がり、二人を怪訝な眼差しで見る。 釣られるようにして藍夜も席を立ち、兄弟子の元へ向かった。二人の足下に赤黒い染みが滲む布袋を見つけ、途端に眉間に皺が寄る。 「ラファエル先生、これは一体……」 「ふ、ラファエル。お前の弟弟子は、礼儀のなんたるかを知らないようだ」 「ゼウス様。申し訳、」 「ちょっと、挨拶もなしに何? 藍夜の事、言えないでしょー」 嫌みを飛ばされて固まる親友の元に、羊飼いは足早に駆け寄った。庇うようにして彼の真横に立ち、見下すように目を細めた大神を見返す。 「それは失礼。しかしニゼル君、トバアイヤ君は元は天使なのだから、私にとって目下に値するのでね。習慣といったところかな」 「あー、そう。で? 一番遅れたのに何の連絡もよこさないし、元々二人はカマエルを知ってたって聞いたけど。情報も出さずに何なの?」 「ふ、ニゼル君。我々が知っている事については、数ヶ月ほど前に話しておいた筈なのだが。記憶違いだろうか」 「全部、ではないでしょ。言葉を吐くなら、それ相応に考えてから口を開いた方がいいと思うよ」 真っ向から対立する両者。藍夜は眉間に皺を残したまま、うろたえながら二人を見比べ、ラファエルはニゼルの気迫にたじたじだった。 大神は何事か考えるように顎に手を当て、ふむと頷き返す。おもむろに彼が手を鳴らすと、その場に金色の光と共に、ミカエルが降臨した。 「ミカエル、星の民の里の座標を」 「畏まりました、ゼウス様」 「……あのさ、俺が言いたかった事って、そういう事じゃないんだけど」 「ニゼル。気持ちは分かるが、落ち着きたまえ」 苛立ちから声を低くするニゼルの腕を、藍夜が軽く叩いて宥めてやる。その間、アンブロシアはノクトと共にサラカエルを介抱していた。 「ラファエル先生、こちらの用意も出来ています。ですが、出立はどうか、明日以降にお願いします」 「ウリエル……何か、問題があったのかい」 「いえ、問題は。ただ、僕の器は不完全ですし、ニゼルはヒトの子です。向こう側にカマエルが罠を仕掛けていないとも限りませんから」 ニゼル達から視線を外した治癒の天使は、そこでようやく、ソファで休息する弟弟子の姿を目に入れる。 ニゼル達が止める暇もなく、彼は慌てた様子でサラカエルの元に駆けつけた。喰天使らを押しのける勢いに、天使の娘は面食らっている。 やれやれと、大神は呆れ半分に苦笑した。彼の横顔を、ニゼルは親の仇を見るかのような目でじっと睨み上げる。 藍夜がラファエルの後を追い、するりと二人の元から離れた瞬間、羊飼いの双眸から恐ろしい速度で温度が下がっていくのをゼウスは見た。 「サラカエルは消耗している。『私』は『お前』と違って、大切な可愛い部下を磨耗させる趣味はないんでな。今回も、引っ込んでいろ」 「……! ニゼル君、やはり君は……」 ふい、と関心を失せさせ背を向ける。ニゼルは先ほどの怒りと呆れを忘れたかのように、あっさりと親友達が集うソファの方へ駆け出した。 「ねえ、アン。さっきサラカエルに飲ませてたやつ、何?」 「ニゼルさん。その、ヨーグルトにプルーンを混ぜたドリンクです。血を補うのに最適なんですよ」 「えっ、何それ!? いいなー、すっごく美味しそう。俺も飲んでみたいなー!」 「ニゼル、静かにしたまえよ。サラカエルが起きてしまうじゃないか」 「大丈夫ですよ、藍夜さん。もう熟睡されていますから。あの、ニゼルさん。残りがまだありますから、よければそちらを」 「いいの? やったー! ねえ、藍夜も飲もうよ!」 「……おい、もう夜だぞ。少しは静かにしろ」 「そーだよ、ニジー。僕、もー結構眠いよ〜」 「あれっ、シリウス、琥珀。ご飯終わったんだね? じゃあ、デザートにドリンク飲もうよ。アンが美味しいの、作ってくれたんだってー」 「いや、ニゼル、君ね。ひとの話を少しは聞きたまえよ……」 ……戻った暁には、苦難を乗り越え、集めるのに苦心するであろう術の材料を取り揃えた事を、彼らに自慢しようと思っていたのだ。 出鼻を挫かれ、大神は大きく嘆息する。気遣うようにミカエルが酒を満たした杯を差し出してくるが、ゼウスは手のひらを向けて制止した。 酒で持ち直す気にはとてもなれない。そうか、私は彼らを手に入れたいのか――不意に、初対面の頃からそう考えていた己に気付かされる。 (ヘラの配下だったからか。それとも、私という絶対的権力に屈しない集合体を服従させんとする支配欲か。私にも執着心があったのだな) 気が付いてしまえば、「本来の目的」以外にも、彼らに固執する理由が見えてきた。案外、自分も単純だったのだなと大神は自嘲する。 「……その、ゼウス様。貴方様に対する、彼らの態度は」 「構うな、ミカエル。私に反発しないようになれば、それはそれで面白味に欠ける」 「は、ですがそれでは、」 「ふ、お前には分かりかねるか。構うなと言っている。どのみち、彼らには時間がそう残されていないのだ。焦るまでもない」 「……はい。貴方様の、意のままに」 ミカエルは、高位天使の中でも特に生真面目で有能な存在だ。それでは不満なのだろうか、否、自分は物足りなく感じていたのだろう。 それに比べ、地母神ヘラの元に集められた天使や魔獣は、癖が強く、神々に対して反抗的だが、どれも個々の魅力に優れているものばかり。 欲しいと、惜しいと、そう考えてしまうのは自然な事だ……ゼウスは、湧き出た私欲と付き纏いの理由に、そういった動機を結ぶ事にした。 (彼らに気に入られ、徐々に従えようと、無意識にそう動いていたか。私は私の見立てに確信を加えるべく、自ら近付いたつもりでいたが) 「いつの間にか、目的と手段が逆転していた」。面白い事になったと、大神は自分の心理の変動にくつくつと笑い出す。 (そう、見立てだ。恐らくは、というおおよその予想……しかし、今のニゼル=アルジルの反応からして、仮説が確信に切り替わったな) ふと、振り向いたニゼルと目が合った。尖晶石に似た鮮やかな色彩が、恐れ知らずに新世代の神の頂点に座する男を見ている。 「ふ、安心して欲しいな。今は、私もまたヒトの器を用いている。急いて、肉体の寿命を縮めたくはないのでね」 「あー、そう。別に、なーんにも聞いてないんですけどねー」 「ニゼル君。そこの二頭の間に可愛い魔獣が無事生まれてくるよう、私からもしっかり祈っておくよ」 途端、ニゼルは嫌悪の感情を隠しもせずに顔を歪めた。すかさずウリエルが彼のご機嫌取りに走り、ますます大神の強欲に火を点ける。 面白い事になってきた。是非とも星の民の里に同行させて貰いたいものだと、ゼウスはようやくミカエルから杯を受け取り、口を付ける。 甘やかな香りが、生命維持の為に削られていく魔力を補填していった。これからが楽しみだと、大神は黒み掛かった青瞳をうっすら細める。 「全く……ニゼル、君も余計な喧嘩を売るのは止したまえ。明日はシリウスの里に赴くのだから、ドリンクとやらを飲んだら休むとしよう」 刹那、強引に藍夜が話を打ち切った。互いに牽制して睨み合っていた二人は、彼の言葉にはたと我に返り、各々の親しい者に笑みを返す。 明日は、恐らく長い一日になるかもしれない。そんな漠然とした予感が、全員の胸中に渦巻いていた。 |
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