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楽園のおはなし (2-25) BACK / TOP / NEXT |
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件の農村を出て南南西に向かい、帝都を目指す道中で立ち寄ったすぐ近くの宿場町。 規模こそシリウスがカマエルに悪さをされたという町より遙かに小さなものだったが、施設は充実していた。 各々の材料集めがどれほど時間を要するかは分からない。サラカエルからは何の反応もないと、藍夜は表情を曇らせる。 心配なのは自分も同じだ、しかし親友の体に負荷は掛けられない。従って、ニゼルは農村からほどなく近いこの町に寄る事にしたのだった。 「琥珀の容態はどうだい、シリウス」 「お前達には分からないかもしれないが、だいぶん匂うようになってきた。身籠もった獣のそれだ」 「人型だと、見た目全然変わらないよねー。てっきり、人間みたいにおなかが大きくなっていくのかなって思ってたのに」 皿ごと飲み干す勢いで食事する鷲獅子を前に、男達は互いに顔を見合わせる。アンブロシアは次の肉料理を出しながら苦笑していた。 宿の一室、思いきって借りた大広間でゆっくりと夕食を摂る最中、思い出したようにふと藍夜が大判の紙を取り出す。 広げられたそれを覗き込もうと身を乗り出したニゼルと琥珀を、一角獣は行儀が悪いぞ、と短く窘めた。 「あの一件から五ヶ月。サラカエルからの連絡も、ゼウス様達の動きも何も見えないが、僕達が請け負った素材は無事集められたようだね」 「えっと、ハル先輩の牧場から頂いた羊の血、とかだね。そうだ、アン、ありがとー。さっきのソテー、すっごく美味しかったよ」 「……ニゼル、君ね。情緒というものは」 「え? もちろん供養はちゃんとしたし、いただきますって感謝も述べたし、残したりもしてないよ?」 「藍夜さん。ニゼルさんは、その、牧場勤めの方でしたから」 「いや、いいんだ、アンブロシア。僕もそこは、当然理解しているつもりだとも」 話が脱線したね、元店主は小さく咳払いして、書き込んである文字列を指でなぞる。 「香草類はこの一週間、乾燥させながら月光を十分に浴びさせておいた。生き血も今し方、琥珀に抜いて貰ったばかりだ」 「あの牧場の裏手で藍夜さんが栽培を始めたと聞いて、驚きました。種なら案外、手に入るものなんですね」 「帝国の文化上、生産者が地方、町ごとに分散しているだけだからね。しかしだ、サラカエル達は今どうしているのか……」 「――それなら心配いらねぇよ。たった今、ご到着だ」 突然響いた声に、全員がニゼルの背後に目を向けた。ニゼル自身はさも始めから客の来訪を見抜いていたように、ゆっくりと振り返る。 「よぉ、一応、顔ぶれは揃ってるらしいな」 「ノクト! って、サラカエル!? どうしたの、顔真っ青だよ?」 次の瞬間、誰よりも大きな声で驚いたのはニゼルだった。さっと席を立ち、喰天使の肩を借りる青年の元に駆け寄り、顔を覗き込む。 つい先ほどまで、ペネムエ率いる堕天使の群れに追われていたばかりだ。殺戮の天使は、顔をしかめながらも口端を吊り上げた。 「厄介な素材のうち、一つ。『高位天使の生き血』を手に入れてきた。使うといいよ」 「生き血って、それってもしかして……じゃなかった、ノクト、降ろしてあげて。そこのソファ、空いてるから」 「へいへい。ほら、しっかり歩けよ、男だろ」 空いている方に藍夜が駆け寄り、手を貸してやる。二人掛かりで座らされたサラカエルは、スーツの襟元を緩めてソファに背中を沈めた。 「やあ、ウリエル。その様子だとこっちの準備も出来ているみたいだね」 「やあ、サラカエル。いや、連絡の一つも寄越さずに何をしていたんだい、君は」 「さっきも言ったろう、ほら、これだよ。アクラシエル、悪いけど水を一杯頼めるかな」 「はい。あの……お久しぶりです、ノクトさん」 躊躇いがちに笑顔を見せた義妹に、喰天使はおう、と応えて顔を逸らす。ニゼルは言いたい事があるなら言えばいいのに、と唇を尖らせた。 アンブロシアからグラスを受け取った殺戮は、中身を流し込んで息を吐く。しかし、控えめに睨んでくる対天使に、彼は小さく苦笑した。 差し出された瓶を受け取り、ニゼルは琥珀、シリウスともども蓋を開けて中を覗き込む。途端、鷲獅子はぱっと退がり、自ら鼻を摘まんだ。 「ど、どうしたの、琥珀」 「……ニジー、分かんないの? クッサぁ! クッサイよ、それ。さっきの羊も臭ったケドさあ」 「え? えーっと……」 「やあ、天使の生き血だって言っただろ。僕の血だよ、数ヶ月もかけて体を清めてやったんだ、少しは感謝して欲しいんだけどね」 「えっ、サラカエルの血!? 嘘でしょ、どうやって」 「サラカエル、君は……」 「藍夜? 待って、高位天使の生き血ってそれサラカエルのじゃなきゃ駄目だったの? ほら、追っ手の死体から抜いて保管しておくとか」 「待て待て、必要なのは生き血だって書いてあるだろ。それに、さりげなく死体漁りさせようとしてんじゃねぇよ」 騒然となる中、何者かがさっと手を挙げる。皆が一斉に視線を向けると、アンブロシアが困ったような顔でどんと挙手しているのが見えた。 「あの、食事もまだ済んでいませんし、血を抜いたというならサラカエルさんもお疲れでしょうから。少し、落ち着きませんか」 この娘もだいぶん肝が据わるようになった、ニゼルは感心するのと同時に、慌てふためいた自分に呆れて小さく鼻で嘆息する。 ぱん、とわざとらしく音を立てて手を合わせ、ざわつく一行の意識を彼女から離させてやった。注目が集まったところで、にこりと笑う。 「アンの言う通りだね。とりあえず、ご飯食べて話、纏め直そっか。藍夜、またお願い出来る?」 「ニゼル。ああ、もちろん構わないさ。任せておきたまえ」 その後も馬鹿食いを続けようとする琥珀の事はアンブロシア、シリウスの両名に任せ、ニゼル達はテーブルを離れソファの前に移動した。 再度レシピを広げた藍夜は、ニゼルと頷き合う。アンには後で教えてあげようと、ニゼルはメモ帳に作戦内容を書き写す事にした。 「ラファエル先生方が戻られる前に、僕達だけでも大まかに作戦を取り決めておくとしよう。ところで、ノクト」 「あぁ? なんだよ」 「なんだよじゃないだろう。サラカエルを連れてきてくれた事には感謝するがね、誰の手下か分からない以上、君に聞かせるわけには、」 「藍夜、あーいや。ノクトはそんな、チクリ魔みたいな事しないよ。大丈夫」 「ニゼル……しかし君ね、こいつが僕の店をどうしたか、」 「分かってるよ、でもここは俺に任せて。それにノクトって変なところで小心者だから、アンや俺に嫌われるような事、出来ない筈だよ」 図星なのか、喰天使は急に押し黙る。片眉を上げる藍夜に、サラカエルは話を進めるよう促した。 「アッハハ、宣言されたね。ウリエル、万が一の時は、そこの間抜けに責任をとって貰うとしようじゃないか」 「もー。すぐそうやって、間抜けとか言う」 「全く……満月の夜、見晴らしのいい南方の丘の上、材料を順に混ぜ天使が祝詞を唱えれば、赤い豹は捕らえられる。ここまではいいかい」 「南方? 帝国って、広く言えば南だよね。どんな丘の上でもいいのかな」 「そこはシリウスの知恵も借りよう、ニゼル。カマエルを留めると同時、星の民の里に乗り込む事になるのだからね」 「相手の懐の中かー。琥珀はどうしよう? ラファエルに診て貰うつもりだったけどまだ来ないし、連れてった方がいいのかな」 「よぉ、そこは当人同士に任せりゃいいんじゃねぇか。お守りが必要だってんなら、俺がしてやってもいいしよ」 割り込んできたノクトの声に、すぐさま藍夜が厳しい視線を投げる。 「信用出来るとでも思うのかい」 「殺すつもりならもうやってる」 喰天使は鼻で笑った。いけ好かないと言わんばかりに元店主は歯噛みする。ニゼルは間に入るように、まあまあ、と親友の腕を軽く叩いた。 「……乗り込むのはいいけど、本当にカマエルがそこの一角獣に悪さをしたという保証はあるのかな、ウリエル」 「サラカエル? どういう意味だい」 険悪な雰囲気が緩和された瞬間、殺戮が新たな火種を投下する。声色を低くした藍夜に、サラカエルはソファにもたれたまま首を傾げた。 彼の顔は本当に青白い。ニゼルはちらとノクトに視線を向けたが、気付いた喰天使は片目を細めて、首を横に振るだけだった。 二人のやりとりには目もくれず、藍夜は目でテーブル向かいの天使に食ってかかる。殺戮は一度、言葉を探すように視線を宙に彷徨わせた。 「悪戯はされたんだろう、適齢期とはいえ自覚なしに発情する筈はないからね。けどこれまでの事全て、赤い豹単独で実行出来るものかな」 「……他に、僕達に対してよからぬ事を企んでいる者がいるとでも?」 「やあ、忘れたのかい、鳥羽藍夜。ホワイトセージを襲撃した魔獣らは、教会で会った黒髪黒目の男が主導じゃないか」 「! それはっ、しかしあれは、」 「え、教会? 何それ、何の話?」 振り向いた親友の顔は、苦悶に歪んでいる。泣き出しそうな彼の顔を直視していられず、ニゼルはたまらずサラカエルを見た。 何か、決意を固めるように大きく息を吐いた殺戮は、両目を細めて羊飼いを小馬鹿にしたような目つきで見つめ返す。 見れば分かる、それは自嘲の笑みだ。二の句を吐き出せず、ニゼルは口を閉じてサラカエルの返事を待った。 「黒髪に黒の瞳、背中には黒の大翼。堕天使……人間には悪魔と呼ばれる生き物の頂点。僕達は、ホワイトセージの変でそれに会ったんだ」 「堕天使? 悪魔の……頂点?」 「やあ、小さい頃は鳥羽藍夜の家で神話だ、おとぎ話だ、楽しんでいたんだろ。それらには必ず出番があった筈だよ」 「それは、うん、俺だって悪魔って言葉自体は知ってるけど」 「実在するというだけの話さ……『魔王』、それがその名だ。黒毛の魔獣と手下の堕天使を束ね、ヒトを堕落に至らしめる、悪の権化だよ」 何を言われたのか分からない。ニゼルは、自分は今そんな顔をしているのだろうと考える。向かいの天使の顔が、僅かに歪んだからだ。 呆れたように双眸を細め、殺戮はふと視線を羊飼いから喰天使に移した。ノクトは古参の天使だ、補足しろという意味なのだろう。 話を振られると思っていなかったのか、喰天使は義妹の淹れたコーヒーを啜る手を止め、これ以上ないほど嫌そうな顔でサラカエルを見た。 殺戮はまるで言葉を発そうとしない。ただ嘆息混じりに休んでいる。ノクトは覚えてろよ、と憎々しげに呪詛を放ってから舌打ちした。 「よぉ、ゼウスが出てきて『カマエルは悪い子です』と言った、ラファエルにもそう言われた。それだけで全部判断していいのかって話だろ」 「え、ええ? それを今言う? そうかもしれないけど、シリウスの事や里にちょっかい掛けてるっていうのは事実なんでしょ」 「そうだな。だがテメェの親友様の店を半壊させた『俺が』『誰に』ついているか。それすら未だに知らねぇだろ」 ニゼルと藍夜は顔を見合わせる。藍夜は助けを求めるように対天使を見るが、サラカエルが目を開く様子はなかった。 「……半壊とは生ぬるい言い方だと思うがね。それに、聞いたところで君が誰に組みしているのか、話す気はないのだろ」 「当たり前だ。教えたところで、俺に何の得があるんだよ」 「うっわー、ケチくさー。藍夜よりケチなやつって、初めて見たかも」 「言ってろ。とにかくだ、全部が赤い豹の仕業かどうか疑うくらいはした方がいいぞ。天上界の連中、特に新世代は尻拭いを嫌がるからな」 新世代とはゼウスら人間にとって馴染みある神々の事だと、ノクトは丁寧に補足する。 そこまで言うなら、自分が今誰に仕えているか教えてくれてもいいのにと、ニゼルは口をもごもごさせた。 (うーん、もやもやする。でも、何にだろ) 考えている事は同じなのか、ふとニゼルが顔を上げると、何かを考え込んでいるような親友の険しい表情が目に入る。 はたとこちらを見た藍夜は、小さく嘆息してからいつものように肩を竦めた。彼が何か言いかけた瞬間、二人の耳に何者かの足音が近付く。 殺気や敵意といった気配は感じられない。ゆっくりと首だけで振り向くと、換えの茶を運んできたアンブロシアと目が合った。 「あの、魔王さんの事なら、わたしも少し知っていますよ」 「えっ? そうなの、アン」 盆の飲み物をそれぞれに配ってから、娘はニゼルに勧められるまま隣の席に腰を下ろす。 何らかの果実とヨーグルトを混ぜたものを無理やり渡されたサラカエルは、一瞬渋い顔をしてそれを口に運んだ。 「ラグナロクの後、姉さんを捜して人間界を旅する機会があったんですけど……その時、詩人の方と知り合って、色々話をお聞きしました」 昔語りかよ、小声でケチをつけるノクトをニゼルが睨み、黙らせる。困ったように微笑んでから、アンブロシアは話を続けた。 「昔語りというのもあります。でもそれ以前に、アクラシエルの勤めとして主軸の仕事を介していた頃、彼の言動を見聞きしていました」 「直接会う機会はなかった筈だ。テメェもアンジェリカも、最後の審判の都度、器が変わる天使のひとつだっただろ」 「器が変わる? えっと、それって……」 「最後の審判の影響は、多方面に及ぶという事だよ、ニゼル。それでアンブロシア、君はその魔王と直接対面した事があるのかい」 「いいえ。あくまで、仕事の中に彼の情報が混ざっていた程度です。でも、手持ちの情報が何もないよりはいい、ですよね」 アンブロシアは、ふと手を頭上に伸ばして祝詞を唱え、半透明の結界を張り巡らせる。 見渡してみると、ニゼル達のいる場所だけでなく、デザートをぱくつき始めた琥珀とシリウスがいる範囲まで覆ったようだった。 ニゼルは瞬きをして娘を見る。アンブロシアは、盗み聞きされると困りますから、と眉を潜めて手を下ろした。 「『天使』とは、神の遣いたる生き物。それぞれの使命に基づき、自ら相応しい主を定め、その方にお仕えする事が殆んどです」 「殆んど? ……例外もあるって事だね?」 「はい。流石、ニゼルさんですね」 「アンブロシア。僕もサラカエルも、自分の仕事で手が一杯で、他の天使については詳しくなかったんだ。勿体ぶらずに教えてくれたまえ」 頷いた娘は、一度自分で用意したハーブティーで喉を湿らせる。彼女の向かいで、喰天使が再度小さく舌打ちした。 相変わらずひねくれてるなー、ニゼルは茶を飲みながらノクトを見る。直後、こっち見んな、そう言わんばかりに男は顔を歪めた。 「例えばですけど、ガブリエル様は唯一、神から単身、独自に行動する事を許された天使です。これは告知という使命を優先された為です」 「では、魔王はどうなんだい。僕達の故郷を荒らした張本人は」 「ちょっと藍夜、アンに八つ当たりしたってしょうがないでしょ? それで、アン」 「魔王さん……堕天使の王は、もちろん昔は天使でした。とびきり優秀で、美しく、持てる権限はミカエル様に匹敵したと言われています」 「それが何故人間界に? 確か、エノク書では『神に反逆した後に敗北を喫した為、罰として堕とされた』とあった筈だがね」 ふと、アンブロシアが一瞬言葉を詰まらせ、困ったような顔で喰天使に視線を投げたのをニゼルは見逃さない。 彼女が結界まで展開させるあたり、この話題こそ「新世代の神にとって都合の悪い話」なのではないかと予測出来る。 「ねえ、アン。話を聞いてると、アンはその魔王の肩を持つような言い方してるよね。本当は知り合いだったりするの?」 「いえ、それはありません。でも、そうですね。肩を持っていると思われたなら、それはわたしの気持ちの問題です」 「どういう意味だい」 「……わたし個人が魔王さんを完全な悪だと見なしていないからです。ホワイトセージの事も、今思えば必然だったのではないかと――」 茶器が、激しい音を立てて揺れた。テーブルを叩き、立ち上がった藍夜の顔が憤怒の色で真っ赤に染まっている。 「じゃあ、何かい。暁橙は、アルジルの羊は、殺されて当然だったと、そういう運命だったのだから割り切れと。君はそう言いたいわけか」 「――そう思われても、仕方がないと思います。藍夜さん、いえ、ウリエル様。彼のひとの仕事が、それである限りには」 「藍夜……ほら、座って。ねえアン、今の言い方はちょっと酷いよ。でも……最後まで教えて欲しいな。魔王って、結局何者なの?」 藍夜の態度には怯まずにいたアンブロシアだったが、何故かニゼルの問いかけに、彼女は悲哀に満ちた表情を返した。 「姉」に関係する事なのか……脳裏に過ぎった直感を、ニゼルは首を振る事で無理に掻き消す。 事情はどうあれ、天使や神々がこちらに直接ちょっかいを掛けてきている以上、このまま振り回されるばかりではいられない。 今は、少しでも情報が欲しい。シリウスの故郷に乗り込むより先にそれらを手に入れておく事で、見えてくるものがあるような気がした。 「名前は、サミル……真名はマステマ、もしくはマラーク……藍夜さん達や、わたし達に同じく『対存在』を有する、古い世代寄りの天使。 嘘と欺瞞を蒔き、神々にとって都合の悪いもの、罰するべきもの、有害なるものを単独で終焉に導くひと。即ち、必要悪という存在です」 「必然、悪? なくてはならない存在、って事?」 「はい。彼は長きに渡り、悪の象徴として手を汚してきました。今、地上で尽くす破壊の限りでさえ、彼の使命の具現に過ぎません」 「だから君は『仕方がない』とするのかい、アンブロシア。そんなもの、喪わされた側からすれば詭弁というものだよ」 「……そうかもしれません。わたし達は寿命が長く、また、輪廻転生の法則も知っています。さぞ薄情、いえ、傲慢に見えるでしょう」 「それでもあなた方に嫌われたくない」。そんな天使らしからぬ私情が、目を伏せた娘の顔に明確に滲んでいる。 空気が異常に重い。ニゼルは流れを変えようと、慌ててメモ帳を開き直した。万年筆を横に添え、アンブロシアの前に差し出してやる。 「ねえ、アン。参考まででいいんだけどさ、そのサミルってやつがどんな感じか描いて貰ってもいい? 見かけたら皆で警戒出来るから」 「え? あ、はい。それがいいかもしれませんね。その、あまり上手く描けないかもしれないですけど」 メモ帳を受け取ったアンブロシアは、素直に手を動かし、数十秒ほどで件の人物を描き上げた。 横から覗いていたサラカエルから、なかなか上手いじゃないか、と賛辞が飛ぶ。ノクトは一瞥した後、片目を閉じて沈黙していた。 恐る恐るといった風に、娘はメモ帳をニゼルに差し出してくる。返されたそれを藍夜と二人で覗き込むと同時、ニゼルはあっと声を上げた。 「あれっ、このひと」 「ニゼル? どうかしたのかい」 「うん。俺、このひとに会った事があるよ。ホワイトセージの事件の時、オフィキリナスで留守番してて……それに、この間の宿場町でも」 「なんだって? ニゼル! 君はどうして、そういう大事な事を早く言わないんだい!」 「うわ、だって! なんか、凄く寂しそうな顔してたから……オフィキリナスに来た時なんか、このひと泣いてたんだよ。だから……」 「だからって! いや、しかし……泣いていた? 悪の権化が? そんなまさか、それに君も無事だったというのは」 「本当だよ。辛そうで、でも俺は何も知らないから黙ってたんだ。そしたら、すぐいなくなっちゃったんだよ。別に何もされてないし……」 二年も経つというのに、あの黒塗りの美しい青年の泣き顔ならすぐにでも思い出す事が出来る。半年ほど前に立ち寄った町でも会ったのだ。 彼は自分に、何らかのメッセージを託しに来たのではないのか。彼がぽつぽつと吐き出した言葉は「悪」にはほど遠い響きを持っていた。 何故、自分はアンブロシアらの言う害に遭わずに済んだのか。何故、ホワイトセージは滅ぼされてしまったのか……ニゼルは考える。 メモ帳の中、美貌そのものを描いたそれはにこりと微笑みもしない。 カマエル、ゼウス、そしてサミル。三者の考えがまるで読めず、ニゼルは藍夜と二人、困惑しながら目を合わせた。 |
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