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楽園のおはなし (1-7) BACK / TOP / NEXT |
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――寒い冬の日だった。 ホワイトセージはサンダルウッド王国の中でも北方に位置する街だが、輪の国本土に比べればそれでも四季の寒暖差は緩やかで、 比較的過ごしやすい環境にある。それがどうだ、珍しくこの日は降雪圧雪が観測され、見慣れぬ光景に街中が大騒ぎしていた。 丘の上、極力他人が寄り付かない場所に家を建てたというのに雪が降ったというそれだけで、店に報せを寄越す者も出た。 「鳥羽さん。あんたね、この街じゃ雪が降るなんて凶事の前触れかってくらい珍しい事なんだよ。それを今すぐ帰れたぁ、どういう」 「お話しする事など何もありませんよ。帰れなくなる前に帰途に着いた方がまだ利口というものだ」 「あんたね! せっかくこうして街の衆が心配してきてやったってのに、」 玄関での押し問答。扉を閉めようにも、街の老人らは敷居をまたぎ、体を強引に玄関にねじ込んでいるので押し出す事も侭ならない。 背後で幼い子供達が怯えている気配が感じられた。夜も遅いというのに、物々しい空気に目を覚ましてしまったのだろう。 肩越しに目線を投げると、妻が子供らの肩に手を置き、心配そうな面持ちをこちらに向けているのが見える。 怒鳴り合うのはまだいい、寒いのだって自分一人ならまだ我慢出来る。だが子供らには耐え難いものがあるだろう。 そんな事も、このもうろくした田舎の街連中には分からないというのだろうか。 隣接する牧場が気に入ったから、遺跡群がすぐ近くに点在するから。そんな理由でここに腰を据えたのは間違いだったかもしれない。 「何度も言いますが、私からお話しする事はないんですよ。雪を甘く見ない方がいい、ましてやここは斜面の上だ。積もれば滑る。 とにかくお帰り下さい、雪掻きの手が必要だと仰るなら明朝でも街に下りましょう。明日も早い、子供らも起きてしまいましたから」 「あんた! ここまで話を拗らせておいて、手土産の一つも寄越さないとはどういう了見だ。これだから余所者は」 「ふ、ふぅ、うええええええん」 「あ、暁橙。だいじょうぶだよ、今、父さんが」 「あなた」 ハイエナどもめ、やはりそれが本音か――骨董商という商売柄、他人の欲深さなどについては理解あるつもりでいた。 だがどうだ、間接的にとはいえ子供を盾にこちらの商売道具を集ろうというその根性。ハイエナの方がまだ理性あるというものだ。 妻は反対するかもしれないが、近いうちに引っ越しも視野に入れた方がいいかもしれない。 子供らには新しい友人も出来たようだったが、このままでは他の大人達からの悪影響を受けるばかりだろう。 「……分かりました。暖を取るロードをお譲りしますから、今日はそれでお帰り下さい」 商売道具「ロード」は決して安いものではない。それどころか、神話伝承に登場する神々の化身ともいうべき貴重な文化遺産だ。 私は神などといった不可視の類を信仰しているわけではないが、ロードという明らかな出土品がある限り、彼らの存在を否定する事は 出来ない、そのようなスタンスで店を経営していた。ただの高額な「骨董品」としてではなく一品一品大切に扱って然るべきだろう。 最も、この老人らはロードの特殊な力にしか興味がないのだろうが。 酒場の冒険者の話を鵜呑みにしたのかもしれない。確かにロードは様々な恩恵を与えてくれるが、それだってピンからキリまである。 伝承の神々とてそうではないか。気分で人攫いをする者、学を与える者、酒作りを伝えた者……それら全てをひっくるめて「神」だ。 その気性や魂、術式全てをその身一つに宿した道具、それがロードだ。その気になればヒト一人殺してしまえる代物なのに。 あれほど最初の会合で説明したのに、何も分かっていないのか。 ああ、今思えば、彼らはあの時からロードの力にしか興味を示していなかった。余所者の話など聞くだけ無駄だと、そういう事か。 眼前でざわつき、どよめき、顔に狂喜の色を浮かべる街の衆に、私は今度こそ何も言う気になれなくなった。 一度廊下から店内に戻り、店の隅に置いていた暖炉代わりの四角い箱を手に掴む。 「父さん」 「藍夜、子供はもう寝なさい。お前が寝ないと暁橙も眠れないだろう」 「……はい。ごめんなさい」 取って返そうとした時、長男が店の入り口から不安そうな顔を覗かせた。次男の元に戻るよう促す。 返事をするが早いか、彼は夜色の短い髪を翻し元来た道へ走った。妻に何事か話しかけ、弟の頭を撫でてやっている。 長男は優しく賢い子だ。身体が弱い事と、昨今の「左目が痛む」という訴えさえ除けば、聞き分けもよく良い兄であると自負している。 私は未だ廊下でぐずる次男をあやす妻に頷いて、玄関に居座る彼らに箱を手渡した。中級ロードではあるが致し方あるまい。 これで何度目かは数えるのも忘れてしまったが、家屋に踏み込まれて店を荒らされるよりは、ずっといい。 「それじゃ、どうもな。鳥羽さん」 下卑た笑い声に頭が痛くなった。暗闇に彼らの姿が溶け込んだのを見計らって錠を下ろす。 火事でも起こしてしまえ、と考え、首を左右に振った。止そう、自分には妻も幼い子供もいる。同じところに落ちる事などない筈だ。 振り返るとそこには妻しかいなかった。いつもは気丈な彼女の今の表情に、我ながら不甲斐なさを感じてしまう。 「すまない。また、店の物を」 「仕方ないわ。子供達にも悪いところを見せてしまったもの」 「そうだな。子供達は?」 「藍夜が暁橙を二階に連れて行ってくれたわ。もうすっかりお兄ちゃんね」 ようやく妻の顔に笑みが浮かんだ。思わずほっとする。とはいえ、いつまでもこうしているわけにはいかないという想いもあった。 「考えたんだが、咲耶(サクヤ)」 「なぁに、あなた」 「近いうち、子供達を連れて旅に出ないか」 「えっ?」 「昔のようにロードを発掘しながら旅するのも悪くない、と」 沈黙があった。いつもの妻なら、何か決断を迫られた時の返答は早い。それが黙り込むという事は、つまり。 同じように口を閉ざした私に対し、一時俯いていた妻の口からぽつりと吐き出されたのは、私の予想に反した賛同の意だった。 「子供達には悪いけどこのままでは生活出来なくなってしまうわ。藍夜も暁橙も賢い子だもの、きっと分かってくれる」 「そうか。すまない」 「いいのよ、瓊々杵(ニニギ)さんの決めた事だもの」 仕方がない事ですものね、彼女はそう前置きした上で、その代わり家族だから何があってもついていくから覚悟してね、と付け加えた。 下の名を呼ばれたのは久しぶりだった。思わず固まったが、脇腹を突付かれて我に返る。今も昔も、私は彼女に勝てた例がない。 もう休もう、どちらともなしにそう言い、最後に戸締りだけ確認しておこうと二人で応接間入り口のランプを手に取った。 「あら?」 「どうした?」 「ランプが点かないの。油切れかしら」 「馬鹿な、この間詰め換えたばかりだろう?」 貸してごらん、着火に手こずる妻からランプを受け取り、私は上蓋を外した。芯は残っているし、油だってまだたっぷり残っている。 湿気でもしただろうか、暗闇の中、雪の照り返しに頼りきりで苦戦していた。何度マッチを擦ってもすぐに火が消えてしまう。 私も妻も気が付かないでいた。 応接間の横、店の裏手付近。ランプに掛かりっきりの私達の背後に、「それら」がぼうと佇み、上から我々を覗き込んでいるのを―― 「――ああ、やっと点いた。なんだったんだろうな、一体」 暗がりがパッと明るく染まる。妻と二人ほっと胸を撫で下ろし、どれ戸締りの確認を、と裏手口を振り向いた。 「羽根の生えたもの」がいた。 灯に照らされた翼は鳥のそれに酷似していたが、大きさは比ではなかった。とてつもなく大きい、部屋中を覆い尽くすと言ってもいい。 美しい黒塗りの髪に白い衣装。ヒトの容姿をしているが、漆黒の双眸に白光が宿されているのを見るや、たちまち足が竦んだ。 まるで井戸の底を切り抜いて、顔面に貼り付けたかのようだった。手からランプが滑り落ちる。硝子の砕け散る音がした。 足元でパッと緋の花が咲く。足に火の粉が燃え移るが、私も妻も熱さにも勝る恐怖に身動き一つ出来ないでいた。 それらは人間ではなかった。左の者は左手に足枷と小振りな水瓶、右の者は右手に蔓の鞭を持っている。 水瓶は今にも水が溢れ出る直前というように水面を波立たせ、鞭は木の葉のようにざわめきながら無数の棘を黒々と光らせた。 「我が名はハルワタート」 「我が名はアムルタート」 「我ら、罪過を告知せん」 「我ら、憐れなる魂を救わん」 「我ら、主の命により馳せ参じる」 「我ら、道を踏み外せし者を救済せん」 「汝らに問う、」 妻が悲鳴を上げた。それが合図となった。 彼等からの問いかけなどどうでもよかった。「死」の恐怖が漠然とあった。理由など思い当たる筈もない、妻も私も走り出していた。 背後でぼうと炎が盛る。脳裏に子供らの顔が過ぎる、裏庭、足の裏に処女雪と牧草の質感、振り向くと応接間中が炎に包まれていた。 貴重なロードが灼熱の中で黒い影を落としながら揺れている。汗が、震えが止まらない。 店が、私達の家が、長きに掛けて大切に育んできたものが、今燃えている。妻と二人、何も無い平地からのスタートだったのに。 炎が踊る、熱が狂う。あの勢いでは先の異様な者達も燃えたのではないか。そう思えば、家の方に歩み出す事も出来た。 子供達を救わねば、その想いがあった。水を被る暇も助けを呼びに行く時間もない。駆け出す。妻が何事か叫ぶ。 必ずや助ける! 叫び返したところで、私は自身の視界がぐるりと変わっている事に気が付いた。眼前に広がるのは眼下の光景だった。 私を妻が見上げている。その妻もまた宙に浮かんでいた。二人とも地に足が着いていなかった。ただただ、宙に浮いていた。 ああ、眼下ではなく、眼前。先の翼を持つ者らが直立している。翼を羽撃かせる事すらせず、暗い目で私達を無言のまま見ている。 彼らに身体を浮かされたのだ、気付くのは最早容易い事だった。彼らはヒトではないのだ。その容姿、不可視の力、存在感、背中の翼。 ロードに近しい、伝承の中にのみ生きると思われた存在。「天使」が、私達夫婦の目の前に立っていた。 「――父さん! 母さん!!」 絶叫が聞こえた。 四肢はもう動かない、辛うじて動いた眼球で声のした方を見れば、人影があった。炎が姿を映し出す。 我が子、鳥羽藍夜がこちらを見上げていた。 酷い顔をしている、煤で黒く汚れ、焦燥と絶望に支配されている。逃げなさい、叫んだが声が声になる事はなかった。 もがけどもがけど、見えない力が自身を縛る、自由が損なわれていく。体中から力が抜けていく。子を庇う事も許されないのか。 翼が空を叩く音がした。眼下で藍夜が目を見開いた、何か叫んでいる、酷い顔だ……私は懸命に目を動かす、何がどうしてどうなって 「ぎゃぁあああぁああああああぃああぁ!!」 私の鼓膜を打ったのは、なんと表現すべきか、固いものが端から端まで叩き折られるものだ。 私の横、私の傍に並んだ妻の身体が、四方八方、曲がってはいけない方向に関節を曲げられたのを見た。 曲げられた、と言うのは、目の前の天使がそれをしたと思ったからだ。彼らは無表情のまま片手を伸ばしただけだった。 彼らがその体勢でいるまでの間、妻の身体は延々と折れ続けた。明々と照らされながら、美しい顔が醜悪に歪みいくのを見た。 「 !」 もう名前さえ呼んでやれない。舌が上顎に張り付いていた。 自慢の妻だった。 その昔、あまりに美しすぎたが為に、輪の国本土にいる間は言い寄ってくる男の多さに半ば辟易としてしまっていた。 妻は逸早く私の心境に気付き、彼女の方から他国に渡る事を提案してくれた。思えば私は彼女に事をして貰ってばかりだった。 私から彼女にしてやれた事といえば、プロポーズした事、婚約指輪のデザインを選んだ事、店の開業資金を捻出した事くらいだろうか。 なんとつまらない男だろう。 何故こんな私などと結婚してくれたのか、新婚当時、第一子を身篭ったであろう頃に、一度だけそう聞いた事がある。 「貴方が愛しくて放っておけなかった」、彼女は淀みなく答えた。笑っていた。私の記憶の中の彼女はいつだって微笑んでいた。 こんな時まで、私の脳裏に浮かぶのは君の笑顔だけじゃないか。もう私の意識はそこにしか、鳥羽咲耶にしか向けられていなかった。 ああ、咲耶……君は、私の自慢の妻だ。 (そんな君を、どうして一人で逝かせられるものだろう?) やがて、その肉塊がだらんと力なく宙に浮くだけとなった時……私ははっきりと何かの咆哮を耳にした。 俄かに意識が戻される、虚ろな私の視界の端、眩い光が迸るのを見た。眼前の天使がざわめく気配が感じられる。 空気を焦がす匂いがする。暗闇を、雪を、深紅の炎を切り裂いて、一直線に駆け上がるものがある。青白い閃光、「雷」だ…… 「罪深きは『僕』を連れ出した『彼ら』ではない、容易く命を絶たんとする貴様らの方だ! そうだろう、『ハールート』、『マールート』!!」 夜色の髪、大人びた顔立ち、白い肌、愛しい子。黒と夜色の瞳、雷光、ロード。 「お前」は誰だ。「鳥羽藍夜」の姿をしたお前は……やはり、声は一欠片も出る事がなかった。 私の意識はそこでぶつりと途絶えた。正確には、爪先から骨という骨が順番に折られていくのを実感出来たから。 恐怖や痛みは当然あった。だがそれより私は安堵していた。これで妻を、愛しい者を、たった一人暗い底に連れて行かれずに済む。 炎が周囲を明るく照らしている。 漆黒に沈む視界の端、樹の陰に何かが隠れているのが見えた。空色の髪に赤紫の瞳。見知った顔、藍夜の親友だった―― 「――最悪だね」 嫌な夢を見た。目を覚ますや、鳥羽藍夜は目を見開いたまま無意識に歯噛みしていた。 寝汗が酷い。それに涙も。左目は妙に熱を持っていて、傷付けてしまったかのようにじくじくと痛みを伴う。 あの日、両親が眼前で二人の天使に惨たらしく殺傷された日。あれから十数年経つというのに、未だにこうして夢を見る。 それも父母どちらかの視点で双方が死亡するまで休憩を挟まず展開するから性質が悪い。何度目になるか数えるのも止めてしまった。 「相思相愛か。全く、羨ましい事だね」 なんでもいいが同じ事の繰り返しばかりで何の芸も感じないので、最近では悲しみよりも鬱陶しさを覚えるようになってしまっている。 今でも大切な家族である事に変わりないが、二人の馴れ初めなどとっくの昔に見飽きた。うんざりだってしてしまうというものだ。 自身の「眼」による特殊効果の余波なのだろう、そうでなければ死に至る激痛や臨場感をああまで体験出来る筈もない。 「両親の死」、「雷霆の行使」。藍夜にとって痛みの強いこの話を、弟にしてやるつもりは毛頭なかった。するべきではないとも思っている。 真っ直ぐな気性を持つ弟の事だ、真相を知った日には、他の大人に洗いざらい話してしまうのではないかという不安が藍夜にはあった。 暁橙やその周辺……あの時、羊が騒いだからという理由でたまたま現場に駆け付けたニゼル以外には、「両親は天使に殺された」などと 言ったところで、良くて子供の戯言、最悪、精神を病んだと言われかねなかった。孤児院行き、まして暁橙と離されるなど御免だった。 両親の評判は良くなかったし、街には信心深い者もあった。うっかり口にしようものなら樹に吊るされでもしていたかもしれない。 今思えば「沈黙する」という判断は決して間違いではなかったのだ、藍夜はそう踏んでいる。 何も知らないお陰か弟は素直に育ってくれたし、ホワイトセージでの生活も万全といかないまでもそこそこの状態を維持出来ている。 化け物と呼ばれるようになるとは思わなかったが、店のロードを集られる事もなくなった。怪我の巧妙といったところだろうか。 ふと、ぺたりと額に前髪が張り付く感覚で我に返った。一度汗を流すべきか。手の甲で額、次いで目を拭う。 「……二人一緒、だったんだ。まだ救いもあるというものかな」 拭い足りない。視界が霞む。致し方なし、ぼやいて手を伸ばす。寝具横のテーブルには、ランプと水差し、タオルなどを積んでいた。 寝起きの時くらいだらけていても良いだろう、そんな自論で起きがてら身支度が整えられるようにしてある。タオルで顔、首の汗を拭った。 水差しからコップに水を移し、一気に煽る。生き返ったような心地だ、ようやっと一息吐いた。 「ぉ、はよう。藍夜」 「ああ、ニゼル。おはよう」 ふと舌足らずな響きがあった。横に目を向けると、今起きたと思わしき友人がうつ伏せのまま両腕を頭上に伸ばし、放り投げている。 随分だらけているものだね、とは言わない。許可が下りたからこうしているのであって、いつもの彼ならもう仕事を始めている時間だった。 昨夜床に着く前に用意しておいた予備のコップに水を注ぎ、ニゼルに渡す。有難う、くしゃりと破顔して、彼は口に水を含んだ。 「よく眠れたかい、昨日は遅くなってしまったからね」 「うん。俺は、ね」 「俺は?」 「うん。藍夜、うなされてたみたいだから」 気付いていたのか。黙って視線を投げ返すと、彼は上半身を起こして一度小さく頷いてみせた。 コップを両手で包むようにして持ち、くるくると回して、揺れる表面を見下ろしている。 「何時頃だったかな。まだ暗かったから、三時とか? 起こそうとも思ったんだけど、前起こした時、藍夜怒ったから」 「ああ……あの頃は」 そういえばあの時彼も現場にいたからか、彼と眠るとあの夢を見る確率が高まるような気もする。言われるまで気にもしていなかった。 まだ両親の死に動揺していた時、暁橙が突然の環境の変化に不安定に揺れていた時、あの頃は自分もニゼルに辛く当たったものだった。 心配して連日泊りがけだった彼が悪夢にうなされる自分を起こしてくれた時などは、暁橙が泣くのも構わず怒鳴りつけさえした。 酷い事をしたと思っている。 すまないね、短く搾り出すようにして呟くと、俺こそ気が利かなくてごめんね、と悪くもないのに彼の方が謝ってきた。 些細な喧嘩をした時だけでなく、こちらが一方的に悪い時でさえ彼はこうして自分や暁橙を気遣う。 ロードを行使出来る、識別や先見といった特殊な力がある、個人の店を持っている……だからなんだ。藍夜は無言で歯噛みした。 「藍夜?」 「いや、なんでもないさ」 いつもならなんて事はない沈黙が重く感じられる。沈黙したのは藍夜の方だが、気にするなと言う代わりに再び水を勧めた。 ニゼルは何の気もなしに受け取り嚥下する。が、水を見ているとますます藍夜は口が重くなる一方だった。あの夢を見たから尚更だ。 (レテ川か。もう十五年は昔になるかな) 特殊な力――藍夜のそれは、ニゼルが昔「レテ」なる遺跡から意図せず持ち帰った「川の水」を藍夜が飲んだ事で得られたものだった。 無色透明の真水。偶然にも喉が渇いていた自分だけが一気に飲み干してしまい、功労者である筈のニゼルが口にする事は一切なかった。 辛うじて残っていた数滴を一舐めした彼が「まずい!」と叫んだ事で、この件は二人の間で笑い話になる筈だった。 しかし、水を飲んで以来、藍夜は左目に酷く違和感を覚えるようになった。医者にも診せたが瞳が髪と同色に変わっただけだと一蹴された。 痛みや熱ではなく純粋な違和感。不安に駆られながらも「平気だ」と嘯く自分に、ニゼルは懸命に「その色好きだよ」とフォローをくれた。 実際、違和感がある以外で生活面に支障はなかった。左瞳が夜色に染まったきりで、暫くすると藍夜もその件を忘れていた。 思い出した頃にニゼルが「大丈夫?」と気に掛けてくるくらいで、何の問題もなく、互いに笑って暮らせていたのだ。 ……あの夜、あの事件が起きなければ。 一階で何かが割れる音がして不意に目を覚まし、降りてみれば目の前に広がっていたのは地獄絵図だった。 「父さん、母さん」、そう叫ぶと同時に、藍夜の脳に一斉に「ハールート」と「マールート」の過去、詳細、情報が流れ込む。 あとは夢中だった。いつの間にか手に握り締めていた「雷神の雷霆」で電撃を放ち、両親を殺戮した天使を焼き払い、殺し尽くした。 その後の事は、実はあまりよく覚えていない。 ニゼルの話では、ハールートの水瓶で火を消し、父母を草の上に下ろし、最後に二体の天使を蔓の鞭その他を用いて細切れにしたという。 あの日以来、ロードが使えるようになった。目を通じて様々な情報を読む事が出来るようになり、肉体の成長がある時期から停止した。 疑問は山のようにあった。しかし、天使とはいえヒトの形をしたものを殺した事実は消えない。考えないようにするので精一杯だった。 能力については利便性の方が遥かに多く、店を経営する上で存分に使わせて貰っている。我ながら現金なものだと自嘲した。 「ニゼル」 「ん? なに?」 「いや、大した事ないさ」 「ええー? ふふっ、何それ、変な藍夜ー」 ニゼルには感謝してもし足りない。彼がいたから今の生活があり、あの火事で暁橙を死なせずに済んだ。 それに、事情を知ってもなお自分の味方であろうとしてくれている。それだけで十分だった。 (ニゼル。僕はね、時折、僕ら兄弟が君の自由を、将来の可能性を損ねてしまっているのではないかと気が気でないのだよ) 独白してから、よく言う、自身に毒づいた。眉間に力が篭る。 ニゼルが自身の人生を歩む為に離れていこうとすれば、友人として彼を応援するのではなく、寂しいからと全力で阻止しようとする癖に。 暁橙の方がよほど利口だ。幼い頃こそぐずったり、父母がいないと泣きこそすれ、今となっては独自の価値観も持てている。 自分はどうだ、「鳥羽藍夜」は。能力に頼りきり、友人に依存し、弟の為と謳いながら遺品に固執するその様は。 握り締めたコップを見た。水はまだ少し残っている。静かに口を付けて喉に流した。 ……あの時、もしあの幼い時分に、ニゼルが自ら水を飲み干していたなら、今とはまた状況が違っていたかもしれない。 あの水が自分を変えたのは間違いない。ともすれば、「レテ川」は特殊能力を付与する類の高位ロードだった可能性だってあるのだ。 今となっては、頻発した天井落下で件の洞窟型遺跡は完全に塞がってしまっており、内部に侵入して調査に赴く事も侭ならない。 それだけではなかった。当時ニゼルが気付かなかっただけなのか、特殊な結界が張られていたのか、遺跡の中は藍夜の力を使用しても 最奥部はおろか入り口の様子さえ覗けなかった。つまりそれは、川の水が真実ロードであったかどうかの判断も曖昧なままという事だ。 今思えば惜しい事をした、と藍夜は思う。 真実を知りたいというのは勿論だが、職業病からか、ロードであったならせめて一滴だけでも手元に置いておきたかった。 「骨董商というよりロードマニアだよな」、いつだったかマトリクスにそう言われたのを思い出す。若干ムッとして、ふと我に返った。 「待たせてすまなかったね、そろそろ食事を摂りに降りようか」 「ん? 考え事、終わった? へへ、偶然。俺も今、終わったとこだよ」 今日も彼は笑いかけてくる。見慣れた光景ではあったが、それに自分がどれほど救われているかなど、彼は知りもしまい。 「ああ、そういえば今朝は僕が作らななければいけないのだったね。昨日の残りで何かこしらえるとしようか」 「そうだね、暁橙の足も診せに行かなくちゃ。昨日の残りってカレーだよね? 暁橙、喜びそう」 「底の方に幾分か肉も残っていたようだし、琥珀もね。どれくらい食べるのだろうね」 ベッドから這い出ていつもの格好に着替えていると、ニゼルはまだ足を毛布に突っ込んだまま、何やらくすぐったそうに笑っていた。 「ニゼル? どうかしたのかい。まさか、どこか具合でも悪いのかい」 「えー? ううん、昨日の今日でもう琥珀がいるのに馴染んだんだなーって。藍夜ってやっぱりお人好しだよね」 心配して損した。恨みがましい声で吐き出すと、本当の事でしょ、と親友は声を上げて笑った。 サイドテーブル上の時計は七時過ぎを指している。僕にしては早起きだ、とは口にしない。またからかわれるのは御免だ。 カーテンを勢いをつけ開け放つ。「眩しい!」、慌てて両目を閉じたニゼルのぼやきは無視した。今日もまた、雲一つない快晴だ。 |
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