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楽園のおはなし (2-23) BACK / TOP / NEXT |
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「キマイラの肝臓、バンシーの足跡、それからこの液体は……なんだったかな、ラファエル」 「バジリスクの唾液ですね。以前に比べ、だいぶ成分は薄まっているようですが」 「猛毒か……触れていなくて正解だった。いや、聞くまでもなかったな」 床に敷いた布に広げられた物品に伸ばした手を引っ込ませながら、ゼウスは苦笑する。今、屋内を照らすのは壁掛けの燭台のみだった。 ぽたぽたとどこかから水が滴り落ちる音がする。空気は湿っていて、通常の生き物が生息するには適していない環境である事は確かだった。 遺跡の奥、元は祭壇だったと思わしき遺物の前に陣取る大神達は、左右にゆっくりと視線を走らせ、何かの来訪をじっと待っている。 「どうした、堂々としていればいい。向こうから来てくれるのだから」 「ゼウス様。あなた様は何故、ニゼル=アルジルそのひとに協力をするのです」 どことなく落ち着きのないラファエルに声を掛けた直後、ゼウスは片眉を上げる事になった。治癒の天使は臆せず、こちらを見つめる。 「彼は今代のウリエルの友人、それもごく普通の人間であって、容姿が多少ラグエルに似ているだけの人物です。何故、」 「ふ、殺戮に聞いたものと同じ疑問を私にぶつけると言うのか。ラファエル」 「な……いえ、そこまで把握していらしたならなおさらです。何故なのですか、星の民やカマエルの件といい、彼には何か特別な資質が?」 大神は低く笑った。含み笑いというよりは、苦笑いに近いものがある。ラファエルは、目の前の神の二の句を黙って待った。 「それこそ、彼と彼の周辺に執着する赤い豹らに問い質せばよかろう。私は昔から気の向くままに動いていた筈だが、忘れたか」 「あなた様お自ら動くのは、好みの相手を見つけた時か、或いはヘラ様に関わろうとする好色を弾く時と決まっています。まさか彼は、」 刹那、ずずんと重い地響きが轟き二人は顔を上げる。視界一面に広がる暗がり。その奥から、重量ある何かが接近してくるのが分かった。 材料が自ら来てくれたぞ、ゼウスが楽しそうな声を上げ、ラファエルは何か言いたげに彼に一瞥を投げ、口を閉じる。 ずしずしと鈍足ながらも近付いてきたのは、一頭の鷲獅子だった。彼らの知るヘラの配下のそれより遙かに巨体で、眼光も嘴もずっと鋭い。 上半身は鷲そのものである茶褐色の羽毛に覆われ、下半身は現存する獅子に酷似した薄茶色の短い体毛がしっとりと生え揃っている。 「ふ、見事だ。大きいな」 「『南の遺跡の守護者の風切り羽根』、でしたね。どうしてこんな大変な条件のものばかり……」 治癒の天使のぼやきは、途中で掻き消された。状態をのけぞらせ、直後、古い魔獣が炎のブレス、火球を吐き出してきたからだ。 ラファエルは地面を転がって避け、ゼウスは姿を潜ませたまま待機していた直属の配下の結界の中から堂々とこれを見守る。 「ほう、溶岩の中に沈められたようだ。これは素晴らしく貴重な体験だな」 「お言葉ですがゼウス様、それとミカエル。遊び半分で叶う相手ではありませんよ」 「分かっている、しかしこちらの材料集めはまだ途中だ。手短に済ませて貰いたいところだな」 『ご心配には及びません。疾く、御前に跪かせてみせます』 祭壇前は、思いのほか狭い。翼を広げるには不十分だと顔をしかめる治癒の天使だが、不意にその眼前に光の柱が十数本、降り注いだ。 爆音、次いで舞い上がる砂埃、石段の破片。険しくした顔が更に歪む。足下が揺れ、思わず後退した彼の耳に、今度は盛大な拍手が届いた。 「見事だ、ミカエル。それくらいで良いだろう」 光が消失するのと入れ替わりで、ゼウスの部下ミカエルが姿を現す。主に一礼する小柄で、しかし美麗な青年にラファエルは眉を潜めた。 空中に散る黄金の光を放つ無数の羽根を、彼らの眼前、体中至るところに穴を穿たれた魔獣が血走った眼で睨み上げている。 さぞかし痛む筈だ、性格上治療を施そうと一歩踏み出した治癒の天使の前に、ミカエルの片手が伸ばされた。 「ラファエル。ゼウス様のご意志の元、行われた処置だ。用事が済むまで控えていた方がいい」 「……」 「では風切り羽根を一枚頂戴するとしよう。力比べで負けたのだ、文句はあるまい」 天使同士が互いに物言いたげに無言で睨み合うのを無視して、大神は屈辱的に表情筋を歪め、嘴をガチガチ鳴らす鷲獅子に歩み寄る。 その瞬間、地を這うような声がつむじ風のように駆け抜けた。ゼウスは眉根を寄せて巨体を見上げる。音の主は、守護者そのものだった。 『そのように力を誇示し、我らの祖を穢した。何百何千年経とうと変わらない、咎人の衆、強欲の新世代め。この恨み、忘れはしない……』 「! それは、」 ラファエルが息を飲んだ、その僅かな隙。それを掻い潜るようにして、猛烈な強風が吹きつける。 押され、倒れ込みかけた大神の器を、ミカエルが素早く支えた。羽ばたきの後、ふらつきながらも巨影が宙に浮く。 敵に背を向けるとは、よほど命が惜しかったのに違いない。治癒の天使は、逃げ去るグリフォンの背を悲哀に満ちた目で見つめた。 (さぞ、屈辱だったろう。たかが羽根一枚、されど貴重な風切り羽根だ。それに、先に遺跡に足跡を残していたのは彼の方じゃないか) 目を閉じ、回想する。咎人の衆……古の頃、ゼウスら十二柱の神々が世を統べるよりも遙かに遠い、忘れ去られた時代の話だ。 その頃、天上では魔獣や神獣、更にはゼウスらより古い世代の神々が、種族の垣根を越えて共存していたという。 後に、世界の支配権をめぐって争った両者のうち、勝利したのはゼウスら新世代と呼ばれる層だった。 (僕達天使は、神々に仕える事こそが己の使命。誰もが平等に、新世代に付く事を義務づけられたのだった) 以降、ヒトの姿をした生き物、即ち新世代の神々とそれらが精製した生物こそが世界の頂点に立つべきだと、天上の方針は固められた。 神獣との混血児や見た目こそ怪物じみた容姿を持つ一部の古い神も、その友である獣達も、その取り決めにより尽く居場所を失う事になる。 彼らは世界に散り散りとなり、または、新世代の神々に仕える事を強制され、逆らう者は捕縛され、表舞台から隔離される始末だった。 彼らは互いに親交が深かった為、離反される事を恐れた故の措置だろうと、ラファエルは向こうに組みしていた師に聞いている。 戦後処理で恐々とするくらいなら、はじめから覇権争いなどしなければよいものを……師ケイロンの苦い顔が、この場に浮かぶようだった。 (ケイロン先生が今もご健在でいらっしゃるのは、戦の後、彼が僕らに医学を教えたり、負傷した天使を治療したりと協力的だったからだ。 もしこれで、彼が『身内の不始末は自分でつける』と口走っていようものなら……ある意味、ずぼらな性格が功を奏した例であるのかな) 風が収まれば、そこにあるのはただの神殿の残骸と、強欲と罵られた同朋の姿ばかり。石畳の上に散る羽根はただ沈黙を守っている。 遺跡の守護者……彼のように、住処を自ら手に入れられる力ある魔獣なら、獣としての誇りを維持出来る分、まだましな方だ。 多くは新世代への生け贄として血肉を祭壇に捧げられるか、或いは家畜同然に彼らの元で飼育される事が殆んどだった。 ……優秀な移動手段である一角獣のうち、星の民がゼウスら新世代に反抗的だったのには、こういった背景がある。 彼らからすれば、新世代とその従者らの方こそが侵略者であったのだ。今更協力を仰ぐ事自体がおこがましいと、治癒の天使は目を伏せた。 「ゼウス様、ご無事で」 「ああ。ふ、見ろ、これは粋な計らいだ。憎まれ口は叩いておきながら、彼は風切り羽根は置いていってくれたようだ。幸運だな」 「羽ばたきに紛れて落としたようですね。これで次なる鷲獅子を探さずとも済みそうです」 「そう言うな。まだ集めねばならないものもある、骨が折れるがな」 「……ゼウス様、ミカエル。あなた方は……彼が言い残した言葉を聞いて、何も感じなかったのですか」 年老いた鷲獅子の残した言葉。それは敵意――それだけでなく悪意と侮蔑までをも含む、明確な嘲りの恨み言だった。 思いを巡らせてなお胸が抉られるような過去だと、治癒の天使は口だけは即座に閉じたまま、視線に批判を色濃く乗せる。 ラファエルの問いかけに、新世代の長とその部下はふと口を閉ざして見せた。自省してくれたのかと一瞬期待した金緑の天使だが、 「今更、どの口がそれを言う。ラファエル、『この世界は地位と力が全て、天に座する者の意向のみが掟』だと、かつてそう定めただろう」 にこりと微笑みながらも、インディコールの顔には微かな怒気か、或いは有無を言わせぬ迫力が滲んでいる。口を閉ざすよりなかった。 「ゼウス様、守護者の風切り羽根、確かに入手しました」 「ふ、そうか、流石に仕事が早いな。では、戻るとしよう。ラファエル」 「……はい」 「先ほどの答えだが、私に問うより先に別の者に真意を確認した方が良いのではないか。例えば、お前の可愛い弟子など、な」 心臓を鷲掴みされたような気分だ。ラファエルははっとして大神の顔を見たが、気付けば彼とその部下は、既にきびすを返している。 徐々に遠ざかる足音と雑談を耳にしながら、治癒の天使は苦しげに顔を歪めた。冷や水を浴びせられたように思え、体が震える。 可愛い弟子、サラカエル。彼と自分の間に彷徨う困惑すら、ゼウスはお見通しだと言うのだろうか。 否、それ以前に一介の人間と天使が親しくする事を、大神は快く思っていないのかもしれない。去り際の言葉にはそういった重みがあった。 「お言葉ですが、ゼウス様。マキア、ラグナロクを経て、なお我々が力を誇示し続ける手段は……果たして、正しい在り方なのでしょうか」 疑問に答えてくれる者はない。頭を振り、ラファエルは愛弟子らの友人の望みを叶える為の一歩を踏み出す。 出口はそう遠くない。だというのに、暗がりの先は、どこまで行っても暗いままであるような気がした。 「――うーん。今日も、いい牧畜日和だー」 「ニゼルさーん。こっち来て、休憩しませんかー」 「おっ、やった。はーい」 季節は過ぎ、早くも春の頃。若葉が青々と輝き、風は穏やかで、日だまりの中を飛び交う小鳥達が、可憐な声でさえずり合っている。 大きく伸びをする、平和な正午。さて今日の昼はどうしよう、のほほんと構えるニゼルは、牧場主の夫妻に呼ばれほくほくと歩を進めた。 「ごめんなさいねえ、今日もチーズサンドばっかりで」 「いえいえ、チーズ大好きなんで。特に羊乳のが。もう、至れり尽くせりで最高です」 「そーお? それなら良かった、ほら、フランツさんの奥さんからヨーグルトも貰ったから、こっちもどうぞ」 「あれ? フランツさんの奥さん、今日手伝いに来てましたよね? 後でお礼言わなくっちゃ、俺ヨーグルトも好きなんですよー」 「おや、ニゼルさんは好き嫌いなくていい子ですねえ」 「いやあ、美味しいものが大好きってだけですよー。イシュタルにこんな美味しい酪農品があるなんて、世界って本当に広いですよねー」 「……ニゼル、君、ずいぶんとここの暮らしに慣れ親しんでいるようだね」 今日は昼飯代が浮いたなー、勧められるままシートに腰掛け、にこにこと大きめの弁当箱を覗き込んだところで、横から声が掛けられる。 声の主は、埃や木くずで薄汚れていた。あからさまに機嫌の悪いその人に、しかしニゼルは満面の笑みで振り返る。 「あれ、藍夜。屋根の修理終わったの? お疲れ様ー」 「違う、そうじゃない、そうじゃないだろう。君、僕達がここに来た目的を忘れたわけでは、」 「あら、アイヤさん。うちの旦那が高所恐怖症でごめんなさいねえ。そうだわ、アイヤさんも一緒にお昼になさったら?」 「いやあ、すいません。さ、食べて食べて、腹減ったでしょう。体力つけなくちゃ、男の子なんですから。チーズの炙りとか、如何です?」 「わ、美味しそう! ねえ藍夜、せっかくなんだしご馳走になろうよー」 「おかしい……おかしいじゃないか、僕達は材料集めをしていた筈で……」 一人悶々と頭を抱える親友の手を掴み、強引に隣に座らせ、ニゼルは早速ぶ厚いサンドイッチに齧りついた。 晴天、午前に働いた分の心地よい疲労感、横でぶつくさと小声で文句を垂れる親友。幸せだなあと、旨みもろともしっかり噛みしめる。 牧場主の二人は、藍夜がもそもそと昼食を口に運び始めるまで、そこそこ長い滞在になる旅人達をにこにこと見守っていた。 流石に遠慮がなさすぎたかと、三つ目のチーズサンドに伸ばしかけた手を止めてみる。夫婦のうち妻の方が、どうぞどうぞと続きを勧めた。 「いえね、ニゼルさんやアイヤさんが跡継ぎになってくれても、それはそれで良かったかしら、なんて」 「こらこら、うちにはもうハルが居着いてくれているじゃないか。無理を言うもんじゃない」 「あはは、そういえばハルさんって何歳なんですか。年齢不詳に見えますけど」 「さあ、言われてみればあんまり見た目変わらないわね。羨ましいわ」 サンダルウッドの北、広大な草原と共に生きる遊牧民、その子孫。 ニゼル達にこの牧場での暮らしを教えてくれた先輩羊飼いは、血は繋がらなくとも夫婦にとってかけがえのない存在のように見えてくる。 微笑ましいなー、和み始めるニゼルに対し、藍夜の表情は晴れない。どうしたのと問うてみると、歯切れの悪い反応が返された。 「いや、彼はなんというか、不思議な雰囲気のひとだと思ってね」 「移民だからじゃないですかね。皆が皆、優しく受け入れてくれるわけではないですから」 「あれ? ハルさんって今日は用事か何かです? 姿を見てないなって」 「ニゼル、君ね」 「うっ、だって」 「うふふ、あの子、町の孤児院にボランティアに行っているんですよ。自分のように行き場がない子達だから、支えてあげたいのですって」 「なんというか、見た目も整っているし……優しすぎるくらいで。不思議な子ですよ、わがまま一つ言った事もないですから」 親友は、またしても物言いたげに口ごもる。彼の性格上、この場では決して言わないつもりだろうなと、ニゼルは小さく息を吐いた。 「不思議といえば、あの子は神話なんかも好きでしてね。よく話してくれたのが、えーと、なんだったかな、」 「『運命の三姉妹』でしょう? なんでも、私達羊飼いにとっても縁のある神様だって」 「運命の三姉妹? なんですか、それ」 「おや、ニゼルさん達はご存知でない? ……ああ、そういえば、あの子のご先祖様方が信仰していた神様達だって話だったなあ」 「糸を紡ぐのですって。その糸は、私達人間の命そのもので……三人一組で、世界の命運を見守っているのだって、そう教えてくれましたわ」 ニゼルと藍夜は、素早く目を見合わせる。羊飼いは首を傾げるばかりだが、元店主は妙に難しい顔で黙り込んでしまった。 少なくとも、ニゼルの目には、牧場主の夫妻はこの神話を話半分に聞き流しただけのように見える。ただのおとぎ話、昔話、童話の世界。 過去の自分がこの場にいれば、彼らと同じように、わくわくしながら聞くだけで済ませたかもしれない。 しかしニゼルはこの一年の間、天使や神々といった主人公達――人智を越えた存在と、直に交流する機会に恵まれていた。 サンダルウッドの遠方、黄昏を名乗る一族。彼らがどこまで知っているのか、或いは代々子供に言い聞かせる為のおとぎ話に過ぎないのか。 ハル自身は、もう親族一人すら残されていないと言う。謎は深まるばかりだった。 「……おーい、ジェシカさん、エドワードさん!」 「あら、フランツさん! ごめんなさいねえ、ニゼルさん、アイヤさん。ちょっと席を外しますわ」 「ゆっくり、飯を楽しんでて下さいね。はいよー、フランツー。今行くー!」 「ふぃっへらっふぁーい」 「……ニゼル、せめて口は、空にしてから物を言いたまえ」 来客に呼ばれて離れた夫妻の背を見送りながら、ニゼルはちらと親友の顔を見る。藍夜も同じ事を考えていたのか、自然と視線は重なった。 「……ん、ぷはー。はー、食べた、食べた。美味しかったあ!」 「いや、ニゼル、君……いや、いいか、もう。それで、君はどう見るんだい」 「んー。ハル先輩の事? それとも運命の神様の事?」 「どちらもだよ」 親友は苦いものを噛んだような顔を浮かべる。彼の言わんとしている事が分からず、ニゼルは素直に首を傾げた。 藍夜は手近にあったグラスを取ると、中身を一気に飲み干す。硬い表情は崩されず、ニゼルも釣られるように身を固くした。 「運命の三姉妹。父さんの本にはほんの少ししか書かれていなかった……何故なら、彼女達を知る者が極端に少ないからだ」 「えっと、どういう意味?」 「彼女達は相当古い神々でね。ゼウス様方が世界に君臨する以前に、世界を統べていた方々だ。記録が残っていないというのも無理ないさ」 話が見えない、というよりも、想像が追いつかない。ニゼルはもう一度首を傾げかけて、はたと思い出したように目を瞬かせる。 「そっか、ゼウス達だって立派な生き物なんだよね。親とかいたっておかしくないんだよね」 「生き物って。いや、うん……そうなるのかな、一応」 「あれ? えっと、じゃあ運命の神様がゼウス達のお母さんって事? なんか、別の神話を読んだような読んでないような」 「彼女達は、ゼウス達方にとって前の世代の神というだけさ。血の繋がりがあったとしても、遠縁の親戚筋というくらいには薄いだろうね」 親友は、目を細めてどこか遠くを見つめていた。なんとなく声を掛けられず、ニゼルは黙って彼の横顔に見入る。 興味がある、ただそれだけの理由で執拗に聞いてはいけないような気がした。藍夜の表情に、微かな寂しさの色が滲んでいたからだ。 「ゼウス様方が台頭して以降、古い神々は世界に散り散りとなり、僕達人間を見守っているのだそうだよ。影ながら、という形でね」 「……藍夜は、元は天使様だったんでしょ? 古い神様の中に、知ってるひととか、仕えていたひととか、いたりしたの?」 「さあ、どうだったかな。覚えてないね。それに僕は、今は過去を思い返す暇がないほど多忙な身だからね」 「え? それって、」 「さて、ニゼル。余ったものを宿の大食らいに与えに行こうじゃないか。それに材料の羊をいつ引き取るか、皆で話し合っておかなければ」 「えっ、あ、ちょっと待ってよ、藍夜!」 昼に食べきれなかったまかない飯は好きに持ち帰っていい、牧場主からはそう言付けられている。 その言葉通り、親友はさっさと弁当箱を包んで抱えて行ってしまった。止める間もなかったと、ニゼルは密かに苦笑する。 彼がこうして、宿で――近頃妙に食欲の増してきた――琥珀に食事を届けに向かうのは、まかないが出された日の恒例行事となっていた。 俺も羊を愛でるという名の仕事に戻るかな、一人ぼやいて立ち上がった羊飼いの背後に、何者かの気配が寄る。 「――アイヤさんは、また町に向かわれたのですね」 「うっわ、びっくりした。ハルさん。あ、そっか。入れ違いになっちゃいましたね」 「ああ、言われてみればそうですね。彼は雑用ばかりで、あまり話が出来ていなくて……少しばかり、残念です」 水色の瞳、橙混じりの金の髪、中性的にも見える美麗な青年。ハルは、小さくなった藍夜の背を見送りながら微笑した。 「あなた方が来て、牧場もとても賑やかになりました。確か、羊を一頭譲り受けたいのだそうですね」 「えっと、はい。なんか変なお願いしちゃって、すみません。一度でいいから、よその羊を触ってみたくって」 「構いませんよ、わたしも始めは、似たような気持ちでここに辿り着きましたから……ニゼルさん。そろそろ旅立たれるご予定でしたよね」 先日、血を抜く為の羊に目処をつけ、夫妻と内密に取引を成立させたばかりだ。ハルに話がいっていても不思議ではない。 改めて今後の予定を振り返り、ここを離れる事に多少名残惜しさを感じている自分に気付かされる。ニゼルは小さく頷き返した。 「はい。俺と藍夜には、やらなきゃいけない事があるんです」 シリウスと琥珀。ニゼルと藍夜。この一年のうちに騎獣契約を交わし、今でも誓いが続いている以上、カマエルを放置する事は出来ない。 ましてや琥珀の腹の事もある。ハルや牧場主らの誘いはニゼルにとってこの上なく魅力的なものだったが、応えるわけにはいかなかった。 「やらなければいけない事、ですか。なら、引き止めるのは困らせてしまいますね」 「ハルさん」 「わたしも、あなた方に出会えて嬉しかった。友人や家族が出来たようで……どうか礼を言わせて下さい、ニゼルさん」 差し出された手のひらには、糸紡ぎによる細く薄い傷口がしっくりと浸透し、馴染んでいる。ニゼルはハルとしっかり握手を交わした。 遠い異国の地から、天涯孤独の身として流れ着いた場所。思えば、ハルの境遇は鳥羽夫妻に似たような部分があったかもしれない。 「ああ、よかった。別れる前にきちんとご挨拶出来て」 「えっと、また、機会があったら寄りますよ。そしたらチーズ、うんとご馳走して欲しいです」 「そうですね。楽しみにしています」 二人の羊飼いは、笑みを交わし合う。羊を愛で、故郷と過去を慈しむ姿勢は同じでありながら、二人の道は全く違う方角へ続いていた。 きっと、二度と会う事はないだろう。久しぶりに抱いた寂しさという名前の感情に、ニゼルは自嘲も含め、軽やかな笑みを零した。 |
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