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楽園のおはなし (2-22)

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「旅に出よう!」

一夜明け、一行が朝食を摂っていた卓上にどどんと身を乗り出し、ニゼルが高らかに宣言する。
アンブロシアをはじめ、ラファエル、シリウス、そして寝ぼけ眼の琥珀も同様にぽかんと固まっていた。

「……また君の悪い癖かい、ニゼル」

うんざりといった反応を見せたのは藍夜だ。口に運びかけていたスープを飲み込んでから食器を戻し、友人に咎めるような視線を投げる。

「いいかい、ここから次の町まで少しばかり移動に時間を要するのだよ。琥珀の容態を観察しながら慎重に動くと話し合ったばかりだろう」
「それは覚えてるけど。同じ町にずっと居続けても、それはそれで『こいつらいつ旅立つんだ』って思われそうな気もするんだよね」
「……すまん、俺の迂闊な単独行動のせいだ」
「君ね、何回目だい、その謝罪は。同じ過ちを繰り返さなければそれでいいと、僕は言っているのに」
「ねえシリウス、謝るのやめたら? 謝るだけなら馬鹿でも出来るし。藍夜の言う通り、次から気をつける、っていう姿勢の方が大事だよ」
「……ふ、何故私の方を見ながら言うのかね。ニゼル君」

一転、藍夜は深々と嘆息しながら頭を抱えた。何故かこの食卓には、朝方ふらっと戻ってきたインディコールの姿もある。
優雅に朝食を堪能する姿は、神話上最高の地位に君臨する大神の仮の姿とはとても思えない。

「えー? 気のせいでしょー? もしかして思い当たる節があるとか? うわー、不潔ー。節操ない男ってタチ悪いよねー」
「ニゼル。君がその方を嫌っているのはよく分かった。しかしね、僕が今問題視しているのはそこではないんだ、分かっているのだろうね」

胃のあたりを服の上から抑えながら呻く親友を、ニゼルはわざとらしい満面の笑みで見つめ返した。
お前の苦労と心情は分かるぞと言わんばかりに、一角獣は一人うんうんと頷いている。
天気は快晴、出立するならとてもいい気候だ。それに反して、一行の間に流れる空気は心地いいものとは言い難かった。
窓からはこの時期にしては暖かい風と陽光が注がれているが、どことなく室内に緊張の糸が張りつめていて、居心地悪く感じられる。
そんな中、思い切ったように席を立ち、ニゼルに続いて口を開いたのはアンブロシアだった。

「あの、材料集めを急ぐという意味ではわたしはニゼルさんに賛成です。ここはあくまで休息をとる為の町で、物資に限りがありますから」

わーい仲間が出来たー、などと呑気に笑うニゼルを藍夜がすかさず軽く睨みつける。羊飼いはどこ吹く風とばかりに、涼しい顔をしていた。

「俺もね、何も闇雲に出ようってわけじゃないんだよ。ここから先にある町は、小さいけどイシュタルにしては珍しい農村だっていうから」
「ニゼル、君、ずいぶんとこのあたりの地理に詳しいね」
「アー、なんか、羊やら牛やら飼ってるっていう地区の近くだって地図見てて気がついたみたいだから。ソレじゃない?」
「あっ、もー、琥珀。そんな事、いちいちここでチクらなくてもいいのにー!」

文字通り頭を抱えた藍夜を励ますように、アンブロシアが彼の肩にそっと触れる。効果は薄かったのか、元店主は喉奥で唸っていた。

「どのみち、サラカエルは向こうの準備が出来たら藍夜の気配を追ってくるだろうし。その間、俺達も出来るだけの事をしておこうよ」
「いや、いやね、ニゼル。その意見には僕も賛成なんだが、どうも君の嗜好と好奇心がだだ漏れしているように思えるんだがね」
「何言ってるの、藍夜。俺って元からこんな感じでしょ? ほら、そうと決まれば、日が暮れる前に移動しよう! 馬車も取らないとだし」
「エー、また馬車ぁ? ねえねえニジー、僕の背中の方が、」
「いけませんよ、アンバーさん。あなたは今、大事な体なのですから」
「ダイジナカラダ? うへ、何ソレ?」

咄嗟に口を挟んだといった風のラファエルに窘められ、琥珀は本気でわけが分からない、という表情を浮かべてみせる。
シリウスは派手に咳き込み、ニゼルと藍夜はつい顔を見合わせた。琥珀とアンブロシアだけが、分からない、と瞬きを繰り返している。

「分からない、のも無理はないだろう。しかし、今明らかにするのは余計な混乱を招く筈だ。ラファエル、ミカエル経由で馬の手配を」

意外にも、おかしくて堪らないとばかりに肩を震わせていたゼウスが、目尻の涙を拭いながら珍しくフォローを入れてきた。
むっと顔を引きつらせたニゼルを無視して、彼は懐から取り出した細長い札をラファエルに手渡し、口元をナプキンで優雅に拭う。
にこりと微笑む様から、ニゼル達の会話を、食事の合間に眺める鑑賞劇の一つとして楽しんで観ていたようにも見えた。

「ラファエル先生、その札は」
「ああ、ウリエル。これはミカエルの札だね、そうか……彼も無事でしたか、ゼウス様」
「普段は下がって貰っているがな。いや、しかし、事は急ぎなのだろう。そんな顔をしないで欲しいな、ニゼル君」

見れば、ニゼルの顔は嫌悪と侮蔑で大きく歪んでいる。藍夜は嘆息して、友人を宥めるように小さく頷いた。

「だって、なんか借りを作るのすら嫌なんだよねー。っていうか、いつまで着いてくるつもり? ストーカーなの?」
「ウリエル。君のご友人は、ずいぶんと辛辣なのだな」
「確かに、貴方に借りを作るのは僕達にとって好ましい事ではありません。ですが、僕もサラカエルの安否は気掛かりですから」
「ん? って事は、えー!? ちょっと藍夜、まさか本気でこいつに馬車を手配して貰うつもり!?」
「ニゼル。いつ琥珀の容態が変わるか分からないじゃないか、鷲獅子の方はサラカエルが把握していたとして、ヒッポグリフの周期までは」
「それはそうだけど……うーん、なんか、すっきりしないなあ……」
「目先の事ばかり気に病んでも仕方がないというものだよ。ヒッポグリフの生態はまだ不明な事も多い、用心に越した事はないさ」
「藍夜がそう言うなら。でも俺がこいつを嫌いだっていうのは変わらないからね? 馬車は二台に分けるとか、して欲しいくらいだよ……」
「ふ、困ったものだな。下心も兼ねて提案してみたのだが、これはどうやら挽回するまで、相当な時間を要するようだ」

結界を破り、カマエルからの干渉を弾くだけの手順を踏まえる。それだけを目的とするなら、決して急ぎの旅ではない。
しかし今回、ヒッポグリフ誕生までの妊娠周期は不明なままだという事を、多少なりと医学を齧っているが故に全員が把握していた。
いつ何時、琥珀の行動に制限が掛かるか分からない。ましてや、生物学に精通するカマエルがこれを放置しているとも考えにくい。
機会があれば誘拐もしかねないとゼウスは補足する。動けるときに動いておくべきだとする彼の意見に、満場一致とばかりに男達は頷いた。

「……ねえ、シア。さっきからニジー達、何の話してんのかなー」
「さあ、わたしにもよく分かりません。難しい話かもしれないですね。アンバーくん、わたし達は出立の準備だけ済ませておきましょうか」
「アー、そうだね、そうしよっか。なんか暇だし、お腹空いちゃったしね〜」
「ふふ、用意が出来たら、お菓子でも焼きましょうか」

やきもきする一行の気遣い、配慮などお構いなしに、鷲獅子と天使の娘は楽しげに笑い合いながら食事の片付けをし始める。
ああでもないこうでもないと言い争う男達と彼女らの背中を見比べて、シリウスは誰にともなく不安の溜め息を漏らしたのだった。






「――とか散々文句つけてたらこんな事になっちゃったけど。うーん、ま、いっか!」

ニゼルは実に機嫌よく、これ以上ないほどに明朗に破顔する。
つなぎ服に着替え、右手には農具のフォーク、左手には飼料をたっぷり詰め込んだ木製のバケツを携え、草原に胸を張って立っていた。

「……ニゼル、君ね、ずいぶんと機嫌が良さそうなものだね」

恨みがましい声を挙げたのは、同じようにつなぎ型の作業着に身を包む藍夜だ。牧草地の上、友人の横に並ぶ彼の表情はとにかく暗い。

「おかしいじゃないか、何故こんな事に……そもそも、僕達はカマエルの術を破る為の素材集めに旅に出た筈であって……」
「もー、しょうがないでしょ? 材料の一つに『自ら育てた成熟期直前の羊の生き血』なんてのがあるんだから」
「だからって何も、本当に住み込みで牧場勤めまで始めなくてもいいじゃないか」
「俺は大丈夫だよって言ったのに、心配だからって無理やり着いてきたのは藍夜でしょ? 生き物苦手なんだから、無理しなくていいのに」

むしろ俺の天職、ありがとう材料レシピ! ……そう言わんばかりにニゼルはにこにこしながら手を動かし、目前の乾燥牧草を纏めていく。
藍夜は頭痛がするとばかりに嘆息して、渋々といった体で友人に続いた。すぐ近くに羊の群れがいる為、彼の動きはどこかぎこちない。
オフィキリナスが健在だった頃、否、鳥羽夫妻が存命だった頃から、アルジル羊にもへっぴり腰で対応していた彼の事である。
餌やりでもしてみる? そう提案してみるニゼルだが、藍夜は勢いよく首を振り、断固拒否の姿勢を崩さないままでいた。
それでも着いてくるあたり、心配性だなあと呆れるところを通り越して、不憫にさえ思えてしまう。逆ギレされかねないので口にはしない。

「あー! やっぱり羊ってモコモコしてて可愛いなあ! もっと言うとお肉もミルクも美味しいし、言う事なしだよね!」
「ニゼル。君が動物好きなのは知っているがね、せめて後半の発言については、時と場所を選んで口に出したまえ」

……シリウスの事件が起きた件の宿場町を離れ、早くも三日が経過する。ニゼルの我が儘通り、馬車を分けた一行は順調に旅を進めていた。
途中で現れた分かれ道で、ラファエル、ゼウスらの馬車と別れ、ニゼル達は次の目的地となる町を目指し、北西の道を急ぐ事にする。
想像とはときに当てにならないものだ。着いた町は噂以上に農業が盛んであったらしく、そこら中から追肥の臭いが漂っていた。
とはいえ、季節は冬の入り口に差し込んだばかりである。収穫はその殆んどが終わりを迎え、町は冬支度に追われており、慌ただしかった。

『なんならいっそ一番時間の掛かりそうなやつ、ここで片付けちゃわない?』

親友が写してくれていた材料メモを手に、簡素な宿屋の窓から町を眺めていたニゼルがおもむろに口を開いたのが、つい先ほど。
気がつけば、彼は持ち前の口の上手さと営業スマイルを武器に早々と交渉を済ませ、手近な農場への仮採用を勝ち取ってしまっていた。
ニゼルの横で藍夜は頭を抱えるばかりだ。何せ、この牧場では秋のはじめから今に至るまで、羊の交配と出産を主な業務として扱っている。
日々の世話だけでいっぱいいっぱいな彼にとって、出産という貴重な現場に立ち会うという事は、最早苦行に近しいものがあった。

「ねえ藍夜、今日も一頭、分娩予定らしいんだけど……大丈夫? 顔色悪いよ」
「いや、ああ、大丈夫だとも。問題ないさ」
「どう見ても大丈夫には見えないんだけど……ほら、少し休んできなよ。もう少しで休憩時間だし」

しかしね、だがね、そうして言い訳を連ねる親友の背をぐいぐい手で押し、ニゼルは無理やり彼を休憩室へ突き入れてやる。
扉の向こうからうだうだと何かを主張する声が聞こえたが、あえて聞こえないふりをした。そうして早速作業に戻ろうとしたところで――

「……ご友人さんはだいぶ、動物が苦手のようですね」

――苦笑混じりの柔らかな声が、ニゼルの耳を打つ。振り向くと、ニゼル達と同じ作業着に身を包んだ穏やかな表情の青年と目が合った。
冬空に似た、綺麗な水色の瞳をしている。彼は、この牧場に跡取り候補の一人として養子に迎えられたという一従業員だった。
最初に作業を教えてくれたのが彼だという事もあり、ニゼルは慌ててお辞儀する。そんな構えなくてもいいですよ、青年は朗らかに笑った。

「ニゼルさん。どうです、仕事は順調ですか。何か、困っている事はありませんか」
「えっと……あはは、何も困ってないです。空気は美味しいし、まかないは美味しいし? 最高です」
「ふふ、正直な人ですね。けど、ご友人さんは心配ですね。無理をしても、羊達には伝わってしまうのですが」
「あー、藍夜は昔から生き物苦手で。本人は好きみたいなんですけどね。ビビりというか」
「ビビり、ですか。それは大変ですね」

苦笑ばかり目立つ彼だが、どちらかといえば親友に対して同情的なのだとニゼルは認識している。羊飼いは、この青年が嫌いではなかった。
羊達への扱いは優しく丁寧で、その聡明な眼差しは慈愛に満ちている。それでいて、家畜と牧場という関係性に割り切りを持っていた。
老齢の羊が町の屠畜場に連れられていく時、彼は自ら荷台に乗り込む家畜の背中を、目を逸らす事なくしっかりと見送るのだ。
不思議な雰囲気を持つ青年だと、ニゼルは思う。考えていた事が顔に出ていたのか、次の瞬間、気付けば彼と視線がはっきり重なっていた。

「あ、あはは。あの、先輩は、羊の事大好きですよね。他の人よりずっと優しい目で見守ってるから、特にそう思います」
「ありがとうございます。そう言って頂けると、とても嬉しいですよ」
「先輩は羊のどういうところが好きなんですか。俺は、可愛いから、ですけど。やっぱり忠実なところ?」

出会って数日しか経っていないのに、ここまで馴れ馴れしく話しかけられては困るだろうと、ニゼルはどうでもいい質問を投げてみる。
意外にも、青年はそうですね、と本気で考え込み始めてしまった。悪い事をしたと内心冷や汗を掻いていると、彼は困ったような顔で笑う。

「古来より、羊というのは鈍感というか逆に賢いと見るべきか……屠殺される事を分かっていながら、自ら進んで連れられていく生物です。
 その様子が、生け贄の羊という宗教的な面から重宝されていたのでしょうが……産まれた時から見ていますから、別れは辛いものですね」
「えっと……あの、本当に帝国生まれの帝国育ち、なんですか。もしかして、何かを信仰されていたりとか」
「分かりますか。わたしは元は、北方の異民族から外れた血筋なのです。行く宛もなく放浪しているとき、ここに流れ着きました」
「あの……失礼ですけど、跡取りになる為の養子、なんでしたっけ」
「初めは日銭を稼ぐ為に勤めていましたが、跡継ぎがいないと泣かれて……畑や牧場をするなら、王国の方が遙かに環境がいいですからね」

イシュタル帝国の主な産業は、縫製、鉄道や鉱石加工といった工業、鉱業が大多数であり、農業や牧畜業は減少傾向にあるという。
その為、サンダルウッド王国に似た産業で成り立つ小規模都市は淘汰されるか、大きな街に吸収される事が殆んどなのだと聞いていた。
特に、牧畜は日々の手入れが重労働という事もあり、跡を継ぐ者は激減している。手慣れた王国側の移民を使うのも、苦肉の策なのだろう。

「わたし自身も、減り続ける牧場を残していきたいと思いまして。今は、血も繋がらないわたしに良くしてくれる養父達に感謝しています」
「そうですか。えっと、北方の異民族っていうと、信仰心の厚い……タソガレ族、の事ですよね?」
「難しい言い回しをご存じですね。正しくはトワイライトですが数も減りましたし、先祖が信仰していたのは古い神話だそうですから」
「親友のご両親が考古学というか、そういうのに詳しくて。移動しながら牧畜で生計を立てていた少数民族だって聞いてます」
「わたしの祖先が故郷の平原を離れたのは、相当昔の話だそうです。天涯孤独となったわたしの身では、詳しい話は出来そうにないですが」

イシュタル帝国の民の中は、古い時代から続く諍いを引きずり、サンダルウッド王国や神話の類を毛嫌いする者もいるのだと青年は続けた。

「わたしが王国側の移民の血を引いているなんて知られたら、養父達に迷惑が掛かりますから。この話は、ここだけにしておいて下さいね」
「そんな、それってご先祖様の話なんじゃ。先輩は関係ないですよね?」
「ニゼルさん。そう捉えて下さらない方も、帝国上部には多くいらっしゃるものなのですよ。さ、そろそろ畜舎に向かいましょうか」

一言で「羊飼い」と言っても、場所によっては様々な事情が絡んでいるのだとニゼルは知る。
自身のアルジル牧場は、そういった意味ではとても平穏な職場だったのだと、改めて再発見する事が出来た。
水色の瞳の羊飼い。自分とは、纏う空気がまるで異なる好青年。穏やかな笑みは、どこか治癒の天使に通じる雰囲気がある。
遙か彼方、ニゼル達が過ごした王国側の民を祖に持つと打ち明けてくれた彼の横顔は、心なしか軽いものに変化していたように見えた。

「あ、先輩、藍夜は……」
「現場、というか血を見せたら今度こそ失神されるかもしれませんからね。養母が来てくれますから、わたし達はその補助を」
「あはは、ですよね……」

生命の誕生の瞬間、といえば聞こえはいいが、動物の世話でびくびくしている親友の心臓には毒かもしれない。ニゼルは素直に頷き返す。
清潔な作業着を重ね着し、消毒剤の染み込んだ床材で靴底を洗浄して、分娩専用の個室へ向かった。すぐに苦しげな鳴き声が聞こえてくる。

(琥珀も、もしかしたらいつかこうやって……ああ、そっか。あの子、初産って事になるんだよなあ)

家業で経験していた為、ニゼルに戸惑いや焦りはなかった。指示されるまま的確に動き、出産の補助を手伝う。
生臭い特有の臭気と緊張感、屋内に籠もる熱、めい羊の苦鳴。足に力を入れ、青年を中心に目を逸らさず作業に没頭した。
その甲斐あってか、子羊は予想したよりずっと早い時間で生まれ落ちる。思わずあっと声を出し、青年と笑みを交わし合っていた。
今回の分娩はとてもスムーズで素晴らしかった、まさか経験者ではないのか、そう牧場主の夫妻に誉められ、思わず鼻が高くなってしまう。
片付けを済ませ、心地よい疲労感に満足しながらるんるんと鼻歌混じりに畜舎を出ると、外には美しい夕焼けが広がっていた。

「おおー。本当に、文字通りの『トワイライト』だー」

世界が橙色に輝く様は、親友より預けられたロードの灯によく似ている。思いきり深呼吸し、冷たい風と乾いた草の匂いを肺に送り込んだ。
薄い青がオレンジに塗り替えられていく。ニゼルはふと、あの青年の髪は、この夕暮れ直前の陽光、橙混じりの金色なのだと思い出した。
言葉では表現し難い、綺麗な配色だとしみじみする。とはいえ、俺は藍夜の方が格好いいと思ってるけどねと、くるりときびすを返した。

「ニゼルさん。今日はもういいですから、ご友人さんと入浴されてきてはどうですか」
「え? でもまだ、片付けが」
「もう、わたし達家族で片付けられる量ですよ。明日も早いですし、それに、その汚れは……」
「汚れ? あ、そっか。俺、べとべとのままだった」
「ふふ、ご友人さんには事前に養母が着替えとタオルを持たせたそうですから。町にしか銭湯がないのが不便ですが、どこも立派ですよ」
「そうですか、うわぁ、ありがとうございます! じゃあ、ちょっと行ってきまーす。お疲れ様でしたー!」

振り向いた先、あの羊飼いがにこりと和やかな笑みを見せる。愛想笑いを返した後、ニゼルは勧められるままに牧場入り口に急いだ。
親友ならこの姿を見るなり、失神、否、早く風呂に入れと激怒してくるかもしれない。その表情を想像しただけで笑いが込み上げてしまう。
藍夜の背中は、すぐに見つけられた。背丈の低さもあるが、何より見慣れた後ろ姿が目の前にある事に、ニゼルは心底ほっとする。

「遅いじゃないかニゼル……って、君、その姿はまさか……」
「ふふふー、藍夜が言い訳してる間にぜーんぶ終わらせてやったもんね。いい腕前だって誉められたよー」
「くっ、僕だって本気を出せば……って、そうじゃない! 君、そのままでは臭いが染み込んでしまうだろう。ほら、早く、急ぎたまえ!」
「はいはい、分かってますよー」

牧場に使用を勧められた温泉宿には、琥珀とアンブロシアを待機させてあった。仕事が片付き次第、そこに戻っていい手筈になっている。
ニゼルと離れた後、仕方なく場内の清掃に勤しんでいたと言う親友もまた、泥や埃、牧草くずでなかなかに汚れてしまっていた。
互いに眉根を寄せ、次いで噴き出し、二人並んで帰途につく。夕焼けの空には、既に暗い夜色が差し込み始めていた。

「いやー、久しぶりに羊に触ったー。満足、満足!」
「そう言うがね、明日も仕事だよ。分かっているのだろうね」
「もちろん、分かってますよー? 俺は、生き物全般可愛いなー派だから」
「なんだろうね、ずいぶんと舐められた発言を受けたような気がするが。気のせいかな」
「藍夜だって初日からすっごく頑張ってたじゃない。ねえ、明日くらいから材料にする子羊、どの子を貰うか考えなきゃね」
「ああ……それも、そうだね」

町に着くと同時、二人は食堂には目もくれずまっすぐに宿に向かう。鳥羽藍夜の将来の夢は別として、双方共に、風呂は大好きだった。

「ご飯食べたら、アンと琥珀に今日のおみやげ買ってってあげなきゃねー。あー、それにしても、いい湯だなー!」
「ニゼル、明日も早いのだからね。それにおやつなら、アンブロシアが自費で用意している筈というものだよ」

湯煙に囲まれながら、至福のひとときを味わう。しばらくは大好きな稼業に携わる事が出来るのだと、ニゼルは幸福な気持ちで構えていた。
橙混じりの金の髪、冬空に似た水色の瞳――あの牧草地に立つ青年羊飼いの背に、うっすらと透き通る大翼がある事には、気付きもせずに。





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 UP:19/01/03