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楽園のおはなし (2-20)

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鷲獅子が身籠もるか、一角獣の精が尽きるか。そのいずれかで、シリウス達は落ち着きを取り戻す筈だとゼウスは口にした。
曰く、途中で遮るような真似をすればカマエルの術がどう抵抗していたか予想がつかない、放置しておいた事は正解だったのだ、と。
……信用出来ない、そう言いたげに口を閉ざす藍夜やサラカエルを横に、ニゼルは彼の助言でラファエルが纏めたという巻物を眺めている。
一通り眺めてみるが、読めたものではない。まるで、羊皮紙の上でミミズ達が軽快にダンスしているように見えて仕方なかった。
少し面白い妄想だよね、と自画自賛してしまう。
中身については腰に下げたロードか、親友の知識を借りれば翻訳自体は容易だ。しかし、大神の前でそれをするのはなんとなく癪に思えた。
アンブロシアが宿の従業員に頼んでおいたという軽食を視界の端から差し出してきたところで、意識が室内に戻される。
瞬きしながら娘を見上げるニゼルに、アンブロシアは困ったような笑顔で食事を摂るように勧めた。

「ニゼルさん、根を詰めすぎても、あまりよくありませんから」
「アン……あれ? 俺、そんなにぼーっとしてた?」
「もう三の刻を過ぎてますよ。ゼウス様のお話の通りなら、サラカエルさんの仰るようにしばらく泊まり続けになると思いますから」

要約すれば、時間はたくさんあるのだから休息も必要だ、そういう事らしい。
俺なら十分すぎるくらい休んでるんだけどなー、その一言を飲み込んでサンドイッチにかぶりつく。
娘が言付けたのか、中には羊肉のハムがたっぷりと挟まっていた。だめ押しとばかりに野菜の端から羊乳チーズがはみ出している。
帝国入りしてからというもの、酪農品に縁がなかった。噛みしめるように堪能していると、頭に何かが降ってくる。サラカエルの手だった。

「んぐ、ふぁらふへふ」
「やあ、飲み込んでから喋りなよ」

片瞳が瑠璃色をしている。殺戮は瞳術を使い続けていたようだった。親友と逆の瞳が輝く様はなんとも新鮮で、より神秘的に見えてくる。

「転移術の材料については、満月を待たなければいけないものがいくつかあった。ま、それは移動しながら用意するとして」
「何? 改まっちゃって」
「話は最後まで……いや、いいさ。ところで、君はこれからどうするつもりなのかと思ってね」
「どう? っていうと?」

サラカエルは声を潜めた。眉根を寄せるニゼルの耳に、彼の囁きが注がれる。

「(鳥羽藍夜の寿命は心許ない。ガブリエルは、あの子の死期についてまでは言及しなかった)」
「(あの子って……けど、藍夜だよ? シリウスは自己責任だって言うかもしれないけど、琥珀の事は黙ってないんじゃないかなあ)」
「(なら君も鳥羽藍夜も、当然のようにカマエルへの報復に赴くつもり、と。そういうわけだ)」
「報復って……えっと、俺が思うに、カマエルがシリウスに関わってた、ちょっかいかけたっていうなら、放っておくのは危険な気がする」

藍夜の咎める視線が刺さった。ニゼルはさらりとそれを受け流すが、それを見逃してくれるほど親友は大らかな性格をしていない。
藍夜はつかつかと歩み寄ってくる。うわ、やばいかも――そう思いながらも、ニゼルは殺戮の問いかけに答え続けた。

「あくまで俺の予感、だけどね。でもシリウスに悪さをしたなら、シリウスが故郷に残してきた妹さんも危ないんじゃないかなーなんて、」
「ニゼル! 君ね、また危険な案件に首を突っ込むつもりでいたのかい」
「えー、じゃあ藍夜はカマエルを放っておくの? もし俺が実験台にされでもしたら、ちゃんと助けに来てくれる?」
「何を言っているんだい、君は。当然助けるに決まっているじゃないか、命に換えて探し出してみせるさ。僕を見くびらないでくれたまえ」

これではまるで告白だ。ニゼルが赤面するのと同時、サラカエルは大げさに嘆息し、アンブロシアはよく分からないまま拍手喝采している。

「ふ、実に美しい友情じゃないか。そう思わないか、ラファエル」
「お言葉ですが、ゼウス様。煽るのはどうかおやめ下さい」

唯一賛同しない治癒の天使。彼の物言いたげな表情を、大神は椅子に腰掛けたまま苦笑混じりに見上げた。
ラファエルにとって鳥羽藍夜とはかつての弟弟子ウリエルであり、彼が殺戮の天使以外と親しくする様は複雑以外の何物でもないのだろう。
こういった現象を、ヒトの世では「あちらを立てればこちらが立たず」といった筈だと、ゼウスは一人納得していた。

「……今は二頭とも寝静まったみたいだね。どうするウリエル、様子でも見に行くかい」
「いや、少しばかり休ませておこう、サラカエル。目覚めた後でどうなるか、まだ分からないのだし」
「わーい、じゃあこのままだらだらしてていいって事だよね? ねえ藍夜、どーせサラカエルの部屋なんだし、ご馳走でも頼んじゃおうよ」
「すみません、ニゼルさん。一応、僕の部屋でもあるという事をお忘れなきよう、お願いします」

消え入りそうなラファエルの声に、一同は顔を見合わせて笑う。全てはこれから、焦っても仕方がない……誰もが、その心積もりでいた。

「――諸君。盛り上がっているところすまないが、満月を待つより以前に、結界破りの材料として厄介な素材は他にもあった筈だが?」

空気に糸を張らせたのは、満面の笑みと、有無を言わせぬ重圧の籠もった声。皆、一斉にインディコールを見る。
確かに、大神はにこにこと笑っていた。しかし、その顔には明らかに気に入らないと言わんばかりの不快感が浮いている。
「馴れ合いはそこまでだ」、そう諭されたような気がした。 彼の機嫌がそこまで傾く理由がまるで分からず、ニゼルはつい顔をしかめる。

「材料って。え、何? そんなに面倒くさいのもあったりするの?」
「話していないのか、サラカエル。ふ、呆れたものだ、人間界に慣れ親しみすぎて、腑抜けたか」

羊飼いが親友、次いで殺戮に視線を投げると、二人は揃って口を閉じていた。本当に対の存在なんだなあと、妙なところで感心してしまう。

「うーん。えっと、サラカエル?」
「……やあ、なんでそこで僕に振るかな」
「藍夜は絶対教えてくれないだろうなー、と思って。そんなに面倒くさいの?」
「面倒というほどでもないけど、手間がかかる、くらいかな。この不快な旅仲間の集まりから、一時離脱しなきゃいけない程度には」

要は手順が厄介なのだと、殺戮は首を傾げた。今度こそ面白くない、と顔を歪め、ニゼルはゼウスに非難の目を向ける。
大神はくつくつと意味深に笑い、羊飼いを見上げた。ニゼルの目には、彼の青瞳に差す黒の色合いが、一瞬濃くなったように映る。

「カマエルの恐ろしさというのは、その執念深さと警戒心の強さにある。それを打破し、かつ新たな結界で逃走されないように組んだ術だ。
 一度逃がしてしまえば、当分は捕捉する事が出来なくなるだろう。星の民の里の件、急ぎなのだろう? 迷う暇はない筈だ、サラカエル」

何故、殺戮の天使ばかりを指名するのか。ニゼルにはそれが理解出来ない。
しかし、サラカエル自身にはゼウスに睨まれる理由に思い当たる節があるらしい。殺戮は、苦いものを噛んだような顔を浮かべた。

「……ま、仕方ないか。しばらくの間、この間抜けを頼んだよ、ウリエル」
「え、うそ、本気? どこ行くの、サラカエル」
「僕くらいしか対応出来ない案件だからね。出来るだけ早く戻るようにするけど……人間風情は、せいぜいいい子にしているといい」

ニゼルの手から巻物を奪い取り、懐から取り出した数枚の羊皮紙に万年筆で何事かを書き込むと、サラカエルはあっさりと背を向ける。
見慣れた背中に、夜色の四枚翼が広がった。本当に材料集めに行ってしまうつもりでいるらしい。ニゼルは思わず、翼を掴んで引き留める。

「何?」
「えっ、あっ、いや、その」

考えてみれば、シリウスの故郷に乗り込む気満々でいるのは自分くらいのものだ。振り向いた殺戮の視線には、何の温度も含まれない。
もごもごと口ごもる羊飼いに、天使はわざとらしく嘆息した。また嫌みでも言われるのか、そう身構えた瞬間、額を指で弾かれる。

「僕抜きでウリエルと過ごす貴重な機会だろ。いざという時は、護符越しに喚べばいいさ」
「なっ!? ちょっと、人を子供みたいに!」

言い終えると同時、サラカエルの姿は消えていた。ぽかんと口を開けて固まるニゼルの肩を、藍夜が軽く叩いてくる。

「ニゼル、僕達は僕達で用意出来るものを確保しに向かおう。合流した後、すぐ動けた方がサラカエルの手間も省けるだろうからね」

悔しそうな、或いは泣きそうな顔で振り向く羊飼いに、親友は肩を竦めながら苦笑を返した。
俺、いつからこんなにサラカエルに懐いちゃったんだろう……胸の内のもやもやを悟られまいと、ニゼルは力強く頷き返す。

(高位天使、カマエル、か)

シリウスに手を出し、彼の故郷に何らかの形で関わる謎の存在。材料集めと同時に情報も集めておこうと、まずは自身の鞄を手に取った。
見れば、藍夜は以前自分が贈ったアルジル羊毛製のカーディガンをしっかりと羽織っていて、準備万全といった体だ。
アンブロシアに騎獣達の様子を見守るよう頼み込んで、二人は巻物を手に慌ただしく部屋を出る。
ラファエルが何か言いたげな顔をしていたが、双方が気がつく事はなかった。






思い返せば、親友と観光を楽しむのは初めてだ。観光、などと呑気な事を言えた状況でもなかったが、ニゼルは本心ではわくわくしている。
ホワイトセージ、サンダルウッド王国の外の世界。忙しなく行き来する旅人や馬車、商人達の呼び込み、出店に並ぶ軽食やお菓子の匂い。
帝国入りしていたといっても、同行していたのは琥珀、時々サラカエル、後にシリウスだ。藍夜と二人きりで歩くのは久々だった。
喜びが顔に出ていたのか、それとも歩調が速まっていたのか。ニゼルの耳に、不意に親友の咳払いが飛んでくる。

「ニゼル。君ね、状況というものは理解しているのかい」

相変わらず真面目だなあと感心してしまった。誤魔化すようにへらりと笑い返し、成人男性にしては小さな彼の手を取る。

「ねえ藍夜、こうやって二人で出歩くの、久しぶりじゃない?」
「それはそうなんだが、いや、答えになっていないよ」
「うーん。そりゃ、琥珀達の事は心配だけど。でも旅に出てずっと働きっぱなしだったし、ちょっと休憩ってタイミングなんだよ、きっと」
「働きっぱなし……ニゼル、僕が来るまでの間、もちろん君も働いていたのだろうね? そもそもだ、君が僕の貯金を持ち去ったから、」
「うわ、あはは。ほら藍夜、材料! 材料集めしよう、ねっ?」
「全く反省するつもりがないようだね。後で覚えておきたまえ」

貴重故入手困難なもの、手間の掛かるもの、時間を要するもの。それらは殺戮の天使が集めてくる筈だと、藍夜は巻物を広げて肩を竦めた。
何故分かるのかと聞いてみると、自分ならそうするからだと返される。こういったお人好しな面も、対天使ならではなのかもしれない。

「イシュタル帝国では、薬草は加工されてから市場に出回る。ハーブ類こそ、探すのに骨が折れる品かもしれないね」

自身が好むローズマリーをはじめ、セージ、ヨモギ、イラクサなど、ニゼルもよく知る香草も素材として羅列されていたと親友は話した。
言われて初めて気付く。町中にはそれらを陳列する店はどこにもなく、また路傍には申し訳程度に街路樹が植えられているだけだった。
極端に緑が少ない。本当に外国に来たのだと、改めて実感する。ホワイトセージや牧場で過ごした身からは、馴染みようのない風景だった。

「なんか……当たり前なんだけどさ、すっごく遠くに来ちゃったね」
「ニゼル」
「あはは。父さんと母さん、元気にしてるかなあ」

軽い気持ちでぼやいた瞬間、ニゼルはぎょっとする。親友が手を強く握り返してきた。いつもの彼からは想像出来ない、強い力だ。

「ニゼル。僕は、あの一件で暁橙を亡くした。君はいつだって会いに行く事が出来るじゃないか。楽にしたまえ、その時は僕もつきあうさ」
「藍夜……」
「確か、もう三の刻も過ぎていたのだったね。少し休憩しようか」

宿を出て少ししか歩いていない、それほど藍夜の体力は落ちてしまっているのだろうか。ニゼルは言われるままに近くのベンチに腰掛ける。
親友は、自前の財布を開いて中を確認すると、飲み物でも買ってくるから待っていたまえと言い出した。どこまでいってもお人好しだ。

「ハーブティーは難しいだろうが、紅茶くらいなら手に入るだろう。君はサラカエルの紅茶の方が好みかもしれないがね」
「? そんなこだわらなくても。俺、なんでもいいよ? なんなら、なくても平気だし」
「察してくれたまえよ。何が悲しくて男二人でデートを堪能しなければならないんだい。しかも理由が仲間が宿で盛っているからだなんて」
「ああ……うん、それもそうだね……」

二人はしばらく遠い目をして、この無情な時間を噛みしめた。近くから聞こえた鳥のさえずりに我に返り、親友は苦笑して買い物に向かう。
俺は藍夜とデートするの楽しいけどなー、俺って考え方がまんま女子だなー、一人足をぶらつかせながら、ニゼルはぼうっとしていた。

(えっと、なんだっけ……シリウスの妹さんに、カマエルのところに行く準備、それから琥珀の具合看て……あー、藍夜が来てから考えよう)

「面倒くさい」、それが正直な感想だったが、流石に親友の前でそんな事は口に出せない。
そもそも、今のところ自分への実害はないのだ。ゼウスといういけ好かない厄介者が宿にはいるが、無視していればやり過ごす事も出来る。
騎獣達やサラカエルの事は気掛かりだが親友はいつも通りだし、アンブロシアの忠告そのまま、考え込むのも体に毒だと思い始めていた。
何も気にせず、一人きりの時間を堪能していたのだ。足を投げ出し、背伸びまでする。これといった注意や警戒など、していなかった。

「……あれ?」

そうしてニゼルは硬直する。目の前を、ある人影が通り過ぎた。ゆらりと空気が揺れ、周囲の喧騒は遠のき、それの姿に目が釘付けになる。
周りとて、ニゼルと似たような状態に陥っていた。ある者は腰が砕けてその場に座り込み、ある者は頬を染め抱えていた荷を取り落とす。
あらゆる存在が、音もなく現れたその人物に見とれていた。年端もいかない子供や皺だらけの老婆、野良猫さえも足を止めてしまっている。
歩く度に揺れる柔らかな髪、弧を描く唇、優雅な物腰、同性から見てもうっとりするほど魅力的な青年。それは、不意にこちらを向いた。

「――こんにちは」

それは恐ろしいほど魅惑的な声色と共に、羊飼いの前に立つ。殺戮の天使とは比べものにならない人好きのする微笑みが、ニゼルを見た。
ニゼルはぽかんと呆けた顔でそれを見つめる。はたと我に返ると同時、思わず左右に首を振り、周囲を確認してしまっていた。
本当に「これ」は自分に声を掛けたのか。人違いではないのかと動揺させられるほど、それは人間離れした魅力と存在感を持っている。

「ふふ、君に声を掛けたんだよ、ニゼルさん」
「え、俺、名前……あれ? どこかで……」

黒い髪、黒い瞳、黄金比を元に創り出されたかのように整った肢体。妙に惹きつけられる笑みを見上げて、ニゼルはあっと声を上げた。

「君、前にオフィキリナスに来た人だよね!? ほら、藍夜達がいなくて、ホワイトセージの……あの日……」

忘れられるわけがない。凄惨な悲劇のあった日。麓の街や自身の牧場、愛した羊達が何者かの手で全滅させられた、ホワイトセージの変。
ようやく思い出したのだ。あの日、親友達の言いつけで骨董店オフィキリナスに一人残されていた自分が接触した、黒塗りの青年。
彼が全ての原因とは断定出来ない。しかし、喰天使が言い放った「ろくでもないもの」、それが彼を差しているような気がしてならなかった。
今、その張本人が目と鼻の先に立っている。どうしてすぐに思い出せなかったのか……思考した瞬間、羊飼いははっと息を呑んだ。
青年は、寂しげに微笑んでいる。あの日、あの時、あの場所で。彼はそのようにして、ニゼルの前に現れていたのだった。

「あの日……僕は君に会いに行ったんだ。トバアイヤの骨董店へ、君に会うその為だけに」
「あの日……俺、君に会えたらずっと聞こうと思ってたんだ。どうして泣いてたのかって」

黒塗りの青年は、あの日と同じように悲しげに顔を歪める。二の句を飲み、ニゼルはただただ彼を見上げた。

「……この町は『まだ大丈夫だから』、本当は僕なんかがここに在るのは間違いなんだ。けれど、どうしてもお礼だけは言っておきたくて」

長い沈黙の後、青年はにこりと元通りに微笑む。何故か彼に無理をさせているような気になり、ニゼルは殆んど反射で立ち上がっていた。
黒瞳がこちらを見ている。真夜中の空よりもずっと暗い色のそれは、いつの日か迷い込んだ冥府の河の水面を貼りつけたようだった。

「お礼って……なんの?」
「君が、君達が僕の大切なひとを助けてくれたお礼だよ。彼女は僕の妻なんだ、正確には、今は半分だけど」
「奥さん? 半分って、それどういう意味?」
「それは……ああ、でももう時間だ。そろそろトバアイヤが戻ってくる。行かないと」
「え、あの、待ってよ。ねえ、君は一体っ、」

どこからか、獣の――野生の狼によく似た唸り声が聞こえる。その瞬間、町中を突風が疾駆した。とても目を開けていられず、顔を逸らす。
気付いた時には、ニゼルの前から黒塗りの青年は消えていた。跡形もなく、それこそ夢でも見ていたかのように、何の痕跡も残っていない。
呆然と、彼のいた場所を見つめる。この感覚にニゼルは覚えがあった。「初めて会った気がしない」、そういった直感、既視感だ。

「誰だったんだろう。あのひと」

前回の涙、今回の寂しげな表情。それを目の当たりにしただけで、胸が締めつけられそうになる。
彼は確かに自分に会いに来たのだ。自分自身を「僕なんか」と卑下し、今にも泣き出しそうな顔で、恐らく最大限の勇気を振り絞って。
俺は何も分からないのに、覚えてもいないのに……ニゼルはぽつんと立ち尽くした。気がつけば、再び世界に日常が戻されている。
ざわめき、ヒトの行き来、喧噪、夕暮れ前の僅かに慌ただしい時間。身近な光景である筈のそれらを呆然と眺め、羊飼いは拳を握りしめた。

(きっと俺は、何か大切な事を忘れているんだ)

それが何であるのか、未だに気がつけないまま――

「――ニゼル。君は、わざわざ立って待っていたのかい」
「! 藍夜……」

湯気を立てるカップを手に、小走りで駆け寄りながら親友が声を掛けてくる。あの青年の言葉通り、本当にすぐ戻ってこられて驚きだった。

「どうかしたのかい。ゆうれ……いや、とにかく、悪い夢でも見たように顔が真っ青だよ」
「え、そうかな。普通だよ?」
「いいから、早くそこに座りたまえ。ほら、紅茶ならあったから、冷めないうちに」

言われるままにカップに口を付け、安物ならではの香りを楽しむ。見れば、隣に座った藍夜も、渋々といった体で紅茶を啜り始めていた。
温かい液体が喉を通る度、横から親友の顔を見つめる度に。不思議とあの黒塗りの青年の切なげな顔が、記憶の中から薄れていく。
……自分が酷く薄情な気がした。それでも藍夜がこちらを向き、いつものように肩を竦めてくれるのを見るだけで、ほっと安心してしまう。

「ねえ、藍夜」
「なんだい、ニゼル」
「あー……ううん、なんでもない。ねえ、琥珀達、いい加減落ち着いてくれたかなあ?」
「さて、どうだろうね。最も、カマエルの件が落ち着き次第、二人にはしっかりと反省して貰うつもりでいるがね」
「あはは、やっぱりお説教は譲れないんだね」
「当然だろう。それよりニゼル、これを飲んだら僕達も材料集めを再開させておこうじゃないか。日暮れ前には宿に戻っておきたいからね」

ふと、目の前に手が差し伸べられた。見上げた先、手の主である親友は、苦笑混じりに微笑んでいる。
あの黒い青年とは違う笑い方だ――また胸が締めつけられた。頭を振り、ニゼルはうんと手を伸ばし、親友の色白の手を掴む。
「今は、自分に出来る事をすべきだ」。引っ張り上げてくれた鳥羽藍夜の顔にそのような事が書いてあるような気がして、一人頷き返した。

(あのひとには……きっと、またどこかで会える気がする)

親友の後を追う。生身の人間が関与出来る範囲を既に脱している状況である事など、ニゼルにとっては些細な問題に過ぎなかったのだ。





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 UP:18/12/25