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楽園のおはなし (2-18)

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「……えっと……大丈夫? シリウス、ナハト」

目が覚めた後、迎えにきた馬車に乗り込む直前。ニゼルはのそのそと緩慢な動きで付いてくる二人に、そう声を掛けた。

「ああ……大丈夫だ」
「……別になんて事ないさ」

前者シリウスは昨日と打って変わり、一見からして体調不良である事が分かる。額から脂汗を大量に流し、息も絶え絶え、顔色も青白い。
後者サラカエルは、目の下にくまを作っていた。不機嫌そうな表情に、意識は散漫、何故か周囲に忙しく視線を這わせ続けている。
不安そうに二人を見つめるニゼルだが、サラカエルはそんな彼の背中を片手で強引に押し、馬車に乗り込ませようとしていた。
シリウスの方は、駆け寄った琥珀が肩を支えてやっている。治癒の依頼か、アンブロシアと一言二言を交わしてから、鷲獅子は目を伏せた。

「どこをどう見ても、大丈夫そうには見えないのだがね」

まとめ役である藍夜が呆れたように嘆息する。御者も同意見であるらしく、台に座らず、こちらの様子を伺うように馬を撫でてやっていた。
彼が迎えにきてくれたのは、今から数分前の事。仕事の都合もあるだろうからと、藍夜はアンブロシアにさりげなく目配せする。
天使の娘は、はじめはラファエルの姿を探すようにあたりを見渡していたが、やがて諦めたように藍夜達を見つめ返し、首を左右に振った。

「ウリ……鳥羽藍夜。同じ町に長く滞在せず、早く次に移動した方がいいと思うけどね。治療なら移動中にでも出来るだろ」
「そうは言うがね、ナハト。どう見ても君も本調子じゃないだろう。いつ何時、何があるか分からないのだよ。回復の方を優先するべきだ」
「だけどね、」
「あのー……お客さん、どうします? 出発はキャンセルで宜しいですか」

殺戮は間に入ってきた御者をぎろりと睨みつけたが、彼は彼なりに気難しい客に慣れているようで、にこりと愛想笑いを浮かべてみせる。
年輩の、気のよさそうな老人だ。早朝からご迷惑を、と藍夜は簡単に詫びて、キャンセル料と手間賃を合わせた銀貨十数枚を手渡した。
彼がケチケチせずにすんなり料金を渡した事に驚き、ニゼルはまじまじと親友を見つめてしまう。藍夜はわざとらしく咳払いをしてみせた。

「さて、馬車はこれでいいとして。ニゼル、僕は先ほどの宿に再宿泊の依頼を出してくるから、サラカエル達の様子を見ていてくれないか」
「うん、分かった。ねえ、藍夜。ついでにラファエルも、」
「もちろん、探してくるとも。ラファエル先生に限って、黙っていなくなられるとは考えにくいからね」
「昨日は今日の支度を、って言ってたのにね……出来るだけ、早く戻ってきてね」
「ああ、任せたまえよ」

足早に宿に向かう親友の背を見送り、ニゼルは小さく溜息を吐く。次いで、きっと後方を睨み、つかつかと問題の二人の元へ歩み寄った。

「ニゼル=アルジル……」
「ニジー……ねえ、ケツの事怒んないでやってよ。夜のうちから熱が出て、寝られなかったみたいなんだよ」

涙目で訴えてくる琥珀に頷き返し、一角獣の額に手を当てる。なるほど、確かに酷い熱だ。
そもそも額に角を持っていながら、シリウスは触れられる事に抵抗さえしなかった。それだけ具合が悪いのだろう。

(穢れに弱い生き物っていうし……昨日、俺達から離れた時に血とか知らずに触っちゃった、とか?)

うーんと考え込みながら、同時にアンブロシアに視線を投げる。娘はニゼルの目線に気が付くと、しゃきっと姿勢を正して見せた。
不機嫌を隠しもしないサラカエルから引き離すように、ちょいちょいと手招きする。駆け寄ってきた天使の耳元に、ニゼルは口を近付けた。

「(ねえ、アン。シリウスとサラカエルの治療って、出来そう?)」
「(あの、シリウスさんの方は当然します。でも、原因が分からないですから……すみません)」
「(謝らなくていいよ。えっと、サラカエルは?)」
「(その、言いにくいんですけど、シリウスさんのように体が弱っていらっしゃるわけではないようですから。恐らくは寝不足、かと)」
「へ? 寝不足? サラカエルが!?」

じろりと、殺気を乗せた視線が飛んでくる。言わずもがな、サラカエルが敵意剥き出しの目で二人を睨んでいた。
肩を跳ね上げるアンブロシアを庇うように、ニゼルは彼女を背後に回す。歩み寄ってきた殺戮は、常の人好きのする笑みを浮かべた。
……怖い、めちゃくちゃ怖い。愛想笑いを浮かべるニゼルだが、どうしても口端は引きつってしまう。

「やあ、今、僕が寝不足どうこうと聞こえたんだけど。気のせいかな」
「え? そう? き、気のせいじゃないかなあ」
「あの、サ……ナハトさん。もしかしてあなたは、この旅の間、ずっと休まれていないんじゃないですか」
「えっ!? まさかそんな、そうなの?」

図星なのか、サラカエルは長い溜息を吐いた。

「僕は天使で君は人間だろ。体の構造、休息を要する条件、何もかも違うんだからそこまで気にされる謂われはないよ」
「でもアンは食べたり寝たりしてるし」
「アクラシエルと一緒にしないで欲しいね。とにかく先を急ぐんだろ。それとも何かい、鳥羽藍夜にはさっさと死んで欲しいとでも?」
「えー。お腹空いてるなら食べればいいし、眠いなら寝ればいいじゃない。やせ我慢されて後から倒れられても困るんだけど」
「やあ、偉そうにお説教かい。随分と偉くなったもんだね」
「何それ、アンが心配してくれてるのに。他人の好意を何だと思ってるの、サラカエルって友達いないでしょ?」
「あ、あの! ナハトさん、ニゼルさん……」

アンブロシアが慌てた様子で二人の服の袖を掴む。気が付けば、いつの間にか周囲に人だかりが出来ていた。
美形揃いの顔ぶれ、見慣れない旅人、それはそれは目立つだろう。ましてやニゼルとサラカエルの応酬は声も大きく、揉め出す寸前だった。

「シリウスさんの事も心配です。藍夜さんの後を追いましょう」
「う……ごめん、アン」
「ふん。ほら、さっさと移動するよ。間抜け」
「うわぁ、態度悪っ!」

琥珀の肩を借り、ようやっとといった様子でのろのろ歩く一角獣を気遣いながら、一行は昨夜の宿屋に向かう。
アンブロシアが何度も汗を拭いてやるが、シリウスの顔色は蒼くなっていくばかりだった。
助けを求めるように目を動かしたニゼルは、宿の入り口から親友が出てくるのを見つけ、手を大きく振る。

「藍夜! ラファエルは?」
「ああ、どうも急ぎの患者が出たそうでね。フロントに置き手紙が預けられていたよ」

駆け寄ってきた藍夜は白い封筒を指で摘まみ、ニゼルの目の前でひらひら振って見せた。

「そっかあ。せめて一言くらい、言っていけばいいのにね」
「ラファエル先生にも都合はあるだろうさ。昨日と同じ部屋を手配したから、先にシリウスを運んでおくとしよう」
「うん。ありがと、藍夜。後で飲み物とか牧草とか、買いに行かなくっちゃ」

気を取り直し、ニゼル達は宿屋の店員にも手伝って貰い、一角獣を元の部屋へと運び込む。
藍夜が医師は手配したからと説明して人払いをする横で、さっそくアンブロシアは寝具に寄り添い、治療に向かった。
青紫の光がシリウスの頭部に当てられ、不安げに覗き込む鷲獅子の顔を横からぼんやりと照らしている。

「ニゼル。僕は気付け薬の材料を見てくるから、宿の人間が立ち入らないよう見ていてくれるかい」
「おっ、大役だね。分かった、藍夜も気をつけてね」

親友が出掛けたのを見計らってから、ニゼルは部屋の中を見渡した。サラカエルの姿を見つけると、琥珀達に気取られないように接近する。
正面に立ち塞がる羊飼いを見るや否や、殺戮は心底嫌そうな顔をした。むしろ、左手を下に向けて振り、あっち行け、とまで示し出す。

「(ねえ、サラカエル。全然寝てないんでしょ。ほらほら、今が昼寝のチャンスだよ!)」
「本当に間抜けと呼ばれたいのかな。僕が休んだら天使達を追い払う護衛が不在になるじゃないか」
「それもそうだけど。でも、いざとなったら琥珀がいるし」
「アンバーね……すっかり腑抜けになっているように見えるけど」

二人は寝具に目を向けた。確かに、琥珀の視線はシリウス一直線になっている。

「うーん。青春だね!」
「馬鹿なのかな。本来の役目も忘れるなんて、騎獣失格さ」
「ええ? そんな事言っていいの、藍夜に言っちゃうよ? 琥珀は藍夜の騎獣なんだから」

ニゼルは唐突に手を伸ばすと、苦い顔を浮かべるサラカエルの腕を掴み、ぐいぐいと強引に引っ張り始めた。
力で適う筈もない、殺戮は冷めた目で羊飼いの手を見下ろしている。いよいよ両足で踏ん張り始めたところで、小さな歯噛みの音が響いた。
振り払われる。思わず立ち尽くすニゼルだが、不意に体が軽くなった。気が付けば、サラカエルに襟首を掴まれ引きずられている。

「えっ、わ、ちょっ、」
「やあ、この間抜けは本当に、口だけ達者で困ったもんだ」
「ちょっと、こっ、困ってないでしょ、全然!」

喚いたところで、殺戮は聞く耳持たないようだった。部屋の入り口、扉の枠に両腕を張り出し、追い出されかけるところを懸命に堪える。

「ほら、君こそ自分の部屋でゆっくり昼寝でも決め込んだらいいんじゃないかな。今朝は冷えるしお得だと思うよ」
「わあっ、ちょっと! ……アン! アンちゃーん! 助けてー!!」
「あの、サラカエルさん、ニゼルさん。その、一応治療中ですから、出来れば静かにして頂けると……」
「やあ、アクラシエル。この間抜けを追い出したら静かにするから、それまでの辛抱さ」
「うわーっ、人でなしー! 離してよ、もう!」
「……あのさあ、ニジーもおサルも、何やってんの? さっきから」

両者はぴたりと動きを止めた。振り向けば、心底呆れたと言わんばかりの顔をした琥珀が、仁王立ちで二人を睨んでいる。
口端から火の粉が滲んでいるのが見えた。珍しく本気で怒っている、ニゼル達は、互いに目配せし合って黙り込む。

「ケツが死にそうなの。そういうニオイがするの。半分僕のせいなんだよ。お願いだから、静かにしててよ」
「ご……ごめん、琥珀」
「やあ、先に五月蠅くしたのはこっち……」
「サラカエル!! いいからほら、行こ! っ、アン、ごめん、あと宜しくね!」

ニゼルは強引に天使の手を取り、部屋から飛び出した。鷲獅子は、今にも泣き出すか原型に戻る寸前かのように切羽詰まって見えたからだ。
発情期、適齢期。ラファエルの言葉を思い出す。何故自分はあの時、安易に二頭を応援したい、仔が見たい、などと言ったのだろう。
当人達にとっては繊細な話題であったかもしれないのに……速歩を緩め、ニゼルはサラカエルの手を掴んだままうなだれた。
彼は助かるだろうか。琥珀とアンブロシアの言動から、シリウスの容態はかなり厳しい状態なのではないかと思い至る。唇をきつく噛んだ。

「……ま、そこまで案じる事もないさ」

歩みが止まる。不意に、頭にぽふりと柔らかな感触が降った。見上げると、なんと殺戮の手のひらが頭頂部に乗せられている。

「サラカエ、」
「やあ、偽名は構わないのかな」
「うっ、自分だって」
「問題ないよ。先生の手紙には仕事が落ち着いたらすぐ戻るとあったし、ウリエルも薬の調合に取り組むようだから。腕は確かだしね」
「でも……」
「昨日の今日でいきなり具合が悪くなるというのも、妙な話さ。僕は僕で別の方面から探ってみよう。それなら満足だろ」

ニゼルは目を瞬かせた。慰められた上に、励まされたのだ。こんな事は稀すぎて、最早奇跡に近い。
返事がない事に気がついたのか、サラカエルは怪訝そうな顔をする。はたと我に返り、ニゼルは素早く彼に背を向けて歩き出した。

「で、騎獣は放っておいていいのかい。どこに行くつもりなのかな」
「え? さっき言ったよね、ナハト、寝不足なんでしょ? ついでに部屋が散らかってないか、見てやろうと思って」
「いや、それなら宿の従業員がとっくに片付けていると思うけどね」
「いいんですー! 綺麗にして貰ったベッド強奪して、ふて寝してやるんだ。っていうかついてこなかったら部屋散らかしてやるからね!」
「脅しじゃないのかな、それは」

文句を垂れながらも、きちんと殺戮は後から着いてくる。ニゼルは妙に嬉しくなって、足取り軽く廊下を進んだ。
昨夜の部屋割りはニゼルが担当していた為、どこがサラカエル達に宛てられた部屋かはすぐに判別出来る。
南側の日当たりがいい部屋の扉を押し開きながら、どうせなら俺と藍夜はここにしてもよかったかなあ、と羊飼いは内心一人ごちた。

「とーう! うっわ、ふかふか!? いい部屋だったんだねー、ここ。適当に選んだからなー」
「やあ、子供じゃないんだから」

広々とした部屋、大きな窓、光沢を帯びる高級そうな家具。ここは所謂スイートクラスかもしれない。
八つ当たり半分にベッドに飛び乗るニゼルを、殺戮はうんざりしたような顔と声色で窘める。
それを無視したニゼルは、仰向けにぼんやりと天井を眺めていた。白塗りの壁は、遠い何時か、どこかで見た風景のように思えてならない。
白亜の高い天井、サラカエルの小言、柔らかく寝心地のいい寝具、暖かな日溜まり……意識がゆるゆると「ニゼル」から剥離されていく。
ホワイトセージが健在だった頃、そして今現在に至るまでに稀にある不思議な体感。今もそれは、羊飼いの心を現実から遠退かせていった。

――遠い何時か、柔らかな寝具に寝そべり、寛ぎ、物思いに耽る「自分」。それを、こうして変わらず「殺戮の天使」が覗き込んでくる……

「参ったな。そこ、僕か先生の寝床なんだけどね」

……瞬き一つを返した後、じっとその端正な顔を見つめ返した。
軽く眉間に寄せられた皺、左右で色の異なる瞳、鋭い眼光、さらさらと流れる夜色の髪。相変わらず綺麗なものだと感心する。
無表情か仏頂面か、或いは他人に向けるわざとらしい微笑みか。せっかく見てくれがいいのにもったいないと、いつもそう思っていた。

「聞いているのかな、間抜け」

手を伸ばし、頬に触れる。今度こそ、サラカエルは怪訝な顔を浮かべてこちらを見下ろした。

「……『灯台もと』」
「は?」
「『ああ、だから、手紙に「灯台もと暗し」と書いておいただろう? お前、全然灯台を捜しにこないから』」

その双眸に見つめられると、たちまち心が躍る、わくわくする、むず痒くなる。くつくつと笑みを零して、「私」は身を起こした。
殺戮の天使は怯んだようにして半歩分下がる。困惑したような、混乱したような揺らぐ眼差しが、こちらを無言で見ていた。
ニゼルが「ニゼル」でなくなる、緩やかに「私」と入れ替わる。彼には悪い事をしていると、「私」は微かに苦笑した。

「『サラカエル。アンバーは私のお気に入りなんだ、あまり苛めてやるな』」
「……何を、言って」
「『今、約束したからな? 口約束だからといって破るんじゃないぞ。後悔する事になるからな』」

躊躇いがちに伸ばされた手を、「私」は拒まずにおく。頬に触れ、なぞるように動かされるそれは、恐る恐るといった風に震えていた。
「私」はまだるっこしくなって、天使の胸ぐらを掴むとそのまま引き寄せてやる。不意を突かれたのか、殺戮は寝具の上に倒れ込んできた。
至近距離とは名ばかりだ、サラカエルは何が起きたのか分からないという顔で眼前を見上げている。
今、殺戮の天使の頭は、寝具に堂々と座る「私」の膝の上にあった。

「『ふふふ、どうだ、寝心地は。悪くないだろう?』」
「まさか……そんな馬鹿な、『貴女』は、まさか」

流石にヒントを出し過ぎたか――信じられないものを見る目が「私」を見つめる。
「私」は意地悪く笑いかけ、そっと手のひらで男の目蓋に触れ、それを上から閉ざしてやった。
今、殺戮の天使の視界は暗闇の中に沈んでいる。抵抗しようという意志さえ奪うように、「私」は天使に囁きかけた。

――ああ、そうだ。この皮膚越しに互いの心音が聞こえたらいいのに、この時間が無限に続けばいいのに。願うだけなら赦されるだろう……

「『いいか、これは夢だ。お前は睡魔に負け、夢をみているんだ。お前は「私」を探し出さなくてはならない。その為にも休息は必要だ』」
「……ラさ……ま、」
「『いいか、これは夢なんだ。だから目が覚めたらお前はいつも通り、ニゼルの対等な友として彼らと接するんだぞ。いいな?』」

……約束したからな、サラカエル――

その言葉が鍵となるように、部屋に静かな寝息が立ち始める。いつしか、殺戮の天使は深い眠りに落ちていた。
「ニゼル」は満足げに微笑むと、熟睡する男の髪を優しく丁寧に指で梳き、その後に頭と頬を撫でてやる。
ゆっくりと時間は流れていった。部屋の扉が小突かれるまで、サラカエルが目を覚ます事はなかった。






「……どう、シア。ケツ、大丈夫そう?」

青紫の見慣れた光が収まると同時、琥珀は心優しい天使にそう問いかける。顔を上げたアンブロシアは、額の汗を手で拭ってから頷いた。

「先ほどに比べて、呼吸は落ち着きました。熱はまだ引いていませんけど、藍夜さんが戻り次第、お薬を用意するそうですから」
「ホント!? じゃ、ケツは助かりそうってコト?」
「すみません、まだなんとも。でも、人間のお医者様に診せるわけにはいきませんから」
「……ウン。ごめん、シア。僕、おサルやニジーのコト、言えないよね」

ニゼル達が慌ただしく退出した後。アンブロシアの懸命な治癒のお陰か、一角獣の容態は朝方より持ち直したように見える。
琥珀は泣きべそを掻きそうになるのを堪え、疲労の蓄積で色が白くなってしまった娘の手を、力加減に気をつけながら握り返した。
長い間、天使能力を使わせてしまっている。何らかの目安になればと藍夜が置いていった懐中時計によれば、時刻は既に十時を回っていた。
かれこれ三時間はこの状態が続いていたのだ。申し訳なさと自分の非力さに、いよいよ視界が霞んでいく。

「あの、琥珀くん、わたしは大丈夫ですから。そうだ、一度シリウスさんに着替えて貰いましょうか。汗を冷やしてもいけませんから」
「シア。でも、シアも少し休みなよ」
「大丈夫ですよ。藍夜さんが戻ったら交代して、わたしも休憩しますから。琥珀くんも少し休まないと……昨日、眠れていないでしょう?」

にこりと微笑まれ、琥珀は二の句に詰まった。有無を言わせないあたりは、ニゼルの強引さに少し似ているところがある。
替えの服を用意してきますねと、天使はふらつきながらも立ち上がり、財布を掴んで出て行った。

「何やってんだろ、僕……」

ニゼルも、鳥羽藍夜も、サラカエルも、アンブロシアも。皆がそれぞれ、自分に出来る事を日々精一杯こなしている。
それに比べ、ここ最近の自分はどうだ。鳥羽藍夜の騎獣とは名ばかりで、何の役にも立てていないではないか。
琥珀は唇を強く噛んだ。力が強すぎたのか、ぶちりと嫌な音を立て、鉄錆の味が口内に浸入してくる。

(……痛いよう、女神様)

ふと泣きそうになり、泣きたいのは自分に振り回されたシリウスの方だと思い直した。唇を舌で舐め、血を拭い取る。
そうしてベッドに腰掛け、アンブロシアが戻るのを待つ最中、琥珀は自分の鼻が、この場に似つかわしくない臭気を捉えたのに気が付いた。
……甘い匂いだ。蜂蜜を煮詰めたような、砂糖水を果汁に注ぎ足したような、胸焼けを起こしてしまいそうな、強烈な甘い匂い。
ぐらりと視界が揺れ、無意識に頭を抱え込む。あまりにも濃厚な匂いに、思わず人型変化の術を解除しそうになった。

(何コレ、なんのニオイ? なんか、凄く近いところから匂うような――)

踏み留まる。藍夜達が戻る前に、宿屋の人間らに正体を見破られるわけにはいかない。そんな迷惑は掛けられない、琥珀は再度唇を噛んだ。
嫌な予感がする、しかし、それが本能に基づく警告であるという事を琥珀は知らない。不安が不安を呼び、より強く犬歯に力を込める。
血が噴き出し、痛みに小さく呻いたその瞬間。鷲獅子は、丸くなった自分の体の上、視界の端に、何者かの影が差したのを見た。
誰かが自分に覆い被さろうとしている。はっとして振り向いた時には既に遅く、相手に強引に押し倒されてしまっていた。

「――え、ケツ?」

意外な相手が、瞳に映る。同時に、あの嗅覚を狂わせかねない悪臭めいた甘い匂いが、琥珀の鼻を刺激した。
見上げた先、衰弱していた筈の一角獣は、何事か思い詰めたような表情で鷲獅子を見下ろしている。
琥珀は、この匂いが正にシリウスの全身から放たれているのだと悟った。甘い匂いが空気にこびりつき、思考回路がぐらぐらと煮えていく。

「ケツ……シリウス? ねえ、大丈夫? あのさ、なんかヘンなニオイ……」

そうして、気付けば鷲獅子は一角獣に唇を塞がれていた。錆びついた味がぬるりと口内を這い、たった一度の接触で、頭が真っ白に染まる。

「……! な、何っ、シリウ、」

抵抗しようと振り上げた拳が、異様な力で押さえ込まれた。愕然として見上げた先、シリウスは感情の籠もらない顔で琥珀を直視している。
そのまま、分厚い胸板が覆い被さってきた。荒い呼吸が、自身の心音が、聞き慣れない物音が、耳障りなほどに響き渡る。
何が起きたか分からず、琥珀は悲鳴を上げた。それでもシリウスが止まる事はない。何かを掴もうと伸ばした手が、虚しく宙を切った。





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 UP:18/12/06