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楽園のおはなし (2-15)

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「……それでさ? サラカエルはぜーんっぜん知らん顔してるし、藍夜はブチギレてるし。ほんと、アンにも見せてあげたかったよ」
「ふふ。それはもう、災難でしたね。ニゼルさん」

子羊のローストにフォークを突き刺し、いそいそと口に運びながら愚痴を連ねるニゼルに、アンブロシアは苦笑した。
時刻は昼を回ったばかり。宿屋の一階、共有スペースとして借りた大きなテーブルに出来立ての料理を並べ、一行は昼食に勤しんでいる。
鳥羽藍夜にしては説教が短く済まされたのは、彼の声に熱が籠もり始めた頃、アンブロシアら買い出し組が宿に戻った為だった。
助かったとばかりに痺れる足を引きずりニゼルが逃亡し、琥珀がそれに手を貸して、説教タイムは早々と切り上げられてしまったのである。

「ニゼル、君、その様子だとまるで反省していないようだね」

お陰で藍夜の機嫌は降下したままだ。彼の隣に座るよう命じられた(!)琥珀は、今すぐ逃げ出したい、という表情で体を縮めていた。
後光ならぬ、噴火寸前の火口が親友様の背後に幻影のように浮かび上がる。ニゼルは運びかけた肉を空中に留めたまま、顔を引き釣らせた。

「説教が物足りなかったと言うなら、食後にまた機会を設けようじゃないか。実際、足りていないようだし」
「あの、藍夜さん。こちらに移動するのに天使能力を使いましたし、少し休まれた方が」
「君もだよ、アンブロシア。いいかい、ニゼルは僕が大事にしているものを盗み出したのだよ。君が庇っている場合でもないと思うがね」
「あー、やめときなよ、アン。巻き添え食らっちゃうよー」
「ニゼル! そもそもはだ、君が」
「わあっ、えっと、ごめん、ごめんねっ? 悪かったよ、反省してますっ」

降参とばかりに手を合わせ、自身を拝み倒す姿勢をとるニゼルを前に、藍夜は未だ不満そうに鼻を鳴らす。
それでもそこそこの納得は済んだようで、彼は食事に戻っていった。お許しが出たと踏んだ琥珀もステーキにナイフを突き刺し始める。

「それで、間抜け、ウリエル。旅行とやらの行き先の目処はついたのかな」
「こら、サラカエル。またそんな言い方をして」
「お言葉ですが、先生。僕を窘めるより先に、アンバーの食事作法の方を叱ってやって下さいよ」

一口大に切り分けるでもなく、肉一枚をそのままナイフで持ち上げ、べろんべろんと揺らしながら齧りつく――見た目は健康そうな美少女。

「グリフォンだからね」

ちらと一瞥を投げた直後、ラファエルは早々と諦めてしまった。早い、あまりにも早すぎる。サラカエルは首を傾げて魔獣を嘲笑した。
藍夜も挑戦するが、肉に夢中な琥珀は聞き耳持たない。見かねたのか、藍夜の反対、琥珀の右に腰掛けるシリウスが彼女の皿を取り上げる。
ぎゃあぎゃあと喚く鷲獅子の顔面に手のひらを押し当て、食事中にも関わらず、いつものように言い合いを始めてしまった。

「よし、分かった。ニゼル、しばらく琥珀に干し肉を与えないようにしたまえ」
「あー……うん、オヤツ抜きって事ね。分かったよ、藍夜」

苦笑するニゼルに、藍夜は肩を竦めて同意する。なんとなくだが、「日常」が取り戻されつつあると二人は感じていた。

「えっと、そうそう、旅の話ね。今は……あれ、この村ってイシュタルのどのへんだっけ?」
「さてね、適当に跳んだからな」
「ええ? 何それ、ちょっと適当すぎじゃない? サラカエル」
「追っ手を振り切る事を優先したんだ、文句ならそこでイチャついてる一角獣に言って欲しいな」

固まる魔獣二匹を余所に地図を広げ、それらしい場所を目で探る。各地を示すニゼルの指先を、一行は身を乗り出してそっと覗き込んだ。

「ガブリエルとリリーに会ったのが国境付近、シリウスを拾ったのがこの辺だよね。うーん、統一性がないなあ」
「やあ、どこかの誰かさんの性格がだらしないからじゃないかな」
「サラカエル、君、随分とニゼルを目の敵にするものだね」
「さてね、僕は君達に着いていくだけだから」
「(ねえ藍夜、俺、なんかいつの間にかサラカエルにめちゃくちゃ嫌われてない?)」
「(君に自覚がないというのなら、サラカエルにはサラカエルにしか分からない心境の変化でもあったのかもしれないね)」
「聞こえてるんだけどね。ま、いいさ。それで、次の目的地はどうするつもりなのかな」

こうしてみると、世界が如何に広く、また自分達が如何に狭いコミュニティに属しているのかがよく分かる。
素知らぬ顔で紅茶を味わい始める殺戮を盗み見し、ニゼルは小さく嘆息してから、最後の肉の一切れを口に放った。

「うん、せっかくイシュタル帝国に入ってるんだし、どうせなら一度は首都を見に行ってみたいかな。かなり大きいって聞いてるけど」

イシュタル帝国の中央都市、帝都イシュタリア。ニゼルが最終的に指差した大陸中央を見て一同が頷く中、藍夜だけはふと渋い顔をする。
反対なのか、短く聞き返す羊飼いに、店主はそうじゃないよ、と頭を緩く横に振った。彼の目は、何かを思い出すように遠くに向けられる。

「あまりいい噂を聞かないからね。琥珀、それとシリウス、だったかな。二人には常に人型を維持して貰うよ。それから、ニゼル」
「うん? なあに?」
「君は単独行動を取らないでくれたまえよ。僕かサラカエルと必ず一緒にいたまえ。アンブロシア、君もだ。いいね」
「え、わたしですか。分かりました、仰る通りに」
「ん? あれ、って事は藍夜とデートって事だよね。うわあ、お説教されないように気をつけなきゃ!」
「……ニゼル、いや、君は少し反省というものを覚えたまえ」

鉄と蒸気、地熱の街イシュタリア。村外れから近くの主要都市まで馬車が出ていると殺戮に補足され、一行は慌ただしく準備を始めた。






昼過ぎに馬車に乗り込み、時間帯は既に夕方である。御者に何日かかかると言われていた通り、帝都までまだかなり距離があるようだった。
帝都を目指す旅人が必ず立ち寄るという宿場町に案内された一行は、彼に手配されるがままに、そこそこ大きな宿に宿泊する事にする。
朝に迎えにくると付け足された藍夜は、その旨を手帳に書き込んで馬車を見送った。寝坊出来ないな、呻くように小さくぼやく。
宿の入り口では、琥珀が浮き足立った様子でそわそわしていた。彼女の横には、恒例となってしまったうんざり顔のシリウスが立っている。

「どうせ夕飯の献立を気にしているだけだ、気にするな」
「はあ!? ケツが言うほど僕がっついたりしないんですケドー」
「二人とも、また喧嘩してー。そんなに仲良くしたいなら、一緒の部屋にしちゃうからね?」
「おい、ニゼル=アルジル……」
「げえっ、ヤダよニジー! 勘弁してよ!」

店主の合流を待たずして、ニゼルは宿泊帳に部屋割りと全員の名前を――便宜上、天使らについては偽名で――書き込んでしまっていた。
エントランスの景観を楽しもうとしていた矢先の騒がしさに、藍夜は肩を竦めて嘆息する。同情か同意か、サラカエルも首を傾げていた。
重量のある荷を案内人に託していると、藍夜の肩を弱々しく叩く者がある。振り返ると、何やら小難しい顔をしたラファエルと目が合った。

「ラ……『先生』?」
「『藍夜君』、大事な話が――」
「ねえねえ、藍夜ぁ! 宿とれたんだし、出掛けてきてもいい? 買い物とか観光とか、楽しそうだしさ〜!!」

――治癒の天使の言葉は皆まで紡がれない。一角獣と揉めに揉めた鷲獅子が、八つ当たり気味に藍夜めがけて突撃してきたからだ。
咎めがちな視線を飛ばす店主だが、苦笑するニゼルや物言いたげなシリウスの目に、喉から出かけた説教を無理に飲み込む。

「構わないとも、その代わり、シリウスを同行させる事。約束出来るね」
「ちょ、いった、痛い痛い、痛いってば! ちゃんとオミヤゲ買ってくるから、勘弁してよ〜!」

何より周りの目もある……仕方なしとばかりに、藍夜は琥珀の両こめかみを拳でぐりぐりしながら、じっくり丁寧に注意を促した。
涙目かつ高速で首を縦に振り、魔獣はどこで覚えたのか、格好付けてびしりと親指を立ててみせる。
堪えきれずにくすくすと小さく笑うアンブロシアに、店主は盛大に鼻を鳴らした。

「もう。お土産はいいけど、ちゃんとシリウスの言う事聞くんだよ? 琥珀」
「ええ〜、ニジーまでこのウマの味方なの? いいよいいよーだ、美味しい物ぜーんぶ僕ひとりで食べてくるから!」
「おい、馬じゃないと言ってるだろう。財布は俺が握っておく、案ずるな、ニゼル=アルジル」
「はいはい。宜しくね、シリウス」

仲良く(?)出掛けていった二匹を見送った後、夕飯までそう時間がないという事もあり、藍夜達は早々と各自の部屋に移動する。
荷物を置き、暖炉に火を点け、羽織っていた羽織物を壁に掛けたところで、藍夜はラファエルが何か言いたげにしていたのを思い出した。

「どうしたの、藍夜?」
「いや、ラファエル先生が……」

当然のように同室に居座るニゼルに振り向いた瞬間、部屋の扉を何者かの拳が叩く。どうぞ、何の気もなしに入室を認め、客を招き入れた。
予想した通りラファエルそのひとだ、横には彼と同室にあてがわれたサラカエルの姿もある。軽く一礼してから、治癒の天使は扉を閉めた。

「ウリエル、ニゼルさん。ちょうどよかった、二人とも揃っていますね」
「ラファエル先生。話というのは」
「……とりあえず立ち話もなんだから、座ったら? ご飯なら遅れますー、って聞きに来られた時に言えばいいんだし」
「いえ、手短に済ませますから大丈夫ですよ。シリウス君とアンバーさんの事で、少し」

何やら重大な話のようだ、藍夜とニゼルは瞬時に体を強張らせ、目を見合わせる。
咳払いするサラカエルを小声で窘め、ラファエルは言葉を探すように視線を宙に彷徨わせた。

「僕はヘラ様の屋敷に住まわせて頂いていたわけではないので、強く断言は出来ないのですが」
「先生。この場合、前置きは不要だと思いますよ」

タイミングを見計らったように従業員の声が聞こえたが、サラカエルが扉越しにやんわりと追い返してしまっている。

「うん……では、本題に。僕が見る限り、シリウス君とアンバーさんは適齢期を迎えています。互いに牽制し合うのはその為と思われます」
「適齢期? 一体何の、」
「ああ、発情期って事?」

途端に、沈黙が流れた。一斉に注目を浴び、問題発言の主であるニゼルは「え、俺何か悪い事言った?」とのほほんと構えている。

「……君ね、少しは言葉を選びたまえよ」
「そんな事言われても。それ以外になんて言えって? 実際そうなんでしょ、ラファエル」
「え、ええ、そうなんですが……」
「隠すような事でもないじゃない。それに琥珀もシリウスも魔獣だよ、人間じゃないんだよ? なら、ちゃんと考えてあげなくちゃ」
「へえ、人間風情が管理者気取りか。君、随分偉くなったもんだね」
「元牧場勤めだからねー。考えなしに盛られたら、それこそ藍夜が困るでしょ。サラカエル達にだってツケが回ってくるかもしれないよ」
「盛ら……君達人間じゃあるまいし」
「あっれぇー? 俺と藍夜を一緒くたに纏めるの? 大事な対天使にそれはないんじゃない?」

寝具に腰掛け、足をぶらつかせながら、友人は藍夜お茶淹れて、などとにこにこしていた。藍夜は肩を竦めて、半ば反射で筒を取り出す。
サラカエルが苛立ち半分、呆れ半分に嘆息したのが聞こえた。目だけで振り向くと、そのままの表情の対天使、困り顔の兄弟子の姿が映る。
……自分自身は、友人の突拍子のなさには慣れていた。筒から乾燥させた香草を適量掬い上げ、鞄の底に埋めていた茶器に移し替えていく。

「ニゼル。君は確か、アルジル羊の繁殖にも一役買っていたのだったね」
「王都の要請でね。それに、出来れば相性のいい相手とくっついて欲しいじゃない」
「エロース神気取りか。呆れたもんだ」
「エロース? 誰それ?」
「……ざっくり言えば、恋愛成就を司る古い神さ。キューピッドといえば伝わるかな」
「あー、天使っぽい姿の、恋の矢がどうのー、って女の子が騒いでるやつだよね。ホワイトセージの教会の壁画にも描いてあったっけ」

ホワイトセージ教会。一瞬胸中に暗いものが浮かび、藍夜は苦いものを噛んだような心地になった。頭を振り、湯を沸かしがてら席を立つ。

「藍夜、俺も手伝うよ。……うん、俺から見ると、琥珀もシリウスもお互い満更でもなさそうなんだよね。どうなのかな、ラファエル」
「そうですね……グリフォンからすれば、ユニコーン、というより馬は捕食対象ですから。難しいように思いますが」
「グリフォンの雄と馬の雌を掛け合わせると、変わった神獣が産まれると聞くけどね。ま、孕ませるのに成功しても出産確率は低いからな」
「変わった神獣? 何それ、初耳なんだけど」

ニゼルの興味関心が、目の前の茶器から殺戮の話に移り変わった。藍夜はしまった、と慌てて振り返る。
視線の先、サラカエルもまた、口を滑らせてしまったか、という苦しげな表情を浮かべていた。

「捕食する側される側、グリフォンの現存する個体数からして、奇跡に近い交配です。生まれる仔は、ヒッポグリフに間違いないでしょう」
「ラ、ラファエル先生」
「先生。それ以上は、」
「ヒッポ……えっと、聞いた事ないなあ」
「無理もないです。上半身は鷲、下半身は馬という『不可能の象徴』、神々に幻とまで言わしめた神獣です。僕も未だ見た事がありません」
「幻の、不可能の神獣……そうなんだあ」

藍夜もサラカエルも、当然ラファエルも、羊飼いの目がきらきらと輝き始める様を目の当たりにする。
やらかした、やってしまった――気付くと同時、狼狽しながら弟弟子らに目で謝る兄弟子に、二人は首を横に振って応えた。

「ねえ、藍夜」
「却下だよ、ニゼル」
「ちょっと、まだ何も言ってないよね!?」
「君が今、ここで、何を言わんとしているかくらい見当もつくというものだよ」
「へえ? そうなんだー? じゃあ、当ててみてよー」
「『琥珀とシリウスをくっつけたい』、というのだろ。ヒッポグリフとやらを見たいが為に」

藍夜はちらと友人を上目遣いで盗み見る。予想通り、ニゼルはえへへ、と照れくさそうに笑った。

「だってさあ、幻だよ? 不可能の象徴だよ? 気になるでしょ!?」
「却下だ。大体、二匹とも出会ってまだ日が浅いだろう! 君の手紙でシリウスの件を知ったがね、まだ数日しか経っていないじゃないか」
「そうだっけ? 俺は恋愛に時期とか何とか関係ないと思うけどなあ」
「そういう問題じゃないんだ! いいかい、まず男女の付き合いというのは互いに好意がある事を伝え合い、そこから段階を踏んでだね、」
「ええー、何それ、古臭いよ?」
「ウリエル、論点がずれてるよ」
「うん。僕もそう思うよ、ウリエル。まずは交換日記から、だろうね」
「無論です、ラファエル先生。ほら、聞いたかいニゼル、サラカエル」
「交換日記って……琥珀がそんなのすると思う?」
「面倒くさがって終わりじゃないかな、ウリエル」
「サラカエル。君は一体、ニゼルと僕のどっちの味方だというんだ!」

ぜいぜい息を荒げながら、藍夜は他の面子に片手を立てて見せ、ぴっと手のひらを向ける。だいぶん混乱している自覚があった。
もう片方の手はこめかみにじっくりと押し当て、自身に落ち着け、と言い聞かせる。
顔を上げた時、まず目に入ったのは友人が心配そうにこちらを覗き込む顔だった。君が元凶なんだがね、言いたくなるのをぐっと堪える。

「いいかい。もし本当にそういった時期なのだとしても、僕達から急かすような真似は絶対にしないと、そう約束しておくれ。ニゼル」
「ええ? うーん、じゃ、応援するっていうのも駄目?」
「駄目とまでは言わないがね、君、あからさまにするだろう」
「失礼だなあ。こう見えても、動物の恋愛には場慣れしてるのに」
「慣れている、慣れていないじゃないんだ。今でさえシリウスの一族の血は希少なんだろう。なら用心に越しておく事はないよ」

琥珀がいつ喰らいつくかも分からないのだし――蛇足かと思い、そこは言わずにおいた。納得したのかしないのか、ニゼルの表情は複雑だ。
生返事が返され、藍夜は小さく頷き返す。とはいえ、彼が魔獣達に発破をかけるであろう事も既に予想が出来ていた。
半年の間とはいえ、琥珀とは良い旅仲間であれたのだろう。グリフォンの懐き方からして、それは一目ですぐに分かってしまった事だった。
友には幸せになって欲しい……そう願う想いは、悪ではない。
ニゼルも自分も、身内には大概甘い。自身の頭がもう少し柔軟だったら、彼にもっと共感出来たのかもしれないと藍夜は思う――

「……あのさ、そのケツなんだけどさ。どっか行っちゃったんだケド、皆なんか知らない?」

――不意に割り込んできた声は、部屋の入り口から響いた。振り返りざま、藍夜は湯を注いだばかりのポットを取り落としそうになる。

「うわっ、藍夜、危ないよ! って、琥珀? シリウスはーって、一緒じゃなかったの?」
「ああ、すまないね、ニゼル……琥珀、君ひとりでどうしたんだい」
「どうしたもこうしたもないよ。ゴチャゴチャ言いながら着いてきてると思ったら、用が出来たから宿に戻ってろ、とか言い出したんだよ」

「相性がいい」。友人の予測通り、琥珀はさも恋人に置き去りにされたカップルの片割れのように頬を赤くし、膨らませ、むくれていた。
よく見れば、両目にはうっすら水滴まで浮いている。察したニゼルが藍夜の元を素早く離れ、魔獣の頭をぽんぽんと軽く撫でてやった。
琥珀の顔はあっという間にくしゃくしゃに歪んでいく。友人に抱きつく魔獣を見て、自分には到底出来ない芸当だなと、藍夜は肩を竦めた。

「前に、里に優れた遺伝子を有する男女を送るのが使命だって言ってたから、それじゃないかな。琥珀を無視したわけじゃないと思うよ?」
「でも、」
「二度と帰らない、とは言っていなかったんでしょ? そのうち帰ってくるよ、大丈夫!」
「ッ、でもぉっ、」
「何? 何かあった? もしかして、喧嘩でもしちゃった?」

琥珀を出迎えたらしいアンブロシアが、入り口からそっと駆け寄り、零れるものをハンカチで拭いとっていく。
鷲獅子は遠慮なく、とばかりに柔らかなそれを娘の手から奪うと、盛大な音を立てて鼻水をかんでみせた。

「ううっ、シア、ありがと……」
「いえ、大丈夫ですよ。それで、アンバーくん」
「ウン、あのさ。用があるって言ってケツが離れてった時、ケツは男と一緒にいたの……ソイツから嗅いだ事のあるニオイがしたんだよね」
「匂い? ああそうか、琥珀。君は嗅覚に優れていたのだったね」
「男、か。アンバー、それは一体何者なんだ。お前には覚えがあるって話だろ」
「ケツが、最後までソイツと一緒にいたかは分かんないよ。でも……うん、覚えてるよ。もうずっと前、女神様の神殿で嗅いだニオイ」

天上界に住まう神々にも媚びずにいたという一角獣の一族、それがシリウスが属する星の民だ。全員が互いに顔を見合わせる。

「ソイツは滅多に神殿に来なかったし、他の誰とも違うニオイをしてたからよく覚えてるよ。血と薬のニオイ……死の臭いってやつ」
「死の臭い……」
「たまにおサルからもするけど、それよりもっとエグいニオイだよ。僕、アイツの事はよく知らないままだったケド、好きじゃなかったし」

遠目に見た事しかないと、琥珀は告げた。アンジェリカやサラカエルが不在の折、女神ヘラに、よく資金繰りを交渉していた男だという。
聞かない話だ、藍夜はそう思った。同時に、仕える天使達に余計な心配をさせないよう、ヘラが徹底して伏せていたのだろうと把握する。
ふと盗み見ると、対天使は笑みを顔に張り付けたまま棒立ちしていた。激高する寸前の顔だ、早く切り上げよう、ニゼルと目配せしあう。

「琥珀。それで君は、そのまますんなりシリウスと分かれたのかい」
「だって……ついてこなくていいって、言われたし」
「藍夜、あーいや。もう、言い方!」
「……」
「ニジー、どうしよう。イヤなニオイだったんだ。もしケツが何かされたら……そりゃ、どっか行っちゃえって、いつも言ってたケド」
「ねえ、琥珀。シリウスだって立派な神獣で、かつ俺の騎獣なんだよ。大丈夫、ここで帰りを待っていようよ。信じてあげたいんでしょ?」

喧嘩相手であり、旅に張り合いを出してくれた相手でもあるのだと、琥珀は主張した。
それでもまだ泣きべそを掻くばかりの彼女を優しく抱き留め、ニゼルはその背中や頭を撫でてやる。
そうする最中、友人が投げてくる視線に藍夜は静かに頷き返した。ラグナロクの発生前、琥珀がヘラの別邸で見かけたという「死」の男。
星の民に密かに接触したというその姿は、平穏な旅路にどこか不吉な影を落とすのに十分な印象を持っている。
振り向けば、既に殺戮の姿は部屋から消えていた。鞄から金匙の羅針盤を取り出し、膝に乗せ意識を集中させる。躊躇わず、指を走らせた。





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 UP:18/11/19