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楽園のおはなし (2-14)

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互いによく眠れていなかったのだと――ニゼルの場合やむを得ずだが――話がついた。
アンブロシアが当面の食事を担当したいと申し出た為、ニゼルと藍夜は昼まで仮眠をとるように言われてしまう。
その間、彼女はシリウスと共に村で買い出しを済ませてくるというのだった。娘には有無を言わせない気迫があり、大人しく従う事にする。

「なんかさ、アン、しばらく見ないうちに逞しくなってない?」
「しばらく放置しておいて、何を言っているんだい、君は」
「ええ? 今? まさか寝たままお説教するつもり?」

安価な宿に変わりはない。ベッドは二人で寝るには狭すぎたので、サイドテーブルを挟む形でそれぞれ別の寝具に横になった。
天井を見上げながら話していると、やはりここは慣れ親しんだ場所ではない事に改めて気付かされる。頭上には古ぼけた木材が並んでいた。
オフィキリナスも木材を中心に建てられていたが、ここまで寂れていなかったように思う。店主らの手入れが行き届いていたのだと知れた。

「ねえ、藍夜」
「なんだい、ニゼル」
「怒ってる?」
「さあ、どうだったかな」
「うう、やっぱり怒ってるんじゃないかあ」
「当たり前じゃないか、何を寝ぼけた事を言っているんだい。起きたら改めて話をするから、覚えていたまえ」
「うわー、やだなあ。もう寝よ、ほらほら、寝て忘れよう! ねっ!」
「おや、全く反省していないようだね、君は……」

ニゼルも藍夜も、仰向けにしているだけで眠りに就く気配がない。ちらと視線を投げた羊飼いは、店主がこちらを見ているのに気が付いた。
いつになく真剣な眼差し。一度瞬きをして、なあに、と話を促してみる。親友ははっとして、次にばつの悪そうな顔を浮かべた。

「なんて事はないさ。まだ生きているうちに、君に会えた」
「それは……藍夜、気付いてたの?」
「何の話だい、ニゼル」
「えっ、いや、その……な、なんでもないよ。藍夜こそどうしたの。急に改まって」
「ああ。この半年の間、僕は、てっきり君に嫌われたのではないかと思っていたんだよ。暁橙を死なせた上に、街も牧場も守れなかった」

ニゼルは愕然として親友を見る。思わず起き上がりかけていた。藍夜はニゼルから視線を外すと、再び仰向けになり天井を見上げる。

「半端に手を出したのが悪かったのか、暁橙はあの歳で死ぬ運命だったのか。そこまでは分からないがね、守れなかったのは事実さ」
「藍夜……またそんな、何言ってるの」
「ニゼル。もし気まぐれに僕をここに呼んだなら、それは君の誤りだ。僕は、ハイウメが言っていた通りの」

皆まで聞く耳をニゼルは持たない。跳ね起き、殆んど反射で枕を掴むと、思いきりそれを親友の顔めがけて投げつけた。
予想通りのクリーンヒット、藍夜のくぐもった悲鳴を聞いてもなお、羊飼いの怒りは引く事がない。

「藍夜? またそれ? っていうか、それって俺の事まで化け物呼ばわりしてるのと同じなんだけど、分かってて言ってる?」
「ニゼ、」
「なら言うけどさ、俺なんか牧場継ぐのやめちゃったし。なんならこうして藍夜もアンもぶん投げて、気ままな旅を楽しんでるくらいだし。
 シリウスも琥珀も可愛いしサラカエルも時々は俺の味方だし! 今日なんかガブリエルっていう天使様も助けたんだよ。超充実してるー」
「ガブリエル? 助けた、それは本当かい」
「話逸らさないでー。とにかく、藍夜はもっと開き直ってもいいと思うよ! 俺ほど図太くなれとは言わないけど!」
「ニゼル、君、一応自分が図太いという事は理解していたのかい」
「まあねー。っていうか、まさか俺のいない間にまたハイウメに罵られたんじゃないよね?」
「それはないよ、ただその、僕が割り切れていないというだけで」

言った後で、藍夜はしまった、という顔をする。ニゼルはのろのろと起き上がると、寝具の上に丁寧に正座した。

「藍夜らしいね。でもさ、暁橙がここにいて今の話を聞いてたら、なんて言うと思う?」
「……十中八九、泣くだろうね」
「でしょ? それに……俺はオフィキリナスにいて何も見られなかったけど、サラカエルもハイウメもいて、それでも大変だったんでしょ?
 あと、アンや琥珀もだっけ。それだけ精鋭が揃ってて、でも駄目だったんなら、ホワイトセージはもう助からなかったんじゃないかなあ」

身勝手な主張、利己的な言い訳だと、ニゼルは思う。それでも全てが本心だった。
友人につられて起きた藍夜は、目を伏せ、そうかもしれないね、と小さく呟く。自嘲に満ちたそれを、羊飼いは切なく見つめた。
そのときだ。村のどこかから、小さな鐘の音が聞こえてくる。朝を報せる鐘だろうね、藍夜は窓の外に目を向けてそう零した。
ふと手を伸ばし、彼はサイドテーブルに乗せていた私服を引き寄せる。ポケットから取り出した懐中時計を見て、大げさなほどに頷いた。

「もうこんな時間か。全く、そう簡単に眠れるわけもないというのにね、アンブロシアも」
「……藍夜、その時計。ずっと持ってたの?」
「ん? それはそうさ、父さんからの贈り物だからね。君も知っているだろ」
「え、あ、うん。知ってるよ、藍夜がすっごく大事にしてる事……」

ニゼルは違和感そのものを凝視するようにして、親友の手の上、真鍮製の時計をしげしげと眺める。藍夜はどうかしたのかい、と苦笑した。
羊飼いは首を振る。違和感の正体とは、殺戮の天使が「藍夜に借りた」と称して、同じものを使っていたのを思い出したからだ。
いつ返したのだろう……訝しむように眉間に力を込めていると、部屋の扉を何者かが軽くノックする音が聞こえた。

「おや、まだ起きているとも。入りたまえ」
「やあ、きちんと休んでおかないとアクラシエルが五月蠅いと思うよ。ウリエル」

来訪者は殺戮そのひとで、対天使に気楽に挨拶するように首を傾げる。思わずニゼルはベッドから降りていた。

「サラカエル、ちょっと」
「うん? なんだい、話なら僕の方から、」

サラカエルの腕を掴み、半ば強引に部屋を出る。親友はわけが分からない、という顔で二人の背中を見送った。
退室直後、ニゼルは彼のスーツの胸元に手を突き入れる。丁寧に探ってみるも、糸状、板状といった様々な膨らみが指先に返されるばかり。
眉間に力を入れて熱中していると、頭上で天使が嘆息する気配があった。見上げてみると、呆れたような目と視線が重なる。

「やあ、探し物は見つかったのかな。欠け月の護符は確かに持ってきたけど、」
「違うよ、藍夜の持ってた懐中時計! 藍夜は自分のを持ってたよ、サラカエルが拝借してるのは誰の時計?」
「時計? ああ、鳥羽暁橙のやつか」

殺戮は胸元に手を入れ、すんなりと件の時計を取り出した。植物と羽根のモチーフが装飾されている、特注品だという特別な懐中時計。
ぽかんとするニゼルの目の前に鎖を掴んでそれをぶら下げ、しゃらしゃらと揺らしながら、サラカエルは小さく首を傾げてみせる。

「そういえば土の下に戻すのを忘れていたな。ま、元の持ち主は今は冥府だし、問題ないか」
「そっか、暁橙のかあ……って、よくない! よくないでしょそれ! 暁橙の形見って事でしょ、なんでサラカエルが!?」
「やあ、静かにしなよ。まだ早朝なんだから」
「誤魔化さないでよ、まさか藍夜に黙って持ち出したの? 流石にちょっと勝手すぎじゃない?」
「ふん、何を言い出すかと思えばそれか。僕が有意義に使ってやっているんだから、むしろ鳥羽暁橙には感謝して欲しいくらいだけどね」

今度こそ、羊飼いは言葉をなくした。顔を紅潮させ、体を震わせる青年に、殺戮は双眸を細めて冷たい視線を投げつける。

「魔獣や住民、鳥羽暁橙の死体の処理、王国への根回しは僕が済ませた。代償としては安い方だろ」
「だ、だからってそんな……」
「勝手すぎるって? 勝手なのはウリエルの方さ、ヘラ様を捜すでもなく、まさか僕に君の護衛を頼むだなんてね」
「ヘラって地母神ヘーラーの事だよね、サラカエル達を雇ってたっていう」
「同じ事は二度は言わないし、ウリエルにも言わさせないよ。それに、僕の事情に踏み込めるほど親しい間柄でもないだろ」

事情。ニゼルは、目の前に吊された時計を黙ってじっと見つめた。
時計の向こう、黒いスーツの胸元は、天使の呼吸に合わせて静かに上下している。心なしか、それはいつもより速いペースのように思えた。
時計から目を離し、サラカエルの顔を見る。無表情のそれを見ているうちに、羊飼いは自分の胸の奥がすっと冷えていく感覚を覚えた。

「……『お前』、『同じ台詞をニゲラの前で言ってみろ』。『さぞかし呆れられ怒られるんだろうな』、『口には出さないだろうが』」

いつかの、意識が肉体から剥がされるような、何者かに取り憑かれるような感覚。自分のものとは思えない冷たい声が、眼前の天使を罵る。
殺戮が訝しむように眉根を寄せ、たじろいだ。その光景すら、第三者の視点を借り、一枚の写真を遠くから眺めているだけのように映る。

「……何をいきなり。そんな、」
「『要はウリエルを盗られたようで面白くないんだろう』? 『お前は嫉妬深いやつだったからな』、『それくらい分かるさ』」
「言ってくれるね。君はニゲラと会った事もないだろ」
「『なかったとしても』、『私はウリエルから話を聞いているからな』」

ニゼルはせせら笑った。二の句を出せないサラカエルを放置して、するりときびすを返す。今の自分なら何でも出来る、そんな気分だった。

「『サラカエル』、『後で覚えておくんだな』。『私は』、『残念ながら言われた言葉は忘れない質だからな』」

扉は静かに閉められる。取り残された殺戮の天使。彼の表情は、困惑と屈辱、怒りに染まり、様々に忙しなく色を変えた。
「既視感」のある言葉回しだと、彼は無言で歯噛みする。ニゼルの変貌、サラカエルがそれを目の当たりにする機会は実はそうなかった。
そしてそれら一連の流れを、廊下の角、一階へ続く階段付近で静観していた者がある。香草茶を淹れて戻ってきたラファエルだった。

「……やはり」

再度歯噛みし、鳥羽藍夜らが泊まる部屋に続けて入室する愛弟子。その手には欠け月の護符が握られている。
言葉通りに捨て置く事など出来ない質だろうにと、治癒の天使は口にしない。弟弟子のプライドを、彼は彼なりに大切に扱っていた。
部屋からは、先の異様な雰囲気を消したニゼル=アルジルの明るい声と、時折彼を窘める鳥羽藍夜の呆れたような声が聞こえてくる。
ラファエルは扉の前に立つと、一瞬ノックするのを躊躇した。しかし、二人の会話の合間にサラカエルの声が混ざるのを聞き、手を上げる。

「ニゼルさん。他の天使達の噂のように、あなたは恐らくは――」

皆まで言い終えるより早く、扉を開いた。三者三様の歓迎の意を示す声が、治癒の天使を朗らかに出迎える。






「修学旅行に行こう!」

結局寝付けず、しかしラファエルのハーブティーはしっかりとご馳走になりながら、ニゼルがびしりと手を挙げて言い放った。
次の瞬間、羊飼いの体は派手に傾く。慌てて手を伸ばした藍夜は、友人の座っていた椅子を蹴り飛ばした犯人に振り向きざま声を掛けた。

「サラカエル! 君、いきなり椅子を蹴るのは止したまえよ。行儀の悪い!」
「ちょ、ちょっと藍夜? まず椅子の心配なの!?」
「やあ、ウリエル。そこの間抜けを眺めていたら何故か足が引っかかったんだよ。悪かったね」

謝罪通りの悪びれた様子など、欠片もない。殺戮は首を傾げ、常のわざとらしい人好きのする笑顔を浮かべて二人を見る。
藍夜は友人の膝や足を叩いて埃を落としてやり、手を繋いで立ち上がらせた。ニゼルはニゼルで、懲りずにサラカエルに舌を出している。
ラファエルが苦笑する中、ニゼルは蹴り倒された椅子を元の位置に戻し、背もたれを前から抱きかかえる格好で座り直した。

「えっと、うん、俺は割と本気なんだよね。さっき分かった事だけど、半年経っても藍夜の自虐癖が治ってないみたいだからさ」

藍夜は微かに眉間に皺を刻んで、友人を見る。皆まで言うなと目で訴えるが、ニゼルの涼しい顔を見て、彼は諦めたように嘆息した。

「ニゼル……君、余計な事を」
「あのねえ、俺だけじゃなく、サラカエルに琥珀、それにきっとアンだって藍夜を心配してるんだからね? これって凄く贅沢な話だよ?」
「そのアンブロシアは、僕達を今思いきり放置しているじゃないか」
「うーん、俺やサラカエルに気を遣ったんじゃないかなあ。積もる話をして下さい、って意味だと思うよ。アンって本当に健気だよねー」

自分達以外で部屋に残っているのは、殺戮、治癒の二名だ。ラファエル曰く、アンブロシアは本当に朝市に出てしまっているのだという。
シリウス、更には何故か怒り心頭といった様子の琥珀を連れて、彼女はのほほんとした声で、昼には戻ります、と笑顔で宿屋を発った。

「健気、か。先生、アクラシエルについて先生はどう見ます」
「うん、僕はアクラシエルとそんなに付き合いがなかったから……対天使でもありますから、彼女はラグエルに気質が似ているのでしょう」
「ラグエル? 誰それ?」
「アンブロシアの賢姉、つまりアンジェリカの天使としての名だよ、ニゼル。僕らと同じく、ヘラ様に雇われていた天使の一人さ」

ラファエルとその師に縁があるのはウリエルら対天使のみだった筈だと、藍夜は補足する。ニゼルは合点が行ったように頷いた。

「そっかあ。じゃあ、アンジェリカって意外と神経図太い感じだったのかもね?」
「ニゼル、君ね」
「やあ、そういうところは君にそっくりだったな。彼女の場合、立場や位を重んじてか、減らず口は控えめにしていたけどね」
「……あれ? 俺、今サラカエルに減らず口ばっかりの考えなしって言われてる? ちょっと酷くない?」
「ニゼル、サラカエル。君達は何故そこまで、僕の知らない間に不仲になってしまったんだい」

そのときだ。密かに苦笑していたラファエルが声を出して笑い出し、一行はぎょっとして彼を見る。
口を手で覆い、治癒の天使はくつくつと笑いを噛み殺した。目尻の涙を拭うと、ようやくといった体で一呼吸吐く。

「ラファエル先生? どうかなさいましたか」
「ああ、いや、すまない、ウリエル。ふふ、なに、君達のやりとりがあまりにも微笑ましくてね」
「先生。お言葉ですけど、虫ずが走るような事を口走るのは止して貰えませんか」
「ちょっとサラカエル、流石にそれは俺に失礼すぎじゃない?」
「本当の事だろ」
「はは、止しなさいサラカエル。友達が出来て嬉しいのは分かるが、親しき仲にも礼儀ありと、昔からケイロン先生が仰っていただろう?」

殺戮が硬直したのを、ニゼルは見た。言葉を探すという反応も思いつかないほど衝撃だったのか、彼は険しい顔のまま棒立ちになっている。

「ふふ、恥ずかしがり屋ですみません。銘に反して可愛い子なのですが、友人が少なかったからか天の邪鬼で」
「あの、ラファエル先生」
「えーっと……あー、ラファエル? それ以上言わないであげてくれない? なんとなーくだけど、俺も分かってた事だからさ」
「そうはいきませんよ、いくらなんでも暴言が過ぎますから……こら、サラカエル。黙っていないで、ニゼルさんに非礼を詫びなさい」
「えっと! うん、大丈夫、大丈夫だからね!? 勘弁してあげて、お願いだから!」

治癒の天使は自分の発言のどこに問題があったのか、まるで分からないといった顔をした。ニゼルと藍夜は、同情気味の視線を投げる。
固まっていたサラカエルは、二人の生暖かい眼差しにはたと我に返った。見る見るうちにその顔が歪み、ニゼルは後々を想像して嘆息する。
絶対後から八つ当たりされるに決まってる、声に出さずに嘆く羊飼いを、元気を出したまえ、とオフィキリナス店主が目で慰めた。

「それで……ああ、そうとも。思いきり話が逸れてしまっていたがね。ニゼル、君の言う修学旅行とは一体、どういう意味なんだい」

話題を変えようと、藍夜はラファエルの香草茶を啜りながらニゼルに問いかける。改めてといった形の質問に、ニゼルは瞬きを返した。

「そう、それそれ。俺も藍夜も、学校に通った事なかったでしょ? だから、一度くらいはそれっぽい事でもやってみようと思って」
「学がない、ね。なるほど、間抜け面に育つわけだ」
「サラカエル、またラファエル先生に物申されてしまうよ。控えておきたまえ」
「……」
「ううっ、めちゃくちゃ笑ってるー……怖っ」
「やれやれ……僕もニゼルも、両親から教わったからね。何せ、幼い頃から店や牧場を手伝っていたから、王都に行く暇もなかったんだよ」

サラカエルもラファエルもにこにこと笑っていたが、双方の笑みの意味合いは違っているのだろう。怯えるニゼルに藍夜は苦笑を零した。
早いところ、話を纏めておいた方がいいだろう。窓から差し込む高所から注ぐ暖かな日差しに、オフィキリナス店主は目を細めた。

「しかしだ、ニゼル。それはそれとして、僕達にもある程度なら学があるじゃないか。それを、いきなり旅行だなんて」
「ええ、いいじゃない。学生、なんて経験した事ないんだし。正直、俺はちょっと学校って行ってみたかったんだよねー。楽しそうだし」
「君ね、それは僕の疑問の答えになっていないと思うが」
「なんてね、そのへんはこじつけ。藍夜の長年の夢でしょ? 温泉とか、図書館巡りとか」

優れた学力を独自の手法で培うと名高い、サンダルウッド王国の学び舎や、王城内にあるといわれる大図書庫。
同じく、芸術や学問に秀でた著名人を多く排出すると知られているイシュタル帝国の独特な建築法や美術館、博物館。
地図を出し、点々と散らばるポイントを一つ一つ丁寧に指差し、ニゼルは最後に力いっぱいにそれを広げて親友の目の前に持っていく。
目を丸くしてじっとそれを凝視し、藍夜は喉奥で小さく唸った。

「温泉、は、確かに行きたかった。博物館も美術館も……いや、何より図書館か。収容されているのは父さんの収集物の非でないのだろうね」
「そりゃそうだよ、瓊々杵さんだって図書館には勝てないよ。ね? 『勉強しながらの旅行』、いいと思わない? 学生っぽいでしょ?」
「しかしね、ニゼル。僕にはもう、資金というものが」
「――ああ、それなら心配いらないよ、ウリエル。そこの間抜け面がオフィキリナスから盗んだ君のへそくりが、何も手つかずの筈だから」

……時間が止まる、とはこの事だ。和やかだった部屋に、あっという間に恐ろしいほどの静寂が訪れる。
ニゼルは、信じられないものを見るような目でサラカエルを見上げた。対し、殺戮は「ざまぁみろ」と言いたげに羊飼いを鼻で笑う。
八つ当たり、ここに極まれり。わなわなと怒りと恐怖で体を震わせるニゼルに、結局彼は謝罪しようとはしなかった。

「へそくり……へそくり、だって? まさか、ノクトの手からも逃れてくれた……僕が密かに集めていた、あの磨きコインの山の事かい」

不意に、地を這うような声が場を満たす。
反論の余地など与えまいとする重圧めいた声色に、羊飼いは錆びた玩具のようなぎこちない動きで目を向けた。
案の定、鳥羽藍夜がありとあらゆる感情を失せさせた顔でこちらを見ている。いつの間にか、彼の手にはあの雷神の雷霆が握られていた。

「あ、の、あのっ、藍夜? そ、それ、あ、あんまり使わない方がいいんじゃないかなー、って……」
「心配する事はないよ、ニゼル。何も、雷を起こすだけが能ではないからね」
「へ、へえー。じゃ、他にどうやって使うのかなー、なんて……」
「殴るのさ」
「え」

黄金の鋭い切っ先が、羊飼いの鼻先に突き付けられる。ニゼルはいよいよ、さあっと顔から血の気を引かせた。
立ち上がったはいいものの、背後には壁と寝具一つきりしかない。逃げ場など端からなかったのだと、彼は今更に思い知る。

「何なら、この尖った部分を突き刺してもいいかもしれないね。どこにとは言わないが。君もそう思うだろ? ニゼル」
「うう、ご、ごめんっ、ごめんってば! そうでもしなきゃ藍夜、立ち直れないかと思って!」
「言い訳は後にしたまえっ、さあ、そこに座るんだ! 後でコインも返して貰うからね、覚悟したまえ!!」
「うわあ、な、何もかもサラカエルのせいだ! 鬼っ! 人でなしぃーっ!!」

――落雷!
話は纏まりもしなかった。隠しもせずに腹を抱えて爆笑するサラカエルを、うんざりした様子でラファエルが窘める。

「こら、サラカエル。こうなると分かっていて、ウリエルに告げ口したね」
「アッハハ、す、すみません、先生。ま、問題ないですよ、ヒトのものを盗む方が悪いんです」
「はあ……それにしても、ウリエルときたらここまでお金にがめつい子だったかな。僕の認識がおかしいのか」

鳥羽藍夜のお説教ステージ開幕。涙目になりながら、それでもニゼルは内心、親友がここまで回復してくれた事にただただ安堵していた。
昼の訪れまで、あと僅か……アンブロシア達の帰還を、人知れず、いち早く望んで止まない羊飼いである。





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 UP:18/11/12