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楽園のおはなし (2-12) BACK / TOP / NEXT |
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荒い息を弾ませて、二つの人影が暗い廊下を走り抜けていく。ニゼルは、ロードを使う事も忘れてひたすら西へ、西へと逃げ続けていた。 窓の外、星の位置を見れば方角くらいならロードなしでも把握出来る。時折立ち止まり、窓を見上げて道を確認しながら先を急いだ。 「ニゼル、け、けだもの達って、何なの?」 「俺の、知り合いっ。っていうか、騎獣と旅のお供? 信頼出来る子達だよ!」 息も絶え絶えにリリーが問いかけてくる。振り返らずに早口で返事をして、ニゼルは三叉の曲がり角で足を止めた。 どちらに曲がるべきか……周辺に窓はなく、自分の感覚だけが頼りになりそうだ。 ぱっと振り返り耳を澄ますと、予想した通り、追っ手と思わしき足音が複数迫ってくるのが聞こえる。 (ロードを使えば……でも、こんなに暗いんじゃ光が目印になっちゃうかも) サラカエル達を信用していないわけではない。しかし、ニゼルはあの領主の目を思い出すだけで、身が竦み上がるような思いだった。 捕まればただでは済まされない。それだけでなく、下手すれば関係者と見なされ、親友や琥珀、アンブロシアまで被害に遭うかもしれない。 それだけは御免だ、ニゼルは自らの最悪の想像を振り払うように、頭を強く横に振る。 「えーと、リリー、どっちに行けばいいと思う?」 「この場合、どっちに行ったっておんなじじゃないかしらぁ」 やりとりは手短に。手をしっかり繋ぎ直して、二人は右へ曲がろうと駆け出した。 そのときだ。ふと体が軽くなり息が詰まる。はっとした時には既に遅く、「消失した床の上の空洞に」、二人の体は浮いていた―― 「しまった! 罠っ、」 「きゃああっ、ニゼル!!」 ――床板が消えた。驚くと同時、手を繋いだまま真下の暗闇に体が吸い込まれる。導かれるように、ニゼルはリリーと共に落ちていった。 このまま死ぬのか。衝撃に耐えようと歯を食い縛った、その瞬間。全身に強い衝撃と、「水」の飛沫、濃い湿気の匂いが叩きつけられる。 息が苦しい、溺れる! もがくようにして懸命に手足を動かし、ニゼルはふと、自分が暗い水の中にいる事に気が付いた。 冷たく、寒い。体が引き裂かれるようだ、死ぬかもしれない。あたりを見渡しながら慌てて手を伸ばし、腹から精一杯声を絞り出す。 「リリー、リリー! っぶはっ、リリー!!」 力がどんどん抜けていくのが分かった。何故こんな事になってしまったのか……凍てつくような寒さと漆黒の闇に、絶望と焦燥ばかりが募る。 (……藍夜! 助けて、藍夜!!) 小さい背中、しかし、ニゼルにとっての英雄たる姿を思い起こした。途端に泣きそうになる。 大量の水に溺れかけながら、それでも羊飼いは必死にもがいていた。 もしかしたら、誰かが助けに来てくれるかもしれない。それは、ひょっとすると鳥羽藍夜その人かもしれない。 たらればなど、意味はないのに……自嘲と同時に、視界が霞む。いよいよ全身から力が抜け落ち、ニゼルの体は水中に飲み込まれた。 (俺、死ぬのかな) 大きな気泡が漂う。自分が生き延びようと足掻く象徴だった。刹那、水を思い切り吸い込み、世界が真っ暗に染まる。 もう何も考えられない……気泡と涙が零れる隙間に、ニゼルはあの欠けた月を模した銀色の首飾りが、暗闇の中に煌めく様を見た。 (サラカエル……万が一の時はって、言ってた癖に) 銀光が零れる。やがてそれは、真新しい星が生まれる一瞬のように、眩い光となって暗い水中を照らした。 薄れいく意識の中、ニゼルは銀板の向こうに橙色の光を見る。それは、よくよく目を凝らせばひとの形をしていた。 見覚えのない、見知らぬ何者か。自分とリリーしか存在しない筈の暗闇に、新たな人影が、確かにはっきりと浮いている。 『――、……』 それは、沈みつつあるニゼルに向かって何かを語りかけた。よく聞こえない、意識を手放しながらも、羊飼いはそれの囁きに耳を傾ける。 『数多の……を持つ暁の子よ。……の、……を述べよ』 (あかつき……何を、言えって?) 気が遠のく中、無意識に手を伸ばした。その人影は、しかとニゼルの手を掴む。柔らかな感触が返された。強く強く、青年の手を握る。 『汝、偽りの口にて宿り木の願いを述べよ。さすれば道は開かれる』 (俺の……『私』の、願いは……) 世界が急速に上へと向かった。引っ張り上げられている、そう確信すると同時に、一気に肺に空気が流れ込む。 乱暴に放り投げられるようにして、冷たい岸、石造りの床の上に転がされた。文句を言う余裕を、今のニゼルは持っていない。 間一髪、溺れ死ぬところだったのだ。ただ咳き込み、嚥下した水を吐き出す。生きている、助かった、そう自覚するだけで精一杯だった。 「た、助かった? 一体誰が、」 呼吸が落ち着いたところで顔を拭い、あたりを見渡す。そうして振り向いた時、誰が自分を助けたのか、ニゼルは自ずと知る事になった。 「君は……誰?」 暗い水面を照らすように、空中にオレンジ色の光が揺れていた。その中央に、翠に艶めく金色の大翼を広げた天使が一人滞空している。 ラファエルでもなければサラカエルでもない。当然、鳥羽藍夜ですらない。見知らぬ天使を前に、ニゼルはぽかんと口を開けたままでいた。 開かれた目と視線が重なる。天使は、見てくれは女性の体をしていた。長い睫毛が静かに揺れ、尻餅をつく青年を冷たく睥睨する。 「わたくしの名は、ガブリエル」 「ガブリエル?」 オウム返しをしてから、ニゼルは自分の間の抜けた声が恥ずかしくなり、慌てて口を閉じた。名乗りを上げた天使は、気にした様子もない。 「わたくしは、彼のアスモダイによってこの地に長らく封じられていた。月明かりを遮断され、御力たる光を奪われていた」 「……えっと、あのー、ごめん。大事な話をしてるんだろうけど、俺、今すっごく寒くて余裕ないんだ。用なら手短にお願いしていい?」 「ニゼル=アルジル。貴殿は、わたくしに光を、殺戮の天使を媒介とした月光を齎した。わたくしは力を取り戻した……礼を言います」 今度こそニゼルは言葉を失う。またしても大口を開け、しかしすぐに我に返ると、羊飼いは目の前の天使をしげしげと観察した。 殺戮の天使、月光、取り戻された力。言われた複数の単語を口内で反芻し、自分は彼女に助けられたのだと確信する。 礼を言うのはこちらの方だ、そう言いかけた瞬間、ふとニゼルは胸元の欠け月の事を思い出した。何気なく視線を落とし、目を見開く。 微かな星明かりでさえ白銀に反射させ、事ある毎に美しく煌めいていた筈のそれは、今は何故か、錆び付いたような赤銅色に染まっている。 「……サラカエルに貰ったのに」 「申し訳ない。付与されていた加護と月光のかけらを、わたくしが全て吸収しきってしまったようだ」 「君、えっと、ガブリエルが? どういう理屈かよく分からないんだけど――」 「――やあ、どういう理屈か分かっていないなら、その間抜けな口は閉ざしていた方がまだ利口だと思うんだけどね」 突然、第三者の声が割り込んだ。驚いて肩を跳ね上げたニゼルは、背後に立つその人影を見上げ、思わず声を張り上げる。 「さっ、サラカエル! どうやってここに?」 「ガブリエルか。こんなところにいたとはね」 さらりと無視された。悔しげに歯噛みする羊飼いを放置して、殺戮の天使は軽く左腕を振り、武器である鋼糸を手の内側に控えさせる。 はっとして、ニゼルはサラカエルの前に両腕を広げて立ち塞がった。ガブリエルから彼を庇うような格好で、羊飼いは天使達の間に挟まる。 「そこにいられると、邪魔なんだけどね」 「だ、だって」 「サラカエル。汝は、今は其の羊飼いを守護しているのか」 「やあ、事情も知らずに発言するなんてらしくないんじゃないかな。堕天使に飼われるうちに趣旨替えした、というなら別だけど」 「ちょっと、サラカエル。なんでそんな喧嘩腰なの……」 「喧嘩腰、喧嘩腰ね。あっさりあんな分かりやすいトラップに引っ掛かっておいて、よくそんな事が言えたね、君も」 「俺にまで喧嘩売ってるの!? っていうか、そもそもは罠を仕掛けた方があれなんでしょ? 何でもかんでも、俺のせいにしないでよ!」 「へえ、君のせいじゃないというなら誰のせいなのか、教えてくれないかな。宝物を隠した屋敷にトラップがあるなんて常識だろ?」 喧嘩腰というならまだ穏やかだ。嘲笑うように口端を釣り上げる殺戮を見て、ニゼルはますます腕を大きく広げた。 ガブリエルの方はどうか知らないが、きっかけさえあれば、サラカエルはすぐにでもワイヤーを解放してしまうような気がする。 だが、事情を知らないのはこちらも同じだ。何より、ニゼルは不思議とガブリエルと初対面のような気がしなかった。どこか既視感がある。 彼女と話をしてみるべきだ、そう思った。故に、羊飼いは殺戮の興を殺ぐと知りながら、彼の前で懸命に通せんぼをする。 ……自分の気遣いを、天使達が理解してくれているかどうかは不明だが。 「汝もしばらく見ぬうちに変わったようだ。いつの間に人間と親交を深めるようになったのか」 「やあ、君の目は飾りなのかな、ガブリエル。そう見えるなら、是非一度僕達の兄弟子に目を診て貰うといい」 「兄弟子とはラファエルの事か。まだ交流が?」 「ウリエルともども、ね。最も、今のウリエルは器が変わってしまっているんだけどね。ラグナロクの影響もあってさ」 不意に、空気が変わった。 訝しむサラカエルの目線に釣られて、ニゼルは黙するガブリエルを見る。黄色の髪の天使は目を伏せ、憂いを帯びた表情を見せた。 ……黄色の髪の天使。ようやくニゼルは、ガブリエルへの既視感の正体を知る。無意識にあっと声が出てしまっていた。 「リリー!? それ、その髪っ! リリーの髪と一緒じゃないか!」 身を乗り出す青年の腕を殺戮が掴む。勢い任せに、再び貯水路に落ちるところだった。短く礼を言うニゼルに、サラカエルは首を傾げる。 「やあ、君は非の打ちどころがない間抜けだね。リリーという女、『天使様』と体を共有しているんじゃなかったかな」 「へっ? いつから聞いてたの!? って、ああ、そうか……つまり、ドヘンタイがご執心だったのはガブリエルの事だったんだね」 「ドヘンタ……いや、いいかなんでも。とにかく、ガブリエルの行方はこれで知れた。僕も人間界に降りた目的の一つを果たす事が出来る」 楽しげに笑う殺戮を見て、ニゼルは何度か目を瞬かせた。彼の朗らかな笑みは、心の底から出されたものに見えたからだ。 常の皮肉混じりの嘲笑や、わざとらしい人好きのするものに比べると、ごく自然で、温かみのあるものに思える。 ……不覚にもどきまぎしてしまった。頭を振り、ニゼルは話を逸らそうと天使の言に意識を戻す。 「目的? えっと、藍夜を見つける事じゃなかったの?」 「それもあるけど……ま、追々ね。それでだ、ガブリエル。覚醒したてで悪いんだけど、今代のウリエルに『告知』を施して貰えないかな」 「コクチ? サラカエル、それって?」 「ガブリエルの固有能力さ。人間として生まれた天使に告知する事で、本来の姿に戻す事が……ああ、追々と言ったのに話してしまったな」 「藍夜を本物の天使様に戻せるって事? そっか。じゃあ、対天使としては嬉しい限りだよね。藍夜は体も弱ってるし」 「告知の内容にもよるけどね。人間時代や転生前の記録を転写するかどうかは、告知天使の采配次第さ。彼女にしか出来ない仕事だからね」 初耳だった。ニゼルはついサラカエルを熱く見つめてしまう。彼は、鳥羽藍夜の寿命が尽きるのを待ち望んでいるものとばかり思っていた。 告知。それをされた時、鳥羽藍夜はウリエルという天使に生まれ変わる。サラカエルは、それを望んでわざわざ人間界に赴いたらしい。 (サラカエルらしい、って言えばらしいのかな? それ以外にも色々あるんだろうけど) 「殺戮」という銘はあくまで通称に過ぎない。対天使に対して甘く、過保護であるのは、彼の性分なのかもしれないとニゼルは思った。 「話が逸れたな。で、ガブリエル。久しぶりの仕事の依頼だ、もちろん受けてくれるね」 「えっと、サラカエル? それって、結構な脅しが入ってるよね?」 「そりゃそうさ、どれほど捜したか。ま、仕事熱心だって評判な天使の筆頭だし、問題ないんじゃないかな」 「――トバアイヤへの告知。……生憎だが、其れは出来ない」 刹那、ぽつりと、一滴の雨のような謝罪がガブリエルの口から流れ出る。サラカエルは目を剥き、ニゼルは言葉をなくした。 見上げた先、黄色の髪の天使は両目を閉じ、何かに耳を傾けるような様子で淡々と言葉だけを吐いている。 まるで、駄々をこねる幼子をあやすかのような口調だった。目が開かれた時、夏空を思わせる青の瞳が、諭すように二人を見下ろしてくる。 「出来ない? 何故」 殺戮の声が震えるのを、ニゼルは聞いた。緊張を走らせる天使達を見比べて、羊飼いは息を潜ませる。 「まさか、覚醒したてで自信がないとか、魔力が足りないとか。そんな寝言を言うわけじゃないよね」 「其れはない。わたくしにも、告知する相手を選別すべき理由があるというだけの事」 「ウリエルに告知する価値がないとでも? 八つ裂きにされたいのかな」 「サラカエル、たとえこの身を裂こうとも、其の願いは叶えられない。わたくしでさえ、今のウリエルの器を覚醒させてやる事は不可能だ」 サラカエルが腕を微動させた瞬間、改めてニゼルは両腕を開いて天使達の間に挟まった。背後から恐ろしい殺意がぶつけられ、足が竦む。 それでも退く気はなかった。ガブリエルの言葉を脳内で反芻して、一度視線を宙に彷徨わせてから、青年は滞空する天使を見上げる。 「ねえ、ガブリエル。意地悪とかで告知が出来ない、って言ってるわけじゃないよね。どうして藍夜に告知してあげられないの?」 「……やあ、部外者は引っ込んで、」 「サラカエル。サラカエルにとって藍夜は対天使ウリエルそのひとなんだろうけどさ、俺だって今の藍夜の親友なんだよ。忘れてないよね」 殺戮が押し黙る気配が返された。やはり、彼は親友の対天使だ――自分が今の彼と同じ立場なら、躊躇わずに「生意気なニゼル」を屠るのに。 何故それをしないのか、そこは彼の人柄によるものだろう。本当にお人好しだよねと、ニゼルはサラカエルに背を向けたまま小さく笑った。 ふと、ニゼルはガブリエルが眉根を寄せるのを見る。首を傾げると、彼女は一瞬、本当に刹那のうちに、悲しげに綺麗な顔を歪めた。 ニゼルが息を呑むと同時に、再び双眸は閉ざされる。何故、こちらを哀れむように見下ろすのか。羊飼いは、告知天使の二の句を待った。 「わたくしが此度の依頼を拒むのは、今のトバアイヤに告知を施したところで、其れが本来の作用を果たさないからだ」 「え……本来の、作用?」 「どういう意味だい、ガブリエル」 「今代のウリエルには、覚醒する為の魔力や寿命といった、告知を受ける為に要する最低限の要素が足りていない。使い果たしてあるのだ。 告知した瞬間、彼は器を作り替えようとする負荷に耐えきれずに命を落とすだろう。わたくしは、君達が悲嘆に暮れる未来を見たくない」 ガブリエルを見上げたまま、羊飼いと殺戮は言葉を失う。予想だにしない返答は、二人を硬直させるのに十分な威力を持っていた。 絶望を叩きつけられるとはこの事だ、目だけで振り向いたニゼルは、サラカエルの顔からあらゆる表情が消えていく様を見る。 なんとかしてやりたい、そう思った。しかし、自分もまた親友の現状を何とかしてやりたいと願っていた身だ。掛ける言葉が見つからない。 「トバアイヤは、徐々に命を欠けさせていくだろう。其れは恐らく、避けられぬ近しい未来」 「待って……藍夜は、そんなによくないの」 「月が満ち欠けするように、ヒトの生と死は繰り返される定め。わたくしにも回避する術の知識はない。神具を操るとは、そういう事だ」 ふと、ガブリエルはニゼルの腰に目線を落とし、釣られてニゼルも自身のロードを見つめる。 それ以上の「忠告」はなされない。告知の銘に相応しく、彼女の言葉はどこまでも事務的で、淡々としていた。 「近しい未来、彼の生命が尽きる、其の前に。汝らが最も後悔しない形で、彼と共に在るがよい」 翠の光を籠もらせる金の翼が、宙を叩く。大きな羽ばたきを一つして、直後、告知天使の姿はその場から消えていた。 礼もなしか、サラカエルが苦々しく罵る。ニゼルは何か言おうとしたが、結局何も口に出す事が出来なかった。 落胆したのは自分も同じだ、そして、ガブリエルの言う事も十分に理解出来ている。親友に会いたい……その想いを強く実感させられた。 「ねえ、サラカエル」 「なんだい、間抜け」 「琥珀達が待ってるんだよね。行こう、ここにいてもラファエルの足を引っ張るだけかもしれないし」 「……ふん、賛成だね。ガブリエルの恩知らずも、どこぞに逃げた後のようだから」 彼の嫌みにも、いつものような鋭い棘がまるで見当たらない。今は一刻も早くここを出るべきだと、二人は結論付ける。 暗闇に向けきびすを返した天使に続き、彼の瞳術の発動に合わせ、ニゼルは躊躇わずに記憶宝珠の杖を振った。 使い手の寿命を削る、神秘の力。それが導きの灯となるよう、密かに祈りを込めながら。暖かな色の光が、暗がりを点々と照らしていく―― 「――あっ、ニジー! 大丈夫だった、怪我とかしてない!?」 落下した貯水路は、結果として先の地下水路に続いていた。庭園に抜け出た後、サラカエルが番犬を黙らせている間にニゼルは西へと急ぐ。 待ち合わせ場所と思わしき屋敷の最西端のバルコニーには、殺戮の話の通り、旅のお供である魔獣二匹が羊飼いの到着を待っていた。 あたりには琥珀に殴られ、或いは蹴り飛ばされたであろう黒い翼の天使達が、失神させられたまま乱雑に転がされている。 アスモダイの手下だろう、見慣れない黒翼から目を離して、ニゼルは頭上に手を振った。 「琥珀……琥珀こそ、あちこちボロボロじゃないかー!」 「僕は平気ー! ちょっと待ってて、すぐそっち行くから〜!」 「よく言う。その左腕の切り傷、後で手当するからな」 「うっさいなー、ケツは〜。僕のおかーさんとかじゃ、ないんだからさっ」 青の艶やかな布地が踊る。二階からさっと飛び降りる琥珀とシリウスを見て、二匹とも無事でよかったと、ニゼルは胸を撫で下ろした。 不穏な空気を感じ取ったのか、シリウスが怪訝な顔で羊飼いを見つめてくる。ニゼルは誤魔化すようにあはは、と笑うだけで精一杯だった。 「おい、サラカエルとやらはどうした、ニゼル=アルジル」 「あ、うん。大丈夫だよ。シリウスは? 怪我とかしてない? 返り血とか大丈夫?」 「案ずるな。こんな雑魚ども、俺の相手ではない」 「返り血とか気にして、そんなに暴れられなかったクセにね〜。僕は大活躍だったけどさっ」 「ちょっと、琥珀ー? 怪我しといてシリウスに喧嘩売らないの」 「だってさ、ニジー、」 「ほらほら、言い訳しない! とにかく、全員無事だね? それだけで十分だよ。ラファエルがどうなったのかは、分からないけど……」 足音がして、一行は音の主に目を向ける。ぱたぱたと手のひら同士を鳴らし、埃を払う仕草をしながら、暗がりから殺戮が姿を見せた。 「先生ならご無事だよ、魔力の残り香が残ってる。むしろ、あのドヘンタイのその後の処置に追われているのだと思うけどね」 「ドヘンタ……サラカエル。ラファエルとは、合流しなくてもいいの?」 「やあ、そもそもドヘンタイと言い出したのは君じゃないか。ま、先生も後で合流すると仰っていたし、気に病む事もないんじゃないかな」 天使の視線が、不意に頭上に向けられる。釣られて虚空を見上げた一行は、東の空がだいぶん白々と明けていく様を見た。 告知天使の覚醒、堕天使の群れ、親友の尽きゆく寿命。現実味に欠けるそれらが、あの白雲に乗せて跡形もなく失せてしまえばいい。 叶いもしない祈りを嚥下するように、ニゼルはぎゅっと強く歯噛みする。賢く悟ったのか、一角獣が物言いたげな顔でこちらを見つめた。 「あのさ、この屋敷を出て、安全なところに行ってからでいいんだけど。俺から皆に、お願いがあるんだ。特に、シリウスに」 「お願い? なになに、ニジー。どうしたの、改まっちゃって」 「俺に頼み事? なんだ、何か入り用か」 「うん、まあ、ある意味おつかい、になるのかな? 今まではサラカエルに頼んでた事だったんだけど」 照れくさそうに苦笑して、ニゼルは頼れる面々の顔を順に見渡す。空を仰いでいたサラカエルもまた、羊飼いの方をじいと見つめた。 これから出す提案を皆はどう思うだろう。ニゼルは、自分が言わんとしている事が、ある意味では旅の終焉の告知となる事を自覚していた。 「俺、もう藍夜に会おうと思うんだ。話したい事ややりたい事がたくさんあるから。シリウスには藍夜宛ての手紙を届けて欲しいんだよね」 夜が明ける、長く暗い夜が明けていく。へらりと口元を緩ませながらも、ニゼルは自分が上手く笑えている気がしなかった。 親友、鳥羽藍夜。小さく細く、しかし心強い親愛なる背中。彼の姿を思い浮かべただけで、羊飼いの心は不思議と軽やかに躍り出す。 満面の笑みを貼りつけ、ニゼルは努めて声色を明るくした。「彼に会いたくてたまらない」。常のような我が儘を掲げ、一行の返答を待つ。 その願いを聞き届けるように、ふと天空から白光が降った。堕天使の治める街が、徐々に朝焼けに包まれていく。 |
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