・取扱説明書 ▼「読み物」 イラスト展示場 小話と生態 トップ頁 サイト入口・ |
||
楽園のおはなし (2-10) BACK / TOP / NEXT |
||
月のない、深夜の事だった。茂みから中庭を覗くと、案の定、凛々しい面立ちをした細身の番犬が数頭、ゆっくり闊歩している姿が見える。 ニゼルは眠い目をこすった後で、隣に片膝を着いて屈むサラカエルの顔を盗み見た。彼はまっすぐ前を向いたままで、目が合う事はない。 草の匂いが濃く漂う。周辺は星明かりで薄ぼんやりとしていて、殺戮の天使がいなければ塀を越える事も出来なかった筈だと改めて思えた。 ……イシュタル帝国は地熱や鉱石を加工する熱を用いた、発電技術に優れる国と聞いている。しかし、街は逆にしんと静まり返っていた。 街灯も形ばかりだ。なんとなく、ホワイトセージの街並みを思い出させる。人の気配がない事から、これがこの街の日常なのかもしれない。 正に、文字通り草木も眠る時間帯。三度目のあくびを噛み殺したところで、視界の端に何かが煌めき、ニゼルはそっと目線を動かした。 「(サラカエル。それ、)」 「(鳥羽藍夜のところから預かったのさ。時間を計測する用があったからね)」 見覚えがある筈だ。サラカエルが取り出したのは、親友藍夜が愛用していた真鍮製の懐中時計である。 「(時間を計るって、どうしてまた)」 「(やあ、静かにしなよ。そろそろ時間のようだ)」 不意に、木々の葉が揺れた。次第に風は強まり、ニゼル達が身を隠す茂みの表面も波立たせる。 見つかっては大変だ、冷や冷やしながら頭を低くした羊飼いの横で、殺戮はどこからかラファエルが持っていた物と同じ小瓶を取り出した。 色は赤黒く、何らかの塗料が塗布されている事は明白だ。しげしげとそれを眺めていると、サラカエルから一枚の布を手渡される。 ……口と鼻を覆うように指示された。嫌な予感がする、ニゼルは素直にそれを受け取ると、言われた通りに顔の下半分をしっかり塞いだ。 「さて、一仕事だ」 瓶が開封され、目に見えない気体か粉塵かが風に溶ける。次第に、ニゼルの耳に番犬達の唸り声が飛び込んだ。 心臓がばくばく言っている。息を殺し、茂みから庭を覗き込むと、黒い犬達はその場にばたばたと倒れていくではないか。 一頭、二頭、三頭目が倒れたところで、たまらずニゼルは茂みから飛び出していた。足早に駆け寄り、そっと鼻先に手を伸ばす。 「……あれ、生きてる?」 犬達は皆、寝息を立てていた。夢まで見ているような熟睡ぶりで、時折鼻や口元をひくつかせては、柔らかな皮膚を小刻みに震わせている。 「やあ、底抜けの間抜けだね、君は」 「サ、ナハト。これ、どうやったの」 「どうもしないよ、コンスイダケにバッカクの塊を少し、」 「コンスイダケ? バッカク? 何それ、ハーブか何か?」 「……とにかく、眠らせただけさ。それにしても、余計な手間をとらせてくれるね」 余計な手間? そう聞き返す必要はなかった。歩み寄ってくると同時、殺戮の天使はニゼルの腕を掴んで立ち上がらせ、軽く突き飛ばす。 振り向いた瞬間、ニゼルは屋敷の裏手から次々と黒い翼を生やした男らが出てくるのを見た。 衣服はサラカエルの装備によく似た黒装束で、一目で危うい面々である事が分かる。顔から血の気が引き、思わず彼のマントを掴んでいた。 「ま、また眠らせるとかは!?」 「それはないな。先生の術はここでは一回きり、そういう約束なんだよ。考えなしに飛び出すから」 「ラファ……じゃない、『先生』が? でもナハト一人じゃ、」 「やあ、その腰の品は飾りじゃないんだろ。ここは仕方なく引き受けるから、索敵しながら先に行っているといいよ」 振り向きもしない天使に胸を押され、ニゼルはふらふらと後退る。後ろ髪引かれる思いながらも孔雀石の杖を抜き、背を向けて走り出した。 (なんか、前にもこんな事があったような気がするなあ) 騒ぎの拡大を背に受けながら、目の前にある建物の角を曲がる。すぐ近くから足音が聞こえ、ニゼルは慌てて近くの茂みに飛び込んだ。 音を立てないように様子を伺う。親友のような瞳術の類の力を持つ者はいないらしく、息を殺しているだけで、追っ手は通り過ぎて行った。 (よーし、落ち着け、ニゼル。せっかくサラカエルが逃がしてくれたんだから、その間に俺が天使様を見つけておけばいいだけだよね) くるくると杖を回し、あの光の帯を呼び出す。ふわりと橙色の石が発光すると同時、砂のような粒が地面に滴り、するすると前へ進んだ。 見つかりにくい道を示しているのか、壁伝いに屋敷の敷地外に出るよう指示される。首を傾げながらも、ニゼルは光の帯をひたすら追った。 「えっと……これ、水路だ」 暗がりを照らすオレンジ色の光は、外壁を伝って下方に下り、普段なら誰もが見向きもしない水路の上を旋回し始める。 ニゼルが一歩踏み出すと、ついてこいと言わんばかりに、光はするすると奥へ伸びていった。ほの明るい帯は、下へ下へと向かっていく。 途中から急な坂道になっていて、先が見えない。いつかのレテ川のように、どこまでも暗い……ニゼルは自らを鼓舞しようと、頭を振った。 しっかりと石壁に手で触れ、そろそろと慎重に歩を進める。暗くなっているのも無理はない、水路は屋敷の地下へと伸びているようだった。 「藍夜がいたら、『また危ない事をして!』って怒られそう、ううん、間違いなく怒るんだろうなあ。全部サラカエルのせいだけど」 心細くないと言えば嘘になる。強がりを全開に、腕を強く振りながら先を急いだ。足下を照らしておく事だけは忘れない。 暗闇の中、むっと濃い湿気が身を包み、どこからか漏れ出しているであろう水滴が床で跳ね、ぴたぴたと不気味な音を立てている。 輪の国でいうところの、妖怪、お化けなどが出てきそうな雰囲気だ。ぶるっと身を震わせて、ニゼルは縋るような思いで光の帯を追った。 「! 明かりだ」 ふと奥の方に、ぼんやりとした光が見える。ニゼルは一瞬逡巡した。もし見張りだとしたら……地下水路は一本道だ、逃げ場はどこにもない。 続けて確かな足音も聞こえてくる。今から逃げたところでどうなる距離でもない、ましてや導きのロードの力も煌々と発現されているのだ。 (もし危ない目に遭わされなきゃいけなくなったら……全部、サラカエルのせいって事にしてやるー!) 思わず身構えたその瞬間、羊飼いは突き出した杖のやり場に困り果てた。 「――あらぁ? こんなところに、ヒトがいるわっ」 間延びする声、菓子か香水を煮詰めたような甘い匂い。無意識に口を閉じて凝視する。軽快な足音と共に現れたのは、見知らぬ女だった。 匂いの発生源が彼女である事は明白だ、とてもいい匂いがする。髪はサフランの色素で染めたように明るい黄色で、長い睫毛も同様だった。 背はそう高くないが、腕や足の長さ、腰のくびれ、大きな眼や艶のある肌といい、美女と表現するのに十分な、素晴らしい容姿をしている。 ……悲しい事に、ニゼルは今のところ色恋沙汰への関心がなかった。純粋な気持ちで首を傾げ、鼻歌交じりの女をしげしげと観察する。 「えっと……君、誰? どうしてこんなところに、」 「あらぁ、アナタがそれを言うの? こんな時間に出歩くなんて不良ねえ」 「ふ、不良って」 「不良でしょう? こぉんな時間に領主様のお屋敷にロード付きで入ろうだなんて、悪い子だわっ」 上質なルビーをあしらったような、真紅の瞳。双眸がそれごとくしゃりと歪み、女の顔が不気味な笑みを浮かべた。 芯からぞくりとした悪寒を受け、ニゼルは体を硬直させる。しかし、不穏な気配は一瞬で、女は忙しなくあたりを見渡し溜息した。 随分騒がしい女だと思う。とはいえ、見張りや用心棒といった類の存在ではないらしい。安堵したニゼルは、そっと黄金の杖を腰に戻した。 「それにしても、こんな地下通路があったなんて驚きだわ。湿っぽいし狭いし地味よねえ。非常時の脱出口なのかしらぁ」 「脱出口? え、君は、このお屋敷の人じゃないの?」 「あらぁ、モノは考えて発言した方がいいわよ。アナタが大きい声で言えない用事でここに来たって、あたしにバレちゃうじゃない」 「えっと、うん、それはそうなんだけど……いいや、君は何者? 俺はここに天使様が捕まってるって聞いたから、ちょっと興味があって」 話が噛み合わない。なんとかこの場をやり過ごそうと、ニゼルは正直に目的を明かしてみる。女は一度瞬きして、直後、唐突に噴き出した。 「やだぁ、アナタ面白い子ね! うふふっ、そうねえ。アナタが教えてくれたんだから、あたしも自己紹介くらいはしなくちゃねっ」 「えっと、俺が聞きたいのは自己紹介とかじゃなくてー、」 「でもぉ、残念だけど今のあたしには名前がないの。名乗れないのよ」 「名乗れない? どうして……」 女は意味深に微笑み、口元に人差し指を当て、言外に秘密だと主張する。ニゼルはわけが分からないと応える代わりに、静かに瞬きをした。 「だって、今のあたしはあたしであってあたしじゃないんですもの。何より、ほら、これが悪いのよ」 「それ、何? 鎖……趣味なの?」 「やだぁ、いちいち面白い事言うのねえ! 違うわよう。これがある限り、あたしは『ここ』から出られないの……せっかくの新月なのに」 「新月? そういえば、確かに星しか見えなかったなあ」 「そうよ。『あたし達』は新月の夜にこそより自由でいられるの。それを拘束されたんじゃ、たまったものじゃないわっ」 彼女の視線に合わせて目を床へ向けると、白い足先、細い足首には、鈍色の小振りな枷と鎖が装着されている。 鎖は限りなく細く、女が足を動かす度に微かな音を立ててはいたが、言われなければ分からないほど闇の中によく馴染んでいた。 月のない夜と赤い瞳の女。関連性が見いだせず、ニゼルは首を傾げるばかりだ。青年の困惑を無視しているのか、女はぱっと顔を輝かせる。 「そうだ、イイコト思いついた! アナタ、あたしに適当な呼び名でも付けてくれない?」 「へっ、俺が? なんで?」 「やだぁ、名前がないなんて不便でしょう? ステキな名前がいいわねえ、アナタのセンスが今、試されるのよう!」 「ちょ、ちょっと待って! 俺、君とは初対面だよね? 知り合ったばかりの人にあだ名を付けるなんて、」 「あらぁ、名前って大事なものよ。あたしは仮初めの名前でも欲しいわぁ。それに、こうして出会ったのも何かの縁かもしれないでしょ?」 「ええー……?」 どうしてこんな話になったのか。女の言い分に振り回されている自覚はあった。それ故に、ニゼルは首を傾げるより他にない。 一方、女の方は本気の発言であったらしい。きらきらとした目で羊飼いを見つめ、呼び名となるであろう次なる言葉を待っている。 ニゼルは、不思議と彼女と初対面の気がしなかった。遠い何時か、どこかでこんな風に、くだらない話に興じた事があったような気がする。 「ほら、はーやーくっ。ねえ、まだなの? あたし我慢するのってニガテだわぁ」 「ちょっと待ってよ、もう! 呼び名か……ヒント、って言いたいとこだけど、駄目なんだよね?」 「あらぁ、既成概念で付けようなんてツマラナイわよ? あたしは、アナタだけのセンスが今、知りたいの!」 「……うーん。全然、話が通じないなあ」 「何か言ったかしらぁ?」 「うわ、近い近い! うーん、えっと、そうだなあ……そうだ、『リリー』は? 『ユリの花』をイシュタル風に言うとそうなるんだって」 真紅、黄色――鬼百合。それぞれに色づく花など多くある筈なのに、何故かニゼルは、この女にはユリが似合うように思えて仕方なかった。 女は目を見開き、ひっきりなしに瞬きする。気に入らなかっただろうか……口をもごもごさせていると、眼前にあった顔が破顔した。 「やだぁ、アナタ分かってるのね! ユリはあたしにとって、とぉーっても身近な花よ。それを付けようだなんて、センスあるのねっ」 「え、そ、そうなんだ? そっか。えっと、よく分かんないけど、よかったね?」 「うふふっ、そうなのよう。『リリー』、気に入ったわ。じゃあ、しばらくそれでいこうかしら……ね、ニゼル」 「……え? 俺、名前言ってないよね?」 くるりと長い髪が弧を描く。ニゼルに一度背を向け、首だけを巡らせて振り向いたリリーは、小悪魔のようにくすくすと笑った。 とても魅惑的で、甘美な笑みだ。やはりどこかで見たような覚えがある。呆然と見つめていると、リリーが先に口を開いた。 「イイオンナには秘密が多いのよ。ね、領主様のところに行きたいんでしょう? あたしが案内してあげるわ」 「どうして? 君は天使様の居場所を知ってるの?」 「うふふっ。やだぁ、そんな今更な話、笑えないわよう。どのみちあたしだって、領主様にしか解けないコレをどうにかしなくちゃなのよ」 リリーの足下で、しゃりしゃりと鎖が鳴る。鍵か何かの事を言っているのだろうか、やはりニゼルは首を傾げた。 「一応確認しておくけどさ。それって、俺にも手伝え、って言ってるよね」 「あらぁ、賢い子は大好きよ! うふふっ、名付けの責任は重大よう? 宜しくねっ、ニゼル」 「あー……俺、後で怒られるんだろうなあ……」 唐突に脇腹に衝撃。見れば、リリーがニゼルの左腕にぴたりと引っ付いている。 離れてくれ、と腕を揺するも、彼女は足が思うように動かなくて歩くのが大変だ、と早口で捲し立てるばかりだった。 渋々と記憶宝珠の杖を引き抜き、道を照らさせる。興奮してはしゃぐ奇妙なお供を引き連れて、ニゼルは首を傾げながら地下水路を進んだ。 月のない、夜が最も深く色づく頃だ。違和感を覚えて目を覚ましたとき、傍らに「あの姿」がなかった。 黄色の髪、灰色の鎖。慌てて跳ね起き、あたりを見渡しても、残り香はおろか、微かな物音すら聞こえてこない。 焦燥に駆られ、身を起こしながら低く唸る。歯噛みしながら、ひっそりと天使ペネムエを恨んだ。 あれが現れるとろくな事がない事くらい、長いつきあいで知っていた筈だったのに……寝具から降り、簡単に服装を整える。 (落ち着け、あれの気配を辿る事など造作ない) 失敗は許されない。 「あれ」を託された時、自分は心の底から歓喜したのだ。古の時代から、ずっとあれに恋い焦がれてきた。失う事など考えられない。 名もなき領主は一旦廊下に出ると、目を閉じ、意識を集中させる。そうする事で、施した術の微量な魔力を感知する事が出来るからだった。 「……馬鹿な。魔力拘束が、弱まっている?」 術の呼応が弱い。落ち着け、自分に言い聞かせながらも、冷や汗ばかりが頬を伝っていくのが分かる。 扉の横すぐ、花瓶の置かれた棚に手を伸ばすと、彼はそこに設置されていた水盆を両手でそっと持ち上げた。水は十分な量を張っている。 彼の術式は水、特に水鏡との相性がいい。特に水盆は術の発動や強化の媒介として最も相応しく、屋敷の至るところに用意させていた。 「一時、一瞬でも術を絶やす事は出来ない」。依頼主の言葉が脳裏を過ぎる。それがあれを預かる為の、必須条件だった。 その術が今、弱まっている……何故なのか、皆目見当もつかなかった。逸り、焦る気持ちを内心宥めながら、追跡用の呪文を口にする。 (頼む、捕まえてくれ、あれはもう私の物だ。それでいいだろう、誰も不幸にならない筈なのだ) 刹那、水の表面が波立ち、ぼんやりと目的の姿を浮かび上がらせた。領主は血走った目を水鏡に向けると、映像を食い入るように見つめる。 黄色の髪、灰色の鎖の音、間違いない……見つけた事に、彼はまず安堵した。次に、あれが牽引している人間の姿を目にして歯噛みする。 「人間、人間……それも、男だと? 私というものがありながら、たかが人間、それもあんな貧弱そうな男に、心を許したと?」 男は、くつくつと笑った。そう、不思議と笑いが込み上げたのだ。あれと、それにくっつくようにして歩く人間を見た時、彼は笑った。 同時に、これが強烈な感情……嫉妬であり、憤怒である事を知る。許せない、許し難い、彼は硬直させていた口元を不気味に歪ませた。 空色の髪、赤紫の瞳。風が吹けばそれだけで飛んでいってしまいそうだと、男は青年を鼻で笑う。水面越しの対峙であるのが残念だった。 水鏡はなおも、二人を追跡している。脱出口である地下水路を抜け、いよいよ屋敷の中への侵入を果たした瞬間を、彼は目の当たりにした。 「ほう、そうか、やはり戻ってくるか。そうだろう、私の術があるのだ。この屋敷からは、簡単には出られまい」 許せない、許し難い。彼は再びそう口にする。自分から離れようなど、解放されようなど、望まれようとも許可してやるつもりはなかった。 ……本来なら、自分があれを拘束する事自体が許されない行為だ。それくらいなら流石に理解している。 しかし、男は誰に咎められようと、いっそ罰せられようと、長い間募らせていた想いを実らせる機会を逃そうとは思えなかった。 「千載一遇の機会なのだ……絶対に、逃がしてなどやるものか」 百合の花、黄色の髪、美しい女性体の「天使」。夢中だった、焦がれていた、いつか手折り、手繰り寄せ、貪り食らおうと考えていたのだ。 想像しただけで、体が歓喜に震えるのが分かる。どんな風に乱れ、名を呼び、縋ってくるのか。思わず唾を飲んでいた。 逆にいえば、今の今まで手をつけなかったのは預かったという義務感からではなく、想いが熟成される時間経過を待っていたからだ。 その間に相手が自分を好いてくれる事態となれば文句なしだ……人間の領主として振る舞いながら、ずっとそうして耐えてきたというのに。 「それで、どんな男なのだ、これは。どう見ても普通の人間にしか見えん。紐解いてみるか」 再び水面が揺れ、映し出されていた青年の姿が拡大される。詳細を明かす為の魔力を水鏡越しに注ぐと、全体の輪郭がぼんやりと薄らいだ。 「……こ、これは!? そうか、そういう事だったのか」 目を見開いたまま凝視する。青年の胸元には、うっすらと銀色に光り輝くものが下げられていた。 「月天の加護」の媒介だ。殺戮と呼ばれる高位天使、サラカエルの魔力と加護能力の媒介にして、強力な護符の一つ。 それを身につけているという事は、即ち、この間抜けそうな青年に手を出した瞬間、サラカエルと対峙する事になるという事に他ならない。 彼は特定の人間を贔屓するような天使ではなかった筈だ。「天上界にいた」頃から、殺戮に関する残虐で黒い噂はよく耳にしている。 加護を与える、庇護する……そういった天使らしい行いはむしろ皆無で、彼の対天使ばかりが知るものとばかり思っていた。 「まさか、『殺戮の天使が来る』というペネムエの寝言は真実だったのか……なんて事だ、今夜の話だと!? 何故もっと早く言わん!」 水盆を元の位置に戻し、足早に廊下を進む。呼吸は浅くなり、顔からは血の気が引いていった。 相手が高位天使、それも殺戮となれば、迎え撃つ用意はしておかなければならない。いくら何でも、拷問される趣味はないからだ。 既に屋敷の中にいるのだろうか……ペネムエの言葉を思い出し、今更と知りながらも自分の警戒心のなさに呆れてしまう。 (落ち着け、私の『あれ』を奪われるわけにはいかんのだ) 連中の目的が何であれ、最終的にあれが手元に残るならそれでいい。しかし、もし自分から奪おうとするなら、容赦するつもりはなかった。 その為にあらゆる下準備は済ませてある。たとえ戦闘能力に優れた殺戮の天使であろうと、全ての対策を踏み越える事は難しい筈だ。 男は慌てふためくサラカエルの姿を想像し、にやりと笑った。そして、ふと闇の中、窓硝子にぼんやりと映った自分の姿を見て目を細める。 「ふふ……渡さん、絶対に誰にも渡さんぞ。相手が殺戮であろうとな。そうとも、悲願とは、叶えられてこその悲願であろう?」 月のない、深夜の事だった。 古来より、新月の夜には「魔」の「物」の力が強まり、魔女や悪魔、堕天使といった生き物が活性化するとされている。 赤黒い、二本の短い仔牛の角と、同色の二本の仔羊の巻き角。側頭部に生えた二対は、領主その人がヒトではない事を如実に物語っていた。 彼は人間ではなかった。ある存在から「黄色の髪の女」を預かり、これを守護し、世間から隠す事……それが彼の本来の仕事の筈だった。 しかし、それも最早過去の話。熟れた赤葡萄を思わせる男の瞳は、利己と渇愛、愛欲に焦がれるあまり、今や憤怒に歪んでいる。 |
||
BACK / TOP / NEXT UP:18/10/24 |