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楽園のおはなし (1-52)

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オフィキリナス正面玄関まで戻ると、何やら丸めた布を抱えたサラカエルと出くわした。
聞けば、藍夜がコート掛けに放置していた外套を洗いに行くつもりだと彼は言う。

「サラカエルさん、お洗濯ならわたしが……」
「血が染みついてるからね。専用の石鹸でないと落ちないし、君達はやる事があるんだろ」

藍夜はそっぽを向いた。暁橙の死の象徴そのものである見慣れた外套は、昔から着ていた愛着あるものだが、今は見るだけで心が軋む。
自分の無力さに正面から向き合う事になるからだ。それがとても苦痛だった。心情を汲んでか、対天使はさっさと裏手に向かう。
サラカエル、思わず呼び止めると、殺戮の天使はいつものように、ひらひらと片手を気楽そうに振り返しただけだった。

「でっ、さぁ〜。これからどーすんの、藍夜〜」
「琥珀」

気が沈みかけたところを浮上させられる。翼の先でこちらの手を弱く突っつき、グリフォンは嘴をがちりと鳴らした。

「ショーバイ上がったり〜なんでしょ? オンセンメグリにでも行く?」
「温泉巡りって、琥珀ー? 藍夜は藍夜で、やる事あるんだよ?」
「だってさぁ、ニジー。ニジーのおとーさんもおかーさんも王都に行っちゃうんでしょ? その時点で、ビンボーまっしぐら〜じゃない」
「ああ。少し、そのあたりは考えなければならないね」

アンブロシアが悲しげに顔を歪める。藍夜は片眉を釣り上げるが、それ以上は問い詰めず、先ほどまで作業を手伝っていた場所へ向かった。
オフィキリナス正面よりやや、丘を下った地点。ずらりと並んだ大馬車に、次々と避難民、オフィキリナス来の物資が運び込まれている。
食器類はもちろん、余裕があれば棚、椅子なども。流石に、父が収集していた古書や母の料理帳、暁橙の武具は含ませないようにしていた。
……あの時、確かに自分は自暴自棄になっていたと藍夜は思う。目を閉ざしたのは一瞬で、静かに開き直した直後、迷わず歩き出していた。

「インディコール」
「……おや、おやまあ、オフィキリナス店主殿」

ブロンドの髪がふわりと揺れる。インディコールだ。彼は部下の一人に大きめの傘を持たせて立っており、雨の最中も濡れずに済んでいた。
それだけ、自身の容姿に誇りを持っているのだろう。不機嫌そうに鼻を鳴らすニゼルを制し、藍夜は彼が書類から目を上げるのを待った。

「何か用かな? と言っても、物資については一度貰い受けたものを返すつもりなどないがね。言っただろう、こちらも忙しいのだと」
「っ、こいつ! どさくさに紛れて藍夜の家から根こそぎ奪っていくつもりの癖に――」
「――ニゼル。インディコール、渡した物資については異論ないとも。僕が気になっているのは、君が腰に下げている品の事さ」

傘係の騎士も含め、全員の視線が一斉にインディコールのマントに向けられる。彼の腰は、青い布に大部分を覆われていて殆んど見えない。
その下に何らかの品を隠す事も、可能であるといえば可能だ。真っ先にニゼルが駆け寄り、後退るインディコールのマントを手荒く捲った。

「なっ、何をするんだ、無礼な!」
「……これ……無礼って、お前! どの口でそんな事言えるんだよ!!」
「ニゼルさんっ、落ち着いて下さい、ニゼルさん!」
「離してよ、アン!」

興奮するニゼルを、アンブロシアが懸命に押さえ込む。マントの下に隠されていた物。それは藍夜が持つロードの一つ、雷神の雷霆だった。

「アン! なんでこんな奴の事庇うの!? こいつ、雷霆までっ、」
「ニゼル。落ち着きたまえよ、言い訳を聞く事も出来ないじゃないか。さて、インディコール。どういうつもりか、お聞かせ願おうか」
「う、うう……」

その神具は、長い間手に馴染ませてきた品だ。他者の手に渡れば、それとなく気が付く事は出来る。藍夜は肩を竦め、話をするよう促した。
インディコールは体をわなつかせる。顔色が赤くなり、青くなり、白くなり、彼は端正な顔に似合わない脂汗を多量に額に滲ませた。
様子がおかしい。跳び掛かる体勢を取った琥珀を手で制し、藍夜は大きく息を吐く。ニゼルにもすぐその場から離れるよう、指示を出した。
藍夜と若い傘係の部下を見比べ、インディコールは立ったまま、掻き毟るようにして頭を抱え込む。今や、彼の目は赤く血走っていた。
副隊長の人柄は完全には把握していない。しかしこれ以上刺激すれば、彼が何をしでかすか分からない。部下への体面もあるだろう。
そんな予感が藍夜にはあった。被害を出してからでは遅い。故に、ニゼルを連れて戻ってきたアンブロシアを、親友ごと手早く背後に回す。

「あの、藍夜さん、」
「ちょっと、藍夜、」
「二人とも、少し黙っていたまえ。インディコール。話したくないというなら僕は構わない。ただ、それを返してくれたらいいんだ」
「……う、」
「た、隊長? どうされ、」

藍夜が呼び止める暇もなかった。若い騎士がインディコールの肩に手を置いた瞬間、副隊長は信じがたい力でそれを振り払う。
騎士は悲鳴を上げ、牧草の上を転がった。身を乗り出したニゼルの袖を、琥珀の嘴ががしりと噛み、引き寄せる。藍夜は珍しく舌打ちした。

「インディコール! 落ち着きたまえ、」
「ち、違う、違う違う、違うっ! 私は悪くない、私はこんなもの、盗んだ覚えはないっ!」
「盗んでないって、そこにぶら下げてるじゃないか! 何言って、」
「ニゼル!」
「私じゃない、私は悪くないんだ! そ、そこに飾られていたこいつが、私に語りかけてきたんだ……『私を王都に連れていけ』と」

興奮しきっていて、まともに会話にならない。薄々分かっていたが、今のインディコールは正気ではない。一見だけですぐに分かる。

「雷神の雷霆、それがそのロードの名だとも。その声が聞こえたという事は、君はそれに魅入られただけだ。安心したまえ、君に罪はない」

落ち着かせる為、鎮めるべく、藍夜は発声に静かな圧力を加えた。それが副隊長の耳にしかと届くよう、決して彼を責めたてない。
背後のニゼルから、恐ろしいほどの怒りの視線が向けられる。藍夜は小さく苦笑して、肩を竦めた。君も落ち着きたまえと、態度で示す。

「ほ、本当かね。私の話を、信じてくれるのか」
「もちろんだとも。話してくれるかい」
「そうか……いいとも。だがこんな話、聞いたところで信じて貰えないかもしれないが」

インディコールは、雷霆を手に入れた時の事をぽつぽつと話し始めた。その間に、アンブロシアが突き飛ばされた騎士の治療に向かう。
彼は憔悴しきった顔で、これ以上ないほどに大きく嘆息した。後悔を露出させるように利き手を額に押し当て、小さく唸ってから口を開く。

「つい、さっきの事だ。君が一度店に戻ると言って去った後、私も着いていったのだよ。他に避難民がいないか、最終確認を取りたくてね」

藍夜とニゼルが衝突し、更にサラカエルが喫茶店側に向かった後。玄関口に立ったインディコールは、ふと視界の端に眩い光を受けた。
視線を下に向けると、玄関のすぐ横に立てかけられた黄金の物体が目に映る。それはきらきらと魅力的に輝き、自分を連れ出せと囁いた。
まるでその金の塊が、意志ある生き物であるかのように。導かれるようにして、彼はぼんやりと酩酊した頭で、手を伸ばしてしまったのだ。

「抗い難い声だった……頭の中で、聞いた事もない男の声がして。気が付いたらそれを忍ばせていた」
「……男の声、かい」
「ああ、そうとも。周囲には誰もいなかったし、私はどうかしてしまったのかと……だが、いや、何を言ってももう言い訳にしかなるまい」

インディコールは促されるより早く腰に手を回し、もたつきながらも雷霆を取り外す。そのまま手渡され、藍夜は素直にそれを受け取った。
ずしりと手に返される重さ。見知った造形だが、それはいつもより暗く輝いているように見える。高位神具を見下ろし、藍夜は目を細めた。
雷神の雷霆に象徴される神は、大神ゼウスだ。もしロードに彼の神の意志が宿っているなら、副隊長は正に誘惑されてしまったのだろう。

(……不服そうなものだね)

期待を込め胸中で話しかけてみるも、返事が返される事はない。藍夜は眉間に皺を刻んだ。これまでもそんな経験をした覚えは一度もない。
ロードは、外界に自ら働きかける事が出来るのだろうか。だとしたら、そもそも安易に売買する事自体、危険な行為だったのかもしれない。

(まさか、一連の事件はウリエルの因果だけが作用したという、単純な話でもないのか)

しかし、そんな事を考えている余裕はない。仮定の話に思考を巡らせたところで、現実の問題が解消されるわけでもないのだ。

「インディコール。他に避難を要する者はいないよ、このニゼルも、ここに残るそうだ」
「そうなのか。しかし部下の報告によれば、牧場も最早機能しない状態だと」
「構わないよ。彼が、そうしたいのだそうだ」

後ろから、ニゼルがぱあっと破顔する気配が返された。藍夜は肩を竦め、副隊長とその部下に、荷物の最終確認をするよう促す。
インディコールは、そのつもりだと肯定の意志を示した。藍夜に頷き返し、彼は部下に口頭で謝罪しながらきびすを返す。
途中、彼は若い男とすれ違った。目を引く特徴的な色の髪を持つ青年だ。彼の身元は把握していた為、副隊長は特に言及せず大馬車に戻る。
彼と鳥羽藍夜らの因縁まで、インディコールらは関知していなかった。従って、彼ら視察団はホワイトセージの調査の為、急いでいたのだ。

「――おい、ニゼル!」

後片付けをしようとオフィキリナスに戻ろうとした最中、藍夜とニゼルは、件の青年に呼び止められて歩みを止める。
振り向いた先。真剣な顔をしたハイウメが、拳を握り締めながら二人をじっと見据えていた。






「……ハイウメか」
「まーた出た。今度は何の用ー? 俺達、これから忙しくなるんだけど」
「ニゼル。君ね、何事にも言い方というものが」
「だって」

いつもの応酬。藍夜は軽く片眉を上げる。常のハイウメなら、これらのやり取りの中、口を挟むか、苦い顔をするかのどちらかだった筈だ。
今回はそれがない。差し出した物資に不足はない筈だし、今朝の彼とニゼルの会話では、二人はそこまで揉めていたように見えなかった。
出立まで時間がない。急ぎである筈の今、何の用だというのだろう。彼の目的が見えず、藍夜はニゼルと一瞬視線を交わした。

「おい、ニゼル」
「って、俺? はいはい、なーにー?」
「てめえ、その化け物とここに残るんだってな。てめえの親から聞いたぞ」
「もう! また化け物とか言うし。藍夜は化け物じゃ、」
「化け物だろうが! いい加減、もううんざりなんだよ!!」

突然の怒声。琥珀はピヨッと全身の羽毛を逆立て、アンブロシアはびくりと肩を跳ね上げる。それほどまでに青年の声は怒りに満ちていた。
藍夜は困惑する。これまで彼には何度も化け物と呼ばれてきた。しかし、それはロードや天使能力を操る異端に向けた俗称のようなものだ。
嫌悪感や拒絶を押し付けられた事はない。むしろハイウメは、それをあからさまに露呈する者を窘める立ち位置を好んだと記憶している。
それが何故……藍夜は、ホワイトセージの一件を思い出した。ニゼルへの思慕や、母を亡くした悲しみ、そして罪のない民を奪われた怒り。
自分が暁橙の死を受け入れられなかったように、ハイウメもまた心のどこかで、それらの深い傷口を熟れさせていたのではないか。
だとしたら、ニゼルを自分から引き剥がす大義名分がある此度の機会を、彼はみすみす見逃すつもりもなかったのでは。

(ハイウメ。君は本当に、ニゼルの事を)

現状、彼の決断とは裏腹にニゼルは王都行きを拒否している。鳥羽藍夜、オフィキリナスを選び取り、ハイウメの元に近寄りもしない。
……酷な話だと、藍夜は思った。誰かを好きになった際に享受出来る甘やかな想いと苦しみ、喜びは、自分も過去に経験している。

「最初から、鳥羽の連中がこの街に来た時点で、追い出せばよかったんだ……街に留まらせるべきじゃなかった」
「ちょっと……ハイウメ?」
「見ろよ。野蛮な冒険者どもが増えて、水と空気を汚しまくる印刷所が建って、終いには天使だ、化け物の群れだ、って。小説か何かかよ?
 ふざけんな、こんなクソな話があるかよ! 何もかもてめえのせいだ……てめえがここにいなければ、生まれてこなければ良かったんだ」
「ハイウメ! お前、言っていい事と悪い事くらいっ、」
「うるせえぞニゼル! てめえだって本当なら牧場を継ぐ立場だっただろ! それを、この化け物のせいでめちゃくちゃにされたんたぞ!」
「そんなのっ、そんなの藍夜とは関係ないよ! 牧場の事は、俺が自分で決めて――」
「こんな事が起きなけりゃ、継がないだなんて寝言抜かさなかっただろ! 羊が大好きだって、昔言ってたじゃねえか!!」

なおも続くハイウメの怒声を、藍夜は半ば受け流していた。正確にいえば、彼の怒りと悲しみ、恐怖に強く同意出来る故に、黙する他ない。
むしろ、藍夜よりもニゼルの方が激高している。顔を真っ赤に染め、肩を強張らせ、怒鳴るハイウメに負けじと、彼は声を張り上げた。

「うるさいうるさいうるさいっ!! ハイウメに何が分かるんだよ、暁橙の事だって瓊々杵さん達の事だって、ろくに知らない癖に!」
「知りたくもねえよ、こんな化け物の取り巻きなんざ! そいつらだってその化け物と同じ、災いを呼ぶ魔物か何かじゃねえのか!」
「やめろよ! 瓊々杵さんを、暁橙を動物扱いするな! 怒鳴り散らしちゃって……お前の方がよっぽどケダモノじみてるじゃないか!!」
「なんだと!? 何もかもその疫病神のせいじゃねーか、疫病神め! いっそ、そいつが鳥羽暁橙の代わりに死んどきゃよかったんだ!!」

二人ともそれくらいにしておきたまえ、と、藍夜は言葉を続けられない。不意に、周囲の空気の流れが変貌していったからだ。
来たりし生暖かい風は、否応なしに街での事件を思い起こさせる。牧草が激しく揺れ、頬、うなじ、背筋を、舐めるように走っていった。
ぞっとする。深層心理を暴き出されてしまいそうな、纏わりつくような暴風だ。心なしか、空間そのものも歪んでいるように見受けられた。
はっと顔を上げる。強風に煽られ、琥珀とアンブロシアは目を閉じて踏み留まっていた。ニゼルはどうか。視線を動かし、藍夜は硬直する。

「うるさい……お前が、そうして神の名を口にするのか」

ニゼルは、風をものともせずその場に立っていた。俯き、呪詛を紡ぐように声色を暗くして、ただぼそぼそと言葉を吐いている。
表情がよく見えない。何故か、藍夜はそこにいるニゼルが、まるで自分の知らない赤の他人なのではないかという奇妙な錯覚を覚えた。
寒気がする。これは誰だ、知らない、会った事もない……声を掛けようとするが、しかし喉から言葉が出てこない。体がぶるりと震えた――

「『いらない』。お前なんて、お前なんか、お前など。ここには必要ない、惜しくもない……ハイウメ=ベネクトラなんて『いらない』!」

――上げられた顔に、いっそ嫌悪か憤怒が浮いていたなら話は分かる。だが、ニゼルの表情は如何なる感情も滲ませていなかった。
見下し、見据え、冷徹に声を張り上げる。それこそ、この場に居合わせた者全てに宣言するかのように。その声は非情なまでに凛と通った。
よろめき、言葉失うハイウメ。彼にとって、ニゼルの言葉は死刑宣告と同義だ。明確な拒絶。そう、ニゼルは彼を不要と断じたのだ。
いけない! 藍夜は声に出して叫ぶより早く、手を思い切り後ろに伸ばす。振り向いた先、ニゼルの正面から、彼の羊毛製の服を掴んだ。

「ニゼル! そのくらいにしたまえ!!」

……不思議な事に、そうして藍夜が声を張り上げ、ニゼルがはっと顔を上げた瞬間。あれほど強烈に渦巻いていた風が、ぴたりと吹き止む。
世界は元通り、穏やかな初夏の風と陽光に包まれた。きょとんとした顔でニゼルが藍夜を見つめる。藍夜は、服を掴む手に力を込めた。

(空気が、変わった。ニゼル……君の身に、何が起きたというんだ)

力が強すぎたのか、ニゼルから服が伸びちゃう、と苦情が漏らされる。藍夜ははたと自身の手を見下ろし、静かに生地を手放した。

「あれ……どうしたの、藍夜? すっごい怖い顔してるよ」
「君が、いや、なんでもないさ……ハイウメ」

覚えていないのか、それとも自覚がないのか。瞬きするニゼルは、いつもと同じ、ニゼル=アルジルその人だ。
恐らく、問い詰めたところで何の答えも得られないだろう。思考を切り替えようと、藍夜は肩を竦め、ニゼルから目を逸らした。
ハイウメの方に声を掛けがてら振り返ると、顔から血の気を失せさせ、呆然とする青年と目が合う。無理もない、藍夜は大きく息を吐いた。

「聞きたまえ、僕は何ら気にしていないとも。だが、君が僕を恨む事で生きる力を得られるというなら、僕はそれを甘んじて受けよう」
「ちょっと、藍夜……」
「ハイウメ。僕は確かに、君から様々なものを奪ってきた。だからこそ君は生きるべきだ、君を必要とする者は、まだ残っているのだから」

ハイウメは、ちらりとニゼルを盗み見る。惨い事に、ニゼルはそんな街長候補に応えもせず、べえと舌を出して見せただけだった。
ハイウメの顔が、ぐしゃりと歪む。せめて先の自分の言葉が彼の救いになれたらいいと、藍夜は自嘲を込めて微かに頭を振った。
それこそ自分本位な独善だと、密かに思う。しかし、好いた相手に拒まれ、嫌悪されるなど、恐らく自分には耐えられない。
この場に未だに立っている、それだけで彼は尊敬に値する人間だと思えた。彼の今の気持ちを思うと、胸が抉られるように強く痛む。
自分にも好きなひとがいた……とても他人事とは思えない。自分の事のように、藍夜は今ここに在る事が、辛くてたまらなかった。

「……上から目線は、直す気もねーんだな」
「性分なものでね」
「ニゼル。てめえ、本当に王都に来るつもりはねーのか」

最後の最後に、灰梅色の髪の青年は絞り出すような声でニゼルに問いかける。

「何回聞けば気が済むの? 俺は、藍夜と一緒にここに残るって決めたんだよ」

元アルジル牧場跡取りの答えは、ついに変わらなかった。そうか、と、柔らかな風に消え入りそうな返事だけが溶かされる。
やがて、辛うじて歩き出した青年を、大馬車から降りたサルタンとストケシアが徒歩で迎えに来た。戻りが遅いと心配したのだろう。

「ハイウメ」

藍夜は、溜まらずハイウメの背中に声を掛けた。罪悪感か憐憫の表れだったのかもしれない。予想した通り、ハイウメは振り返らなかった。
サルタンがハイウメの肩を何度か軽く叩き、ストケシアと二、三言を交わしてから、大馬車へ彼を連れて行く。
代わりにストケシアが丘を登ってきた。濡れた牧草に足を取られるのか、それとも精神的な磨耗か。彼女の足取りは、常より遅い。

「ニゼル」
「母さん」

母子は、互いに微笑み合う。そこには、普段とは違う弱々しさ、儚げな空気が籠もっていた。
口を挟む事など出来ない。唇をぐっと閉じ、目を閉じる。藍夜の指先を、いつの間にか近寄っていたらしい琥珀の嘴が、軽く小突いた。

「藍夜君に迷惑かけないようにね。アンタ、なんだかんだで甘えん坊だし、我が儘でどうしようもない子だから」
「大丈夫だよ、母さん。っていうか、ちょっと言い方酷くない?」
「藍夜君。この子を、お願いね」

目を開け、顔を上げる。視界が急速に霞んでいった。藍夜は喘ぐように懸命に口を開くが、気の利いた言葉の一つも出てこない。
分かってはいたのだ、ニゼルがここに残るという事は、彼の両親とは今後離れ離れになってしまうのだという事も。
彼らから、大切な一人息子を奪ってしまうという事も。耐えきれず、藍夜は下を向く。疫病神……ハイウメが残した言葉が、脳裏に響いた。
ストケシアが、いいのよ藍夜君、と柔らかい声で言う。いよいよ泣き出しそうになり、藍夜は琥珀を見下ろす振りをして、視線を逸らした。

「アンブロシアちゃん、琥珀ちゃん。この子は、口を開けば藍夜君の事ばっかりで……我が儘言うかもしれないけど、宜しくお願いします」
「いえ、そんな、そんな事……」
「ウンウン、いいよぉ〜。ニジーは藍夜バカだって、ぼく知ってるもーん。安心して、任せといて!」
「ちょっと、今生の別れでもないのに! ちゃんと手紙書くから! ね、母さん!」

アンタどうせ三日坊主でしょ、からかいの言葉が放たれる。慌てふためくニゼルに向かって、ストケシアはようやく朗らかに笑った。
それが今生の別れと、確かに決められているわけではない。
しかし、ホワイトセージの一件や自身が元ウリエルである事を思えば、彼ら一家は間違いなく自分の因果に巻き込まれたのだと藍夜は思う。
ニゼルと彼の両親が再会する確率は、限りなく低い。王都に離脱するという選択は、疫病神の元から離れる手段であるのに違いないからだ。
ニゼルはそれをしなかった。次に何らかの異変が生じた時、今度は彼が、死の遣いに容易く生命を刈り取られてしまう番かもしれない。
……ホワイトセージで出会った、見知らぬ黒き青年。宣告に似た彼の呪詛が、再び脳内を渦巻く。藍夜は、背筋を嫌な汗が伝うのを感じた。

「そろそろ行くわね、夫が寂しがり屋なんですもの。誰かさんと似て!」
「ちょっと母さん、こっち見ながら言わないでよ」
「元気に過ごすのよ、ニゼル。あと、あんまりチーズばっかり食べない事。それから……」
「もう、ほら、父さんが待ってるんでしょ! 早く行きなよ。それに、そこまで言わなくたって分かってるよ。子供じゃないんだから」

ストケシアは泣きそうな顔で微笑む。藍夜は申し訳なさで死にたくなった。辛うじて立つオフィキリナス店主と己が息子に、女は頷き返す。

「何言ってるの。子供なんて、親から見たらいつまで経っても子供のままよ」

最後に、花が綻ぶような、春の風が吹くような、そんな穏やかな心休まる笑みを、ストケシアは浮かべた。
何度もお辞儀しながら歩き出した母に向かって、ニゼルは苦笑しながら小さく手を振る。琥珀も同様に翼を打ち鳴らした。
アンブロシアは、藍夜達に隠れるようにして泣いている。藍夜は、いっそ彼女と同じように自分も堂々と泣けたらいいのに、と歯噛みした。

「……皆、いいかい」
「藍夜?」
「藍夜さん……」
「ほいほい、な〜に〜?」
「ああ。一度、店に戻ろう。暁橙を弔ってあげなければ……葬式、というやつだよ」

強がりで肩を竦める。それらの冥き囁きに、捕らわれるわけにはいかない。ストケシアには、サルタンには、ニゼルを頼むと託されたのだ。
どんな想いで、彼らはそれを口にしたのだろう。今度こそ、他の何者も犠牲になどさせない。決意を刻むように、拳を握る。
苦い思いで吐き出した、現状を変える為の言葉。その重さが、胸にずしりと圧し掛かったような気がした。





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 UP:18/07/29