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楽園のおはなし (1-51)

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男は、インディコール=グレイスと名乗った。
元々は王都の第二騎士団の副隊長だったが、王の執務官より極秘の命を受け、ホワイトセージの異変の調査に訪れたのだという。
執務官曰く、「夜色の翼を持つ天使が夜中、我が目の前に立ち、北方の街ホワイトセージの災厄を報せた」と。

「馬鹿馬鹿しいと思わんかね? 確かに我々は信心深いサンダルウッド王国の生まれだが、夜色の翼の天使など堕天使の類としか思えんよ」

ようやく下馬したインディコールは、黒馬を部下に任せ、ニゼルとサルタン、アンブロシアを連れて応接間から喫茶店フロアに入った。
兜が外される。ブロンドの髪がふわりと華やかな芳香を外気に漂わせ、気品と自尊に満ちた端正な顔が露わになった。
想像していたよりずっと若い。三十ちょうどか前半くらいか。眉間には薄く皺が刻まれていて、気難しい気性である事を主張している。
青いマントが揺れる度、こちらからも薔薇の香がした。極秘任務にわざわざ鎧を着込んでくるあたり、我が強いのだろうなとニゼルは思う。

「オフィキリナス店主殿、トバアイヤ殿! おられるか!」
「鳥羽藍夜は僕の事だが、もう少し声量を控えてくれないか。怯えた子供らもいるのでね」

廊下と喫茶店の境から声を張り上げたインディコールに、先ほどと同じく喫茶店の裏口近くで交渉を続けていた集団から、藍夜が応えた。
静かな口調と歩調で自身の前に立つ少年を、インディコールは物珍しそうな目で見下ろす。二人の背丈には、頭一つ半ほどの差があった。
見上げる格好で副隊長を見るオフィキリナス店主の目には、どこか怒りが滲んでいる。
身長差か、それとも過剰な大声が気に障ったか。どちらもあり得る話だと、ニゼルは敢えて口を挟まず、成り行きを見守る事にした。

「ほう、若いとは聞いていたが……被害状況について伺いたいのだが、構わんかね? それと、救援物資を出してくれると耳にしたのだが」
「えー……待ってよ、王都からの派遣組なんでしょ? なのに、まさか一般人に集るつもり?」
「ニゼル」
「だって」
「君の言う事も分からないでもないがね、ニゼル君。しかし急ぎで整えた部隊だ、こちらの物資にも限りがあるのだよ」

それというのも自称神の遣いとかいう堕天使もどきのせいだがな、インディコールは執務官が見たという「夜色の翼の天使」を嘲笑う。
彼には信仰心というものが備わっていないのだろうか。ニゼルはインディコールの言動に、首を傾げるよりなかった。
親友に目を向けると、彼は何か言いたげな顔をしている。夜色の翼の天使……副隊長の言葉を脳内で反芻させ、ニゼルはあっと声を上げた。

「夜色の翼って、それってもしかしてむぐっ」

音もなく背後に立った男が、またしてもニゼルの口を手で覆う。うんざりしたような顔、呆れ返ったような目で、親友はこちらを見た。

「またそれかい、君達も好きなものだね」
「やあ、王都からの視察団とやらかな? 無駄口を叩いていないで、さっさと仕事をして欲しいんだけどね」
「むぐがっ、むぐー!!」

サラカエルは藍夜とニゼルの訴えを軽やかに無視する。晴れ晴れとした笑顔が浮いていた。ニゼルは抵抗を試みるが、びくともしない。
インディコールは三人の応酬を不思議そうな顔で見比べる。しかし、天使の言葉が嫌みである事に気付くや否や、彼は顔を醜く歪めた。

「はて? 資料では見なかった顔だな。君は従業員リストに載っていなかった気がするが、何者かね」
「やあ、まず自分から名乗るのがヒトの礼儀じゃないのかな。そんな事より、魔獣なんていつどこから現れるか分からないケダモノなんだ。
これ以上犠牲を出す前に、住民を安全な場所に連れ出して貰いたいんだけど。そうでもしないと、とても死骸の確認なんか出来ないだろ」
「それは……では、ホワイトセージで魔獣を退治してくれた好意の戦士というのは」
「ああ、そうそう。僕は、そこのオフィキリナス店主殿の古い友人なんだよ。名前や出自を知りたいなら、彼に聞くといい」

サラカエルが副隊長を嘲笑う。やはり思った通りだ、ニゼルが藍夜に目線を投げると、親友は無言で頷き返した。
執務官に凶報を伝えに行ったのは、サラカエルだ。しかし、労を労われるどころか面と向かって悪口を言われれば、いい気はしないだろう。
だからってちょっと大人げないよね、口を塞がれたままニゼルは腕から力を抜く。嫌みに嫌みを返すあたり、本当にこの天使は性格が悪い。

「……あの、すみません」

不意に割り込む音。一同は声のした方へぱっと視線を戻した。喫茶店出入り口付近で、アンブロシアが困り顔で立ち尽くしている。
流石に盆は近くのテーブルに置かれていた。そういえば、彼女は先ほどから一緒にいたにも関わらず、ずっと沈黙していた筈だ。
一斉に注目を浴び緊張したのか、その顔に愛想笑いが浮かぶ。アンブロシアは一度ゆっくり瞬きをして、言葉を選ぶように口を開いた。

「インディコールさん、ですね。遠路はるばる、ご苦労様でした。お疲れかと思いますが、皆さん疲弊しています。出来れば迅速な措置を」
「おや、これは失敬、美しいお嬢さん。君もリストには載っていなかった筈だ……お名前を伺っても?」
「え? いえ、その、わたしは、そういう話がしたいわけでは」

あろう事か、インディコールはアンブロシアの訴えを無視して彼女の前に堂々と跪いて見せる。天使の娘は目に見えて狼狽した。
藍夜は眉間に皺を刻み、サラカエルは鼻で笑う。二人の双眸は、声は出ずとも雄弁だった。一方、ニゼルは目を剥いて副隊長の背中を見る。
その顔に濃い怒りが浮いたのを、藍夜は驚いたような顔で見つめた。残念ながら、彼が制止するより早くニゼルは次の行動に移っている。

「――ちょっと! 父さんもほったらかしだし、仕事する気あるの!? これだから王都のお役人って嫌いなんだよ!」

ばしっと、乾いた音がした。しかし、マント越しに叩いたとはいえ、インディコールは全身を銀の甲冑で覆っている。
逆に手を痛め、ニゼルは悔しげな顔で叩いた方の手に息を吹きかけた。これは失礼、くつくつと笑いながら副隊長は立ち上がる。

「アルジル家の血筋は皆、働き者だったと聞いている。なるほど、噂は真の話だったようだ」
「なんで過去形? 俺も両親も、魔獣に喰われてなんかいないんですけど!」
「ニゼル、そのへんで止したまえ。インディコール、君の仕事への熱意について僕達は関与しない。だが、避難民に罪はないと思うがね」

サラカエルとは違った意味で、嫌みと共にある男だ……あからさまに不機嫌になるニゼルを、インディコールはせせら笑うだけだった。
馬が合わない、といえばそれまでだろう。聞こえるように鼻を鳴らして、ニゼルは大股で喫茶店を出て行った。アンブロシアがそれに続く。
藍夜は嘆息し、サラカエルに一瞥を投げた。首を傾げた殺戮の天使は、対天使の訴えを素直に受け取り、二人の後を追ってきびすを返す。

「古い友人と新しい友人といったところかね? オフィキリナスは孤立した骨董店と聞いていたが、認識を改めなければならないようだ」
「板挟みとでも言いたいのかい。それより、王宛ての嘆願書が出されたくなかったら仕事をすべきだと僕は思うがね」
「おやまあ、恐ろしい。ロードを扱っているというだけで、王へ直に接触する術でもお持ちかね。生憎、私は私で忙しいのだよ」

インディコールに悪びれる様子はない。藍夜は嘆息した。しかし、決してホワイトセージの住民の件を忘れたわけではない。
着いてきたまえ、と自ら彼を誘導する。胸を反らせる副隊長を伴って、藍夜は再びハイウメ、トルクらの元へと戻った。






「むきーっ! あいつ! 何なんだよあいつ! 偉そうにしちゃって、藍夜は見下すしアンに色目は使うし、全然使い物にならないよ!!」
「やあ、まさか本当に『ムキー』なんて口にする人間が実在するとはね。長く生きてきたけど初めて見たな」

藍夜の元を離れてすぐ。アンブロシアは、大量のウマを目撃して興奮した琥珀をなんとか鎮めようと、果敢にも孤軍奮闘の道を選んだ。
本来なら彼女の手助けに走るところだが、ニゼルは頭の中がインディコールへの怒りでいっぱいになっている。手伝いに行く頭はなかった。
実際、オフィキリナスの表からは馬のいななきとグリフォンの怒声、まごつく兵士達のざわつきと、間に入る天使の説得が聞こえてくる。
この近隣のみならず、パーピュアサンダルウッド王国は基本的に平和な国だ。遺跡に潜らない限り、魔獣や魔物と出くわす事も殆んどない。
故に、いざ強力な魔獣と対峙してしまえば、如何に日頃の訓練で体を鍛えた兵士であろうと、たちまち無力化されてしまうのだった。
ニゼルは改めて鼻を鳴らす。統率力もない副隊長など底が知れていると、最早、羊飼いは鼻で笑っていたのかもしれなかった。

「サラカエル、何の用? どうせ藍夜に言われて俺のおもりに来たんでしょ」
「さて、どうかな」
「ほら、図星だ! 俺には分かるもんね、藍夜もサラカエルも、えーと……輪の国風に言うと、『なくて七癖』なんだから」
「七癖? へえ、君、僕の観察が趣味なのかい」
「嫌み言ったって無駄ー。それより、サラカエルは琥珀を止めに行かないの? アン一人じゃ厳しいと思うけど」
「あれしきで苦労するようなら、さっさとここを退職する事をお勧めするよ」

ケダモノを躾るコツならいくらでもあるからね、やはり嫌みを飛ばしてから、殺戮の天使は首を傾ぐ。
ニゼルは口をもごもごさせた。口では適わないと理解しているからだ。最も、親友の旧友にして相棒たる男だという点への遠慮もある。
彼を悪く言う事は、親友への遠回しな侮辱になるような気がした。事実、藍夜は先のインディコールの態度に機嫌を損ねてしまっている。
纏う空気や、静かな口調からそれが伝わってきたのだ。彼は自分よりも他人を優先する人柄なのだ、視察団の団長はそれが分かっていない。

「……なんか、疲れちゃったな。どうしてこんな事になったんだろ? この間まで、全然平和だったのに」

応接間に常備してある馴染みの椅子に腰掛け、ニゼルは深く嘆息した。長引く降雨で気が滅入るのか、それとも件の副隊長の言動か。
ふと訪れる静寂。目を閉じ俯いた瞬間、頭上に影が差す。はたと顔を上げた時、音もなく眼前に立った殺戮の天使と目が合った。

「そんなに生きていく事が苦痛だって言うのかい」

見下ろされている。見透かすような視線だ。彼の顔は、日中である今ならぼんやりと目にする事が出来ていた。
またしても、そこからあらゆる感情が削ぎ落とされている。いや、意識して無表情でいるのか。ニゼルは言葉を失った。
サラカエルの右瞳が鮮やかな瑠璃色に染まっている。何故、今その眼で見下ろしてくるのか。理解は出来ない。ただぼうと双眸を見上げた。

「面倒くさいな。お前もそう、鳥羽藍夜もそうだ。何なら全滅させてしまおうか。ああ、いいや、その方がすっとするかもしれない」

現状を憂い、嘆く事は、そんなに神経を逆撫でするような行いだろうか。ニゼルはじっと天使を見つめる。
彼の声色は冷たい気配に満ちていた。少しでも張られた糸に触れてしまえば、それだけで導火線に火は点けられる。
怒りだ、明確な怒りと殺意。彼の思う反応を返す事が出来なければ、ニゼル=アルジルの命は断ち切られるだろうと予測が付いた。
何故、今時分。ニゼルは口を微かに開く。サラカエルもまた暁橙の死を悼んでいるのか。それとも、それに捕らわれたこちらを哀れむのか。
分からない。故に、ニゼルは言葉を発する事は利口だとは思わなかった。口を開いたまま、押し黙る。無言で天使の言い分を聞く事にした。

「……へえ、賢しいな。考えてごらんよ、鳥羽藍夜が早々と落命してしまえば僕の目的のうち一つは果たされる。『ウリエルは戻される』。
人間なんて生まれたらすぐに死ぬんだ。転生したのをまた捜し出せば済む話さ。今度こそは、天使として再会出来るかもしれないしね」

彼が対天使を孤独に捜していたのだとすれば、その言い分には説得力がある。しかし、彼に鳥羽藍夜を殺す事は出来るのだろうか。

(いや、サラカエルなら、殺してしまえるかもしれないな)

その心の声は、自身が放ったものなのか。それとも、サラカエルの胸中を察したが故の同情心からくるものか。ニゼルには分からなかった。
揺らがずに見つめ合う、赤紫の瞳と、二色の瞳。無言を貫くニゼルを、殺戮の天使は首を傾げて見下ろしている。
刹那、彼の目はすうと細められた。下ろされていた左腕が静かに動き、伸ばされた手のひらがニゼルの首にぴたりと触れる。

「――サ、」
「安心しろ。仕方がなかったんだよ、すぐ、皆がお前の後を追う」

喉笛に、くっと指の力が込められたのを感じた。そのまま力が込められたら、たちまち五指が首に絡みつき、空気の通りを塞がれるだろう。
数秒か、数十秒か。たったそれだけで、この男は自分を殺す。苦しいのは短い間だ、彼の性格上、途中で骨を折る殺害法に移行させる筈。

(仕方が、ない……)

ニゼルの思考は反れていった。殺されるかもしれないという恐怖心よりも、穏やかな、月のある深夜の中を歩いているような心地に浸る。
殺戮とは名ばかりの銘だ。彼が相手を苦しめるのは、自省を促させる時か、探りたい情報がある時、或いは見せしめにする時くらいのもの。
洗練された殺しを、彼は好んだ。元より派手さは求めない。そうする事が必要だと捉えた場合を除いて、彼の仕事は秘密裏に行われる。
「長きに渡り」そうして彼の仕事ぶりを「評価して」きた。故に決して「触れようとしてこない」彼が眼前にいる現在に「胸が熱く」なる。

(ああ……サラカエルの手だ)

気道が徐々に絞められていった。ふと、ニゼルは自身の手をサラカエルの殺戮の手に触れさせる。殺戮の天使の目が、微かに歪んだ。
漠然と、言葉に出来ない想いがニゼルの胸を満たしていく。サラカエルの手、殺戮の手。あの、月天の加護の紋章を作り出した神秘の手だ。
それに、自分のそれを重ねた。想像していたよりずっと冷たい。骨張っていて、五指は長い。理想的な大きさだ。うっとりと目を閉じる。

(……『やっと、触れられた』)

殺戮の天使は、羊飼いの青年の変化に何事か言い掛けた。しかし、彼は皆まで問い詰めない……背後に、見知った気配を感じたからだ。
それから放たれる悪意を、甘んじて受け入れるような性分ではない。彼は自分に正直に、体を俄かに傾げ、怒りの具現を避ける事にする――

「――ッ、あいったあっ!?」

パカンと、小気味いい音がした。意識は戻される。我に返ったニゼルが目を動かすと、音を発した元凶が、ことんと足下に落ちてきた。
現実に引き戻される。はっと目を見開き、頭を振った。急激に全身に五感が戻る。同時に、殆んど無意識に手を床上へと伸ばしていた。
目を瞬かせ、それを拾う。見慣れた品ではあった。しかし、それは投擲する目的で作られた代物ではない。恐る恐る、顔を上げる。

「……あ、藍夜?」

ニゼルが拾い上げたもの。それは、親友、鳥羽藍夜が愛用している靴の片割れだった。脱ぎたてと思われるそれは、微かに雨で濡れている。
投げつけた張本人は、サラカエルを間に挟み、ニゼルをじっと睨みつけていた。革靴を投げ終えたままの格好で、彼は玄関先に立っている。
外で何か作業をしていたのだろう、親友の全身は濡れていた。肩で息をし、顔を赤くしている事から、かなり興奮している様子が伺える。
彼の目は今や、凄まじい怒りと敵意に燃えており、下手を打てば応接間内の二人をこの場で殺害しに来かねない勢いだった。

「えっと、藍夜……あの、く、靴は投げるものじゃ、いたあっ!!」

第二投、大投擲。残りの片靴を脱ぐや否や、藍夜は大きく振りかぶってそれをニゼルに投げつける。またも、サラカエルはそれを避けた。
綺麗に顔面を強打され、ニゼルはバランスを崩して床に転がり落ちる。お見事、楽しげに呟く殺戮の天使の声が、はっきりと耳に聞こえた。

(サラカエルっ、さては気付いてたな!?)

思っていたより痛い、むしろ、めちゃくちゃ痛い。悶絶しながら、涙目ながら、ニゼルは辛うじて親友に視線を投げる。
途端に、羊飼いは言葉を失った。やはり投げ終えた格好で立ち尽くす親友は、顔を歪め、肩を震わせ、顔から血の気を失せさせている。

「そうか。君もか、君もなのか。ニゼル」
「……藍夜」

声は掠れていた。ふっと腕が下ろされ、親友はじっとこちらを見つめる。その顔に悲嘆が満ちるのを、ニゼルは見過ごす事が出来なかった。

「死にたいと言うなら好きにしたまえ。せいぜい、あの世で暁橙と仲良くやるがいい……勝手にしろ、サラカエルとどこにでも行けばいい」
「藍夜? 待って、ちょっと待ってよ。それ誤解だし、」
「やあ、まるで恋人に捨てられそうになって縋りつく男みたいだね」
「サラカエルっ……うるさい、もう黙ってて! ねえ、待ってよ藍夜ったら!!」

慌てて革靴を拾い上げ、ニゼルは玄関から飛び出していく。親友は身を翻して出て行った。こんな雨だ、しかも季節柄、牧草も真新しい。
予想通り、鋭利な草原が親友の裸足を惨たらしく切りつけていく。緋色が緑を侵食し、湿気の中に微かな鉄の臭いが混ざった。

「藍夜! 待ってって、言ってるのに……」

ニゼルは顔を青くして、追いついた親友の手を掴む。藍夜の足は、かかとを中心に赤く染まっていた。色が白いから余計に目立つ。
手が振り払われる事はない。ニゼルは、自分の心音が耳のすぐ傍から聞こえているような気がした。恐る恐る、慎重に親友の顔を覗き込む。

「……ニゼル」
「藍夜」

追いかけたのは、正解だった。追いついたのも、彼の手を取ったのも正解だ。親友は、鳥羽藍夜は、泣いている。
胸が張り裂けそうな思いだった。ゆっくりとこちらに体を向けた親友は、辛そうに、堪えるように、涙だけを落としていく。

「僕は、本当に化け物なのかもしれない。両親を喪って、更には暁橙まで死なせたというのに、平然とこうして生きているのがその証拠だ」
「藍夜……そんな事、ないよ」
「いいや、あるさ。僕が天使だからか。それとも人死にを何とも思わない化け物だからか。暁橙は、何も悪くなかったのに。何故なんだ」
「藍夜」

そろりと、ニゼルは藍夜の背中に手を伸ばした。革靴が一足分、音を立てて草の上に落とされる。
抱きしめるというよりは抱き留めるような格好で、ニゼルは親友の体を覆った。夜色の頭がうなだれ、胸板にぶつかってくる。

「僕が……暁橙が、何をしたって言うんだ。あの子は、幸せになるべきだったのに」
「……うん」

軽い。思っていた以上に、親友の体は軽かった。その事が衝撃だった。ニゼルは一時、ぎゅっと唇を強く噛む。
そうでもしないと、釣られて泣いてしまいそうだった。両腕に力は込めず、夜の帳のようにそっと彼を世界から隠してやる。
彼は意固地だった。素直ではないし性根もひねている。しかし、誰かを強く想う気持ちについては本物だった。それが美点だと知っている。

「暁橙、いつも言ってたよ。藍夜の力になりたい、兄ィは幸せにならなきゃいけないって。二人とも、本当によく似てるんだから」
「……だ」
「藍夜?」
「馬鹿だ、あの子は。大馬鹿だ……それなのに、僕を、唯一の兄を差し置いて先に逝くなんて」
「……うん。そうかもね」

縋りついてくる細い体を、静かに包んだ。いっそ喚きでもすればいいのに、藍夜は声を押し殺して泣いている。それが逆に痛々しかった。
どれほどの時間、そうしていただろうか。ふと視界が明るくなり、ニゼルははっと顔を上げる。
雨が柔らかさを取り戻そうとしていた。久々に丘の上に陽が射し込もうとしている。親友の肩を叩き、ニゼルは彼に顔を起こすよう促した。

「見て、藍夜。晴れそうだよ。きっと暁橙が、見てるんだよ」
「……ああ。そうかもしれないね」

互いに顔を見合わせ、微かに笑う。刹那、藍夜はすっと背筋を伸ばし、更に片足を折り曲げ、ニゼルの前に足首から先を上向けて見せた。

「……えっと……藍夜? これって、」
「なんだい、ニゼル。元々は君が、僕に靴を投げさせるような振る舞いをしたのが悪いのだろ」
「えっ、あれ俺のせいなの? おかしいよ、藍夜自分から投げてたよね!?」

「つべこべ言わずにさっさと履かせろ」。先ほどまでの涙はどこへやら、親友は双眸を細め、早くしろ、と爪先をぷらぷら揺らす。
そうでもしないと暁橙がまた心配するもんね――ニゼルは苦笑した。騎士のように跪き、靴を拾い、恭しい手つきで親友の爪先を手で掴む。
そのまま自然な動作で丁寧に革靴を履かせてやった。両靴を揃え、藍夜は満足そうに頷いて見せる。膝に手を当て、ニゼルも立ち上がった。

「さて、ニゼル。これから忙しくなるというものだよ。まずは君とサラカエルに、僕に対する態度を悔い改めて貰わなければね」
「うわぁ、まーたお説教かー……って、俺何もしてないよね!? ちょっと藍夜、笑ってないで、こっち見てよ!」

晴れ間が見える。骨董店に、牧場に、燦々と陽光が降り注いでいた。オレンジ頭の青年は、恐らくもう迷子などではないだろう。
一人頷き、オフィキリナス店主は颯爽と自宅に向かって歩き出した。文句を垂れながら、羊飼いの青年もその後に続く。
やがて、高位天使アクラシエルと魔獣アンバーもその列に加わった。世界がゆっくりと、息を吹き返していく。新緑が、青々と輝いていた。





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 UP:18/07/29