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楽園のおはなし (1-50)

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「よお、遅起きじゃねぇか」

起こしにきた母に連れられて下に降りると、食卓では既に喰天使が朝食を摂っていた。最早野次を飛ばす気にもなれず、ニゼルも席に着く。
もしゃもしゃとパンを頬張る姿は、あまりに人間じみていた。一瞬、彼がオフィキリナスを襲撃した天使だというのを忘れそうになる。
頭を振り、ニゼルもバスケットから適当なパンを取った。そういえば、天使も人間界にいる間は様々な影響を受けると聞いた覚えがある。
誰から聞いたのだったか……パンに齧りつくと、いつもに比べてややぱさついた食感をしていた。こんな時だから当然かと黙って口に運ぶ。

「それにしても、藍夜君の家は大丈夫なのかしらね」
「大丈夫って、それどういう意味? 母さん」
「アンタ、聞いてなかったの? オフィキリナスに街から避難した人達が泊まり込んでるのよ。昨日、帰りに話したでしょう」
「ええっ、そんな事になってたの!?」

暁橙の件があまりに衝撃すぎて、それ以外の事まで気が回らなかった。どういう事かと母に詰め寄るもノクトに手で押し返されてしまう。

「さぁてな、『こんな時』だ。街長候補のガキを筆頭に、好き勝手に過ごしていらっしゃるらしいぜ」
「ハイウメが!? そういえば藍夜がそんな事言ってたような……って、あいつ! 普段藍夜をボロクソ言ってる癖に!」

図々しいにもほどがある、ニゼルはそう思った。押し返されるままに大人しく座り直し、憮然と口を一文字に結ぶ。
それならいっそ、あの男はハイウメからハイエナに名を改めてしまえばいいのだ。頭を振る、それは平原の掃除屋に失礼だと思い直した。
トルクのやり方にあれほど反発しておきながら、有事の際には普段貶してばかりいる親友に、ちゃっかり集ろうとしている。

(気に入らない、許せない)

言わんとした事が伝わったのか、ストケシアは眉間に小さく皺を寄せて見せた。嫌ねこの子ったら、ささやかなぼやきが吐き出される。
はっと我に返ったニゼルの額を、テーブルの上から身を乗り出した母の人差し指が、こつんと突っついた。
痛くはない、本気で怒っているわけではなさそうだ。瞬きを返して額をさする息子に、ストケシアは大袈裟なほどに大きく嘆息して見せる。

「ニゼル、よしなさいよ? 藍夜君、視察団が来るまで忙しいんだろうから」
「でも、」
「でも、じゃない! 仕方のない子ねえ。ほら、父さんが藍夜君の手伝いに行ってる筈だから。くれぐれも、邪魔しないようにね」
「! うん。ありがと、母さん」

甘過ぎじゃねぇのか、ああいう子なのよ、喰天使と母の応酬を背中に受けながら、ニゼルはサンダルを履き替えてぱっと家を飛び出した。
やはり雨は止んでいない。一度立ち止まり分厚い雲を見上げてから、ニゼルは返し忘れていた瓊々杵の傘を手に、骨董店までの道を急いだ。
牧草が滑りやすくなっている。うなだれ、柔らかく雨水を吸った草と土に足を取られかけながら、ニゼルはいつもの窓に駆け寄った。

「藍夜! いる?」
「あれぇ、ニジー? 今日は遅起きだね」

ここからの呼びかけは、昨夜に続いて二度目になる。中を覗き込んだニゼルに応えたのは親友ではなく、薄汚れた格好をした琥珀だった。
泥と返り血が彼女の体にこびりつき、雨では落としきれなかったのだと察する事が出来る。慌てて、ニゼルは応接間に乗り込んだ。
手のひらでごしごしと羽毛をこすっても、汚れが落ちる気配はない。鬱陶しげに嘴をがちりと鳴らし、琥珀は翼を一度打ち鳴らし抗議する。
固まっている汚れから、藍夜に出迎えすらされなかったのだろうと予測した。頭頂部を撫でてやると、魔獣は気持ちよさそうに目を閉じる。

「琥珀、藍夜は? 今日はまだ見てない?」

落ち着いたら丸洗いしてやろう、胸中の呟きを悟られまいと、ニゼルは琥珀に素早く話を振った。見上げてくる頭が左右に揺すられる。
琥珀の左の翼が、喫茶店へ続く廊下を指差した。その方向へニゼルは素直に顔を向けたが、翼はなおちょいちょいと縦に小さく振られる。
奥からは、大きな物音や喧噪といったものは聞こえなかった。匿われているという住民達は、そこそこお行儀よく過ごしているのだろうか。
親友は彼らと一緒にいるんだよねと、ニゼルは柔らかい声色で琥珀に確認する。しかし、鷲獅子の首はあっさりと横に振られた。

「違うよ、藍夜なら、もっともっと向こう〜。なんか、屋根裏部屋に引きこもってるって。シアが」
「屋根裏? ああ、そっか……それじゃ、アンは? どこにいるか分かる?」
「……あの、わたしなら、ここにいます」

二人の会話に、若い娘の声が割って入る。ぱっと顔を上げると、喫茶店から姿を見せたアンブロシアの、物言いたげな表情が目に入った。

「おはよう、アン。藍夜は相変わらず?」
「いえ、街の方々が客間や藍夜さんの部屋を使われていて、それで。流石にご両親と暁橙さんの部屋は開けなかったみたいです」
「え? じゃあ、藍夜は上として、アンはどこで休んだの」
「ええと、その、こ、琥珀くんの背中に寄りかかって。温かいですし、快適でしたよ?」

ぷつりと、脳内で何かの糸が切れた音を聞いたような気がする。ニゼルはその感覚に従い、にこりと笑った。
アンブロシアは彼の言いたい事が理解出来たのか、引きつった愛想笑いを浮かべている。

「へえー、そっかー。ハイウメとかトルクさんとかって、すごーく素敵な神経してるんだね!」
「あ、あう、あの、ニゼルさ……」
「うん、分かった。俺、ちょっと藍夜を叩き起こしてくる」

どしたのニジー、心底不思議そうに天使を見上げるグリフォンと、何でもないですよ、若干涙目で答える天使。
ニゼルはどちらにも応えず、怒り心頭のまま乱暴に二階へ上がった。先代店主の寝室前を通り、更に廊下の突き当たりまで進む。
二階の一番奥、ひっそりと設けられたはしご状の階段。それがオフィキリナスの今代店主の、プライベートルームへの入り口だった。
オフィキリナスの屋根裏部屋、通称、鳥羽藍夜のふてくされ部屋。はしごを上った先、入り口代わりの木製の板を押しやり内部に侵入する。
掃除はされているのか、埃の臭いや湿気はあまり感じられない。使い心地のよさそうな家具が並ぶ中、目的の人物は確かにそこにいた。
厚手の布で作られたハンモック。上りやすいようにと、ニゼルの腹部くらいの位置に設置されているそれに、親友は仰向けで寝転んでいる。

「ちょっと、藍夜」

手を伸ばせば容易に届く距離。肩を掴み軽く揺さぶるも、返事はない。昔からそうだ、いじける時、彼は必ずここに籠城を決め込んだ。
反応もしたくないのか、開いた本を目隠し代わりにし、親友は無言で寝ていた。狸寝入りかもしれないが、そんな事はどうでもいい。

「ちょっと藍夜! 視察団が来るの、今日なんでしょ? 相手するんじゃなかったの、ほら、起きなよ!」

今度は力任せに大きく揺する。やはり、親友はがっつりと寝たふりを続けていた。ふりだと分かったのは、長いつきあいだからこそだ。
ニゼルは鼻で嘆息する。ぎいぎいと軋んだ音を立てるハンモックの上で、親友は永眠したのかと錯覚させるほど長く沈黙していた。
「そんなに辛いなら救助活動なんかしなきゃいいのに」。出かけた言葉を、なんとか飲み込む。それは、親友の美徳に傷を付ける助言だ。
彼の人となりはよく知っている。故に、ニゼルは自身のエゴでもある漠然とした怒りを、正面切って彼にぶつける事に逡巡していた。
それでも、友人を想うなら鬼になる覚悟も必要だと思う。幼少の頃は彼に守って貰ってばかりいたのだから、今は自分が力にならなければ。

「いいんだよー、藍夜がそのつもりなら。俺、視察団に全部白状するから。街の長達は、平気で一般市民に物を集るような人達ですよって」
「……君も、大概性格が悪いものだね」

ようやく返事があった。ぱっと目を下ろすと、本をずらして作った僅かな視界から、気まずそうにこちらを見上げてくる双眸と目が合う。

「俺の性格が悪いのは、いつもの事でしょ。おはよう、藍夜」
「今、何時だい。ニゼル」
「もう、挨拶は大事だって藍夜の方が口うるさかったのに! えーと、俺も今起きたばっかりだから……確か九時とかそのへんかな?」

ぽつりと、寝過ぎたものだね、親友が低い声でそう唸るのを聞いた。ふてくされていただけではなさそうだ、ニゼルの眉間に力が籠もる。
服は、見慣れたシャツとスラックスだった。昨夜きちんと着替えたのだろうかと、ニゼルは彼の動きを見守りながら口をもごもごさせる。
彼は体が弱かった。もっと言うと、体力もそう多くない。風邪でも引いたのではないかと、どうしても節介を焼きたくなってしまう。
ニゼルの懸念など知る由もなく、ハンモックから降りた藍夜は手近のカーディガンを羽織った。そのまま歩き出した彼を、急いで追う。
ついてこいとも言われていないが、まあ大丈夫だろう。一階に着いた藍夜は、まず真っ先に喫茶店の方へと足を延ばした。
視察団はいいの、そう聞くと、到着は昼前の筈だよ、と抑揚のない声が返される。その前に住民の世話を焼くつもりでいるのかもしれない。
お人好しだなとは思うが、それが彼らしいところとも言えた。昨夜よりは、返事の回数も多い。ニゼルは、内心でほっと胸を撫で下ろした。

「アンブロシア。いるかい」
「あっ、藍夜さん。おはよう御座います、わたしならここに」

調理場からひょこりと顔を出したアンブロシアの表情が、ぱっと明るくなった。彼女も彼女なりに、店主を案じていたのだろう。
彼女の手には、藍夜に向けて作ったと思わしき野菜と香草を琥珀色に浸したスープと、それを乗せた見慣れた盆があった。
それを見た途端、藍夜の顔が暗くなる。彼の反応に首を傾げたアンブロシアだが、彼女は彼に着席して食事するよう、促しただけだった。

「アンブロシア、確か食材の備蓄は少なかった筈だと記憶していたのだがね。君や住民達は、きちんと食事を摂ったのかい」

当然のように、藍夜は突っ立ったままだ。声色に棘が含まれる。びくりと小さく肩を跳ね上げ、アンブロシアは数回瞬きした。

「はい、わたしはもう。それに、ホワイトセージの皆さんも朝食は済まされましたよ。材料なら裏口に救援物資が届いていましたし」
「救援物資だって? そんなもの、僕は手配した覚えがないんだが」
「いえ、確かに救援物資と札にも書いてありました」
「んー、普通に考えて、サラカエルかノクトじゃない? あの二人、なんだかんだお人好しだから」

ニゼルの口出しに、親友は眉間に指を押し当てて唸るばかり。ニゼルとアンブロシアは、互いに顔を見合わせる。

「あの、何か問題ありました? 毒味はきちんとしましたし、大丈夫そうでしたよ」
「毒味って、君ね」
「琥珀くんも平気そうでしたし」
「え、琥珀にも毒味させたの? アン、それは……」
「羊乳にチーズ、干し肉、新鮮なお野菜も。どれも皆さんのお好きなものですよね。てっきり、藍夜さんが用意したものとばかり」

図太いのか危機感が著しく欠落しているのか。アンブロシアは嬉しげに笑った。藍夜は文字通り頭を抱え、ニゼルはそんな二人を見比べる。
食材が入っていたという箱を彼女に引っ張り出して貰うが、ホワイトセージ近辺でもよく見かけた、何の変哲もない運搬用の木箱だった。
本当に、何者かが事前に手配を済ませていたのだろうか。用意周到が過ぎる、オフィキリナス店主は音が聞こえるほど強く歯噛みする。

「いいさ。あの二人がした事だと言うなら、聞けば済む話だからね。それで、アンブロシア。住民達は今どうしているのだい」
「あの、それは……」
「――おい、お嬢ちゃん。持ってっていい大皿ってのはこれで全部か……って、うおっ、ニゼル!? それと……遅起きじゃねーか、化け物」

その声が聞こえた瞬間、ニゼルはたちまち安堵の顔から表情を歪めていた。
喫茶店の隅、裏口付近に集まっていた住民達の集まりの中から、瓊々杵の服を着たハイウメが姿を見せる。
彼の手には、見覚えのある立派な大皿が何枚か重ねられていた。鳥羽咲耶が存命だった頃、喫茶店フロアで使用されていた筈の大皿だ。

「ちょっとハイウメ。それ、どうするつもり?」

顔から血の気が引き、つい咎めるような口調になる。意外にも、あからさまにたじろぐハイウメとニゼルの間に割って入ったのは、

「ニゼル。僕が持って行ってもいいと言ったんだ。そう噛みつくのは止したまえ」

オフィキリナス店主、鳥羽藍夜その人だった。信じられないものを見る目で親友の顔を見つめ、ニゼルは口をぱくぱくさせる。

「視察団に引き渡す前に、彼らに不要な品を引き取って貰おうと思ってね。昨夜のうちに話を付けておいたんだよ」
「お、おう。だから、盗んだとか、そういうのじゃねえからな。勘違いするなよ、ニゼル。布団だとかも、かなり寄越されてんだ」

……それらは、先代店主の残り香を漂わせる品ではないのか。言葉が出てこない。憤怒を滲ませた顔で、ニゼルは親友を正面から睨んだ。
親友は涼しい顔でそっぽを向いている。端から、この件についてはニゼルからの口出しさえ無視するつもりでいるようだった。
おかしいよ、どうしちゃったの藍夜――いよいよ感情任せに喚き散らしそうになるニゼルだが、その口から罵倒の類が漏らされる事はない。

「っ、もがっ!?」
「やあ、随分と大掛かりな引っ越し準備だね」
「むぐっ、ふぁらふぁへふ!?」

背後に立った人物が、羊飼いの青年の口を手でしっかりと覆う。振り向いた先、ニゼルは殺戮の天使が満面の笑みを浮かべたのを見つけた。

「……サラカエル」
「やあ、おはよう。視察団だけど、もう丘の麓まで来ていたよ。騎兵隊もいたし、大馬車もあった。楽に移動が出来るんじゃないかな」
「むぐ、もがもがーっ!」
「サラカエル、まずニゼルを離してくれたまえ」
「やあ、悪いね。朝から口喧しい鳥のさえずりなんて、御免だろ?」

絶対悪いと思ってないでしょ、言いかけた言葉を飲み込み、ニゼルは頭を振る。サラカエルから目線を外して、親友の背中へ視線を注いだ。
向かい合ってハイウメと話し込む内容は、やはりオフィキリナスの物品をあとどれほど住民に引き渡すか、といったものに徹している。
時折、そこまではいらねえよ、とハイウメ側から小さな批判さえ漏らされた。これを機に、鳥羽夫妻の持ち物を全て処分しかねない勢いだ。

(藍夜。ニゲラって天使の時と同じなの? 全部なくして、忘れるつもり?)

酷く胸が痛む。それで気が楽になるならそうすればいいと、しかしニゼルは口には出来ない。
記憶を取り戻したウリエルが如何にニゲラを悼んでいたか、既に目にしているからだ。

「全部なくしたって、なかった事には出来ないのに」
「やあ、面倒だな。八つ裂きにしてあげようか」
「ああ、うん、そうだね……って、はい? どうしたのサラカエル、朝から物騒だよ!?」
「だから、八つ裂きだよ、八つ裂き。縦に半分、横に四等分。あの若者と、ここに巣くっている人間どもさ」

本当に面倒くさそうに声を低くし、殺戮の天使は首を傾げた。本気なのか冗談なのか、彼の普段の振る舞いからして掴みようがない。
絶句して考え込むニゼルを見て、ふむ、とサラカエルはごく僅かに嘆息する。冗談だったのかと、ニゼルはようやく理解する事が出来た。

「死んだものは生き返らない。そこの、裏庭で腐敗しないようにしてやった弟くんの死体だってそうさ。死んだらただの肉と骨の塊だ」
「やっぱり、暁橙を連れてきてくれたんだ。ありがと……けど、その言い方は流石に『ない』と思う」
「そうかな、仕方ない話だろ? 仕方がないんだよ。死んだらそれまで、それっきりだ……仕方なかったんだよ」

冥府に追いかけに行けるわけでもなし、そう吐き捨てる殺戮の天使の顔は、いつにも増して感情が抜け落ちていて、真意を読み取りにくい。
自分とその対天使に言い聞かせるように、彼は仕方ないと繰り返す。親友の性格からして、ウリエルも人死を気にする質だっただろう。
その度に、彼はこうして彼なりの慰めの言葉を掛け続けていたのだろうか。ニゼルは、胸が締め付けられるような思いだった。

「駄目だよ。そんな事したら、サラカエルも藍夜のお説教の餌食になると思う」
「やあ、そうかい。君も鳥羽藍夜も、信じがたいほどお人好しだ」

殺戮の天使は嫌みを飛ばさないと死ぬらしい――喰天使の言葉を思い出す。思わず小さく噴き出していた。
何か言いたげにこちらを見たサラカエルに手を振り、ニゼルは親友から目を逸らし、一度来た道を引き返す。
耳に聞こえていた通り、視察団とやらが丘の下から登ってくるのが見えた。アンブロシアが釣られて背後から頭を出す。
変わらず、彼女の手にはスープを乗せた盆があった。湯気こそ引っ込んでしまったが、野菜を丁寧に煮た優しい匂いが漂っている。
藍夜め、後で絶対食べさせてやるんだから……一人内心で決意を固め、ニゼルは天使の娘に目だけで振り向いた。

「アン。アンはさ、天使から見て、今回の事件ってどう思う?」
「ニゼルさん? 天使から、というと」
「サラカエルは、死んだら仕方ない、それまでだ、なんて言うんだ。俺や藍夜からしたら、誰がやったにせよ許せない事なんだけど」

ニゼルはふと言葉を切る。視察団の先頭に、道案内役のサルタンの姿を見たからだった。手を振り、オフィキリナスの位置を知らせる。

「……サラカエルの言う事も一理あるよね、と思ってさ。人間って短命で無力な生き物でしょ? 落ち込んだりとかって、下らないよね?」

馬の蹄が草を踏みにじる音、無惨に潰され雨粒を含んだ飛沫を散らせる新緑の呼気、号令か何かで忙しなく飛び交う声。
それら騒がしい世界が、一時的に遠のいた。ぷつりと音を立てるように、ニゼルとアンブロシアは正面から静かに向かい合う。
重なる赤紫と青紫。いつの日か、こうして対峙した事があったような気がした。確かあれは、アンジェリカの件でノクトと邂逅した時だ。

「下らないなんて、そんな事言わないで下さい。そんなの、ニゼルさんらしくありません」
「俺らしいって? だって、死んだらどうしようもないんだよ。暁橙も瓊々杵さんも咲耶おばさんも、もう帰ってこないんだよ」

あの時とは立場が逆転している。そう、確かに自分は落ち込み、悲しみに暮れているのだとニゼルは自覚した。
これは言わば八つ当たりだ。予想通り、アンブロシアはとても悲しそうな顔をする。本当にいい子だなあと、ニゼルはぼんやり思った。

「藍夜とハイウメの顔、見た? 短命で無力で脆くて、でもそれ以上に強欲で。いつ死ぬかなんて、あんまり関係ないのかもしれないね」
「どんなに悲しくても、理不尽であろうとも。わたし達は生きていかなければいけない。ニゼルさん、あなたがそう言ったんですよ」
「アンが言ってるのって、アンジェリカの話だよね? それだったら、」
「……姉さんの身に何があったとしても、わたしは今、ここにいます。あなた方と生きています。姉さんの事と今回の事は関係ありません。
 いえ、関係あったのだとしても、わたしは出来る限り藍夜さん達の力になりたい。もう、自分がするべき事から逃げ出したくないんです」

今度こそ、無力な自分でなどいない為に。放たれた反論には力が込められている。アンブロシアは、双眸に怒りと涙を溜めていた。
黙り、じっとそれを見つめていたニゼルは、何らかの言葉を吐き出そうと口を開く。しかし、彼のそれが音に乗る事はない。

「――おお、ニゼル! それにアンブロシアちゃん! おはようっ、いや、もうこんにちわーだったかな?」

遮られたからだ、視察団と共に姿を見せた父の声に……振り向いた愛息を見て、サルタンは何度か目を瞬かせた。息を呑み、一瞬固まる。
数十年単位で再会した遠方の友、まるで見知らぬ何者か――そういった、これまで感じた事のない気配を息子から受けた為だった。
追及しようと、彼は前方に並んだ騎兵隊の山を掻き分けようとする。しかし、明らかにその進行を阻む巨大な影があった。

「失礼、サルタン氏。……君はサルタン氏の長男、ニゼル=アルジル君だね。案内ご苦労、はて、オフィキリナス店主殿はご在宅かね」

ぬうと、軍馬に騎乗したまま、ニゼルと騎兵隊の間に立ち塞がる者がいる。頭は兜に覆われていたが、その声は遠くまではきはきと通った。
白銀の鎧と青いマント。王都の使者である証の、胸元で揺れる月桂樹の葉と白樺の枝で編まれた繊細な紋章。腰に下げられた立派な長剣。
視察団代表と思わしきその男は、下馬もせず、兜越しに冷たい視線をニゼル達に注がせる。尊大で、高慢な音の響き。胸は反らされていた。
双方を見比べ、うろたえるサルタン。ぐっと唇を結び、沈黙に徹するアンブロシア。どうも気が合わなさそうだと、ニゼルは鼻を鳴らした。





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 UP:18/07/23