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楽園のおはなし (1-49) BACK / TOP / NEXT |
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「……ニゼル」 「はいはい、なーにー?」 頭をわしわしと無遠慮に泡だらけにされながら、オフィキリナス店主は喉奥で唸り続けている。一方、ニゼルはそれを華麗に無視していた。 オフィキリナスの風呂場は、今代の店主の趣味で全面檜の板張りという、この付近では珍しく豪勢な造りになっている。入り心地は最高だ。 先代も無類の風呂好きだったが、ここまでではなかった。将来の夢がぶらり温泉旅行と自称するだけはある。ニゼルはうんうんと頷いた。 「ニゼル、僕も子供じゃないのだから」 「だって藍夜、自分で洗わないじゃない。背中は流してあげるけど、前くらいは自分でやってね」 「……背中まで君が洗うのかい」 「藍夜が洗おうとしないんだから仕方ないでしょ。裸のつきあいってやつ? 諦めなよ」 その歳でオジイチャンとかどうしようもないよねー、挑発混じりに煽ってみる。流石に頭に来たのか、親友はタオルを奪って立ち上がった。 無言だ、ひたすら無言。それでも彼は黙々と手を動かしている。最初からそうすればいいのに、ニゼルは苦笑しながら自分の汗を流した。 お先に、言葉短く断りを入れ、そこそこ広い湯船に浸かる。大の大人が二人、十分に寛いで入る事が出来るほどの広さだろうか。 鳥羽家で使われている石鹸、洗剤類は、今代の店主がわざわざ手作りしている代物で、材料である香草の香りが使用する度に宙に溶ける。 檜のそれと混ざり、心底ゆったり出来る空間になっていた。ご満悦の体で大きく息を吐くと、嫌みなのか、無理やり親友が横入りしてくる。 しばらく押し合いをしていたが、むくれたように藍夜がそっぽを向いた為、ニゼルは畳んだタオルを頭に乗せ、彼を無視してみる事にした。 沈黙は続く。風呂で寛ぐのは苦ではないので、蒸気に身を委ねるまま親友の言葉を待った。 (なんだかんだ、藍夜も寂しがりだからなー) 四度目の息を吐いたところで、藍夜の口がもそもそと動くのを見る。色白の肌がほんのりと紅くなり、彼も落ち着き始めたのだと知れた。 「ハイウメだが」 「って、ここでハイウメの話なんだ」 「いけないかい」 「いけなくはないけど。で? ハイウメがどうかした?」 「いや……」 親友の歯切れは悪い。どうしたの、肘で軽く突っつき、話を促す。藍夜は両手で湯水を掬うと、顔を簡単に洗い流した。 「王都からの視察団が来たら、その便でホワイトセージを出るそうだ。ニゼル、君はどうするのだい」 「……ん? え? 街を出る? ハイウメが? あんなに街長の政策、悪く言ってたのに?」 「今や、ホワイトセージは死者の街だからね。致し方ないというものさ、復興しようにもまず人手が足りなさすぎるからね」 「うーん?」 「店も教会も、印刷所も壊滅状態だ。賢明な判断だと、僕は思うがね」 暁橙の死、牧場の被害にばかり気を取られていた……ニゼルは湯船に顔を少しばかり浸し、尖らせた唇からぶくぶくと息を噴き出し、泡を作る。 親友の表情は、相変わらず変化に乏しい。遠くを見るような眼差しからの言い草は、一連の出来事を達観して見ているように思えた。 ノクトの言葉を思い出す。今、藍夜やニゼルが生きるこの世界こそが、自分達にとっての現実だ。天使目線で分析などしないで欲しい。 しかし、そうでもしなければ親友の心は壊れてしまう寸前なのだろう。それが理解出来る故に、自分の無力さが歯痒くてたまらなかった。 「……俺は、行かないよ。母さん達は着いていくのかもしれないけど」 途端、藍夜は親の仇でも見るような目でこちらに向き直る。心臓が跳ね上がり、ニゼルは一瞬、ほんの僅かに息を詰まらせた。 「まだ母さん達には話してないけど。でも、分かってくれると思う」 「ニゼル。君も暁橙に似ず馬鹿だとは思っていたがね、そこまでとは思わなかったよ」 「ちょっと、何その言い方。約束したでしょ? 俺はずっと藍夜の味方だし、藍夜にだけは嘘吐かないよって」 互いに睨み合う。喧嘩というほどではない、しかし、一度こうなると長引く事をニゼルは経験上知っていた。 「こんな事になって、藍夜を一人にすると思う? 商品だって残ってないし、藍夜こそこれからどうするつもりなの」 「……視察団が来たら、その手伝いをするつもりでいるよ。詳細を知る者が一人でもいなければ、調査のしようがないだろうからね」 「そうじゃなくって! 藍夜の話だよ、調査とかは王様に任せれば済む話でしょ。藍夜の事だもん、どうせ、ここで墓守でもする気でしょ。 そんな選択で暁橙が喜ぶと思う? いつまでも立ち直りもしないで、自分のせいだって自分を責め続けて。そんなの、暁橙は喜ばないよ」 藍夜の顔は、怒りと、屈辱と、困惑と、そして僅かに滲む悲哀で歪んでいる。言い過ぎた、とは、今回ばかりは思わない。 ニゼルは至近距離のまま、じっと親友を見つめた。譲るつもりはない。暁橙は、誰よりも、それこそ自分以上に兄を気に掛けていた。 墓の下に弟を埋めて、その前に永久に立ち尽くすまま……そんな憐憫を、彼が望んでいる筈がない。想いが届く事を、ニゼルは熱望していた。 「好きにしたまえ」 「! ちょっと、藍夜!」 意外にも、先に折れたのはオフィキリナス店主の方だ。長風呂を好む彼にしては短すぎる時間で、湯船から離脱してしまう。 その間、目が合う事もなかった。本当に思った以上に重傷だ――一人湯に浸かりながら、ニゼルは歯噛みする。 言葉が届かない。いつもの挑発が表面上にしか響かない。親友だ、幼なじみだ。長い間、ずっと一緒に過ごしてきた筈だった。 だというのに、どんな言葉を掛けるべきなのか、何をしてやれるのかがまるで分からない。音も立てずに閉められる扉を、黙って見送る。 「俺、どうしたらいいのかな。暁橙、瓊々杵さん」 狭くとも幸福だった世界が、音を立てて変わっていく。現実が夢物語に乗っ取られていく。 ここに残るというのは、本音のつもりだった。その決意さえ、親友には欠片も届いてくれないのだろうか。 湯煙に息を吹きかけ、視界をクリアにしてからニゼルも風呂から上がる。どのみち、無言で自宅を出てきてしまっていた。 今夜はアンブロシアあたりに話をつけて、泊めさせて貰おう……無力感に駆られる心と裏腹に温まった体を拭き、脱衣所へ向かった。 「――ニゼル? アンタって子は、ほんっとーうに、親を心配させるのが得意ね!」 人間誰しも、予想だにしない事に出くわす事もある。 風呂から出たニゼルを待っていたのは、親友の小言ではなく、ストケシアの呆れかえった声だった。どうやら迎えに来ていたらしい。 考えれば、羊は殆んど駄目になっていたのだ。いつものように父母も早起きに備える必要はないのだと思い至り、居心地の悪さに身じろぐ。 母の背後には傘を持ったノクトが立っていて、彼が脱走を知らせたのだと予想がついた。珍しく、喰天使は無表情で棒立ちしている。 「あの、すみません。一言、お伝えに伺えばよかったですね」 「あら、アンブロシアちゃん。いいの、いいのよう。この子ったら藍夜君にべったりだから。もう諦めたわ」 「いやあの、母さん……」 「いっそノクトさんがうちの子だったらねえ。むしろニゼルが女の子だったら、色々都合がよかったのに。婿養子とか楽しそうじゃない?」 この場合、婿として迎えられるのは藍夜だろうか、それとも両親に妙に気に入られたらしいノクトの方か。ニゼルには判断が付かなかった。 どちらにせよ質の悪い冗談だ。断りも入れずに出てきた自分への嫌みもあるだろう、小声で謝り、母が頭を撫でてくるのを甘んじて受ける。 苦笑するアンブロシアに、ストケシアは再度礼を言った。促され、そのままオフィキリナスを後にする。時刻は既に真夜中に近付いていた。 「ニゼル。藍夜君、大丈夫そうなの?」 帰途に就く中、母はぽつりとそう問いかけてくる。どう答えるべきか悩み、ニゼルは口を閉ざした。 草を踏みしめる固い音だけが続いている。ノクトは着いてきているだろうか、ふと目だけで振り向くと、片目を細めた喰天使と目が合った。 俺の事は気にすんな、ぱくぱくと口だけが動かされ、顎で前を向くように指図される。 言われなくても分かってるよ、半ばむくれて顔を動かしたニゼルは、じっとこちらを見つめているストケシアの視線に気が付いた。 「ニゼル。私も父さんも、そこまで脳天気じゃないのよ」 たじろぎ、身構える。母の瞳は、深海のような濃い青色だ。見透かされてしまったような錯覚を覚え、反論しようとした口を閉じる。 「オフィキリナスの喫茶店。珍しく、遅くまで明かりが点いてたわね。人の気配もたくさんあった」 「母さん?」 「ニゼル。アンタ、王都への脱出便に同乗しないつもりでしょう。私達に黙って……本当、昔から勝手なんだから」 「! それは……気付いてたの? でも俺、」 「私達はいいのよ。王都近郊に分けてあげたアルジル羊達が言う事聞かないからって、飼育員の指導をするようずっと請われていたからね。 でもアンタは藍夜君から離れたがらないんじゃないかって……しっかりしなさい。もう私達はあの子の手助けしてあげられないんだから」 ニゼルは二の句が出てこなかった。ふわりと、背伸びした母の手が、頭を優しく撫でてくる。 目が熱くなった。ぐっと口を真一文字に結び、見上げてくる、少し寂しげな微笑みを見つめ返す。 「アンタはこうと決めたら絶対に曲げない子だから……いいわね? 私達の分も瓊々杵さん達の分も、藍夜君を守ってあげるのよ」 「うん、ごめん。ありがとう、母さん」 「――おい、見ろよ。雨、少し弱まったみてぇだな」 晴れ間にはまだほど遠い。それでも、雨足が僅かながら弱まったように思えた。なら早く帰りましょ、そう言ってきびすを返した母を追う。 ふとニゼルは、何かの物音を聞いたような気がして足を止めた。振り返った先は、雨と暗闇に閉ざされていてはっきりと見えない。 息を呑む。それでも、重量物をずるずると引きずるような不気味な音がしっかりと近付いてきていたからだ。 ちらと母の背を盗み見る。何も気付かなかったのか、彼女は早くも牧場の柵を一人で開け、敷地内に入り込んだ後だった。 呼び止める暇もない……逡巡し、ニゼルは喰天使の顔をそろりと見上げる。ノクトは、先の呟きが嘘のように、再び黙り込んでいた。 「……なんだろう、今の音」 答えは返されないだろうと分かっていながらも、ぽつりと疑問を吐き出す。意外にも、その疑問はすんなり解決されるに至った。 暗がりから、ぬうと姿を現した者がある。徒歩でこちらに寄ってきたのは、片手に何やら膨らんだ布袋を手にした、サラカエルだった。 「サラカエル!? 無事だっ……えっと違う、そのっ、」 「やあ。相変わらず、間抜け面だね」 カチンとする自分を無視して、殺戮の天使は濡れた髪を空いた手で掻き上げる。彼が着る瓊々杵の服は、黒い染みでだいぶん汚れていた。 「何してたの? 今まで。藍夜、大変だったみたいだよ」 「ああ、それか。知ってるよ、僕も大概、苦労させられたからね」 「苦労って。あのさ、結局ホワイトセージで何があったの? 街の人達は? 藍夜のお店に来た人達は……」 「やあ、それより今日はもう休んだ方がいいよ。明日から忙しくなるからね」 「え?」 ふふ、と、ごく小さな声が宙に溶ける。サラカエルは、意味深に笑っていた。 「鳥羽暁橙の墓を用意しなきゃだろ。お葬式だよ……王都の視察団とやらは、僕の方からもせっついておいた。すぐにでも迎えが来るさ」 彼の顔は、よく見れば返り血で濡れている。まだ事態は何も解決していないのだ。そう強く思い知らされ、ニゼルはその場に立ち尽くした。 彼の後ろには、引きずられてきた暁橙の死体が転がっているのだろうか。こみ上げたものをぐっと嚥下し、ニゼルは辛うじて頷き返す。 まさかこの天使は、「それ」をそのまま親友に見せるつもりではないだろうか――非難はしかし、最後まで喉から剥がされる事はなかった。 促され、ノクトにも手を掴まれ、ただ大人しく彼らの言う事に従う。やはり、そうする事しか出来ない自分の非力さが憎らしい。 「あんまり気にすんな。あの根暗野郎は、嫌みを飛ばさねぇと死ぬんだとよ」 「ノクト?」 「テメェにはテメェにしか出来ない事もあるだろ。俺はウリエルのクソ野郎の世話なんざ御免だぞ、明日から気合い入れろよ」 フォローされたのだろうか。ほぼ反射で、ニゼルは喰天使に上目遣いを送りながら、頷き返していた。 「ノクトってさ、悪人になりきれないタイプだよね。藍夜とおんなじ。同族嫌悪じゃないの?」 「うるせぇよ。おだててもロードは返さねぇからな」 夜中に牧場に煌々と灯が点されているのは、妙な心地にさせられる。素直にそう呟いたニゼルに、ノクトは鼻息だけで応えた。 明日は、忙しくなる。自分自身に密かに言い聞かせるように、誰にともなく、ニゼルは小さく首を縦に振った。 ノクトが開けた柵を通り、彼が着いてくるのを視認してから自室に向かう。窓から外の様子を伺うと、隣家にはまだ明かりが点いていた。 今夜は、親友は眠らないつもりでいるのかもしれない。これは明日も雨だろうな、布団に潜り込みながら、大きく鼻息を噴いて目を閉じる。 睡魔は、思ったよりすんなりと訪れた。暗がりに意識を手放して、ニゼルは雨の音を聞きながら眠りに落ちる。薄情だよねと、独白した。 ……その日、ニゼルは夢を見た。夢だと分かったのは、なんとなく、殆んど直感めいた感覚によるものだ。根拠はない。 暗がりの中、ぽつんと立ち尽くす自分の前に、一人の女が立っている。どこかで会った事があるような、しかし見覚えのない女だった。 肩胛骨あたりまでに伸ばされた、栗色の柔らかそうな髪。子牛のそれをくり抜いてきたように両目にあてがわれた、黒く丸い瞳。 色白ではなく、ほどよく健康的な色をした滑らかな質感の肌。背はそう高くない、お陰で女の顔がどんなものなのかが、よく分かる。 はっと息を呑むほどに、美しい女だった。それこそ、高嶺の花といえばこんな女性を指すのだろうとニゼルは思う。 女は笑んでいた。腰に手を当て、ふふんとふんぞり返っている。そんな態度でありながら、どこか見た目は幼い。聡明な顔立ちである割に。 『えっと……誰?』 問いかけは、暗がりの中で柔らかく反射され、ぼんやりと反響した。鏡の中にでも押し込められているのかと、ニゼルはあたりを見渡す。 一方、女は動揺する素振りすら見せず、ニゼルから片時も目を逸らさなかった。数歩分離れて立ち、正面から向かい合う。 『細かい事は気にするな! わたしは、お前の事が気に入ったぞ。光栄だろう?』 えっへんと、小生意気な声さえ聞こえるような気がした。向き合う赤紫と黒瞳。真っ直ぐな目は、こちらを観察しているように感じられる。 彼女の声は、はきはきとよく通る快活な響きを持っていた。整った容姿とは裏腹に、活力に溢れた活発な雰囲気に満ちている。 見下すような物言いはしかし、何故かあまり不快にさせられない。高慢といった言葉遣いそのものである筈なのに、不思議な話だ。 口を閉じて大人しくしていた方が得するタイプだろうなと、ニゼルは口をもごもごさせた。なんとなく、それを言い出すのは憚られる。 『えっと……あー、うん、いやいや、気になるから! 君は誰? もしかしてどこかで会った事ある? 藍夜の知り合い?』 『アイヤ? ……ああ、鳥羽藍夜の事か。いや? わたしはあいつとは、直接の知り合いではないな』 『直接? どういう意味?』 女はふふふ、と笑った。心底楽しい、そう言いたげな破顔だ。魅力的で、思わず見とれてしまいそうになる。ニゼルは目を瞬かせた。 『お前は怖いもの知らずだな。わたしを見て怯まなかったのは、お前とサラカエルくらいだぞ』 瞬かせた目を細め、今度は眉間に力を込める。サラカエル。今、何故その名前が出てくるのか。女との接点が掴めず、ニゼルは困惑した。 訝しむ青年に気付いてか、女は首を傾げる。その動作一つさえ小綺麗すぎて、まるで異国の美術館から至高の彫像を盗み出したかのようだ。 栗色の長い睫毛が一度だけ揺れ、再び笑みに変わる。どこまでも自信に満ち溢れた女の所作に、ニゼルはたじろぐばかりだった。 『よーく、聞け。これから先、お前も鳥羽藍夜も、この狭い箱庭から抜け出して、果てしない世界を巡り渡る事になる』 『箱庭?』 『そう、箱庭だ。わたしの知らない事ばかりだったが……ああ、うむ。あの方ときたら、本当に……』 『あの方? 待って、何の話? 君は、俺にどうして欲しいの』 『うむ、忘れるな。お前には月天の加護がついている。道に迷ったらわたしが手助けしてやろう、あいつだけじゃ先行きが不安だからな!』 何の話をされているのか、まるで分からない。静かに首を左右に振るニゼルに向かって、女は気持ちがいいくらいに明るく笑いかける。 やはり、どこか見覚えのある笑みだ。不意にぎゅっと胸が苦しくなった。それが何を意味するのか、ニゼルには見当も付かない。 ふと、沈黙が訪れる。女はおもむろに目を伏せた。次いで、その顔に儚げで、寂しげで、どこか自嘲を滲ませたように微笑が浮かぶ。 これまでの態度と真逆の表情に、ニゼルは言葉を詰まらせた。女の唇がゆっくり動き、その声を聞き漏らすまいと、羊飼いは耳を澄ませる。 『大丈夫だ。いくらでも、助けてやろう。どんと構えて、わたしとあいつに任せておけ』 『あいつって、サラカエルの事?』 『そうだ。あいつときたら、わたしがいないと腑抜けになるからな……ああ、そうだ。お前、ここでわたしと会った事は秘密だぞ。約束だ』 『秘密? サラカエルには言っちゃいけないの?』 『そうとも。これはわたしとお前だけの、秘密の【契約】だからな』 ぱっと、声に明るさが戻った。サラカエルの事を話す時、女の言葉には複雑な感情が含まれているように感じられる。 それが何か意味するのか分からず、ひとまずはと、ニゼルは放たれた言葉だけを素直に受け取る事にした。 『よ、よく分かんないけど。面白そうだね、それ。いいよ、分かった! サラカエルには内緒ね?』 『よしよし、いい子だ。わたしは素直な子は好きだぞ……また会おう。それまで――』 『えっ、ちょっと待って! ねえ、よく、聞こえな……っ』 ――音が遠のく。女の姿が、朝に漂う霧のように霞んでいく。やがて、苦笑じみた弱々しい笑みまでもが、暗がりの中に溶け込んでいった。 手を伸ばすも、指先は虚空をなぞるだけ。ニゼルは口を閉じる。ああ、これは夢だ……不意にそう認識したところで、誰かに名を呼ばれた。 目覚めの時間だ、閃光が目に突き刺さる。むせるような湿気を帯びた空気を肺に感じ取り、ニゼルは暗闇の中からするりと脱出した。 名も知らない、美しい女。その麗しい立ち姿が、脳裏に鮮烈に焼き付いている。 |
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