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楽園のおはなし (1-5) BACK / TOP / NEXT |
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営業していないとはいえ、喫茶店フロアーは店主の気質から部屋の隅々まで掃除と手入れが行き届いていた。 木目の濃く浮かぶ、暖かみを感じさせる木製のテーブルには木綿のクロスが敷かれ、今晩のメインディッシュとなるハーブカレーを始め、 サフランライス、グリーンサラダに特製ハーブソース、その他貯蔵庫に突っ込んでいた果実や羊乳食品などが所狭しと並んでいる。 誰がどれを最初に手に取り、どれくらい食べ、またどのような順番でそれらを片付けていくのか。 長年の経験から分かっていたし、食の細い自分が思わず羨むほど、弟はよく食べる。出し過ぎというほどで丁度良いのだ。 無言で二口目の匙をカレーに潜らせたところで、向かいに座るニゼルが皮を剥いた林檎を皿に取り、差し出してきた。 「藍夜、はい、林檎……あーいや! ねえ、怒ってるの?」 「別に。何も怒ってなどいないさ」 一瞥し、その後聞こえない振りをしながら匙を運ぶ。目を閉じたままでもニゼルが「もう!」と膨れる光景が容易に想像出来た。 時刻は二十時直前。結局店主の(ささやかで微々たる)抵抗も虚しく、皆常のように自分の席に座り思い思いに食事を進めている。 いつもと唯一違う点といえば、ニゼルの足元に先のグリフォンが鎮座している事だろうか。 胡坐ともお座りとも形容し難い、微かに腰の浮いた座り方で床上を陣取り、ニゼルが皿に取り分けた羊肉をぱくついている。 藍夜にとって唯一計算外だったのは、獣の行儀が思いの他きちんとしているという点だった。 (意外なものだね) 肉やカレーなどを皿の外に散乱させず、一塊りを消費し終わってから次を啄ばむ。 鷹の前足でしっかりと端を固定し、皿を覗き込むようにして食事を摂る光景は、とても凶暴にして傲慢、飼育など不可能……と言われ、 長きに渡りヒトの世で怖れられてきた生き物と同義であるとは俄かに信じ難かった。何者かの躾が施されているとしか思えない。 「むい? ぬわに?」 「……何でもないさ」 じっと凝視していると、不意に顔を上げた向こうと目が合った。声こそ間が抜けているが、嘴からは肉片がダラリとぶら下がっている。 汁が落ちるよ、短く注意して藍夜は手元に視線を戻した。それもそうだ、とはグリフォンで、それは再び前のめりの体勢を取り肉を食む。 暁橙はこれに何も言わず、というより三杯目の大盛りカレーに夢中でいた為、兄と獣のやり取りに気付かずじまいだった。 負傷したとはいえ育ち盛り、それも体を動かしてきたばかり。クッキー数枚程度で腹の虫が収まる筈がない。 もくもくと食を進める藍夜とグリフォンを交互に見やり、ニゼルは手近に置かれたヨーグルトを取り口に運ぶ。 酸味の強さを特徴として挙げられるアルジルヨーグルトは、果実や蜂蜜などを加えたところで特有の癖が残る事もあり、観光客はおろか 鳥羽兄弟さえ手を付けない事が殆んどだった。それでもこれが食卓に並ぶのは、偏に藍夜がニゼルを気にしているからに他ならない。 毎朝市場に流しているそれらを、彼は弟とアルジル夫妻を通して購入しては食料庫に貯蔵し、ニゼルの前に出せる時を待っている。 「別に、無理して注文してくれなくてもいいのに」 「なんだい、ニゼル」 「ん? ううん。なんでもないー」 語尾の方では笑ってしまっていた。怪訝な顔を浮かべる藍夜に気付かぬ振りをして、好意に甘えて新鮮なヨーグルトを頂く。 ふと足を引かれるような感覚があった。首を回らせると、ニゼルの足元、グリフォンが前足の爪を控えめにズボンの裾に引っ掛けている。 目が合ったと思うや否や、獣はニゼルを見上げるように首を懸命に伸ばし、鷹の頭をひっきりなしに小刻みに揺らした。 ニゼルはその所作に覚えがあった。 自宅で飼っている牧羊犬二匹が、食事時にこれと似たような動きを見せる。何事かを訴えるような目つきもそっくりだった。 「なに? お肉、足りなかった?」 声をかけると、一見でも分かるくらいぱあっと顔を輝かせる。後方では先ほどまでピンと伸びていた尾が左右に忙しなく振れていた。 (構ってくれ、かな?) 前屈みになり、視線を近くしてから斜め横から滑るように手を伸ばし、嘴の付け根から頭部の辺りをそろりと撫でてやる。 突如、咳払いが聞こえた。テーブルの向かい、藍夜が両目を細めてこちらを見ている。 無意識にやってしまった。はっと我に返り、すぐさま手を引っ込めようとしたニゼルだったが――どうだ。獣は愛犬らと同じように首を伸ばし 心地良さそうにうっとりと目を細めるばかり。指先が離れたと気付けば、もう一度撫でろと言わんばかりに鼻息混じりに頭を伸ばす。 ……可愛い。 藍夜の咎めるような視線を無視し、くすぐったぁい、と言いながらも余計に甘えてくるグリフォンの頭を、これでもかと撫で回す。 頭頂から鼻部にかけてうっすらと生えた細やかな羽毛が心地良い。触れる度、灯りを受けてそれら一枚一枚が黄金色の光を零す。 指先に触れる頭頂は羽先もまだ柔らかく、じゃれつく様も愛犬に劣らず甘やかしがいがある。触れているこちらとしても気分が良かった。 なんだ、イヌと何ら変わらないじゃないか……藍夜への当て付けも半分あったが、これの扱いは存外難しくないかもしれない。 鳥羽藍夜とは逆に、ニゼル=アルジルは純粋に動物が好きだった。好きだからこそ神経を遣うと言われる自宅のブランド羊の世話だって 苦もなくこなす事が出来る。多忙を極める両親を労いながら、羊だけでなく影の功労者である牧羊犬と触れ合う時間も欠かさず設けた。 彼らが自身らの生活を支えてくれているのは目に見えて明らかだったし、その点だけは大切な幼馴染に譲るつもりもなかった。 (とはいえ、) 流石にやり過ぎただろうか。今や藍夜の咎める視線も呆れ顔、それさえ通り越して苦笑いに変貌しており、閉じた右目、半開きの左目は こちらを見てはいるものの、ニゼルとグリフォンではなくテーブル上の皿の中身を消費する点に重きを置いている。 暁橙は大盛り四杯目(!)を残すところあと半分といったところで、兄の遅々とした食事スピードなどまるで気にも留めていない。 「ねえねえ、にじぃ」 「うん?」 ふとグリフォンが声を掛けてきた。舌足らずな響きはどこか幼さを感じさせるもので、相手が凶暴性のある獣である事を一瞬忘れさせる。 「それさあ、オイシーの? その、鼻が曲がりそうなニオイがするやつ」 「え、ああ、これ?」 「そうそう〜。その真っ白くてとろとろしててもっこりしてるの」 「うーん、あながち間違ってはないけど」 「あー、そうそう。鳥の糞で固めた粘土、ってカンジ」 その例えはどうなんだろう、思わずニゼルは苦笑した。どうやらグリフォンが気にしているのはアルジルヨーグルトの事らしい。 見れば藍夜も匙を動かすのを止めている。何となしに視線が重なり、ニゼルは瞬きをし、藍夜は小さく肩を竦めた。 「『ヨーグルト』っていうんだよー。オイラは酸っぱくて苦手かも」 会話に割り込んできたのは、先ほどニゼルがカットした林檎を摘んでいる暁橙だった。 既に彼のカレー皿は空っぽで、洗う際に汚れが落ちやすいようにとレモン水、レモンバームの粉末が振り入れられている。 「よーぐると〜? なぁにそれ、食べられるの?」 興味しんしんとはよく言ったもので、ニゼルがヨーグルトを梳くって鼻先に近付けてやると、グリフォンはしきりに匂いを嗅ぎ、一度顔を背け また盗み見ては嗅ぎ直し……といった事を繰り返した。その様子がおかしくて、手が痺れていくのにも構わず匙を差し出し続けてやる。 気にはなるが勇気が湧かないのか、それとも匂いで敬遠してしまっているのか。どちらであれ、無理強いをするつもりはさらさらなかった。 「ニジーさん食べてるじゃん。牛とか羊とか、ニジーさんちで飼ってるのは羊だから羊のだけど、ミルクを発酵させた食べモンだよ」 「ひつじ〜? へえ、にじぃ羊なんて飼ってんの。めんどくさくないの〜? 羊ってもこもこしてるんでしょ、ぼく知ってるよぅ」 「まあね。ミルク出してくれたり、毛だって色々役に立つんだよ。昔から飼ってるし、俺は楽しんでやってるよ」 「所謂、家畜ってやつだよねー。オイラもたまーにお手伝いしてるし!」 「あはは。暁橙、いつも有難うねー」 「へへー」 「……ふぅん。よく分かんないけど、飼ってるのが『馬』じゃないんだったら何でもいいやぁ」 「? え、なに、馬嫌いなの? 馬だって可愛いじゃない、俺は好きだなあ」 奇妙な間があった。 「ニゼル」 唐突に藍夜に名を呼ばれ、グリフォンから一瞬視線を外すニゼル。暁橙は見た、獣の目が剣呑さを帯び、より鋭さを増した事に。 「馬なんて大っキライ。キライもキライ、だいだいだいだいっきらーい! ねえ、なんであんなのが生きてるの? 役立つとか言っちゃうの? ヒトのオトモダチだなんて寝言だよね、そうだよねぇ? なんで馬ばっかり大事にするの、なんでまだ生き長らえてるの、ねえなんでー?」 「え、ちょっ……ど、したの? えーと、」 「ねえにじぃ、なんでどうして? にじぃも馬がいいの、馬が好きなの、ぼくじょうにヨユウがあったら馬も飼いたいの? ねえ、そうなの?」 「や、いや、だからちょっと待っ」 舌足らずな口調は変わらず、だが、放たれた気配には明らかな敵意と悪意が込められていた。無意識に身体が強張り、言葉が途切れる。 匙を引っ込めようとした瞬間、ニゼルのズボンに爪が引っ掛けられた。向こうはほんの少し、その足を自身に引き寄せる仕草を見せる。 「う、わっ!?」 「ニジーさんっ!」 途端、百七十センチを越す長身がぐらりと傾いた。動き自体は小さいものだったが、その力はニゼルの想像を遥かに上回る。 聞いた事もないような暁橙の怒声。咄嗟に掴んだテーブルクロスが引かれる勢いのまま机上から離れた。 食器、グラスが派手な音を立てて床に落ち、破片が方々に飛び散る。ぱっ、とヨーグルトがクロスの上に飛散した。 次の瞬間、ニゼルが見たのはグリフォンの瞳が爛々と輝く様と、もう片方の前足が自分の頭を鷲掴みにしようとしている光景だった。 状況が分からず硬直する。危ない、という事だけは辛うじて気付けた。たまらず目を閉じたその時、視界の端で何かがチカッと閃き―― 「――いい加減にしたまえ!」 ゴンッ、……若しくは、ガン、だったか。 鼓膜に鈍い音が届いた瞬間、不意に身体に衝撃が走った。痛みはない。倒れ込む直前、誰かに受け止められたのだと知る。 恐る恐るニゼルが目を開けると、目の前には板張りの床と男の逞しい腕、更にその上には表情を苦痛に歪め切った暁橙の顔があった。 彼の口の端から小さな呻き声が漏れる。先の足の怪我を思い出した、慌てて身を起こし肩を貸してやる。 「ご、ごめんっ、暁橙!」 「い、いいよニジーさん。オイラは平気」 「あ、藍夜は?」 「あー……うん、兄ィは、」 暁橙が指し示す方を見ると、床上には件のグリフォンが頭を押さえて蹲る姿、その横には何故かポット片手の鳥羽藍夜の姿があった。 「全く、君は『グリフォン』を取り止めて今すぐ『獣(けだもの)』と呼び名を改めるべきだね」 「ぅ、いったぁ〜い! なぁにすんのさっ、この」 「この、なんだい? 君こそ僕の店で何をしようとしたのだろうね。当然答えて貰えるのだろうね、今ここで何をしようとしたのか」 「だっ、そんな、ぼくはそんな、別にそんな酷い事は〜……」 「へえ、こんなに食器を粉々にして、というよりニゼルにさせざるを得なくしておきながら酷い事ではないと。おかしな話もあったものだね」 「……絶賛お説教中」 「あー……」 よくよく目を凝らせば藍夜が手にしたティーポットにひびが入っているのが見える。暁橙はあれが兄が大切に愛用している事を知っていた。 白磁の細身の陶器。父が愛した職人の晩年の作品で、数少ない形見として兄は本当によく手入れをしていた。 いつもの応接間の椅子に深く腰掛けながら、エプロンの上にそれを乗せ、茶を淹れる直前まで磨いていた背中を思い出す。 彼の事だ、使用している最中の破損や破片の混入に考慮して明日にはもう使わなくなるだろう……。 獣の頭にはコブが出来ていた。思いのほかポットが頑丈に出来ていた事に、暁橙は一瞬驚く。 躾というには少々手荒な気もするが、兄の性格からしてこの恨みは長引く事間違いない。 ニゼルに促され、起こして貰った椅子に腰を下ろした。足の痛みは一時なりを潜めていたものの、先の騒動でまた熱を帯び直している。 早急に治さなければ、注射への諦めもついた。いざという時に咄嗟の行動が取れないのでは、危険を伴う兄の仕事を手伝えない。 「だ、だからぁ、ご、ごめんなさ〜いって言って……」 「誠意を感じないね。全く、君は一体誰にヒトの言葉を教えて貰ったのだろうね? 言葉を並べただけでは無意味というものさ」 「う〜っ! だからごめんって言ってるじゃんかぁ、耳悪いのー!? もっとおっきい声出したらいいわけ?」 「……ニジーさん、これ全然止まんないよね」 「うん。もう、どっちも頑固だなあ。片付け、先にしちゃおうかな?」 身の危険に晒された事など一向に顔に出さず。暁橙の傍から離れると、ニゼルは幼馴染の肩をそっと一、二回叩いた。 勢いよく振り向いた藍夜の後ろで、獣の顔がぱあっと明るく輝いたのが見えた……事は黙っておく事にする。 「なんだいニゼル。今大事な話をしているのだがね」 「ねえ藍夜? お説教もいいけど、明日暁橙を医者に連れて行くんでしょ?」 苦笑混じりのニゼルに対し、藍夜は明らかに機嫌の悪さを出した。とはいえそれも一瞬で、暁橙の件を掘り返してやればすぐ我に返る。 「そうだったね。片付けもしなければならないし」 まだ何か言いたげな顔はしていたものの、ポットを別のテーブルの上に置いた時点で、彼が思考を切り替えた事は明白だった。 藍夜が掃除道具を取りに動いたところで、微笑み、小さく首を傾げてから半分涙目になっているグリフォン、次いで暁橙に一瞥を投げる。 グリフォンは反省しきっているようで、先の興奮した様子はまるで見えない。人間さながらに肩を落とし、がっくり項垂れていた。 藍夜の説教が効いたのか、反論し直すほどの元気は現時点ですっかり失われているように思えた。 暁橙と顔を見合わせる。 兄ィが怖くなっちゃったかな、と暁橙は呟き、一度微笑んでから、そんな事ないんじゃない、とニゼルは苦笑をし返した。 「ほら、二人とも。暁橙は明日に備えてもう寝なよ。ここは俺と藍夜とこの子で片付けるからさ」 「でもニジーさん」 「怪我してるでしょ。明日寝坊したら藍夜に怒られちゃうよ?」 「うん……分かった。オイラ、一応一階の客間で寝るね。おやすみなさい」 「おやすみ、暁橙」 緩慢な動きで暁橙が店の奥を目指して歩き出す。横目で盗み見れば、グリフォンは俯き加減に嘴で硝子片を咥え、一箇所に集めていた。 ちょんちょんと指で頭頂を突付いてやると、獣が困惑混じりの表情でニゼルを仰ぎ見た。片目を瞑り顎で行け、と指示してみせる。 「でも」 「いいからいいから。藍夜いっつもあんな言い方だからさ、そんなに怒ってないと思うよ。暁橙の事、送ってやって」 「うん……いってくるね」 あの落胆ぶりときたら。自分と暁橙は長い付き合いで慣れてしまっていたが、一度キレると藍夜は小言製造機と化すのだった。 初対面、ましてや互いの事情も何も知らずにいた状況下では、よほど怖かったに違いない。 どうにも本当に馬が嫌いであるらしい。獣が暁橙に声を掛け、彼がその翼に身を乗せたのを見届けてから、ニゼルは破片を拾い始めた。 ケダモノと藍夜は例えたが、話せば会話は成立するし、こちらの言う事にきちんと従う事が出来る。反省するだけの知能もある。 獣と馬との間で、昔よほど嫌な事があったのだろうか。例えば極端な話、親や兄弟を殺されでもしたとか。 だとしたらちょっと迂闊だったかな、そう呟きかけて、ふとニゼルは立ち上がった。 「あ、そうだ。そうだよ、忘れてた!」 先ほどからどうも何かが引っ掛かっていたような気がしていた。そもそも、先の馬の件の際にこちらは聞こう聞こうと思っていたのに。 突然、彼、若しくは彼女が興奮し、最後には暴れ出したせいですっかり失念していた。藍夜に聞かなきゃ、そう独白した矢先、 「僕に何を聞こうというんだい」 「わあっ! び、びっくりしたぁ。藍夜、いきなり声掛けないでよ」 「何もそんな驚く事もないだろうに。何もしやしないさ、それより君、そのままだと怪我をするよ」 何の話だろう、首を傾げると、彼は手にしていた箒と塵取りを渡してきた。なるほど、言われるまで破片を掴んでいた事も忘れていた。 有難う、と短く言うや否や、眼前でオフィキリナス店主は黙々と破片を集め始める。倣うようにして、暫しニゼルも箒を動かした。 「ねえ藍夜」 「なんだいニゼル」 「あのさ、さっきの事なんだけど」 「どの事だい」 「あの子が暴れた事。あんまり怒んないであげてね、馬嫌いだって俺も知らなかったしさ」 「ああ……別にどうでもいいさ」 「よくないよ。藍夜すっごく怒ってたじゃない」 「君達が怪我でもしたらと思うと気が気じゃなかったんだ。察してくれたまえよ」 このイケメンめ。とは、ニゼルは口が裂けても言えなかった。 彼は自分や暁橙に異常に過保護になる時があるが、彼がそうなった経緯を知っている自分としては、何一つ口出し出来そうもない。 それがもどかしくもあり、また同時に「特別な親友」という目に見えないカテゴリに収められているような気がして、嬉しくもあった。 食事が終盤に近付いていた事もあり、床上には皿などの大きな破片が目立ち、食物はそう散らばっていなかった。 藍夜が持ってきた雑巾で手早く水分やヨーグルト、零れたソースなどを拭い取る。そう時間も掛からないうちに室内は綺麗になった。 差し出されたバケツに雑巾を沈めてやり、倒れた椅子を全て起こして、二人無言のまま腰を下ろす。 壁に掛けられた時計を見やると、時刻は夜の九時半を過ぎたところだった。 「あのさ、藍夜。あの子の事なんだけど」 「なんだいニゼル、随分と気に掛けるね」 気に入ったのかい、とは若干棘を感じさせる口調だった。手渡されたハーブティーを受け取り、頷く代わりにそろりと口を付ける。 「うーん、それもあるけど。ねえ、あの子って性別どっちなんだろうね」 「重要な事かい、それは」 「えー! 重要だよ、何言ってるの。どう呼んだらいいか困るじゃない」 「……そういうものかな」 「そうだよー。それに俺達、あの子の名前だって、どこから来たかって事も知らないし」 「だから『怒らないで』、というわけか。だがねニゼル、あの幼さであの力だ、教える事は教えてやらなければ」 先ほどグリフォンに直接言った事がそのまま体現されていた。 「そのままそう言ってやればいいのに」、そう茶化すと藍夜は無言で茶を口に含み直す。 余計な事ばかり饒舌で、肝心な要点を上手く吐けない。こういうのを何と言ったろうか、朴念仁、無器用……そんなところか。 含み笑いをしたニゼルに一瞬むっとした表情を浮かべる藍夜だったが、茶で喉を湿らせてから彼は小さくこう呟いた。 「それが巡り巡ってあれの自衛にも繋がるのだからね」 それは自分への言葉でもあるのだろうか。カップを手にしたまま、ニゼルは何も返せなかった。 カタン、ふと耳に小さな音が届いた。 音のした方を振り向けば、暁橙が姿を消した曲がり角から、件のグリフォンが恐る恐るといった風に戻ってきたところだった。 「お帰り。あれ、暁橙は?」 「さっきのオレンジ頭の事だったら、部屋で寝てるよ〜。カモミールくさい部屋」 「そこは客間だよ。えーと、」 「やあ、やっと戻ってきたね。聞きたい事はまだあるんだ、座りたまえ」 またそんな言い方、咎めてもどこ吹く風か、藍夜はお構いなしに片手で自身とニゼルのちょうど中間になる床上を指し示した。 獣は大人しくそれに従う。一度だけ翼を開き直し、羽根の並びを嘴で軽く整えてから、どかりとその場に座った。 「カモミール、つまるところ、君は『ハーブ』を知っているのだね」 「……ウン」 「藍夜」 「分かっているよ。さて……その辺りの事は後にするとして、まずは君自身の事を聞くとしようか。君の名前は?」 「なまえ?」 藍夜の口調は先と変わって穏やかなものだった。俺の説教が効いたかな、ニゼルはこっそり頷いていたが、グリフォンの反応が悪い。 見れば獣は叱られた時よりもうんと小さく身体を縮め、俯き、声を震わせてさえいた。事情が分からず、藍夜共々顔を見合わせる。 「そう、君の名前さ」 「ぼく……わかんない。覚えてない。なんて名前だったかなぁ」 「え?」 上げられた琥珀の瞳には、困惑と混乱、そして微かな悲しみの色が篭っていた。 「覚えてないんだ、なんにも。気が付いたらずっと遺跡にいたの。暁橙が来てやっと外に出ようって思えたんだよ」 「それは……」 「そこで誰かを、待ってたの?」 「よくわかんない。でもぼく、本当に長い間あそこにいたんだよ。誰かに『ここで待っていなさい』って言われたの、そう約束したの」 「それが誰かも、何の為だったのかも思い出せないのかい」 今度こそ一度質問を止めざるを得なかった。同時に、藍夜は雑巾とは別の真新しいタオルを出してやるより他にない。 獣の両目から音もなく零れ落ちるものがある。それは藍夜とニゼルが知る限り、ヒトのそれと何ら変わらぬ無色透明の水滴だった。 先ほど暴れたのは寂しさの裏返しだったのか。或いは、久方振りに出た地上へ適応する為の前準備。 秒針が定められたリズムを刻む中、双方、互いに落ち着くのを一時待つしかなかった。 |
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