・取扱説明書 ▼「読み物」 イラスト展示場 小話と生態 トップ頁 サイト入口・ |
||
楽園のおはなし (1-47) BACK / TOP / NEXT |
||
慌てふためく天使に暁橙の後を追うよう言いつけたのは、まさかの住民達の方だった。 昔は発掘人だったから、と背中を押され、アンブロシア、琥珀はホワイトセージに取って返す。 双方が暁橙の気配を辿って駆けつけた時、そこにいたのは鬼神だった。或いは血に飢えた化け物だったかもしれない。 否、それは確かにオフィキリナス店主、鳥羽藍夜だったのだ。しかし彼の怒りは、言葉では現しようがないほど壮絶なものだった。 青白い雷がとぐろを巻き、伝説の魔獣ヒュドラやメドゥーサの頭のようにうねり、鎌首を上げ、渦のように拡大し、周辺を呑み込んでいる。 建物、煉瓦は原形を留めず、大蛇の如き雷の嵐の中央は、藍夜、腰を抜かしてへたり込むハイウメを除いて壊滅状態に陥っていた。 薄暗かった空間は、鮮烈な雷光で覆され、瞬く間に眩い光に塗り替えられる。土が、木材が、魔獣の千切れ飛んだ肉が焼ける臭いが漂う。 あまりに強烈な光に目を細めたアンブロシアは、この時初めて、街がドーム状の結界で覆われていた事に気が付いた。 (……黒い、結界? 誰かの、専有フィールドになっていた?) 強力な天使の中には、自身の能力を高め、逆に相手を弱体化させる為の一時的な檻、巨大な結界を作り出す事を可能とする者がいる。 だとすれば、あの狂人達が急に湧いたのはそのせいだ。ホワイトセージを己が有利とする空間に封じ、その後に魔獣は解き放たれた。 今の今まで気が付かなかった、それはつまり、結界が高位天使にすら発見出来ないほど秘密裏に、かつ緻密に織られていた何よりの証拠だ。 ……何の為に、誰が、何の目的で? 雷の猛威を前に、アンブロシアは現実から目を背けるように立ち尽くしながら思考する。 「ちょっとぉ、シア! ぼーっとしてる場合じゃないってばぁ!」 「っ、琥珀くん」 それを無理矢理、妨害する者がいた。琥珀だ。原形姿故に、彼女の全身は雷光を反射させ、ことさら眩い光を反射させて輝いている。 「あれ、藍夜! なんとかしなくっちゃ! あそこにいるの、暁橙でしょ〜!?」 「……暁橙さん?」 琥珀の片翼か指し示す先、藍夜の背後、座り込んだハイウメのすぐ近く。そこに、アンブロシアは見慣れたオレンジ色の塊を見つけた。 雷に照らされ、はっきりと、その表面が黒みがかった液体で濡れているのが分かる。まさか、そんな筈は――天使の娘は、言葉をなくした。 時折、頭を抱えたり、耳を塞いで悲鳴を上げるハイウメに対し、暁橙は物言わずその場に突っ伏したままでいる。微動だにせず倒れている。 ……先ほどまで灯されていた生命の気配が、まるで消え失せていた。いよいよアンブロシアは顔から血の気を引かせ、駆け出していく。 落雷も、渦を巻く雷も、纏めて結界で強引に弾いて防ぎ、着いて来られない琥珀の声に耳を貸さず、いっそ翼を喚び、その場へ駆けつけた。 「暁橙さん、暁橙さん!」 肩を掴み、激しく揺さぶる。応えは返されない、うなじから溢れたと思わしき血が、アンブロシアの手をべったりと赤黒く染めた。 こんな酷い仕打ちはない……視界が急速に霞み、それでも急ぎうなじに手を伸ばし、治癒の祈りを注ぐ。惨たらしい傷は、塞がらなかった。 「おい、おい……っどうにかしろよ! 何なんだよこれ!」 「……ハイウメさん」 頭を庇うように抱えた青年が、身を丸め、怯えた声で叫ぶ。暁橙に触れたまま、アンブロシアはぼんやりと顔を上げた。 見渡せば、雷の嵐、或いは雷光の深林。怒り狂い、我を忘れた鳥羽藍夜。怯える街長候補のひ弱な姿が目に映る。 アンブロシアは決壊した。込み上げるのは、純度の高い大粒の涙のみ。物言わぬ橙色のつなぎを握り、頭を横に振ってハイウメに応じる。 「無理、です。わたしじゃ、わたしなんかじゃ、今の藍夜さんを止めるなんて――」 俯かせていた顔を上げ、ようやっとの思いで吐き出した答えは、あまりにか細く震えていた。 ――そうして、アンブロシアはついに「それ」を見つける。不意に氷粒の混ざる風が吹き、抉れた土を撫で、「それ」がこちらにやってくる。 「……そんな、」 絶対零度の風は、ホワイトセージの外部、それこそ暗い異次元が空間をねじ曲げて繋がり、多量の空気を流し込んだ事で生じたものだ。 「それ」は、土気色を通り越した青白い肌色を長い裾や袖から僅かに覗かせ、片方の手に握り締めた漆黒の刃の冥さを強調する。 死者の堕つる国、冥府。現世で落命した者をその地に誘う存在、死を運ぶ神タナトスの遣い……「それ」は、総じてそう呼ばれていた。 骨と皮で形成される手足。ローブの隙間から見える血の気の失せた唇。この世の者とは真逆の不気味な存在感に、天使も青年も震え上がる。 その遣いは、真っ直ぐ暁橙の元に歩み寄ろうとしていた。 手にした黒鎌、或いは鋏は死者の髪などを刈り取る為の物で、一度でもそれを刈られたら最後、その死者は二度と現世に戻る事が出来ない。 毛髪、ないし皮膚片は、その場で冥府へ誘う為の道標に変化させられ、死者の国を流れる大河を渡る際の、特別な通行手形となるのだ。 その遣いが手にしていたのは、やはり雑草を刈り取る為の小振りな鎌だった。漆黒の刃は、雷光を反射させる事なくしんと暗く冷えている。 「う、うわ、く、来るな……こっち来んな」 「そんな……そんな。待って、待って下さい……だって、だって暁橙さんはまだ、」 アンブロシアもハイウメも、ただただ震えた。冷たい風が、喉から意志ある声を奪っていく。 (落ち着いて! こんな時、こんな時、姉さんならどうするの!?) 死の遣いがこちらに着くまで、あと数メートル。アンブロシアはぎゅっと目を閉じ、両手で己の肩を掻き抱いた。 このまま暁橙を逝かせていい筈がない。彼はまだ二十年も生きていないのだ、否、それよりも藍夜やニゼルがあまりにも不憫過ぎる。 (でも、でもわたしに出来る事なんて) アンブロシアはぱっと顔を上げる。震える足を叩き、自らを叱咤して、よろめきながらも立ち上がった。 そうして振り返り、駆け出した先。彼女は、未だ鬼の如き勢いで激高する藍夜の元に辿り着く。 「藍夜さん、藍夜さんっ! 落ち着いて下さい、お願いします!!」 背後に回り、服を掴み、懸命に呼びかけた。藍夜は応えもせず、左腕をぐるんと振るう。たちまち、至近距離に落雷が生じた。 溜まらず悲鳴を上げるアンブロシアだが、目だけで振り向けば、死の遣いは暁橙の遺体に触れるか触れないかの距離まで接近している。 本当に、このままでは別れを言う暇も許されない。アンブロシアは高速で小型の結界を一枚織り上げると、それを藍夜の右頬に叩きつけた。 なりふり構ってなどいられない、その一心だったが、目論見は成功してくれたらしい。振り向いた藍夜の目は、鋭い殺意で天使を射抜く。 怖い、恐ろしい……黒と瑠璃の瞳は、冥い怒りに満ちていた。それでもアンブロシアは、言葉に祈りを乗せ、鳥羽藍夜を正面から見る。 「鳥羽暁橙の御霊は、まだ、この地にあります。あなたは、あなた様は、二度も別れを告げずに済ませるおつもりですか――ウリエル様!」 姉が生きていたら、ウリエルにそう言って喝を入れていたに違いない。 かつて、アンブロシアは姉に別れを告げる事が出来なかった。ウリエルもまた、ニゲラに対しそうだった筈なのだ。 言えなかった事、伝えられなかった言葉、届けられなかった想い。それを、再び嚥下させるわけにはいかない。冥い炎とさせてはいけない。 「……アクラシエル」 「藍夜さん。死者の国の遣いが来ています、もう時間がありません」 その双眸に、雷光の照り返しとは別の光が灯る。藍夜は、はっとしたような表情を浮かべ、アンブロシアの横を駆け抜けていった。 アンブロシアがその場にへたり込むのと、藍夜が死神の遣いの姿を視認したのはほぼ同時。藍夜は、風を切る勢いで左腕を振り下ろす。 雷神の雷霆、別名ケラウノスは、大神ゼウスの力が宿るロードだ。放たれた雷は死神の遣いの間近で盛大に弾け、その存在を吹き飛ばした。 「そ、そこまでやって、なんて、言ってない……」 アンブロシアは泣きながら呆れ果てる。確かに、冥府に追い返しさえすれば当分は暁橙の魂を持って行かれる事はないだろう。 しかし藍夜は分かっているのだろうか――死の遣いを撤退させるという事は、死神そのもの、或いは冥府に喧嘩を売るようなものだ。 冥府を治める神はゼウスの実兄だ。それを敵に回して、ゆくゆくは落命する種族ヒトである彼は、果たして無事でいられるのだろうか。 ……アンブロシアの懸念など余所に、藍夜は周囲の雷を収束させ、弟の遺骸に駆け寄った。しゃがみ、手首を取り、脈を測る。 無駄だと分かっていても、それをやらなければならない時が、人にはある。藍夜の顔から、あらゆる感情が消え失せるのをハイウメは見た。 手は離され、辛うじて原形を留める地面に降ろされる。うなだれ、雨水を止めどなく滴らせる前髪が、オレンジ色の頭を覆った。 雨は一向に降り止まない。ニゼルはオフィキリナスの応接間、いつも自分が出入りしては親友に窘められていた窓から、外を仰ぎ見る。 「藍夜、遅いな」 返事はない。応接間には、今はニゼルしか残っていないのだ。 あの後、喰天使は牧場を見に行くと言い残し、早々とオフィキリナスを離れていた。従ってニゼルはただ親友らの帰りを待つより他にない。 窓から離れ、親友がいつもふんぞり返っているデスクに足を延ばす。椅子を引き、出来た隙間を覗いてニゼルはもごもごと口を動かした。 いっそ藍夜の代わりに座っていてやろうか、ふと思いついた悪戯は、結局実行には移さない。今はそんな気にはとてもなれなかった。 「……あれ?」 背もたれを掴み、椅子を揺らして暇を潰していたその時だ。視界の端に何か動きのある物体を見つけ、ニゼルは応接間入り口に振り返る。 ひらひらと、空中から落ちてくる物があった。黒い羽根だ。漆黒の、カラスのそれより遙かに黒く染まった羽根が、一枚二枚と降ってくる。 ニゼルは瞬きをしながらそれを見つめた。光の一欠片も通さないように、それははっきりとした濃い黒色をしている。 羽根であると知れたのは、落下する際の、ふわふわとした不安定な動きによるものだった。 床に落ちきると、羽根は炎の中で縮れる紙切れのようにぐずぐずと蠢き、やがてチョコレートのようにどろりと溶け、床板に吸い込まれる。 酷く不気味ではあったが、妙に好奇心をくすぐる光景だった。 それが降ってきた場所がサラカエルの結界の内側であるという事に気付けないまま、ニゼルは羽根の落下地点に駆け寄っていく。 手を伸ばし、該当する床板にぺたぺたと触れてみたが、そこにはもう何も残されていなかった。いつもと同じ手触りのみが返される。 綺麗な羽根だと、そう思った。出来るなら一枚くらい手元に飾っておきたい、そう焦がれるほどに。それほどあの漆黒は魅力に満ちている。 (っていうか、何もないところから羽根って……まさか、また天使?) 恐る恐る顔を上げると、サラカエルの結界の内側、ニゼルの目と鼻の先に、見知らぬ人物が立っていた。 驚き、後退しようとして尻を着く。その人物は、髪や瞳、服装など、上から下まで全てを黒一色で固めていた。 その顔は、何故か悲しげに翳りを帯びている。麗しい美貌の持ち主だった。ぱちくりと瞬きして、ニゼルはそろりと立ち上がる。 ……招き入れた覚えは、ない。その事実にようやく気付き、ニゼルは咄嗟に藍夜から譲り受けた黄金の杖を抜き、その青年へと突きつけた。 何故かは分からない。しかし、そんなものでは到底適う相手ではないという事だけは、なんとなくだが理解出来る。 理屈、根拠、虚勢の通じない相手。これは危険な存在だ、そのような気がしてならなかった。 「……だ、誰? 藍夜の知り合い?」 なんとも間抜けな問いかけだ、自分でもそう思う。 オフィキリナスを訪れる客の殆んどは、ロードを売りつけようとする発掘人か、それを買い取ろうとするお忍びの金持ち、軍人、貴族らだ。 自分や暁橙が知らなくとも藍夜は面識がある、という事も過去に何度か経験している。その都度彼は、相手にしなくていい、と話していた。 彼もそうなのだろうか。それにしては、手荷物の一つも持っていない。もっと言えば、雰囲気や年齢からして、金持ちの類にも見えない。 ニゼルが黙り込んでいる最中、ふと青年の表情が変化する。花が綻ぶような微笑みだ。ニゼルは、青年の美しさも相まって言葉をなくした。 「こんにちわ。いや、時間からすればこんばんわ、かな」 慈愛に満ちたそれがニゼルを見つめる。正直、ニゼルはどきまぎしてしまった。 「どっ、どうも……えーと、で、誰?」 肝心要の質問を見失わずに済んだ点だけは、自分を褒めてやりたい。ニゼルは内心でそう思う。 それほどまでに、目の前の青年は整った容姿をしていた。否、むしろ整い過ぎていると言った方が正しい。 語尾が震え、及び腰になる自分を叱咤する。よりによって琥珀はおろか暁橙も不在だ。強盗には見えないが、用心に越した事はないだろう。 「……その杖、」 「え?」 「そんな綺麗な杖でヒトを殴ったら、汚れてしまうよ。危ないから、ほら、下げて」 「え、あ、ああ……うん?」 まるで暗示に掛けられるかのように。ニゼルは、青年に言われるがままに黄金の杖を、自ら進んで腰に下げ直そうとする。 アンブロシアが手作りした、杖を下げる為のベルトにロードを通した後、何故言いなりになっているのか、と遅れて首を傾げる始末だった。 「ちょっと待って。今、街の様子がおかしいからって、気まぐれ店主さんは出払ってるんだ。買い物とか売却とか、俺には無理だからね?」 本当は簡単な店番くらいならしょっちゅう代行してるけど――皆まで言わず、ニゼルは言葉を探しながら青年に謎の説得を試みる。 その間も、青年は柔らかな笑みを湛えるばかりだった。調子が狂うな、首を二、三回傾げ、ニゼルは座ったらどうかと椅子を勧めてみる。 「いや、いいんだ。……様子を、見に来ただけだから」 「様子? 誰の、って、藍夜の事?」 ニゼルの問いかけに、青年は首を静かに左右に振っただけだった。再び、その顔に悲しげな表情が浮かぶ。 その顔で泣かれそうになられると、本当に困る……ニゼルは内心焦りながら、それでも青年の次の言葉を待った。 「八つ当たりだったんだ。代償も、十分に事足りた……ごめんね、ニゼル=アルジル君」 「え。俺、名前……?」 「暫しの別れだ。また、会おう。遠い何時か、その日まで」 「えっ、ちょっ、ちょっと待ってっ、」 ニゼルの答えは、最後まで青年の耳に届かない。 突然、強烈な一陣の風が室内を駆け抜けたと思えば、次の瞬間には黒塗りの姿は跡形もなく消えていた。 強風に逆らわず閉じていた目を開き、ニゼルは何度か瞬きをして、青年が立っていたであろう場所を見つめる。 ひらひらと遊ぶように、舞うように、あの漆黒の羽根が数枚漂っていた。それは先ほどと同じように、着地と同時に床板に溶け込んでいく。 手を伸ばせど、同化した部分からは断片すら拾う事も出来なかった。素直に立ち上がり、店内に破損個所がないか、念の為見渡しておく。 「……八つ当たり? 誰に? っていうか、誰だったんだろう、あの人」 あの烈風の中に、喰の如き黒い渦が見えた……ような気がした。黒い羽根といい、やはりあの青年は天使なのだろうか。ニゼルは頭を振る。 「考えても、仕方ないか」 このところ、不可思議な事が多すぎた。それだって、親友やその仲間達が帰還すれば、簡単に笑い話にする事が出来る。 お茶でも用意しておこう、いそいそとポットを取りに行こうとして、ニゼルは背後から聞こえた小さな物音に振り向いた。 「……藍夜!! うわっ、びしょ濡れじゃない! 傘持って行かなかったの!?」 応接間入り口兼オフィキリナス正面玄関。そこに姿を見せたのは、待ちに待っていた親友だった。 無事だったんだ、そう喜び勇んでうきうきと小走りしようとしたニゼルは、ぴたりとおもむろに足を止める。 ……様子が変だ。ずぶ濡れで、力なく腕をだらりと降ろし、玄関に立ち尽くしたままの親友。俯いた顔からは、表情を覗き見る事が出来ない。 すぐに、ニゼルの胸にざわざわと嫌な予感が沸き起こった。君の勘は当たるからね、ふとかつての親友の声が、無限に脳内に反響する。 「……藍夜?」 言葉は返されない。親友はいつまでも俯いたままだった。それどころか、彼はぐちゃぐちゃの外套を着たまま上がってくる有り様だった。 いつもの彼なら、身だしなみや店舗の状態には必要以上に五月蝿い筈だ。小言と嫌みと説教を、どれほどの数だけ言われただろう。 それがどうだ、髪から水が流れ落ちようが、外套が体に密着していようが、靴跡が床板に点々と続こうが、まるでお構いなしではないか。 おかしい、何かがおかしい。咄嗟に、それこそ殆んど無意識のうちに、ニゼルは横を素通りしようとした藍夜の腕を掴んでいた。 「藍夜!」 「……ニゼル」 返事はある。しかし、ニゼルは親友の顔を覗き込み言葉を失った。鈍い動きでこちらを見た親友は、感情というものを表情に乗せていない。 心が読めない、こんな事は初めてだ。絶句するニゼルの腕を軽く振り払い、藍夜は応接間の奥へ向かうと、外套を脱いで定位置に掛ける。 ちらりと見えた外套は、赤黒く濡れていた。乾きかけたそれは雨水を吸い、特有の染みを作り出している。ニゼルは息を呑んだ。 暁橙はどうしたの――焦燥ばかりが募り、肝心の言葉が喉から出てこない。何か言わなければ、聞かなければ。無理に口を開けたところで、 「クソッ、おい、化け物! 着替えか何か、拭くものでも……」 ふと背後から聞こえた声に、ニゼルは我に返る。振り向いた先、藍夜に続くようにして姿を見せたのは、まさかのハイウメだった。 「……なんだ、ハイウメか」 「うお、ニゼル!? って、てめえ、なんだとは何だよ、この野郎」 「別にー。何しに来たの、ほら早く帰って、ハウスハウス」 「なんだよ、そんな言い方ねえだろ。コッチはマジで大変だったんだぞ……」 「そんなの知った事じゃないし。っていうか、ここ藍夜の家なんだけど? 何を偉そうにしてんの」 「そんなんじゃ、って、うおっ!」 素直な反応を示してやったところで、不意に応酬は打ち切られた。投げられたタオルを受け取り、ハイウメは訝しむように眉間に皺を刻む。 いつの間にか、藍夜は何枚か大判のタオルを手に戻ってきていた。ニゼル、ハイウメを見つめる目は、やはり感情が籠もっていない。 街で何かあったのだ、嫌な予感は的中してしまった。頭を拭き始めるハイウメから視線を逸らし、ニゼルは親友の元に駆け寄ろうとする。 「……っ、藍夜、さん」 「! アン?」 新たな物音は、漠然とした不安を一層煽った。掠れた声に振り向いたニゼルは、入り口に現れたアンブロシアが号泣している姿を見つける。 ぎょっとして駆け寄った。天使は、それこそノクトと言い争った時や、姉への想いを吐露した時と同じようにしゃくり上げている。 「アン? どうしたの、大丈夫?」 「……ニ、ゼルさん」 「何があったの? 怪我でもしてるの? ねえ、話してみて。琥珀は? 暁橙はどこ?」 「……っごめんなさい、ごめんなさい! あ、暁橙さんがっ、暁橙さんは……」 「アン? 泣いてちゃ分かんないよ、どうしたの」 肩を掴み、落ち着けと諭しても、アンブロシアは泣き止まない。途方に暮れたニゼルは親友に振り向くが、彼は窓の外へ視線を投げていた。 こちらに見向きもしない……長い間友人を続けてきたが、こんな事はそうそうない。何があったのかと、ニゼルはもどかしさに身をよじる。 「……なんだよ、何も聞かされてねえのか」 「ハイウメ? どういう事?」 意外にも、沈黙を破ったのはハイウメだった。一通り頭を拭き終わったらしい街長候補は、顔をタオルで拭いながらぶっきらぼうに告げる。 「鳥羽暁橙なら死んだよ。ソイツが油断して、化け物に喰われそうになったのを庇ってな」 ……目の前が真っ暗になるとは、この事だ。 ニゼルは一瞬、自分が今、起きているのか眠っているのか、或いはきちんとこの場に二本足で立てているのか、分からなくなった。 反射的に親友に目を向ける。藍夜はこちらを見つめ返す事もなく、ただ窓の外の遠くを眺めているように見えた。 暁橙が、死んだ。アンブロシアから離れ、急ぎ親友の元に駆け寄る。肩を掴み、こちらを向くように体を強く揺さぶり、顔を覗いた。 「藍夜、藍夜! 大丈夫!?」 「ニゼル。何がだい」 「何がって……暁橙の事、本当なの? サラカエルは? ねえ、藍夜……」 ニゼルは愕然として体を硬直させる。親友は、変わらず無表情だった。不意に、手に僅かな痛みが走る。 「アンブロシア。すまないが、風呂を焚いてくれないか。ハイウメ、君から先に入りたまえ。僕は喫茶店側にいる住民達の面倒をみるから」 振り払われた……そう気付いた時には、親友はニゼルから離れアンブロシアとハイウメに近寄り、冷静に的確な指示を飛ばしていた。 その背中は、濡れている事も相まって酷く小さく見える。追われる事も、呼び止められる事も、あらゆる干渉を拒絶しているように見えた。 「ニゼル。君も一度、牧場に戻りたまえ。ご両親も心配しているのだろうし」 目だけで振り向く親友の声は、異常なまでに冷えている。呆然と立ち尽くすニゼルを置いて、鳥羽藍夜はオフィキリナスの奥へと消えた。 |
||
BACK / TOP / NEXT UP:18/06/30 |