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楽園のおはなし (1-46)

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息が切れる、目蓋が重い、翼が言う事を聞かない。いよいよ疲労が限界に到達し、藍夜はその場に崩れ落ちるようにして着地する。
全身に衝撃、小さく唸る。濡れた煉瓦の道は冷たくなっていたが、自分の手足とどちらがより冷えているのか、藍夜には分からなかった。

「クソッ、こんなところでへばってんじゃねえよ!」

肩を掴まれ、顔を上げる。ハイウメもまた、肩で息をしている有様だった。大した効力を発揮しない瞳術も乗せて、藍夜は辺りを見渡す。
不思議と魔獣達の気配は遠退いていた。退けられたわけではない、別の地点に群がるように駆け抜けていったらしい。
新たな獲物でも見つけたか、そこを探るだけの余力は残っていない。場所としては北寄りの路上だが、オフィキリナスより遙かに遠い。
住民達に追いついたわけではなさそうだと、大きく息を吐き喝を入れる。膝を手を着きながら立ち上がると、前髪から盛大に水滴が零れた。
ふらついたところを支えられる。ハイウメに肩を貸された状態で、二人はなんとなしに、のろのろと一番手近な建物に近寄った。

「ハイウメ」
「なんだよ」
「すまないが、僕は少々限界のようだ」
「あー、そうかよ。俺もだよチクショウ」

表に掛けられた看板には、鍛冶屋と刻まれている。瞳術によれば、内部に生きている人間は皆無のようだった。
全員食い殺されたのか、文字通り精魂尽き果てたのか、それとも無事に逃げ出した後なのか。調べる気力も沸いてこない。
開いたままの玄関を潜り、倒れるように土間に腰を下ろす。元から営業していなかったのか、作業場は綺麗に片付けられていた。
ずぶ濡れの外套を脱ぎ、無駄だと知りながらばさばさと振り、生ぬるい雫を払う。その横で、ハイウメも上着をぎりぎりと絞っていた。
彼の場合、本日二度目である。しかし、水を吸った服はずしりと重く、もう一度羽織ろうという気にはなれなかった。床に放り天井を仰ぐ。

「これからどうする、って、どうもねえか。どうせ化け物どもに囲まれてんだろ?」
「その言い草は、諦めているようで感心しないね……サラカエルと合流する。目的地は、オフィキリナスで合っている筈さ」
「あのロン毛、そんなに信用出来んのかよ。しんがりどうの言っといて、いなくなってたじゃねえか」

頭を掻くハイウメの横で、藍夜は自身のこめかみに人差し指と中指を押し当てた。目を閉じ、意識を集中する。
無意識の奥底、瞑想に近しい感覚。そこに意識を沈める事で、対天使は互いに意志疎通を可能としていた。
最も、これまでオフィキリナスで試していた通り、サラカエルの声はまるで返されない。閉ざした視界の中は、雨音に揺すられている。
天使としての力不足か、ガブリエルによる告知が成されていないからか。気配を辿るという基礎能力までもが欠けていた。知らず嘆息する。
ふと声を掛けられ、目を開けると、怪訝な顔でこちらを見るハイウメと目が合った。なんだい、短く応えると、青年はいきなり舌打ちする。

「だいぶんお疲れみてえだけどな、おい、店に行くまで安全な道ってあんのかよ」
「ない、と言いたいところだが、流石にそれは酷な話だろうね」
「……実際はどうなんだよ」
「正直、分からないよ。化け物に出来る事にも限度というものがあるし、全てを見通す力など端から持っていない。期待させてすまないね」
「てめえ、いちいち嫌み言わねえと死ぬのかよ。クソッ、こんな事なら、今日は朝からニゼルの顔を拝みに行ってた方がよかったぜ」
「……ハイウメ。君は、本当にニゼルを好いているのだね」
「それ以上抜かしたら蹴り飛ばすぞ」

翼を畳もうとして、藍夜は一度羽を鳴らした。雫がぼたぼたと飛び散り、ハイウメが再び舌打ちする。
軽く謝った後、濡れたそれを体内に収納するのも面倒くさいと、藍夜は大げさなほどに夜色の四枚翼を広げた。
それらは水気を含むと、夜空を体現したような透き通る美しさを魅せる。ふと顔を上げた藍夜は、ハイウメが翼を睨んでいるのに気が付いた。

「本当に、てめえは人間じゃなかったんだな」

尋ねるより先に、向こうから話を振られる。しかしそれは、どちらかといえば独白に近い響きを持っていた。
返答は期待していないのだろうか、黙っているとおもむろに視線を動かしたハイウメと目が合う。
彼は怒っているように見えた。それもその筈だ、元から口喧嘩は絶えなかったし、幼い頃はニゼルを虐めた虐めてないで頻繁に揉めている。

(それも、全ては片思いからくる嫉妬……だったわけだが)

ましてや今回の事件の事もある、怒るなというのが無理な話だ。鼻で嘆息する藍夜に対し、ハイウメは何度目か分からない舌打ちをした。
それ以上の会話は振られる事もなく、なんとなく互いに顔を逸らし周囲を見渡す。職人本人はおろか、弟子や客の姿もまるで見えない。
思った以上に被害は甚大なのかもしれない、そう呟きかけて、藍夜はハイウメが匿っていた住民達の姿をぼんやりと思い返した。
両手で数えて、あまるかどうか。復興は可能だと豪語するハイウメだったが、それが叶うのはいつの話になるのだろう。
建築物はどうとでもなるが、人間の心はそう簡単には癒されまい。言えばまた揉めると容易に想像出来るので、藍夜はひたすら黙していた。

「……お袋がよ」
「うん? ベネクトラさんかい」
「ああ。親父は、なんだ、俺をあの色狂いどもに突き飛ばしてさっさと逃げやがったから無事だったんだけどな。お袋の方は、」
「いや、ハイウメ、ハイウメ。待ちたまえ。突き飛ばしたと聞こえたが、それは本当かい」
「話の腰折んなよ……まあな、あのクソ親父だから、仕方ねえよ」

不意に、ハイウメはぽつぽつと話し始めた。身を乗り出しかけた藍夜だが、彼の横顔に憔悴の色を見て口を閉じる。

「月に一度の食事会だったんだ。食事会つっても、お袋の家で簡単にだけどな。割と元気そうにしてたから、まあ、楽しみにしてたんだよ」
「……」
「いきなりあいつらが窓から飛び込んできて……お袋は、奥に連れ込まれて駄目になった。頼むからどう駄目だったかは聞くなよ」
「……」
「……なんか喋ろよ、化け物」
「おや、すまないね。気が利かない質だから」
「言い訳してんじゃねえよ……余計、惨めになるだろうが」

合流した時点で彼が多くの怪我を負っていたのはその為で。実母を奪われた怒りが、ここまで彼を引きずり出してきたというのだろうか。
藍夜は言葉も出なかった。掛ける言葉も見つからない。ハイウメはうなだれ、静かに声を詰まらせる。震える肩に、思わず手を乗せていた。

「……ハイウメ」
「なあ、何が悪かったんだろうなあ。俺がもっと、聞き分けのいいガキだったら親父達が離婚する事もなかったのかな」
「何を、そんな事は……」
「なんでだよ。普通に、台所で楽しそうにメシ作ってただけだぞ。なんでこんな事になったんだ、なんでなんだよ。お袋が何かしたのかよ」

雨露とは別に、青年の顔から流れ落ちるものがある。顔を上げたハイウメは、憎々しげに、次に悲嘆に暮れて顔を歪め、藍夜を見た。

「俺がやってきた事って、一体なんだったんだろうなあ。なあ、化け物。こんなにされなきゃいけねえほど、俺のやり方は間違ってたのか」
「ハイウメ、僕は……気の利いた事は」
「つーか、俺、なんでてめえにこんな事話してんだろうなあ。こんな筈じゃなかったのに、こんな筈じゃ……」

藍夜は、いよいよ声を押し殺して泣く青年の背中をそっとさする。

(こんな姿こそ、僕には見られたくなかっただろうに)

声は嗚咽にならない。どれほどのものを背負い、心を押し殺し、時に自分達に鬱憤をぶつけながら、彼はここまで長代理を務めたのだろう。
その苦労を拾い上げてやる事を、自分は出来ない。分かち合う事もしてやれない。ただ静かに背中を撫で、藍夜は灰梅色の髪を見つめた。
家族を喪った悲しみの重さを量る事など、部外者そのものである自分に出来る筈もない。天気が雨でよかったと、この時ばかりは強く思う。

「……ハイウメ。大丈夫だとも、君は、」

「君は精一杯頑張った」。慰めの為の、労りの投げかけ。しかし藍夜は、その言葉を最後まで告げる事が出来なかった。
突如として視界が暗くなる。ぶつんとあらゆる情報が遮断され、刹那、暗闇と化した脳内に膨大な量の警告の光景が並んだ。

(赤い、爪、牙、滴るもの、赤い、体毛、月夜に浮かぶ――)

「――ハイウメ! 避け、」

その警告の通り、藍夜は反射で腕を動かす。喘ぐように、慄くように声を絶叫に変え、残された力で思いきりハイウメの体を突き飛ばした。
傾ぐ体、遠退く視界。鼓膜に壁が薙ぎ倒される音、鼻を刺す多量の土煙。ハイウメの目が見開いてゆく様は、妙に遅い速度で目に映る。
背後から雪崩れ込むように飛び込んできたそれは、奇襲の名に相応しく、藍夜とハイウメを同時に捕らえようと両腕を伸ばした。

『ヴォオオオオ!!』

それでも成果は片方だけだ、悔しさからか、それとも一人は捕らえられたからか、その乱入者は雄々しく咆哮する。
ハイウメの罵声が響いた。銀光が翻る。青年が長剣を振り下ろすのと、藍夜が苦し紛れにそれの姿を見上げたはほぼ同時。
金色の眼、硬質な体毛、筋肉で盛り上がった体。それは頭部だけが狼の型をしていた。他、全身は至るところに短い毛を多量に蓄えている。

(……人狼『ライカンスロープ』!)

鋭い爪牙には、住民だったと思わしき人間の血や毛が引っかかっていた。人間のように足腰がしっかりしているが、その力は比にならない。
人狼、またの名をライカンスロープ。
人間と狼との混合種とも、狼型魔獣の突然変異ともいわれている。凶暴な性格で、特に月夜に真価を発揮する魔獣として広く知られていた。
首を掴まれた形で押し倒され、藍夜は身動きが取れない。ハイウメの斬撃が空を横切る、それを、人狼は片腕を振るって払いのけた。

「折れ、た……ってマジかよ! おい、ふざけんな!!」
「……ハイウ、ッ、ぅ、」

みしみしと喉が鳴る。藍夜は声を絞り出そうとしたが、人狼の力は恐ろしいほどに強く、その二の腕を掴み返すだけで精一杯だった。
近くに金属音が降る。目だけ動かすと、剣を半ばほどで折られ狼狽する青年と、その分身が床に深々と突き刺さっている光景が見えた。
鉄片が藍夜を映し込む。息苦しさにもがき、無力な己に激高する表情がそこにはあった。歯噛みし、汗を滲ませ、藍夜は人狼を睨み上げる。
金色の眼と目が合った。唸り、威嚇し、無様だと鼻で笑いながら。人狼は、前のめりに体重を掛けながら藍夜の顔にうんと顔を近付ける。
凶悪な牙と、血で濡れそぼった舌がぬめぬめと光っている。やられる、藍夜が息を詰まらせ、ハイウメが手近な武器を掴んだところで――

『ウ、ゥ、ウゥリエェェェルウウウウウ!』

――人狼は唾を飛び散らせながら、藍夜を至近距離で見下ろしながら、そう叫んだ。あまりの声量にびくりと怯み、ハイウメの足が止まる。
藍夜は目を見開いた。恐怖よりも勝る激情が、頭にかっと血を昇らせる。荒ぶる獣人に見下ろされながら、脳内が怒声を上げていた。
お前までその名で呼ぶのか――正体を知られている事よりも、鳥羽藍夜として存在する事を否定しようとする咆哮に、頭が煮える。

(そんなにも僕は『悪』なのか。鳥羽藍夜として生きようとする事は、それだけで罪だと言うのか)

あの黒塗りの青年のせせら笑う声が、すぐ傍で聞こえたような気がした。

「……ル、――ッ『サラカエル』!!」
「――やあ。真打ちっていうのは、いざという時に出てくるものさ」

言葉の合間にも、鮮血が飛ぶ。真っ先に悲鳴を上げたのは、ハイウメだった。
四枚翼、再び。人狼が開けた壁の大穴から、突如として何かが飛来する。槍だ、凶器の側面に魔獣の血をたっぷり付着させた、大槍一振り。
羽ばたきは力強く、自分と同じように雨水で濡れているのか疑わしいほどだった。槍が振るわれる度、夜色の羽根が何枚も飛び散る。
人狼は飛び跳ねるようにして振り向いた。その額、爛々と血走った両眼の間、躊躇いの欠片もなく、槍が深々と突き刺さる。
現れたのはサラカエルだった。彼は人狼の苦鳴を無視する。両脚を地に着け、腕に力を込め、めり込ませ、ねじ込むように凶刃を押し通す。

(対天使への意志疎通……今回ばかりは、上手くいったか)

盛大に咳き込む藍夜の背中を、ハイウメが賢明にさすった。無情に散らされた血が、床を、土間を侵食する。
人狼の胸部を踏みつけ、サラカエルは平然と槍を抜いた。それの先端は、月光を塗り固めたように青白く光っている。
サラカエルは本来、月の運行を司る天使でもあった。彼が月そのものを媒介に、自身の武具や術を強化する事を、藍夜はよく知っている。
互いに無言で頷き合った。それだけで、安否確認、更には謝罪と礼とを済ませる事が出来る。立ち上がり、藍夜はもう一度だけ頷き返した。
一方、ハイウメは死の淵に触れ、ただ痙攣し続けている獣人を見下ろしていた。溢れる鮮血は、留まる事を全く知らない。

「……クソ、エグすぎだろ」
「ハイウメ、あまり見ない方が賢明というものだよ」
「いちいちうるせえな。っつーか、そこのロン毛は来るの遅ぇし、そもそもコイツはなんなんだ? さっきの狼どもと全然違うじゃねえか」

流石にそこには気付いたか、藍夜は喉から出かけた言葉を飲み込む。人狼も狼型魔獣も、どちらもカテゴリとしては別の生き物だ。
ましてや、人狼は人間の言葉を発していた。琥珀程度か、或いはそれ以上の知能は有していたのかもしれない。
始末のタイミングを見誤ったか、藍夜は肩を竦める。釣られるように首を傾げたサラカエルは、人狼、次に藍夜達を見てやはり首を傾げた。

「大した勘の良さだ、と言いたいところなんだけどね。まだまだ狼型もうろうろしてるし、こいつはちょっとばかり特殊らしいからね」
「特殊? どういう意味だい、サラカエル」
「やあ、ウリエル。どうも君は雷霆の使いすぎらしいね。……悪い事は言わないから、早くここを離れた方がいいと思うよ」

サラカエルがそう言い終えた直後。不意にハイウメの足下から煙が上がる。見下ろせば、倒された人狼の体から煙が止めどなく溢れていた。
煙は真新しい蒸気のように白い。殺戮の天使が穿った傷口、そこからしゅうしゅうと噴き上がり、恐ろしい速度で損傷を修復していく。
藍夜もハイウメも、言葉をなくした。一人、サラカエルだけは冷静に手近な刀を手に取る。
彼が抜刀した時には、人狼は跳ね上がるようにして勢いよくその場に立ち上がっていた。目に爛々とした光が戻り、一度地団太を踏む。
傷はもう、あらかた塞がってしまっていた。驚愕に固まる藍夜、恐怖に戦慄くハイウメに、殺戮の天使は目の動きだけで行け、と促した。

「だが、サラカエル。君一人では、」
「やあ、屋内じゃ武器を振り回す余裕がなさそうだ。人数が少ない方がやりやすいように思うけど、どうかな」
「だが、君にばかり負担を掛けていてはあの男の言葉そのものじゃないか!」

片手がひらりと振られる。またしても犠牲にしろと言うのか、苦しげに歯噛みする藍夜の手を、今度はハイウメが掴んでいた。

「今の俺達でどうにかなる相手かよ! っつーか不死身とか聞いてねえぞ、ふざけんな!」

外套を押しつけられ、反射で受け取る。刹那、青年は藍夜がそうしていたように強く掴んだ手を引き、鍛冶屋の工房を飛び出した。
引かれるままに外に出る事を余儀なくされた藍夜は、後ろ髪引かれる思いで、一度だけ鍛冶屋に振り返る。
対天使の姿は、そこから出てくる事はない。本当に一人きりでなんとかするつもりなのだ――更なる絶望感が、全身を満たしていった。

「……さて、」

一方、残されたサラカエルは、刀を下段に構えたまま人狼と互いに間合いを計り合っていた。
刀身に月光の加護を付与する。人狼は、月明かりの断片を見出した事に興奮したのか、短く吠えた。
獣人がやる気を誇示するように姿勢を低くした時、殺戮の天使はふっと小さく嘆息する。その顔に、薄ら寒い笑みが浮いていた。

「不死身、不死身ねえ。再生、修復、自動補填、自動回復。どれなんだろうな」

獣人は、ふと足を止める。見上げた先、夜色の翼を従えた天使は、先の青い顔をした審判官の対とは思えないほど、凶悪に笑んでいた。
無意識に、一歩下がる。その足下、今さっきまで自分が立っていた地点に、突如として一本の線が走った。床板が避け、地下が露わになる。
次いで、二本、三本。裂かれ、めくれ、強引に分離された床板は、線に飲まれるようにして粉塵と化し、最後には跡形もなく散っていった。
青白いそれは、殺戮の天使お馴染みの「神の槍」を鋼糸状に変化させたものだ。幾重にも走るそれが、次第に人狼を壁際に追い込んでいく。
当たれば焼かれる。最終的には、神の手許――要は、一瞬にして冥府に落とされる。明白な「死」が、獣人に後退する事を命令していた。

『! ッ、ググ……』

いよいよ、背中が壁に触れる。顔を正面に戻す。その瞬間には、目と鼻の先、それこそ顔が重なる間際の距離に、天使の顔が接近していた。

「やあ、お前はどこのどいつに差し向けられたのかな。白状するなら見逃してやってもいいけど」

人狼は短く唸り、爪を前に突き出した。魔獣としてのプライドか、サラカエルに決して屈しまいという決意が、剥き出しの牙に現れている。
殺戮の天使は、これを羽ばたき一つと二歩の後退でさらりと避けた。怯まず直進する獣人だが、不意に踏み込もうとした足の動きが止まる。

『? ……ギ、ギャアァッ、ゴアアッ!!』

彼の爪先、足の甲。そこに、先の刀の切っ先が埋まっていた。いつの間に突き刺したのか、目で天使の姿を探すも視界は空振る。
刹那、顎に衝撃。牙と牙が噛み合い、がちんと危険な音を弾ませた。
ダメージの出所は当然サラカエルによるもので、天使の体は獣人のすぐ前、やや下方に沈んでいる。
視認した瞬間、顎が再び揺れた。裏拳と手刀による拳打。ぐるりと視界が回転し、脳が痺れる。立て続けに、腹部にも手刀が差し込まれた。

「この際、お前が何者かはどうでもいいんだ」

くの字に曲がった体のうち、左脇腹に激痛。慌てて眼を動かすと、脇腹に棒が生えている。
槍だ、先ほど殺戮が放棄した筈の槍が刺さっている。口から唾を吐きながら顔を上げた人狼は、暗がりの中、無表情で立つ天使を見た。

「さっきの連中には逃げられるわ、ウリエルは落ち込んでるわで、気分が悪い……いや、はっきり言うと虫の居所が悪いんだよ、『俺』は」
『グ、ウ、……ヒッ』
「試してやろうか、お前は何回解体出来るのか。それなりに回復力があるみたいだし。幸い、ここは鍛冶屋だ。道具なら選び放題だからね」

相手と場所を誤ったな、サラカエルは笑いもしない。靴音を立てて近付いてくる恐怖の遣いに、人狼は戦慄いた。
当然、尖兵として遣わされただけの魔獣を助けに入るような者は、誰もない。……戦慄の悲鳴が響いた。






『今度は誰を殺す? 誰を巻き込む?』

あの呪いの祝詞が、頭の中で渦を巻いている。引かれるまま、されるがまま、藍夜は表通りをハイウメと共に懸命に駆けていた。
目的地など、あってないようなものだ。オフィキリナスの建つ丘を目指し、二人は北へ北へと逃げる。
途中、荒い動物の呼気が追ってくる。分隊でも気取っているのか、あの狼型の魔獣達が、狩りを楽しむかのように取り囲みに掛かっていた。
苛立つように舌打ちし、それでも振り向かないハイウメ。だが、人間の脚力などたかが知れている。包囲網は次第に狭まりつつあった。

「雷霆を……雷を、喚ばなければ。このままでは」

独白めいた呟き。ハイウメは全力疾走に意識を集中させていて、藍夜の青ざめた顔には気が付かない。
魔力と体力の浪費、サラカエルを置き去りにするという後悔の底。奪われた顔馴染みの人間達の、物言わぬ死体。
心臓、果てには内蔵をナイフで抉られ、掻き回されているような心地だった。涙の一欠片も出てこない。いよいよ藍夜は躓き、転倒する。

「うおっ!? おい、おい化け物! しっかりしろこのクソッ!」

手がすっぽ抜けた事に驚き、ようやく振り向いたハイウメは、その場で固まった。藍夜も釣られるようにして身を起こし、顔を上げる。
既に、魔獣は集結していた。建物の上、物陰の横、路上。あらゆる場所から黒毛に見下ろされ、二人は顔を歪め、各々の武器を手に掴む。

「おい、どうする!? どれくらいいるんだコイツら、どこから抜けたらいいんだよ!」
「待ちたまえよ、今、考えて……」
「考えてる暇なんかねえだろ! クソッ、てめえばっかりがしんどい思いしてんじゃねえんだぞ! 被害者面なら後にしろ!」

ハイウメの言う通りだ、頭を振り、同時に雷霆を振り下ろす。予想していたものより遙かに威力の落ちる雷が数本、周囲に降った。
ハイウメが罵倒してくる。無理もない、まるで集中出来ていない。荒い息を繰り返しながら、藍夜はようやっとの思いでそこに立っていた。
視界が霞む、足が震える。あの黒塗りの男の囁きが、またしても脳内に木霊する。魔獣達の鳴き声が、異様に近い。

(まずい、このままでは――)

ハイウメの声が遠退いた気がした。異常なまでにゆっくりとした速度で、藍夜はこちらに向かって何かを叫んでいるハイウメの目線を追う。
背後に、跳躍した魔獣の一つが見えた。鋭い牙が、唾液に濡れるそれが、ぼんやりと振り向くだけの自分の喉笛に噛みつこうとしている。
「何が悪かったんだろうなあ」。あのハイウメの独白が、これから自分が発するであろう断末魔に重なったように思えた。
いよいよだ、いよいよ鳥羽藍夜の生命が終わる。長かったような、短かったような……藍夜は、魔獣の爛々と光る眼をじっと見上げていた。

「――兄ィッ!!」

瞬間、視界は一転する。ぐるんと世界が回り、全身に衝撃が走る。何が起きたか分からない。
藍夜はさっと振り向き、直後、自分の身に何が起きたのかを察した。

「……あき、と?」

魔獣の牙が、弧の字に鮮血をさらっていく。うなじを食い破り、白骨を無情に晒させる。
突き飛ばされたのだと、ようやく知った。
飛び出し、身を挺して自分の窮地を救った者がいる。自身の身代わりとなり、たった一噛みで命を絶たれた者がいる。
だらんと重力に逆らわない腕を見た。煉瓦に叩きつけられ、音を立てて転がるそれを見た。それがそれ以降、ぴくりとも動かない様を見た。

「――あき、あ、ぁ……暁橙ぉっ!!」

音も、臭いも、雨の冷たい感触も。何もかもが、世界のありとあらゆるが全身全霊から剥離される。
藍夜は、意識がぶつりと飛ぶのを知覚した。世界中が、真っ黒に染まる。





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 UP:18/06/23