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楽園のおはなし (1-43)

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いつから変化は始まっていたのだろう、北都印刷所を出た藍夜がすぐに抱いた感想はそれだった。
ホワイトセージの表通りには、もはや狂人達ではなく四足歩行の魔獣が数多く徘徊している。故に一行は塀の内側で二の足を踏んでいた。
印刷所に入る直前、狂人の姿が見えなくなったのはこの為だったらしい。藍夜には、してやられたと愚痴を零す心の余裕もなくなっていた。

「……おい、これからどうすんだよ。化け物」

ハイウメの苛立った声が耳を打つ。眼前の現実と蓄積され続けた疲労、実父への怒りが、彼の肩を震わせていた。
藍夜はどうしたものか、とここにきて初めて口を閉じる。顎に手を当て、眉間に力を込め、打開策を練るべく思考を巡らせた。
……人間と魔獣という目に見える違いがあれど、狂人とあの狼型の魔獣との間には、目に見えない意志疎通の術が存在するのかもしれない。
実際、獣の群れの中に狂人達の姿は一人として見えないし、獣の口元や爪先に何かしらの血肉を食い漁った様子も見いだせなかったからだ。
獣がヒトの肉を好む事は、印刷所内で証明されている。強引にここを出たとして、住民全ての無事を保証する事は困難のように思えた。

(腹を空かせていたとして、或いは攻撃の大多数を噛みつきや暴食とするなら、住民達を襲わないと楽観視する方が不自然か)

視線を走らせる。既に住民達の間には濃い疲労が浮かんでいて、早急に彼らを逃がしてやらねばならないと、気持ちばかりが先走った。
多重鍵が効いたのか、幸いにも印刷所内には先ほどの獣のような驚異は潜んでいなかったというのに、外に出てみればこのざまだ。
気を緩めれば、それだけで怒りと焦り、ロードを酷使する故の疲労感、脱力感が沸いてくる。藍夜は頭を振り、肩を竦め、己に喝を入れた。

「答えは先ほどと変わらないよ、ハイウメ。誰も犠牲にするつもりは僕にはない。後方を僕が支援するから、君達はとにかく逃げるんだ」
「だから、逃げるってどこにだよ。どこかに隠れられる場所があるってのか、まさか、丘の上とか言うんじゃねえだろな」
「ああ、いっそそれもいいかもしれないね。今は、アンブロシア以外にもちょうどいい手伝いが来ているし」
「信用しろってか!? 冗談じゃねえぞ、あの化け物どもとてめえらとどこが違うってんだよ! 意味分かんねー力ばっか使いやがって!」

結界で保護されているからか、どうしても気が緩みがちになる。ハイウメしかり、自身しかり、互いの声は大きくなるばかりだった。
ふと、住民達の中から子供の悲鳴が漏らされる。はっと振り向いた二人は、母親らしき女性がこちらを怯えた目で見ているのに気が付いた。
泣き声は雷のように張り上げられる。ばつの悪い顔を浮かべるハイウメの横をすり抜け、急ぎ駆け寄るアンブロシアが、母子を慰め始めた。

「あの、藍夜さん、ハイウメさん」
「アンブロシア」
「その、わたし、偉そうな事を言えた立場じゃないんですけど。まずは皆さんを助けてからにしませんか。それからでもいいと思うんです」
「つってもよ……お外の状況、分かってんのかよお嬢ちゃん。どうやって、ここから出ようってんだ」
「……それは、わたしが、なんとかします」
「は?」

未だぐずる子供の頭を一撫でしてから。立ち上がって振り向いたアンブロシアは、毅然として二人を見据える。
その青紫の瞳に、強い決意のようなものが伺えた。ハイウメだけでなく、藍夜もまた彼女の真剣な眼差しに押し黙る。

「わたしは、人間とは違う『化け物』ですから。姉さんと同じ……だったら、わたしにしか出来ないやり方で戦うまでです」

さあ、とまず母子に立ち上がるように促し、アンブロシアは一行の先頭に立った。どよめきが広がる。それでも彼女は前方しか見ていない。
ハイウメの罵声に彼女が何を思い、何を考えたか。それを知る術はなかった。しかし、言っても聞かないだろうという事だけは理解出来る。

「アンブロシア。さっきも話したがね、後方には僕が着くから。決して、無理をしてはいけないよ」
「はい、わたしなら大丈夫です」

これも気休めにしかならないだろうが、藍夜は嘆息混じりに肩を竦めた。ハイウメを盗み見ると、彼は面白くなさそうに顔を歪めている。
住民の中には、獣の群れに自ら入る事を良しとしない声もあった。しかし、印刷所内に獣が出た事を指摘すれば、その口を塞ぐ事は容易だ。
誰もが、食用になどされたくない。一方的に蹂躙されるなど、もってのほかだ。その願いと想いが、彼らを辛うじて立ち上がらせていく。

「さて、覚悟を決めたまえ。……頼んだよ、アンブロシア」
「はいっ。藍夜さんも、無理しないで下さいね」

塀の外、獲物と狩人の境界線。その先、その向こうへ、藍夜は全力で雷を喚び落とした。
怒りの咆哮が無数に挙がる。駆け寄ってきた魔獣を前に、アンブロシアは両の手のひらを広げて延ばし、異国の言葉をいくつか解いた。

「! 結界、いや、……結界なのかい、これは」

雷霆に意識を集める傍ら、藍夜が目にしたもの。アンブロシアが解き放った結界は、地中から、或いは空中から、突如として精製される。
さながら、植物が急成長するように、豪雨が降るように……むしろ、罠として潜ませていた無数の槍が、今ここでその役目を果たすように。
上下に強引に生やされた細長い板状の結界群が、魔獣の立ち位置に構わず、彼らの肉と骨とをねじ切り、突き刺し、貫いていった。
噴き出る鮮血と苦鳴に、住民の間から悲鳴が上がる。はっと我に返り、藍夜はその視線を塞ぐ事も目的として、閃光重視の雷を召喚した。

(アンブロシア、いや、アクラシエル。君はいったい、)

目眩ましは確かに上手く作用する。パニック状態に陥る人々をハイウメが怒鳴りつけて無理矢理制し、街の外へと彼らの足を急がせた。

「行け! 行け! ほら急げっ!! てめえらもコイツら化け物に殺されてえのか!」

酷い言い草だ、そう文句を言う暇もない。ハイウメの誘導に従う少人数を護衛するだけで精一杯で、藍夜もアンブロシアも必死だった。
魔獣の数が次第に増えていくのも、手に取るように分かる。一行はそれこそ追われるようにして、ホワイトセージ入り口を目指した。

「出口までどれくらいだ!?」
「あと数百メートルといったところだろうね」
「クソッ……こんなに遠かったかよ!? っふざけやがって!」

雨足が歩みを重くする。住民という固まりの中から、誰かがどさりと転び、倒れた音がした。それに足を取られ、立て続けに並びが崩れる。
あっと声を上げる暇もない。藍夜は振り向きざまに威嚇用の落雷を周囲に放つが、逆にそれが目印となってしまっている事は明白だった。
獣どもの呼吸が駆け寄ってくる。アンブロシアは急遽、結界を防御面へ切り替えた。住民、ハイウメ、そして藍夜が内部に押し込められる。

「アンブロシア!!」

彼女の背後に三頭、左右に一頭ずつ、魔獣の爪牙が迫った。結界の外に雷を放とうとして、直後、不意に藍夜の視界がぐらりと揺れる。
疲労の蓄積。酷い耳鳴りと立ちくらみがして、その場に膝から崩れそうになる。辛うじて倒れずに済んだのは、神具遣いとしての意地だ。
荒い呼吸と心音が耳元で爆発している。ハイウメの怒声が酷く遠い。踏み留まるも、目眩と吐き気が容赦なく藍夜の全身を駆け回る。
……まずい! 視界の端、藍夜はアンブロシアが逡巡に顔を歪めたのを見た。獣どもに容赦という概念などはない。跳躍し、天使に牙を――

「……そいやァー! 琥珀キーック!!」
「だーっ! コハ、お前ちょっと待てって!!」

――噛みつこうとした瞬間、跳んだ魔獣の一頭が吹っ飛んだ。驚いたのはアンブロシアの方で、駆けつけた二つの影を前に固まっている。

「暁橙、琥珀!」

藍夜が叫ぶようにして名を呼ぶと、一人と一匹はこれに応えるかの如く身を翻した。駆け抜けるワイヤーと鷲の爪が、獣の群れを薙ぎ払う。
立ち尽くしたままのアンブロシアに声を掛け、藍夜は彼女に結界を解かせた。今の一呼吸で大分楽になった、雷霆を振り上げ雷を走らせる。
目に見えて形勢が逆転していった。琥珀の体術と暁橙の鋼糸、藍夜の雷が交差する。獣達は堪らんとでも言いたげに、さっと逃げていった。

「兄ィ! 大丈夫、怪我してない!?」
「暁橙……いや、君の方こそ、」
「ちょっとちょっとぉ〜。藍夜もシアも、なんでぼくになーんにも言わないで出掛けるわけぇ? ニジーの事、言えないじゃん」
「琥珀……ああ、全くもって腹立だしいが、その通りというものだね。助かったよ」

ハイウメと転ばずにいられた住民が、転倒した者達を一人ずつ起こしてやっている間。合流した面子に頷き返し、藍夜はほっと息を吐く。
アンブロシアもまた、落ち着きを取り戻したように顔を綻ばせた。互いに負傷していないか確認してから、三人と一匹は声を潜める。

「というかね、正直助かったよ、二人とも。流石に僕も、ここまで雷霆を使い続けた事はないからね」
「うわぁ、藍夜がオレイ言ってる〜。明日、雨でも降るんじゃないの〜?」
「何言ってんだよコハ、雨ならもう降ってるだろ? って、兄ィ。なんだってハイウメなんかと一緒にいるの、オイラの方が役に立つのに」
「なんかとは随分な言い草だね、暁橙。これでも彼は街の為に尽力してくれていたのだよ」

とはいえ油断はならない、藍夜はオフィキリナス従業員の面々に、出来る限り声量を控えるよう指示を出した。
魔獣の気配は僅かに遠のいただけで、今も遠巻きにじろじろと見られているのが、背中の悪寒を通じて感じる事が出来ている。
減らず口を叩きながらも、琥珀が周囲を忙しなく見渡しているのがその証だ。いつまた襲われるか分からない、その緊張が身を固くさせた。

「いいかい。余力と今後の事を思えば、容易でない仕事を担う方、敵方の偵察を行う方、それぞれ二手に分かれて進めるのが理想だろう。
暁橙と琥珀はこの人々、問題ないよ、正気を保っている住民だ。彼らの護衛を任せる。アンブロシア、君もだ。二人を護ってくれたまえ」

一斉に、視線が藍夜に集まる。大丈夫なのか、本気なのか、一人で何とか出来るつもりなのか。それぞれの目はとにかくお喋りだった。
藍夜は内心で苦笑する。生まれてこの方、随分好き勝手にやってきたというのに、好かれたものだと。それとも皆がお人好しなだけなのか。
だとしたら悪く思われるかもしれないね、ふと自嘲の念が湧いた。肩を竦め、藍夜は店主の言葉を待つ面々の顔をぐるりと見渡す。

「僕が深追いするとでも? 退き際ならわきまえているさ、痛い目には遭いたくないからね」
「でも兄ィ、」
「そーだよそーだよ〜。それって、ぼくが藍夜の騎獣の意味ないじゃん!」
「藍夜さん。まさか、また無理を……」
「大げさなものだね、君達も。問題ないさ、君達が感じ取っていないだけで、僕には『秘密兵器』があるからね」

秘密兵器? 皆が一斉に口を揃えた。藍夜は「そうとも、秘密兵器さ」と言葉を濁す。
……口にこそ出さなかったが、藍夜は今になって、魔獣達の視線の中に、ある見知った特定の気配を感じ取っていた。
恐らく、「オフィキリナスの面子だけで獣達を如何にして制する事が出来るか」、総合した実力を測るべく様子見されていたのだろう。
性格の悪い事だ、そうぼやきかけて、自分も大して変わらなかったなと独りごちる。
気配の主は、つかず離れずの距離でこちらを観測していた。「彼」に見放される前に、なんとしても自力で真相は明らかにしておきたい。

「長話をしている暇はないよ、さっき話した通りにいこう。なに、僕達であるなら、なんて事もない案件というものさ」

藍夜は力強く頷いて見せる。皆もまた、釣られるように頷き返していた。

「藍夜さん、約束して下さい。無理だけはしないって」
「アンブロシア」
「ニゼルさんも、あなたの帰りを待っているんです。どんな結果であれ、異常事態であるのは違いない筈なんです……約束して貰えますか」

最後にアンブロシアが一歩藍夜に詰め寄り、真摯な訴えを投げてくる。唯一、彼女だけは案じる事を止めなかった。
何故なのかと自問して、一つの答えに行き着く……ラグナロク、それに巻き込まれるように行方を眩ました最愛の姉、アンジェリカ。
どちらとも、突然降った災厄という意味では今回の一件とだぶって見えるのかもしれない。彼女には彼女なりの苦しい戦いがあったのだ。
そう自分に答えた後で、藍夜はいつものように小さく肩を竦めて見せる。

「おや、ニゼルの事となると君も手厳しくなるものだね。無論、承知の上さ。アンブロシア、君の方こそ無理をしてはいけないよ」

あえて力まずに応じる事で、案ずるなと念押し出来るような気がした。
ようやく笑みと共に頷き返した天使、そして心強い味方達に背を向けて、藍夜は即席の作戦を伝えるべく、ハイウメらの元へ足を急がせる。






「……いやね、自分でも穴のある作戦とはみていたが、君まで着いてくる必要は本当にあったのかい」

雷の威力と範囲を微調整し、あくまで威嚇射撃に徹しながら走る藍夜は、同じく横に並んで剣を振るう青年へ声を掛けた。

「うるせえよ! ごちゃごちゃ言ってねえで、さっきみてーに纏めて片付けちまえばいいだろうが!」
「事情というものがあってね。というかだ、さっきと言っている事が違うように聞こえるんだがね。ほら、意味の分からない力とか何とか」
「だあっ、うるせえな! いちいち嫌み飛ばしやがって、いいからさっさと何とかしろよ!」

ハイウメの剣術はなかなかに頼りになる、藍夜は素直にそう評価する。
相手の動きを見て次の行動を予測し、最小限の動きで避ける。反撃は欲張らず、それでいて急所は決して外さない。追撃の手も鮮やかだ。
ぐるんと彼の腕が回る度、魔獣の血潮がぱっと散る。雷を恐れず迫ってくる獣達は、実質この青年と「彼」によって一網打尽にされていた。

「やあ、この街は割といい製鉄技術を持っていたんだね。こういうのは帝国側の仕事だと思っていたけど、実に惜しいな」

二対の剣は、手近な武具屋で勝手に調達してきたという。時折、藍夜の雷と同じように、威力と効果範囲を抑えた光の槍が喚び落とされた。
藍夜の秘密兵器こと、対天使サラカエル。聞くと、彼はニゼルの保護をノクトに託し、自分はオフィキリナスの面子を迎えに来たらしい。
あくまで「迎え」に。本気で状況をどうにかしようというつもりはないらしく、着込んでいるのは借り物の瓊々杵の衣服のままだ。
サラカエルが普段着用する黒いスーツは、隠しポケットや鋼糸を潜ませる為の重ね織りなど、戦闘特化の工夫を山のように仕込んである。
彼がウリエルの記憶通りの男なら、という仮定だが、琥珀と対峙した際の動きから察するに、用意周到な性分はそのままだろうと思われた。

(それを着用してこないという事は、本当に危うくなったら『撤退させられて』しまうのだろうね、僕達は)

ハイウメの背後に迫った魔獣に雷を一つ落としてから。藍夜は大きく息を吐き、落雷を逃れた魔獣が一斉に逃走していった方角を見据える。
ホワイトセージ中央公園……街長の自宅や教会のすぐ近くに位置する、街の中心部。
住民達を逃がすべく一度は離れたそこへ、獣達の足は向かっていた。気が付けば、周囲に張り巡らされていた偵察の気配も失せている。

「さて、ウリエ……いや、『鳥羽藍夜』。どうしたいんだい、君はこれから」
「調べに、と言いたいところなんだがね……現実問題、上手くいくかどうか」

藍夜もサラカエルも、似たようなタイミングで視線を動かした。
二人の目の先には、荒い息を繰り返しながらも、攻防をしのぎきった青年の姿がある。

「おい、惜しい、ってなんだよ。うちの街はな、これからいくらでも復興出来んだよ」

ハイウメはサラカエルを睨んで歯噛みした。虚勢だ、藍夜はその一言を口にする事が出来ない。彼の葛藤は、痛いほどによく分かる。

「さてね、僕には関わりのない事だから。それより、これから敵の本拠地に乗り込むわけだけど、まさか君も来るというんじゃないよね?」
「ばっ……ふざけんな! うちの街の事件だぞ、俺も行くに決まってんだろ!」
「やあ、剣を振り回すだけしか能がない人間風情がよく吠えるね。なら、そこまで言う君の活躍に期待しておこうかな」

サラカエルの物言いは冷たい。それはハイウメの身を案じているというよりは、対天使が青年を喪う事で悲しむのを防ぐ、配慮でしかない。
殺戮の天使。その銘のままに、彼は親しい者以外の生死については淡白だ。
「死んだらそれまでさ、仕方ない」。口癖でこそなかったが、審判で落命する人間の姿に悲しむ自分に、彼はそう言い聞かせたものだった。
彼らの次の人生がよりよいものであるよう、冥府を通じての輪廻転生に賭けよう――皮肉とも取れる軽口を窘めた事も、何度かある。
藍夜はハイウメを盗み見た。こちらを睨む青年は、顔色こそ悪いが、未だに闘志を瞳に宿し続けている。来るなと言っても聞かないだろう。

(サラカエルに乗せられた部分も、多少はあるのかもしれないが)

三人の意見は、このまま中央公園に向かうという内容で一致した。藍夜とハイウメは頷き合い、サラカエルは首を傾げて同意する。
話が決まれば実行するだけだと、三人は一見は無人と化した街を走った。
獣が飛び出してきたであろう壊れた扉や窓の向こうでは、今も狂人が思うさま欲に耽っているのだろうか。頭を振り、ひたすら道を急ぐ。

「っと、着いたようだね……ん? あれは……」

ホワイトセージ中央公園。いつからそこにいたのか、見慣れた造りのその場所に、今、藍夜らは見知らぬ人影を一つ見つけていた。
決して狂人ではない。眼光も、立ち姿も気配も、しゃんとして真っ当な様子である事が一目で分かる。
しかし、その姿を初めて視認した時、藍夜は背筋にぞわりとした悪寒が這うのを感じた――

「やあ。こんにちわ、はじめまして」

――言葉では表現のしようがない、漠然とした「恐怖」。星一つない漆黒の闇夜、ニゼルが潜ったレテ遺跡の最奥、落命した両親の遺体。
そういった、生命ある者が無意識に避け、畏怖し、遠ざけようとする脅威。それに酷似した濃厚な気配が、その人物からは漂っていた。
黒髪は柔らかく、人好きのする笑みは慈悲深く、言葉を操る口は文句の付けようがないほど滑らかに動作する。
どう見ても普通の好青年。だというのに、その双眸に見つめられた時、まるで獰猛な獣の手中に自ら飛び込んだような錯覚があった。

「オフィキリナスの鳥羽藍夜店主だね? 噂はかねがね。とても良いご友人をお持ちだとか」

纏う気配が、発せられる言葉の重みが常人のそれとまるで違う。そこに確かに存在している筈なのに、死人と話しているような気分だった。

「……僕を、ご存じとは。いや、覚えがないね。どちら様だったかな」

柔らかな物言いはどこか硬く。
優しそうな表情は薄気味悪く。
人好きのする全てが冷ややか。
その場に在るというだけで、目に見えない、明確な悪意のようなものが粘着質にこびり付く。
不気味だ、油断ならない。安易に応えるべきではない……藍夜は一度は開いた口を閉ざした。見れば、サラカエルも険しい顔をしている。
唯一、ハイウメだけがわけが分からないという表情を浮かべていた。しかし、それが青年によって取り上げられる事はない。
黒塗りの青年の感心は、あくまで藍夜にのみ向けられているものであるらしい。
彼の柔らかな眼差しは、さも幼子に向けられるそれのような自然な温もりを伴ったまま、オフィキリナス店主に注がれる。

「この街はとても美しいね。煉瓦と木材の黄金比からなる建築物、表通り、親切な人々、立派な教会。誰に紹介しても恥ずべき濁りがない」
「……」
「君のご両親が亡くなられてどれほどだったか。彼らの御霊は主の元で安らいでいる筈さ、君とこの街を、誇りに思っている事だろう」
「……僕の、両親の話は今はどうでもいい。そんな事より、打ち明けるべき事が君にはあるのじゃないのかい」

愛情に満ちた目線。それに対し、真っ向から対立せんと、藍夜は閉じていた口を容易く開いた。
両親の死。耐え難き、忘れ難き、鳥羽藍夜の最大の古傷。無遠慮に紐解かれ、内部を抉られ、表に引きずり出されたような気がした。
サラカエルが肩に手を置いてくる、ハイウメが困惑混じりに声を掛けてくる。だというのに、珍しく藍夜は怒りを抑える事が出来なかった。

「君は一体、何者なんだ! どこから来て、何の目的でこんな事を!!」

沸々と沸くそれは、眼前、噴水の前にひっそりと佇む青年に正面からぶつけられる。雷霆を引き抜き、藍夜はそれの切っ先を突きつけた。
何故か。何故か分からないが、一連の出来事を齎したのはこの青年であるような気がしてならない。怒りのあまり、左の瞳が瑠璃に染まる。

「……ふふ、」

青年は、逃げも怯えもしなかった。さざ波のような笑いが宙に溶け、困惑も緊張も疑念でさえも、黒塗りの立ち姿の一点に注視させる。

「トバアイヤ。君がそれを言えた義理かな? 君こそが真の害悪、真の猛毒であり、この地に根を張った災厄そのものじゃないか」

瞳越しに見えるのは、漆黒の大翼を広げたカラス、或いは新月を抱えた射干玉の夜更け、今にも噛みつかんとする闇色の魔獣。
その場に在るというだけで、底なしの沼に足を捕らわれてしまったかのような、強烈な牽引力が感じられた。
恐怖、ただ純粋に忍び寄る、漠然とした恐怖。
何故か。何者なのか。何を目的としていたのか……それが明かされないままに、いつしか青年の顔に、凶悪な笑みが浮かんでいる。
例えばそれは、塵芥が舞い散る夜に見られる、深紅の三日月。切り出されたその小綺麗な弧が、顔面に縫い付けられているかのようだった。





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 UP:18/06/11