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楽園のおはなし (1-42) BACK / TOP / NEXT |
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北都印刷所周辺は、しんと静まり返っていた。煉瓦作りの塀を横切り、ハイウメが先頭に立ち、裏口に回る。 彼が開錠を急ぐ横で、藍夜は狂人達が後を追ってきていないか警戒していた。 アンブロシアも同じようで、いつでも結界が展開出来るよう、彼女の口内では詠唱済みの祝詞が待機され続けている。 「よし、開いた。行くぞ」 やがて、カチリと小さな金属が耳に届いた。振り向くと、金属製の扉を押し開きながら、既にハイウメの姿は印刷所の中に滑り込んでいる。 続いてアンブロシアが慎重に進み、藍夜も二人を追おうとして、ふと足を止めた――静かすぎる。先ほどまでの騒ぎが嘘のようだ。 あれほど執拗に迫っていた筈の狂人達がまるで見当たらない。塀の外に群がっているのだろうか、藍夜は首を伸ばし、様子を探ろうとした。 「(おい、化け物! 何やってんだ、さっさと来い)」 「(ハイウメ)」 「(親父も待ってんだ。早いとこ、色狂いだらけだって報告すっぞ)」 不意に声が掛けられる。一度戻ってきたらしいハイウメが、しきりに内部を気にしながら手招きしていた。 彼の横にはアンブロシアが佇んでおり、藍夜とハイウメを交互に見つめている。今行くとも、頷いて応え、藍夜も裏口を潜った。 重い音と共に、扉が閉められる。中は非常灯のみが点いていたようで、ぼんやりと薄暗かった。打ち合わせ通り、ハイウメが道を先導する。 通い慣れているのか、彼の足取りに迷いは一切見られない。印刷所はおろか街そのものの造りにも疎い自分にとっては、心強くあった。 脳内に地図があるのと、実際に歩き回るのとは別の話だ。引き続き背後を警戒しながら、藍夜は先頭のハイウメに声を掛ける。 「それで、ハイウメ。街長達は一体どこに?」 「社長室のすぐ隣、要は秘書の控え室だ。そういや、ノーザンドの野郎は朝からいなかったな」 「あの、ノーザンドさんというのは」 「この印刷所の社長だよ、アンブロシア。王都からの派遣組だが、なかなかに出来る人物だと聞いている」 「出来るねえ……あのクソ野郎、香水くせえし儲けの取り分にはがめついし、俺は嫌いだよ」 文句には明らかな苛立ちが混ざっていた。ハイウメがここまで嫌悪をあからさまにするのは珍しい事だと、藍夜は小さく肩を竦める。 元々正義感が強く、街の害になりえる者へは不快感を隠しもしない彼の事、よほどペイン社長と馬が合わないのだろう。 「着いたぞ、ここだ」 何度か角を曲がり、南へ延びる廊下を進んだ先。木製の扉には、「社長室」、「社長秘書控え室」の二種類の札が吊されていた。 どちらにも「退室中」の小さな札が添付されている。舌打ち混じりに札を指で揺らしてから、ハイウメは扉を二、三度、手早く小突いた。 ……返事は返されない。見る見るうちに、青年の顔が訝しむそれに変わる。 「ハイウメ」 「……いや、おかしいぞ。ノックしたら開けろって言っといたんだよ」 目配せは一瞬。扉を挟むように、藍夜は右、ハイウメは左の壁際に移動した。扉が開けば、藍夜の方が中の住民達と相対する事になる。 扉の正面より、やや離れたところにアンブロシアが立った。彼女は潜入したときと同じように、結界展開用の詠唱を始めている。 行くぞ、了解、声には出さず目で合図を送り合い、先にハイウメがドアノブに手を伸ばした。金属に触れる、力を込め、取っ手を回す―― 『……ゃあああー!』 ――そのときだった。突然、中から甲高い悲鳴が響く。藍夜もハイウメもはっとし、目を合わせる暇もないまま、一気に扉を押し開いた。 「おい! どうしっ、」 「ハイウメ!!」 一歩退いた藍夜を押し退け、強引に秘書控え室に飛び込もうとしたハイウメの二の腕を、藍夜は無理矢理に掴んで引き寄せる。 結果として、ハイウメは命を拾った。扉の向こうから飛び出してきたのは、住民の姿ではない。凶悪な大口と無数の牙だ。獣のそれだ。 うぐっ、青年が声を詰まらせると同時、雷霆が火を噴く。青白い閃光が宙に爆ぜ、噛みつかんとした「それ」を弾き飛ばした。 「アンブロシア!」 「藍夜さん!」 二人の呼びかけは殆んど同時。向こうが怯んだ瞬間、アンブロシアが全力で結界を展開する。 自身の背後に回す形でハイウメを結界内部に留まらせ、藍夜は無色透明の壁の向こうに目を向けた。 ……遅かった、誰もがそう思考する。結界の向かいには、ただ凄惨な光景があった。 床も壁も、全てが赤黒く染まり、広がった染みは特有の錆臭さを放つ。飛び散る破片は大小様々だが、原形を留めるものは皆無に近い。 白いもの、赤黒いもの、赤いもの。結界越しにもそれらの臭気が鼻を突き、まずアンブロシアの顔が悲嘆と苦悶に歪んだ。 次いで、ハイウメが体をわなつかせる。藍夜は青年が結界の外に飛び出してしまわないよう、彼の体を両手と雷霆を駆使して押さえ込んだ。 強く奥歯を噛む。悲しみより怒りの方が勝っていた。見れば、こちらを押し返そうとするハイウメの顔も憤怒一色に染まっている。 「ハイウメ」 「……っんだ、これ。ふざけんな」 「ハイウメ、落ち着きたまえ。さっき悲鳴が聞こえたろう、まだ無事な住民がいるかもしれない」 「ざけんな! だったら今すぐっ、」 「落ち着きたまえよ。何匹いるかも分からないんだ、死に急ぎたいのかい」 悔しげに歪むハイウメの顔はしかし、恐怖も色濃く滲ませていた。このまま彼を行かせてはいけない、藍夜は一人、結界の際へ向かう。 「おい、どうする気だよ」 「様子を見てくる。アンブロシア、すまないがハイウメを頼むよ」 「でも藍夜さん、」 「ざけんな、てめぇの好きにさせるか! 俺も行くぞ」 言ったところで聞くような男ではない、それを失念していた。藍夜は口を開きかけるが、ハイウメが剣を抜いたのを見て、言葉を飲み込む。 アンブロシアは剣呑な雰囲気のままの二人を交互に見つめていたが、そっと一歩踏み出すと、ややハイウメ寄りの位置に陣取った。 彼女の結界の防御と、治癒の祈りによる援護。致命傷にさえ気を付ければ、案外どうにでもなるかもしれない――ふと、藍夜は頭を振る。 達観したような考えは、さながらサラカエルのそれだ。ハイウメは人間だ、もっとシビアに考えなければ……己に言い聞かせるよう頷いた。 「無理はしない事だ。用意はいいね、ハイウメ」 「うるせえ、俺に命令すんじゃねえよ。化け物」 結界で強引に蓋をした扉。その向こうから、地を這うような低い唸り声と、何かをしきりに咀嚼する音、軽快な足音が聞こえる。 アンブロシアと視線を重ね、小さく頷き合った。彼女が結界を解除したとき、その一瞬で優位に立たなければならない。 微かに見えたあの牙と、滞留し続ける威嚇の音。そこらに巣くう魔物の類であれば、雷光にも構わず今もこちらに突っ込んできている筈だ。 (それがない、というなら、あれは琥珀のような魔獣である可能性が高い) 知恵ある生き物であるのなら、家畜を躾るのと要領は同じだ。強大な力で、刃向かう気力ごと削ぎ落としてしまえばいい。 結界が砕けると同時、藍夜は帯電させていた雷霆を思いきり振り下ろした。一直線に雷が駆け、木製の扉を壁ごと破壊し、道を開く。 「――走れ!」 飛び出してきたのは、まずは一匹。見てくれは大型の狼によく似ている。強いて違いを挙げるなら、その口が左右に大きく開いている事だ。 頬をも通り越し、耳のあたりまで切り開かれた大口。その圧倒的な面積の内側に、外の並び、内の並びと、二重にも連なる牙が生えている。 外側の牙は大きく発達していて、一度噛まれたら最後、あっという間に肉を持って行かれるであろう事が容易に想像出来た。 内側の牙は逆に、ノコギリの歯のように細かく鋭利で、突き刺すというよりは肉や骨をすり下ろして削る動作に優れた作りになっている。 ところどころに、今し方まで喰われていたのであろう人間の毛髪がだらりと引っかかっていた。ハイウメの舌打ちが耳を打つ。 「アンブロシア! 君はハイウメと奥へ!」 「分かりましたっ!」 雷霆を横に払い、獣の進攻を防ごうと雷を走らせる。横一直線に駆けたそれは、確かに獣の胴体を薙ぎ払った筈だった。 「……!」 刹那、軽い跳躍で獣が後ろに飛び退く。かわされた、藍夜の顔に焦りが浮かんだ。その隙を潰すように、獣の顎がぐんと前に伸ばされる。 アンブロシアが振り向きざまに結界を張ろうとした時には、藍夜は気を取り直し、雷を眼前に撃ち出していた。驚異の牙は空振りに終わる。 獣の四肢は力強く、丸太を削り出してきたかのようだ。それでいて筋肉はしっかりと発達し、節々も強固に繋がっているのが見て取れる。 そこに高い動体視力が絡んでいるのだから質が悪い。しなやかに跳び、雷を回避する様は、さながらムササビかリスの跳躍を連想させる。 「おい、化け物! てめぇ、本当に一人でどうにかするつもりかよ!?」 「僕が囮役に甘んじると? そんな事するわけないじゃないか。いいから、君達は早く社長室に」 藍夜は立て続けに雷を放った。少なくとも、この場にはこの獣一匹しか見当たらない。 他の住民の安否が気がかりだ、ならば誰かが獣の気を引き、その間にハイウメ達を先に行かせて確認を急がせてやった方がいい。 ハイウメ達の姿が、奥に続く扉、即ち社長室入り口に消えていく。いいぞ、早くしてくれ、藍夜はすぐに視線を二人の背中から外した。 文字通り藍夜は足止めに徹していた。しかし、頭には密かに焦りが忍び寄る。獣は縦横無尽に飛び跳ねるが、藍夜はそうもいかないのだ。 翼を広げるにはこの部屋は狭すぎるし、ましてや雷で印刷所自体を崩落させるわけにもいかない。威力と効果範囲はぎりぎりに抑えてある。 「! おや、小休止かい」 藍夜の胸中を見透かしてか、三回目の後退を見せた後、獣は彼を嘲笑うように牙を剥き出しにして頭を縦に揺すった。 馬鹿にされているんだろうな、藍夜は大きく息を吐いて雷霆を構え直す。 呼吸が乱れている事は自覚していた。かといって、他の獣が存在する可能性、建物外に狂人がいる事を思えば、へばってなどいられない。 「動物は苦手なんだよ。お互い、早急にけりを付けようじゃないか」 短い毛が逆立つ、応えるかの如く獣が吠える。大型犬に似た声だが、可愛げはあまりない……藍夜は己を鼓舞するように短く息を吐いた。 獣が跳躍するのと、雷霆が袈裟懸けに振り下ろされるのは、全く同じタイミングだ。駆ける雷光はジグザグに進み、目眩ましの役目を担う。 雷を放つや否や、藍夜は前に跳んでいた。その頭上を、獣の体がひらりと飛び越えていく。狙い通りだ、振り向くと同時に雷で追撃した。 今度は獣の頭へ一直線に。斬撃に似た落雷は、着地の動作という僅かな隙を突き、確かに赤黒い全身へと降り注ぐ。 「――よし、」 そのときだ。獣の体が頭部を貫いた雷、更には自重によって木製の床を突き破り、がくんと体高を下げた。前両脚が床にめり込んでいる。 その機会を待っていた、藍夜は駄目押しとばかりに雷光を撃ち出した。直進、直撃。悲痛な鳴き声が鼓膜を打ち、確かな手応えが返される。 やれる――もう一押し、完全に退治してしまおうと、俄かに妄執めいた欲が顔を覗かせたその瞬間、 「……!」 獣の一吠え、次いで、その場での跳躍。藍夜の眼前、獣は一つ宙返りをして見せると、そのまま床下へ頭から突っ込んでいった。 全身がすっぽりと暗闇の中に消えていく。舞い上がる木片、粉塵と、藍夜の途方もない疲労感だけがその場に滞留していた。 馬鹿な、脚は完全にはまっていた筈……強引に開けられた穴を覗き込んでも、獣の姿はおろか、それがいたという痕跡さえ見当たらない。 どっと噴き出た汗と疲労を振り払うように、藍夜は大きく嘆息して肩を竦める。体は雨で冷え切っているのに、嫌な汗が止まらなかった。 (逃げられた、といったところかな) 手負いの獣ほど厄介なものはない、いつまた遭遇し、苦汁を舐めさせられるか予想も出来ない。前方へ向けていた雷霆の先端を下に降ろす。 悔しいと思う以前に、藍夜は獣が退いてくれた事に安堵していた。長引けばこちらの方が危うかったかもしれない。 精神力と寿命を酷使するわけにはいかない。気を取り直し、雷霆を携えたまま社長室へ足を向ける。 ドアノブに手を掛けたところで、中から怒号が響いているのが聞こえた。訝しむように眉根を寄せ、藍夜はそれでも扉を開く。 「取り込み中のところ、失礼するよ」 「あっ、藍夜さん。ご無事で」 「……んだよ、化け物め。生きてやがったか」 顔を上げた藍夜の目に映ったのは、確かに無事だったと思わしき住民達の姿だった。部屋の隅に纏まり、怯えた表情で身を寄せ合っている。 怒号を発していたのはハイウメであったらしい。彼の前で、実父である街長トルク=ホワイトセージが、何故か爪先立ちを強制されていた。 というのも、ハイウメによって彼は胸倉を捕まれていたのだ。母似であるハイウメに比べると、街長は背が平均より遙かに低い部類に入る。 従って、息子に胸倉を掴まれ、軽く持ち上げられでもすれば、短い足をぶるぶるさせて背伸びするより他になかった。 「ハイウメ。親子喧嘩に部外者が口を挟むのもどうかという話だが、君、今はそんな事をしている場合ではないと思うのだがね」 「うるせえよ、だったら口を挟んでんじゃねえってんだよ」 「……あの、藍夜さん。その、街長さんは……さっき、あの悪魔に襲われた女性の方を、その……」 アンブロシアが事情を明かそうとするも、ハイウメに一睨みされ、彼女は口を閉じてしまう。藍夜は呆れたように鼻で溜め息を吐いた。 ハイウメはアンブロシアから視線を外すと、やはりトルクを半ば血走った目で見下ろす。その横顔には激しい怒りが滲んでいた。 これは口出ししないでおくべきかな、藍夜がざっと周囲を見渡すと、何人かの視線と目が重なる。皆、不安げな面持ちで身を硬くしていた。 アンブロシアもまた、物言いたげな様子で立ち尽くしている。いよいよ藍夜は肩を竦めた。一歩だけ、慎重にハイウメの背中に歩み寄る。 「さっきの女性、印刷所の関係者かい」 「……」 「ハイウメ。ただでさえさっきの怪物に追い込まれて、皆、精神をすり減らしているのだよ。少しは汲んではどうなんだい」 たっぷりの長い沈黙を経て漏らされる嘆息。藍夜の説得と住民の視線に気を削がれたのか、ハイウメは静かに父親の胸倉を離した。 予想以上に重い音を立て、トルクは尻餅をつく。目を瞬かせ、腰を抜かしたままずりずりと後退し、息子の機嫌を伺うよう目線を走らせた。 無言の親子が、目線だけで交わす会話。トルクは視線が重なる度、目を逸らしては彷徨わせ、最後は愛想笑いを浮かべてみせた。 ハイウメは口を一文字にきつく結び、頬を微かに震わせ、何か叫びそうになるのを懸命に堪えているように見える。 彼の顔色は悪く、虚勢を張っているのが透けて見えるようだった。悪態をつき続けているが、体力気力ともに限界が近いのかもしれない。 藍夜は眉間に力を込める。限界が近いのは自分も同じだ、しかしハイウメの方こそ、住民達とどこか安全な場所に避難した方がいいのでは。 ……安全な場所。そんなものが、今のホワイトセージに果たして存在しているのだろうか。 浮かんだ物騒な想像に、藍夜は自分で自分に呆れてしまった。こういう時こそ、暁橙の前向きさやニゼルの自分本位な考えが羨ましくなる。 「ハイウメ、長を責めるなら後にしたまえ。それよりも、彼らをどこか別の安全なところに避難させた方が賢明というものだよ」 それが街の未来を担う者の役目ではないのかい――何事か言い返そうとした青年を牽制する。見事、彼の言葉を退かせる事に成功した。 ハイウメは悔しげに顔を歪めて歯噛みしたが、藍夜の言葉にしぶしぶといった様子で頷き返す。素直で結構、とまでは流石に口にしない。 後方、開ききった出入り口の向こうでは、物言わぬ肉片が木屑に埋もれかけていた。目を伏せたアンブロシアに倣って、藍夜は目を閉じる。 (住民を……ただでさえ少ない、正気を保った人間を保持する為だけの生け贄、か) ハイウメが怒り、アンブロシアが悲しむのも無理はない。印刷所に勤めている人間の多くは、生まれも育ちもこの土地である者が多かった。 否、それだけではない。何者かを守る為に、種としての全体を保存する為に、代償として払う命など、本来あってはならない筈なのだ。 トルクに背を向けたハイウメは、何様なんだ、と小声で口内に溶かしている。 全て片付いたら、せめて埋葬だけでもしてやりたい――アンブロシアに結界展開を指示しながら、藍夜も出入り口に向かった彼を追った。 ……いやに暗い空間だった。天空で鋼鉄がぶつかり合う音はあまりに大きく、すぐ耳元で叩き鳴らされているような気さえする。 見上げた先、僅かばかりの光が降りしきる雨粒を透過して、外と中とを隔てるガラス越しに世界を薄く照らしていた。 その下、目線を下げた先。黄金を削り出して造られたような巨大な十字架は、暗がりで密かに艶めき、大気中にほんの少しの光を与える。 十字架に見下ろされるような形で置かれているのは、祈りを捧げる為の小さな祭壇と、美しい容姿をした一体の天使の彫像だった。 大天使ミカエル像。この街の近隣で、否、世界各地で多くの信仰を集める天使の一人。 ただの彫像でありながら、それは思わず溜め息が漏れるほどに優れた外見である事を表現し尽くしており、一種の厳格ささえ漂わせている。 文字通り、青年はうっとりとした溜め息を吐いた。ミカエル像を見上げる双眸は熱を帯びており、恍惚とした綻びさえ垣間見せている。 「ああ……美しいね。本当に、この街は美しい」 彼の背後で、複数の気配が蠢いた。満たされる臭気はおぞましいほど濃厚で遠慮がなく、敬虔な信仰者であるなら発狂しかねないだろう。 静かに振り向いた青年の顔は、やはりうっとりとした色で微笑んでいる。その唇がゆっくりと動き、ふと聞き覚えのない音が紡がれた。 「……お帰り。美味しいもの、食べられたかい?」 そのときだ。ぐにゃりと景色の一部が歪み、ひしゃげ、空中に突如として人間一人分ほどの大きさの、赤黒い渦が生まれる。 そこからぼたりと音を立てて落ちてきたのは、体毛の大多数を焦げ付かせた一匹の獣だった。見てくれは、大型の狼によく似ている。 ふらつきながらも踏ん張り、起き上がると、獣は口から唾液と血液を滴らせて吠えた。音は伴わず、傷が手酷いものである事を語っている。 荒い呼吸が青年を見上げた。その間も口から噴き出た血が床に染みを作り、それが重なる度、青年の顔からあらゆる表情が消えていく。 「そうか、そうだろうね。運が悪かったんだよ、きっとね」 結局最後に浮かんだのは、人好きのする笑みだった。鍵盤楽器の横を通り、獣の前に歩み寄ると、青年は大きく裂けた口元に手を当てる。 無数の牙になど、怯みもしない。おびただしい量の血液が手のひらを伝っていった。それでも、彼の手は獣を労る事を止めはしない。 激痛と、人間に後れをとった事で感じた屈辱に塗れていた獣は、次第に馴染み深い柔らかな感触に怒りを忘れ、荒ぶる呼気を潜めていく。 その変わり身の早さは、異常とも言えた。自ら頭を下げ、媚びるようにへつらうように、青年にすり寄り、甘え、身を委ね始める。 「とても痛かったね……なら、少し休んでおこうか。ほら、ご飯なら、まだたくさんあるからね。大丈夫だよ」 甘く囁く声に、獣は小さく吠えて応えた。印刷所で見せたように宙でくるりと飛び跳ねると、今度は青年の足元、漆黒の影の中へと消える。 獣の頭部を撫でていた手のひら。それが今、獣が姿を潜めた頃になってようやく元の位置に戻された。腕を持ち上げ、眼前に片手を寄せる。 「トバアイヤ、か」 開かれたそれを見つめる青年の顔は、やはり何の感情も宿していない。同時に彼の周囲で貪り合う狂人達もまた、彼に対して無関心だった。 異常な光景が繰り返される。狂い、狂わされ、狂おしいほどの熱を吐息に乗せ、何度でもその場で繰り返す。 ホワイトセージ教会で、彼は邂逅を待っていた。今となっては、身内を傷つけられるという非常事態が返されるだけとなってしまった。 お出迎えしよう――うっとりと浮かんだ微笑みが、さも毒草の飛沫か、或いは蛾の鱗粉のように、世界にうっそりと狂気を撒いていく。 あまりにおぞましく、美しく、理不尽に。遠くで輝いた雷光の鮮烈さに一度目を細めて、「恐ろしいもの」は自ら教会の扉を開き、外に出た。 |
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