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楽園のおはなし (1-41) BACK / TOP / NEXT |
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強まるだけの雨足、遠のく生暖かい風。足元の牧草はすっかりと濡れそぼり、平たいサンダルはぐちゃぐちゃと不快な音を奏でるばかり。 それでも、急とはいえない坂を下りるだけなら別段苦労せずに済む。登りは、昔から体力の乏しい自分には本当につらい道だった。 ザドキエルはふと立ち止まり、下ってきた道を振り返る。丘の上に佇む一軒家、天使どもの匂いが残滓として漂う店、オフィキリナス。 つい先ほど、喰天使に担がれながらの道中ですれ違った――件の店に加護の結界を残していった天使、サラカエルの顔が脳裏をよぎった。 『やあ、とんだお荷物を運んできたじゃないか。言っておくけど、「足元のそれ」は使わないでおいた方が、身の為だよ』 薄ら寒い笑み、強い警告。頭を振り、顔に張りつく髪を指で掬って一度視界をクリアにしてから、足下に視線を落とす。 厚い雨雲によって生まれた薄闇の中、僅かに見える黒い影。片足を持ち上げ、ぽすんと軽く草を踏むと、たちまち影がぼこぼこと波打った。 まるで影そのものが、何かしらの生き物として蠢いているか、或いは漆黒の液体として沸騰しているかのようだった。 液状に見えるその歪みを見下ろし、黙する事数秒。ザドキエルは、そっと己の唇に右手の人差し指を押し当てる。 「……駄目だよ。めっ、されちゃうよ。サラカエルって、こわいんだよ」 刹那、激しく波打っていたそれが、ぴたりと動きを止めた。ざわざわと草が揺れ、一瞬、ザドキエルの周囲に不気味に暖かな風が吹く。 血の臭いが漂う。人差し指をはじめ、ザドキエルの右手の指先は、先の結界に焼かれたままぐずぐずと爛れていた。 舌を出し遠慮がちにそれを舐めると、恐ろしいほどに生臭く、焦げ付いた臭気と味覚が感じられる。 いたい、もう一度ぽつりと呟いて、ザドキエルはゆるゆると空を見上げた。 「お仕事……終わったかな……」 足下で、再び影がざわつく気配がした。静かにそれを見下ろし、柔らかく微笑む。 同じ要領でぽすんと二度目の足踏みをして、影の「中身」を落ち着かせると、ザドキエルは足取り軽く、ホワイトセージの街を目指した。 未だ見ぬ、アイヤなる人物。喰天使、殺戮の天使と、天上界では姿を見かける事のなかった珍しい天使どもを見かけたばかりだ。 周囲の人間に慕われ、特殊な力を有すると見受けられる、オフィキリナスの若き店主。彼は果たして、珍しい天使なのだろうか。それとも。 ……否応なしに期待は高まる。気楽な明るい音色の鼻歌が、宙に溶けていった。 「……やはりね。ここも、そうか」 薄暗いある室内で、藍夜は身を低くしながらそう呟く。彼の隣で、同じように屈んでいるアンブロシアが、不安そうな視線を送ってきた。 彼女の眼前に右の手のひらを向け、この場に留まるように指示してから、藍夜は姿勢を下げたまま、そろりと戸棚の陰から前方に出る。 左手に握った雷神の雷霆は、既に表面に青白い雷光を蓄えていた。切っ先を伸ばし、目標、台所の床上で這うそれらに雷を解き放つ。 ロードが煌めき、刹那、極細の稲光が三本疾駆した。ばちん、衝撃と発光は一瞬だ、目配せしたところでアンブロシアが物陰から飛び出す。 「待っていて下さいね、すぐに治しますからっ」 泣きそうな顔と声を伴いながら、崩れ落ちた「人間」二人に手のひらが翳された。青紫の淡い光、治癒の祈りが、室内をほの明るく照らす。 アンブロシアが治療に専念している間、藍夜は閉め切られたカーテンに指先で小さな隙間を作り、外の様子を探っていた。 充満する特有の臭気に、どうしても眉間の皺が増えてしまう。鼻を摘まみ、容態はどうか、と彼はくぐもった声で天使に問いかけた。 「大丈夫、です。気絶しているだけ……流石、藍夜さんですね」 「買いかぶり過ぎというものだよ、アンブロシア。しかしだ、一体何が起こっているのやら」 「分かりません。でも、こんな事……この街は、こんなところじゃ、なかった筈なのに」 俯いた彼女のすぐ横で、低出力の雷に倒された人間、即ちこの住居に暮らす老夫婦は、すっかり失神しきったまま沈黙している。 二人は、共に裸だった。年齢はざっと見て六十過ぎといったところで、直前まで獣(けだもの)のように交わっていたとはとても思えない。 それでも、家屋のあちこちには彼らが自我を失ったように互いを醜く貪り合った痕跡が点在している。 嘆息を漏らして、藍夜は二人から目を逸らした。隙間から見えるホワイトセージの街は、未だ、不気味な静寂に包まれている。 アンブロシアは、部屋の奥のタンスから新しいシーツを一枚持ってくると、床上で横になっている二人の体に、そっとそれを掛けてやった。 「これでもう四軒目だ。君の言葉を借りるわけではないがね、まるで街全体が、一晩で娼館に変貌してしまったかのようじゃないか」 「そんな……まだ分からないじゃないですか。もしかしたら、無事な方がいるかもしれないのに」 「気を悪くしないでくれたまえよ、アンブロシア。それでもね、愚痴の一つも零したくなるというものだよ」 「……いえ、大丈夫です。分かっています」 他に、隠れている者などはいないか、別の襲撃者が紛れ込んでいないか。家中をくまなく調べてから、二人は勝手口を使って裏路地に出る。 訪れた時と同じで、通りには誰の姿も見当たらない。雨音が鼓膜を打ち、水たまりが飛沫を放つ。あらゆる匂いは、雨に掻き消されていた。 「次にいこう。どのみち、調べていかない事には無事である住民を探す事も困難だからね」 脳内で街の全貌を思い起こす。小さく頷き返したアンブロシアを伴って、藍夜は顔を手のひらで拭い、水気を払ってから歩き出した。 ……娼館。自身が発したその言葉が、自らの歩みを重くする。 ホワイトセージは、藍夜が知る限り、信仰心の厚い善良な人間達が暮らす街であった筈だ。 田舎特有の、余所者を疎み除外しようとする防衛心理が働く事も少なくなかったが、徹底した嫌がらせを受けた覚えもない。 オフィキリナスの経営を今日まで続けていられたのは、ひとえに、ハイウメやマトリクスの配慮、アルジル家の努力の賜物である。 保証されているのなら、と、ホワイトセージの住民からの風当たりは、父母が存命であった頃よりいくらか緩和されていた。 互いに干渉し合わないなら、それで良し。丘の上という地形を挟んで、両者は徹底した境界線を設け、昨今に至る。 したがって、藍夜はこれまで、街とはつかず離れずの適切な距離を保つよう心掛けて過ごしていた。 両親のように商品を集られずに済んだのは、親身になってくれた者達が、ロードが如何なる物であるのか、時間を掛け広めてくれたお陰だ。 感謝してもしきれまい。 ホワイトセージへの思い入れはないが、ハイウメやマトリクスが住み、ニゼルが商売の拠点としているなら、絶えず見守ろうと決めていた。 化け物と噂されようと、枯れていると小馬鹿にされようと、街の危機には率先して駆けつける事を信条としてきたのだ。 (今が、正に、そのときだ) ……買い出しと称して街に下りたとき、藍夜は背筋を冷たいものが伝うのを感じた。いつもと同じ街並み、しかし、いつもと何かが違う。 瞳術を使おうとしたところで、術が上手く作動しない事に気が付いた。視界全体に薄闇が掛かっているように、効果範囲がぼやけてしまう。 街で何かが起きている……瞬く間に、不安は焦燥に変わった。見れば、至るところに脱ぎ捨てられた衣服や、滲んだ血痕が散乱している。 調べなければなるまい、そう踏んだ藍夜は一路、アンブロシアを連れ、手近な顔見知りの発掘人の家を訪ねた。 父母の代から世話になっている彼の男は、幼少時代から店、暁橙ともども世話になっている。何かしら情報交換が出来ればと、門を叩いた。 鍵の掛かっていない、小さな一軒家。用心深い男にしては珍しいと、慎重に扉を開き、中に踏み込み――そこで目の当たりにしたのだ。 恋仲でもない男女、それこそ親兄弟や親戚同士、旅人や観光客、果てにはペットさえ含んだ者達が、狂ったように互いを味わっている姿を。 『これは、なんだ……悪夢なのか、僕は、夢でも見ているのか』 ベッドの上はおろか、床上、ダイニングテーブルの上など、所構わず彼らは発情していた。それは正しく、悪夢の中の光景に違いなかった。 アンブロシアが悲鳴を上げる。我に返り身構えた藍夜に、男も、彼の飼い犬も、見知らぬ女も八百屋の店主も、皆が一斉に襲いかかった。 群がられ、人間とは思えない力にねじ伏せられ、外套を鷲掴みされたところで、藍夜は腰に下げていた雷神の雷霆に手を伸ばす。 『手荒だが、致し方ない!』 意識を集め、声を張り上げ、強引に彼らの動きを止める為の雷を放った。神経を侵したそれは、文字通り彼らの動きを強制的に停止させる。 何が起きているのか、それを知る事が出来ない。アンブロシアが彼らを一人ずつ治療する姿を見守りながら、藍夜は音を立てて歯噛みした。 彼らに言葉は通じなかった。雷光を放つ直前、眼前の人間達の表情は、正に発情期真っ只中の獣か、薬物中毒患者のそれだった―― 「しらみ潰しに、と言いたいところだが、消耗するのは避けておかなければならないだろうね」 ――一つ深呼吸して、藍夜は懐から金匙の羅針盤を取り出す。慣れた動作で匙に触れ、手掛かりの在処を探ろうと指を回した。 アンブロシアが、何か物言いたげに口を開く。しかし、彼女の喉から何かしらの言葉が発せられる事はなかった。 音もなく首が左右に振られる。一度、羅針盤から目を離した藍夜は、彼女にちらりと一瞥を投げた。 一瞬、二人の間に奇妙な沈黙が流れる。顔を上げたアンブロシアは、藍夜と目が合うや否や、物悲しそうな表情を浮かべた。 彼女が何を言わんとしたのか察し、藍夜は眉間に皺を刻んでから、そっと探索用神具を懐にしまい込む。その間、二人は無言のままだった。 「アンブロシア。前から思っていたんだがね、君はサラカエル達に比べると、随分と人間寄りの思考をしているようじゃないか」 「え? どういう意味ですか」 「いやね、僕は、君がニゼルや暁橙に甘すぎるという覚えが拭いきれなくてね。気付いていないなら構わないよ」 「そうでしょうか……わたしは、そんなつもりありませんでしたけど。でも、そうですね。覚えておきます」 ニゼルや暁橙らへの配慮、鳥羽藍夜の寿命の延命――それら全てを踏まえて、ロードやウリエルの能力の使用は、なるべく控えるべきだ。 言外にそう訴える天使の目に、藍夜は嘆息を吐く。ウリエルを完全な形で復活させる為には、鳥羽藍夜こそ早くに落命させるべきだろうに。 (そもそもだ。サラカエルは別として、アクラシエルとウリエルには、これといった接点がなかったように思ったのだが) アンブロシアの本来の目的は、ノクトの喰によって存在そのものを奪われた姉、アンジェリカの行方を追う事だ。 彼女が鳥羽家周辺の面々に気遣う必要はない筈だ。それほど人が好いのか、或いはオフィキリナスの生活に馴染んでしまったのか。 少しでも長生きするべきだ、そう目で語る彼女の真意を読み取る事は、容易ではないように思えた。 「あの、藍夜さん」 思考中断。呼び止められ、藍夜はアンブロシアが先とは別の民家を指差しているのに気付く。 道沿いの窓から覗けど室内は暗く、内部の様子を窺う事は難しい。 しかし、彼女の表情の暗さから、藍夜はこの家でも家人が狂人めいた行為に耽っている事を予想した。頷き返し、壁に体を近付ける。 「本当に、何故こんな事になったのだろうね」 無意識に吐き出した声には、恐怖よりも、呆れ、落胆といった音が多く含まれていた。 天使の答えを待たずに、裏口に手を掛ける。これまで、行為を止めようと乱入、潜入した家のどれもがそうだ。やはり施錠がされていない。 となると、この奇怪な現象は、日常生活の最中に突然発露した可能性が高いといえた。物音と不快な臭気を辿り、奥へと進む。 寝室と思わしき、扉の前に出た。扉を挟み、アンブロシアと向かい合いながら、藍夜は合図代わりに微かに頷く。天使も同様に頷き返した。 (……失礼するよ) ドアノブに手を掛け、勢いよく開け放つ。飛び込もうとした藍夜はしかし、逆に室内から何かが飛び出してきたのを視認し、足を止めた。 アンブロシアが肩を跳ね上げる。ごろごろと転がり出てきたそれは、起き上がると同時、開ききった扉に鞘に納刀したままの長剣を向けた。 「あっ、あなたは!?」 「おや、君は、」 二人の声が重なる。相手もまた、構えは解かないままに、藍夜とアンブロシアを交互に見上げた。見慣れた人相が、驚きの色に染まる。 「なっ、てめぇら……『化け物』に『アルバイト様』じゃねぇか! クソッ、こんなところで何やってんだ!?」 殺気も恐怖も、解かれる様子はなかった。それでも、互いに見知った顔であるが故に、気持ちを落ち着ける余裕が生まれる。 部屋から飛び出してきたのは、街長の息子ハイウメだった。剣を握り、屈んだ姿勢のまま、顔を青ざめさせ全身を震わせている。 俄かに、彼が脱出した部屋から、怨嗟の塊のような呻き声が返された。廊下伝いに、何かを引きずるような物音と気配も伝わってくる。 途端、ハイウメが固く顔を引き釣らせた。素早く目配せし、藍夜はハイウメの空いている方の手を掴み、アンブロシアは結界を展開させる。 「ッ、う、うぉわっ!!」 不可視の壁が、ハイウメに追い縋ろうと飛び出してきた狂人の手を阻んだ。最早、その瞳は何の光も宿していない。 目は虚ろ、口からは絶え間なく唾液を垂らし、下半身は言うまでもなく……完全に、心が壊れているようにしか見えなかった。 アンブロシアは自前の結界を強化する。パキパキと薄氷が張られていくように、目に見えない壁が、より多く、確実に拡大していった。 結界は強固だ、破られる事もない。しかし眼前で蠢く狂人の群れは、見る者に確かな恐怖を植えつける。次第に天使の顔が強張っていった。 「ハイウメ、アンブロシア。一度、ここから出よう。体勢を、整えるんだ」 躊躇している場合ではない、藍夜はそう判断を下す。 ハイウメは、端から剣を持っていた。彼なら街に何が起きたのか、目撃、ないし把握しているかもしれない。 彼の同意と返事を待つ暇はない、ハイウメの手を引いたまま、身を翻す。階段を駆け下り、外に出ようと息を弾ませる。 途中、身を隠していたのか、同じような状態の廃人達が姿を見せた。伸ばされる手を、藍夜は落ち着いて、一つずつ雷で弾いて凌ぐ。 手のひらに、ぐったりとした重さが返された。いつになく、ハイウメは消耗している。あれらを相手に、一人で立ち回っていたのだろうか。 「君も、随分と無茶をするものだね」 返事は返されない。化け物と見下す相手に先導されながら、ハイウメは結局、その家から完全に離れきるまで、口を開こうとしなかった。 「……それで、何があったというんだい。君は、今まで何を見てきたというんだ。ハイウメ」 北都印刷所を数十メートルほど先に臨む、白塗りの煉瓦作りの、小さな空き家の庭。 家主が亡くなり十年が経過しようとしているが、自警団などが主体となってまめに手を入れている為、さほど古びた印象は感じられない。 普段は主婦達の井戸端会議の拠点、ないし悪戯好きの子供達の格好の遊び場であるこの場所も、今はしんと静まり返っている。 アンブロシアに傷の手当てをさせる傍ら、ハイウメは地面にどかりと座り、近くの店先で売られていた飲料を音を立ててがぶ飲みしていた。 逃げ込んだ矢先、彼はもう立てない、そう言わんばかりにまばらな草の上に座り込み、雨に濡れるままに、上着を脱ぎ捨てていた。 しなやかな体と、鍛えられた締まりのいい筋肉が露わになる。彼の上着を拾い上げ、ぎゅっと水気を絞ってから、藍夜はそれを手渡した。 「異常事態というのは、僕も分かっているつもりだよ。ただ、君が知っている情報があるなら、事前に仕入れさせて貰えないかと思ってね」 既に結界は張らせてある為、次なる獲物を追って家屋から出てきた狂人らに、藍夜達が捕まる危険性はない。ざっと説明してから息を吐く。 藍夜は改めて、アンブロシアの実力に感心した。結界を維持しながら祈りを行使し続ける彼女に、疲労の色はあまり見られない。 鷲掴みにされ、圧し掛かられ、中には興奮のあまり噛みつかれたのか、歯形さえ残されていたハイウメの体は、たちまち元通りに癒される。 ようやく、青年の顔に安堵が浮かんだ。残り僅かとなった飲料入りの瓶に蓋をして、ハイウメは悔しげに顔を歪める。 「何があったもクソもねぇよ。いきなり、そこら中の連中が襲ってきたんだ。服ひん剥かれそうになって、なんとか逃げてきたんだけどよ。 あいつら、昼過ぎの教会の鐘の音を聞いた途端、適当な家に立てこもり始めやがった……俺だって長の息子だ、調べてやろうと思ってな」 「それはまた。一人で何とかしようと思ったのかい、随分と無理をしたものだね」 「うるせぇよ。って、てめぇらは何でもねぇみたいだな……ちょうどいい、隙をついて、印刷所に向かうとしようぜ」 「印刷所? 北都印刷所の事かい」 異常事態と印刷所に繋がりが見えず、肩を竦めた藍夜に、ハイウメは「それ以外に何があるんだよ」と忌々しげに舌打ちした。 「てめぇらみてぇに、正気を保ってる住民も少しはいるんだ。多重鍵が掛かるから、北都印刷所に避難して貰ってる。早いとこ合流するぞ」 「了解。苦肉の策、といったところだね」 「ま、待って下さい。さっきの方々が、まだわたし達を探して通りを徘徊しているんです。怒っているでしょうし、今動くのは危険ですよ」 移動を始めようと立ち上がるハイウメに、意外にもアンブロシアが食ってかかる。見上げてくる視線に対し、案の定、青年は顔を歪めた。 双方、どちらの言い分もよく分かる。頭ごなしに否定も出来ないと、藍夜は一人、大きく嘆息した。 (ここから印刷所までは、そう遠くない。しかし、主な経路といえば、表通りくらいしかなかった筈だ) アンブロシアの結界を用いれば、追っ手から逃れる事は可能だろう。しかし、あとどれほどの狂人が街に潜んでいるかは、分からないのだ。 万が一、途中で彼女が疲弊しきってしまったら……それだけではない、自分の雷神の雷霆の出力調整も、なかなかに集中力を必要とする。 ハイウメが剣術に優れる事は、噂で耳にしていた。かといって、自我を失い本能の塊と化した人間を、三人だけで迎え撃つ事は可能なのか。 藍夜の頭には、無謀という単語しか思い浮かべる事が出来ない。 「……で、どうなんだよ。化け物としての見解は」 気付けば、ハイウメもアンブロシアもこちらをじっと見つめている。いつの間にか司令塔を任命されてしまったらしい、藍夜は頷き返した。 「このままここにいたところで、同じだろうからね。アンブロシア、後方は僕が援護しよう。ハイウメ、君が誘導してくれたまえ」 匿われている住民達が、いつまでも無事であるとは限らない。瞳術が使えない以上、全ての事象を観測し、予想立てる事も難しいのだ。 後手に回る事だけは避けておきたい、故に、今はとにかく急がねばなるまい。 藍夜は雷霆を掴んで立ち上がると、塀の隙間から表通りの様子を覗き見る。やはり、未だにちらほらとうろつく狂人の姿が見えた。 「合図をしたら、まっすぐ印刷所に走るんだ。僕もすぐに追う」 二人が頷くより早く、藍夜は雷霆を振るう。目的はあくまで威嚇と攪乱、派手すぎるくらいがちょうどいい。 強烈な雷鳴と閃光を伴わせ、表通りに複数の雷を落とした。苦鳴とも怨念とも取れる呻きが、微かに空気中に紛れる。 藍夜は腕を振り、ハイウメとアンブロシアに指示を出した。二人はこれにしっかり応え、振り向かずにまっすぐ、中央公園へ走り出す。 二人の背中を追いながら、藍夜は狂人達の追跡を振り切るべく、都度、狙いを絞って雷光を走らせた。 強力な術の乱用に、息が切れそうになる。口端に、自然と自嘲の笑みが浮かんだ。大きく息を吐き、挫けそうになる己を叱咤する。 (さて。少しは、様になっているといいのだがね) 印刷所は、既に目と鼻の先。雨のせいか、都会的な造りの建物は、いやに暗い空気に包まれているように見えた。 |
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