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楽園のおはなし (1-40) BACK / TOP / NEXT |
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ホワイトセージを出るまでの間、ニゼルも暁橙も無言のままでいた。訪れた時と同じく誰ともすれ違わないまま、丘に続く街道に出る。 結局、あれから情報屋らに追われる事はなかった。押し黙る二人を余所に、金髪の子供はふんふんと鼻歌交じりでついてくる。 いつしか吹き始めた生暖かい風に溶かされる音色は、軽快そのものだったが、それが逆に、酷く不気味に感じられた。 丘を登る最中、ちらと後ろを振り向くニゼルと子供の視線が、ぱっと重なる。首を傾げ、大きな目を瞬かせる様は、ただただ愛らしかった。 (どこの子なんだろう、この子) 聞けば分かる事なのに、何故かそれをしてはいけないような気がする。ニゼルは、先を進む暁橙の呼び声に軽く頷いて、再び歩を進めた。 暁橙も同じ気持ちであったらしく、やはり二人は無言の状態を貫いたまま、ひたすら黙々と足を動かす事に専念する。 丘を登る事、数分。中腹あたりまで来たところで、不意に背後からどさりと鈍い音がした。ぱっと振り向くと同時、自然と目が下に向かう。 「もー、やだ。つかれた。歩けなーい」 驚き半分、ニゼルと暁橙は思わず互いの顔を見合わせて立ち止まった。目線の先、あの金髪の子供が、草の上に大の字に寝転がっている。 宣言通り、本気でもう歩く気がないらしい。ああともううとも聞こえる唸り声を零しながら、そのままの体勢で両目を閉じてしまう。 このまま昼寝に移行しそうな勢いだった。暁橙が手を掴んで上下に揺さぶってみても、ニゼルが肩を揺すろうとも、まるで微動だにしない。 「おーい、こらっ、丘の上に行きたいんだろー? ほらほら、さっさと立った立った!」 「やだー、むりー、歩けないー、疲れたー、ねえ、連れてってー」 「暁橙……いやあ、これ、多分もう無理だよ?」 駄目だこりゃ、二人は目で会話して立ち上がる。台車でも持ってくるよ、判断は素早く、暁橙はさっと踵を返して丘を駆け上がっていった。 ニゼルは始め、なんとか子供を起き上がらせようと奮闘してはみたが、梃子でも動く様子がない為、早々と諦めて手を離す。 解放された腕を草原に投げて、子供は唇を尖らせた。駄々捏ね全開! 見た目以上に中身は幼いらしく、宥めるのも不可能に思えてくる。 本当に藍夜に会うつもりがあるんだろうか、疑問は浮かぶばかりで、解消される事もない。ニゼルは一人、溜め息混じりに空を仰いだ。 「――よお、こんな所で何やってんだ」 「! ノクト?」 ふと、視界に影が差す。見上げると、いつから下ってきていたのか、ノクトが接近してくるのが見えた。 「えーと、あー、あはは。いやあ、その、この子がさ……」 「……ここは俺が何とかしてやる。サラカエルがテメェに話があるんだとよ、オフィキリナスに行ってやれ」 「え? でも、これだよ? どうやって」 声は潜められ、骨ばった指が丘の上をそっと指差す。子供はどうするのかと問い返すニゼルの耳に、喰天使はぼそぼそと囁きかけた。 「(いいから行けって。あの根暗野郎の小言も、いい加減うざってぇだろ)」 根暗野郎とは、サラカエルの事であるらしい……ぶちぶちと嫌みを垂れる殺戮の天使の顔を想像して、ニゼルはうわぁ、と脱力する。 そうしている間にもしきりに動かされる指を見て、ニゼルはノクトの強引さに呆れ半分、信用半分でしぶしぶ頷き返した。 途中、何度か振り返りながらも丘を登る。目が合う度、喰天使はさっさと行け、と言わんばかりに片手を下に向け、ひらひらと振っていた。 いよいよ互いの姿が視認しにくくなったところで、ニゼルは前をしかと向き、急いで草原を駆け上がる。 「……さて」 羊飼いの背中がだいぶん遠のいた後。ゆるりと子供を見下ろすノクトの目は、ニゼルや藍夜に見せた事がないような冷淡さを含んでいた。 一歩一歩、わざとらしく草をしっかり踏みながら、子供の頭上にぬうと佇む。見下ろしてくる夜色の瞳を見上げ、子供は二回、瞬きした。 「……誰?」 「他人様に名を聞くなら自分から名乗るんだな。で、こんなチンケな街に何の用だ? ロクでもねぇもんばっかり連れて来やがって」 のそりと上半身だけ起こし、子供は深紅の瞳をしっかり広げて喰天使を見上げる。あどけなさを残す顔が、あ、と不意に驚きに染まった。 「『ルファエル』」、細い指がノクトを指差す。 「……知ってるよ、『喰天使』だ。へえ、レア。めずらしー……へへ、初めて見た。いい事ありそう」 「んな事はどうでもいい。この街に何の用だ、って聞いてんだ」 「? 何の用って、僕はただ『ついて来ただけ』だよ?」 誰に、そう聞き返すより先に、子供がその場に静かに立ち上がる。無表情、無感動そのものの空虚な表情が、ノクトを正面から見つめた。 否、今はうっすらと笑みが浮いている。無邪気そのものではあるが、それはニゼルが感じたものと同質の、ある種の不気味さを持っていた。 放たれる言葉は、まるで幼子にものを言い聞かせ、諭すかのような、ゆっくりとした透明感のあるものである。 子供はやはり、嬉しそうに笑った。 「この街はね、もう『駄目』なんだって。さっきそう言われたんだ。『お仕事しに来た』って。だから、もう『駄目』なんだよ」 「……テメェ、やっぱり『堕天使』か。知ってるぞ、その赤い目玉。お前、ザドキエルだろ。神さん方に反抗してばっかだったっつー」 「僕を知ってるの? そう、この丘に天使がいるって聞いたから……へへ、でも、ルファエルに覚えられてた。あとで、教えてあげなくちゃ」 あくまで。あくまでも、子供――ザドキエルという名の堕天使は、自身が「ついて来た」相手の名を、口にしない。 ノクトは口内で歯噛みする。古の時代から、人間界に時折姿を現し、ヒトを堕落、或いは怠惰に陥れ、その魂を貪る生命達。 元は殆んどが天使であるそれらを、神々は「堕天使」と呼んだ。地上に堕ちた際、姿が異形に変貌したものは「悪魔」とも称される。 悪しき魂、外見などを有し、人間をさも餌か暇潰しのように弄ぶそれらの所行は、神々だけでなく、善なる天使達からも忌み嫌われていた。 人間界に伝わる古書エノク書や聖書にも、彼ら堕天使、悪魔の項目は多く記載されている。 それほどまでに、彼らは恐ろしいものとして古くから多方面より恐れられ、また、出会い頭に追い払うべき敵として、定められていた。 「悪魔にも、堕天使にも、位(くらい)はある。テメェの仕える相手は、一体誰だ?」 「……ねえ、さっきからおかしいよ? 僕は、誰にも仕えてないよ。だって、ついて来ただけだもん」 声が怒りに震える。義妹の足跡を追ってきた手前、ホワイトセージが失われる事は痛手だと、ノクトは僅かに舌打った。 もう少し情報が欲しい。可能であれば、近隣の遺跡から他のロードも回収しておきたい。今、悪魔どもに荒らされるのは不本意だ。 とはいえ、それを眼前の堕天使本人に吐き出すわけにもいかず、ただただ苦い思いが込み上げる。 現れた悪魔のリーダーは、どれほどの驚異であるのか。相手によっては、ホワイトセージの寿命は最早、風前の灯といっても過言ではない。 悪魔に魅入られ、堕天使が介入した人間の街は、規模が如何なるものであれ、あらゆる意味で戯れに破壊され尽くされる事が殆んどだった。 こちらの都合なんぞお構いなしだからな――尋問しようにもことごとくはぐらかされ、苛立ちばかりが募る。 意図的か、それとも素であるのか。ノクトの内心の波を見透かすかのように、ザドキエルは小さく笑った。 「ねえ、君だけ?」 「……あ?」 「だからね、丘にいる天使って君だけなの? 他にもいる? 誰がいる? ねえ、アイヤってヒトもそこにいるんだよね? 会えるかな」 「その貪欲さこそが、堕天使としての証だ」。喉から出かけた言葉を辛うじて飲み込み、ノクトはにやりと皮肉めいた笑みを返す。 一瞬、ザドキエルが怯んだように俄かに後退した。こういう時、喰天使の銘が役に立つ……伸ばしかけた手を降ろし、背中を向ける。 首を傾げたザドキエルを前に、ノクトはおもむろに腰を落とし、その場で屈んだ。 「ほら、乗れよ。行くんだろ、丘の上」 「……え、あ、うん。いいの? ……へへ、やったあ。ルファエル号だ」 思惑通り、ザドキエルは素直に背中に抱きついてくる。呑気にはしゃいですらいた。脇腹に伸ばされた脚を掴み、そのまま背負い丘を登る。 (今はいい、これでいい。コイツは油断のならねぇガキだ……どこまでが本気でどこまでが芝居か、テメェの本質、見てやろうじゃねぇか) 見た目に相応しく、ザドキエルの体は軽かった。微かに甘い匂いが漂う。足取りも軽やかに、オフィキリナスを目指して歩を進めた。 「やあ、戻ったね」 「サラカエル! 話って、何?」 ノクトと別れた後、ニゼルは急ぎオフィキリナスの扉を潜った。喰天使の話通り、応接間にはサラカエル、その隣には暁橙が控えている。 ま、座りなよ、そう勧められ、暁橙に同じく、ニゼルはいそいそと椅子に座った。 周囲を見渡すと、藍夜やアンブロシアの気配が感じられない事に気が付く。 馴染みの手帳は机上に置かれたままだし、ティーセットも手付かずで棚の中、喫茶店からは昼食らしき食べ物の匂いも漂ってこなかった。 どこに行ったんだろう――暁橙ともども出ていた事を棚に上げ、ニゼルは視線を忙しなく動かす。ふと暁橙と目が合い、互いに首を傾げた。 「探しても無駄だよ、鳥羽藍夜ならホワイトセージに用事だそうだ」 「えっ? サラカエル、藍夜に会ったの?」 「そうじゃないけど、ま、細かい事はいいじゃないか。ウリエルの気配なら僕単体の方が追いやすいし、手っ取り早い」 聞き返した声に、間抜けな響きが混じる。振り向いた先、サラカエルは応接間入り口付近に屈んで、何やら細々とした作業に勤しんでいた。 彼の手の中で、パチンと乾いた音を立て、一振りの小さなナイフが銀光を露わにする。 どうするつもりなのかとニゼルが問いかけるより早く、刃物は切っ先をあてがわれた天使の手首を、易々と切り裂いていた。 「うわっ」 「ちょ、ちょっと、サラカエル!?」 噴き出る鮮血が床を汚す。ニゼルも暁橙も、悲鳴を上げて立ち上がりかけるが、当のサラカエルは二人に片手の手のひらを向け、制止した。 ぬるりと赤く濡れた指先が、床上を這う。それが何かしらの文字、紋様であると、ニゼルは彼の動作が半ばまで過ぎたところで気が付いた。 隣に腰掛ける暁橙が、やおら服の裾を掴んでくる。魔物退治などで血への耐性はある筈だが、ヒト型のそれには不慣れらしい。 暁橙の顔は真っ青だった。宥めるようにして、ニゼルは彼の肩をぽんぽんと軽く叩いてやる。 「ま、アンバーも追跡を始めたようだし。危なくなったら撤退させるとして、君達にはここにいて貰うとしようか」 立ち上がったサラカエルの足下、オフィキリナスの玄関口に、血で描かれた魔法陣が出来ていた。聞き慣れない、異国の言葉が宙に溶ける。 刹那、ばちんと何かが弾けるような音がして、魔法陣の赤黒い色彩が、微かに青白く明滅した。 ノクトの隠れ家に臨んだ際に見た光だ、暁橙がぽつりと呟いたのが聞こえる。 光が収まると、オーロラかカーテンのようにうっすらと青白く輝き、波打つ半透明の壁が、魔法陣の端から延びた直線より、立ち上った。 椅子から離れ、手で触れてみる。ふわりと軽く、柔らかで、しかしニゼルの手は、壁の向こう側にするりと簡単にすり抜けていった。 不思議な触り心地だと、息を呑む。サラカエルに目を向けると、殺戮の天使は自ら裂いた手首に応急処置を施している最中だった。 「えーと……どういう事、これ?」 「結界だよ、僕はアクラシエルほど応用が利かないもんでね。内側から外に出る事は出来るけど、外側から中に入るのは、ほぼ不可能だ」 「結界? ほぼ? なに、例外もあるって事?」 「『君達が歓迎する相手なら』入れられるようにしてある。僕の血は高くつくからね……そう簡単には破られない筈さ」 器用に歯で噛んだ包帯をきつく巻き付け、最後の仕上げを済ませると、サラカエルはそれ以上を言わずに踵を返す。 慌てて呼び止めるニゼルに、彼は意地の悪い笑みを返した。曰く、「大人しくいい子で待っていろ」。ニゼルも暁橙も、思わず顔を歪める。 (そりゃ、天使から見れば俺達の寿命なんてミジンコくらいしかないんだろうし、ついてったって何も役に立たないんだろうけどさ) ……あんまりにもなぶっきらぼうな言い草に、呆れてしまった。 藍夜といいサラカエルといい、どちらも口下手が過ぎる。後者の場合、時折嫌みも飛ぶのだから余計に質が悪い。 口をへの字に結びながら、ニゼルはそろりと黙ったままの暁橙を盗み見た。暁橙もまた、ニゼルと似たような表情をしている。 互いに、意味もなく室内をぐるぐる徘徊してみた。サラカエルの言葉をそのまま受け取るなら、役立たずはここに残れ、そういう話だろう。 しかし、鳥羽藍夜の身内である身からすれば冗談ではない――落ち着かない自身を諫めるように、ニゼルはその場で足を踏み鳴らした。 暁橙と目が合う。一瞬、困ったような顔を浮かべた暁橙に、ニゼルはへらりと苦笑を返した。 落ち着かない、ただその一言に尽きる。 「ニジーさん、お茶でも淹れよっか。残れって言われたって、何かあるわけでもないし」 「あー、うん。そうだね、そうしようか」 そういえば、あの金髪の子供はどうしただろう――キッチンへ向かった暁橙を見送りながら、ニゼルはあの印象的な深紅の瞳を思い返した。 ノクトに引き継いだはいいが、本当によかったのだろうか。とにかく不思議な子供だった。何より、どこか浮き世離れしていると、そう思う。 まさかまた天使じゃあるまいな、有り得なくもない想像に嘆息が漏れた。手持ち無沙汰である為、とりあえずはと椅子に座る。 不意に、湿気が嗅覚を掠めていった。窓の外を見ると、いつの間にか外がすっかり暗くなっている。雨が、ぽつぽつと降り出していた。 (最近、雨、多いな) 降水量が少ない事が、ホワイトセージ近隣の気候の特徴の一つだというのに。ぼんやり呆けていると、玄関口からカタンと物音が響く。 目を向けると、まだそんなに濡れていない体のノクトと、あの子供が、扉を潜るところだった。 「ノクト! あれ、サラカエルに会わなかった? 降りていったんだけど」 「おう、会ったぜ。街に行くとか言ってたな」 「もう……藍夜もアンもだけど、傘持って行かなかったんだよねー。風邪引かなきゃいいけど」 ふとした静寂が流れる。はたと入り口を見たニゼルは、ノクトがあの子供を降ろしながら、じっと足元を睨んでいるのを見つけた。 サラカエルが施した結界、それらを形成する血文字。普段から人相の悪いノクトの顔に、深い眉間の皺が加わる。 どう説明したらと、ニゼルは逡巡した。サラカエルの思惑としては、オフィキリナスに関わろうとするものを排除する為の結界である筈だ。 ノクトは招き入れてもいいのだろうか……色々あったけど顔見知りなんだしいいよね、そう結論付け、一人頷く。 「それ、サラカエルの結界だって。よく分かんないけど」 「おい、分かんないってなんだよ。結界の種類くらい、聞いとけよ」 「そんな事言われたって。俺、天使でも何でもないしー。そういうのは本人に言ってよ」 嫌みを返した後で、ニゼルはあの子供が、こちらをじっと見つめているのに気が付いた。 重なる深紅と赤紫。首を傾げたニゼルを前に、子供はふらふらと歩き出す。そろりと片手が上がり、ニゼルに触れんと指が延ばされた。 「ねえ、君は何? 天使じゃ、ないの?」 「……え?」 宙を彷徨う指先が、殺戮の天使の結界にそっと触れる。刹那、雷撃が疾ったかのような光と衝撃音が、空を叩いた。 驚き、肩を跳ね上げるニゼルと、俄かに身構えるノクト、そして、硬直したように手を伸ばしたまま立ち止まる子供――ザドキエル。 一瞬のうちに駆け抜けた緊張は、うっすらと青白く輝く結界に遮られているように見える。それほどまでに、一連の出来事は刹那的だった。 「……いたい」 静かに一度瞬きして、ザドキエルは自身の手を見下ろす。色の白い細い指は、焼けただれたように肌を裂き、めくらせ、黒ずんでいた。 微かに立ち上る白煙を見て、咄嗟にニゼルは棚に常備してある救急箱に手を伸ばす。意外にも、それを制したのは子供本人だった。 「いいや……アイヤってヒトも、いないし。僕、帰る」 「え、で、でも、それ、痛くない?」 「いたいけど……へいき。でも、サラカエルは、ひどいよね……うん。いたかった、かも」 「だ、大丈夫? 家まで送ろうか」 「ううん、へいき。それに、黙ってここに来ちゃったから……もう帰らなきゃ」 結界に拒まれたからか。鳥羽藍夜が不在であるからか。 子供は、特に怒り、或いは落ち込んだような素振りも見せず、あっさりと踵を返す。 思わず呼び止めようとして、しかしニゼルはノクトが首を左右に振ったのを見て、乗り出した身を下がらせた。 持て余した救急箱を元の場所に収め、ノクトに手招きする。サラカエルの言葉通り、喰天使は結界に弾かれずに応接間に入り込んだ。 招き入れない限りは相手が何であれ安全、そういう事らしい。やっぱり口下手だ、嘆息混じりに椅子に腰掛け、ニゼルは外へ視線を投げる。 雨の勢いは次第に強まりつつあった。初夏とは真逆の寒々しい景色は、いつの日か、親友が喰に破れた日の光景を彷彿とさせる。 「……おい」 「ん?」 ふと、耳に届いた声に振り向いた。椅子を勧めたにも関わらず、ノクトはすっかりもぬけの殻になった棚の前で棒立ちしている。 「テメェ、牧場はいいのかよ。街に何かあったのは確かだぞ」 「それはそうだけど……サラカエルにここから出るなって言われてるし。っていうか、街で何が起きてるの? ノクトは何か知ってるの?」 「知らねぇ方が身の為だ」 「何それ……サラカエルもそうだけど、天使って皆そうなの? いちいち思わせぶりにしないと、死んじゃうの?」 ニゼルが放った自分の無力さ、非力さからくる小さな八つ当たりに、ノクトは怒りと悲痛を混ぜた、複雑な表情を返した。 二の句を失う。ぐっと顎を引いたニゼルを放置して、喰天使は窓の外、アルジル牧場方面を見つめた。 気にしてくれているのか――彼の苦いものを噛んだような横顔を見て、ニゼルは出かけた言葉をそっと飲み込む。 追撃がこない事を疑問に思ったか、或いは、ただ沈黙しているのが居たたまれなくなったのか。ノクトはふと小さく舌打ちした。 「サラカエルの言う事は確かだ。街に、今ロクでもねぇのが来てやがる。連中は、それの駆除に行ったんだろう」 「ろくでもない? それって一体、」 「おい、余分な好奇心は身を滅ぼすぞ。結界を張られた理由を考えろ、俺達にだって、それなりに良心っつーもんがあるんだよ」 「理由って……そんなの、答えになってないし」 「ああ、そうかよ。なら街に出て、襲われるなり、根暗野郎に吊されるなり、好きにすりゃいいだろ」 サラカエルの野郎はウリエルの為にしか動く気がねぇだろうしな、苛立ちを露わに歯噛みするノクトを見上げ、ニゼルは眉間に力を込める。 ろくでもないもの、駆除、余分な好奇心……質問は、ことごとくはぐらかされたような気がした。こうなると、嫌な予感しかしてこない。 「藍夜……大丈夫かな」 ノクトの返事はない。いくら天使になったからとはいえ、鳥羽藍夜の肉体は人間のままであり、無理をするにも限界がある筈だ。 雷霆、羅針盤、瞳術。どう考えても、やはり彼は無理をしているようにしか感じられない。 もし、街で生命の危機に晒されたら? それこそ藍夜は、雷神の雷霆を振りかざすだろう。それこそが、街を襲ったものの狙いだとしたら? (だからって、俺に出来る事なんて……それだけじゃない、この嫌な感じ……俺、何か大事な事を忘れてる?) 何か忘れている、でも、何を? ふと一筋の光明を見出した気がして、ぱっと椅子から立ち上がった。転がる椅子にも構わず、走り出す―― 「っ、暁橙! ねえ、いる、暁橙!?」 ――応接間横、オフィキリナスは喫茶店フロア。キッチンにも、がらんとしたフロアにも、鳥羽暁橙の姿がまるで見当たらない。 してやられた! ニゼルは、自身の顔からさあっと血の気が引いていくのを感じた。 なかなか戻ってこない、とは思っていたのだ。恐らく暁橙は、あの子供やノクト、自分との応酬を盗み聞きしていたのだろう。 そして兄至上主義の彼の事、街に向かった藍夜を案じ、いても立ってもいられず、隠れるようにオフィキリナスを出たのに違いない。 見れば、いつかのアンブロシアがそうしたのと同じく、外に続く勝手口が開いたままになっていた。ここから出たと考えるのが妥当な線だ。 「嘘でしょ、暁橙まで……」 ニゼルはたまらず頭を抱える。もしノクトやサラカエルの言うように、街に危機が訪れているというのなら。 藍夜にとっても、暁橙にとっても、今この場で下されている選択は、最悪の事態を引き起こしかねない。 「おい、どうした」 「ノクト。それが、暁橙が……っ」 駆けつけたノクトにありのままを話し、ニゼルは俯いた。喰天使の顔はたちまち強張り、聞こえよがしに舌打ちを漏らす。 沈黙、思考は僅かな時間しか取られない。目を動かし、ニゼルをじろりと見下ろした喰天使は、表情に感情を乗せずに頷き返した。 「……サラカエルにグリフォン、アクラシエルも出てる。そう最悪の事態にはならねぇよ」 「でも!」 「心配すんな。それに牧場は俺が見てやるつもりで残ったんだ、あの野郎も分かってる筈だ……いいか、テメェはここで大人しくしてろ」 結局、戦力外通告をされるだけ。どちらにせよ、それは気休めでしかない。 その言葉を、流石にニゼルは口に出来ない。黙って口を噤み、喚き、或いは駆け出したくなる衝動を堪える。 顔に出ていたらしく、不意にノクトの骨ばった大きな手が延ばされ、ぐしゃりと空色の髪を鷲掴みにし、撫で回した。 目が合う。夜色の瞳は、あまり優しげな色をしていない。それでも、喰天使は力強く頷いて見せた。 ニゼルはそれだけで泣き出しそうになった……雨足は強まり、あらゆる音と匂いが掻き消されていく。外は暗く、日の光など望めそうもない。 全身はおろか、内蔵、心臓の奥底にまで、陰鬱な雨の薄布が覆い被さっているかのようだった。肺に痛みを覚え、無意識に大きく息を吐く。 「藍夜、暁橙……無事でいてよ」 囁くように吐き出した祈りは、あまりにも心許ない響きと共に、宙に溶けた。 |
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