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楽園のおはなし (1-39)

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「……で、あのー、兄ィ。オイラ、ちょっと街に用事があるんだ。行ってきていいかな?」

対天使、喰天使を除いた写真撮影後の談笑は昼時になってもなお収まらなかった。
そろそろ昼食でも、と言いかけた瞬間、ニゼルに目配せしながらの暁橙から意外な提案が出される。
落ち着きのない仕草、幼なじみの困ったような愛想笑いを見て、藍夜は弟が何か隠し事をしているであろう事に早くから気が付いた。
そもそも、燃費の悪い暁橙が昼飯も摂らずに出かけようとしている時点で彼らしさに欠けている。なんとも怪しい。
いつもなら速攻で却下しているところだが、正直藍夜はあのちょっとした撮影会に満足していてそこそこ機嫌が良かった。
何かあったとしても、いざという時は瞳術を使えばいいかと自分に言い聞かせる。肩を竦めて小さく笑った。

「いいとも。何なら街で食事でもしてきたらどうだい、暁橙。たまには顔を出しておかないと、ハイウメも五月蝿いだろうからね」
「兄ィ、オイラあいつ嫌いなんだってばー。けど、うん、何かお土産買ってくるよ。兄ィは家に引きこもるの好きなんだし」
「きみね、せめてそこはインドア派とでも言っておきたまえよ」

軽口を叩きながら弟とニゼルの背を見送る。ほっと息を吐いて、藍夜は一路、喫茶店スペースに隣接するキッチンへ足を運んだ。
予想していた通り、アンブロシアが昼食の支度に勤しんでいる。声を掛け手を止めさせてから、藍夜は彼女と共に食料庫の中を確認した。
これまた予想通りの展開だ。ノクトの襲撃、境界への移動と、ここ数日の間のばたばたで蓄えていた筈の食材はかなり少なくなっている。

「すみません。朝の時点で、お話ししておけばよかったですね」
「構わないさ、アンブロシア。むしろ、これしか残されていなかったのによく朝食を用意出来たものだね。感心するよ」

アンブロシアは申し訳なさそうに頭を下げたが、藍夜は逆に素直に彼女の労を労った。彼女曰く、小麦粉さえあればなんとかなるという。
言われてみれば、今朝の遅い軽食はパンケーキがメインだった。母しかり、女性という生き物はいざという時に強いな、と一人ごちる。

「とはいえ、このままでは暁橙に餓死されてしまいかねないからね。僕達も昼がてら、買い出しに出ようじゃないか」
「あの、藍夜さん。お金の方は……」
「それくらいの貯えならあるとも。ここ最近、色々あったからね……せめて食事くらい、あの子の好きなようにさせてあげたいじゃないか」

ぽつりと本音を吐いた後で、しまった、と顔を上げた。やはりアンブロシアはどこか悲しげな表情でこちらを見つめている。
咳払いをして、藍夜はアンブロシアにも出かける用意をするよう促した。その足で応接間に戻り、コート掛けの外套を手早く羽織る。
そのままいつものテーブルの下に潜り込み、椅子の奥に見えるクルミ製の床板を器用に外し、奥の暗がりへと手を突き入れた。
ずしりと返される、特有の重さ。床下から取り出した大きな硝子瓶には、磨き抜かれたきらきら光る銅貨と銀貨が所狭しと詰めてある。

(『喰』に巻き込まれていなかったのは、本当に不幸中の幸いだ)

オフィキリナスを継いだ後、藍夜が個人でひっそりと貯め込んでいたへそくりだった。
過去、何度かオフィキリナスを探検していたニゼルによって発見されている為、この保存場所は実質三回目の変更地点に相当している。
元々、銭勘定もコイン磨きも好きだった。当時の苦楽を噛みしめつつ、何枚かを袋に移して外套の下に潜ませ瓶を元の場所にしまい込む。
立ち上がり、応接間付近の戸締まりをしている最中に事前に預けていたマントを羽織ったアンブロシアがひょこりと顔を出した。
準備は済んだかい、短く問いかけると、戸締まりも火の始末も万全です、と力強い頷きが返される。
念の為、と再度施錠具合を確認し、雷霆を腰に下げ改めて表に「準備中」の札を掛けると、藍夜はアンブロシアを伴って丘を降りた――

「……それで、君の見解はどうだい。ノクト」

――宙に溶ける声は、いつになく冷たい響きを持っている。藍夜達を追うでもなく、サラカエルは木陰から二人を静かに見送っていた。
その頭上に、枝を踏みしめる音と重みが突如降ってくる。殺戮の天使の上、どこからともなく現れた喰天使は喉奥で小さく唸った。

「見解もクソもねぇよ……どう考えても、『何か』あったのは確かだろ」
「行かせてよかったのかい? ウリエルはともかく、アクラシエルは戦闘には不向きだろ」

舌打ちがサラカエルの鼓膜を打つ。仰ぎ見たサラカエルは、ノクトが苦々しい表情を浮かべているのを視認して開きかけた口を閉じた。

「テメェがそれを言うかよ。まあいい、おい、アクラシエルは『若い』が俺の同期だ。よほどの事がなけりゃ、なんでもねぇよ」
「……へえ、それはそれは、心強い」
「おい、そりゃ嫌みか。いや、それよりだ。この気配、恐らくだが……クソが、ロクでもねぇ客が来やがったな」

サラカエルは応えない。肯定すると同時に、自分もまた危機を察知しているのだと無言の背中で訴える。
わざとらしく大きな溜め息を吐き、ノクトは口を閉ざした。
オフィキリナス、アルジル牧場を撫でる初夏の風は、通常この季節に似つかわしくないほどの不気味な生暖かさを持っている。
互いに目配せし、どこに向かうかを口にせずに取り決めた。サラカエルもノクトもほぼ同時に翼を広げ、招かれざる客の迎撃準備に掛かる。
……漆黒の半月がホワイトセージの街全体を覆ったのは、それから暫くしての事だった。






「よぉーし! さーてっ、さっそく可愛い娘ちゃん探すぞー!!」
「……暁橙ー、ねえ、本気?」
「本気も本気だよー。昨日言った通り! ほらほら、ニジーさんも可愛い娘ちゃん探し、手伝って!」

オフィキリナスを出てすぐ。
半ば引きずられるようにして、ニゼルは暁橙の結婚候補探しの旅、もといホワイトセージ散策にしぶしぶ付き合っていた。
丘を降り、街に続くちょっとした街道を軽快に突き進む彼を見ていると、本当に寿命を縮めている人間なのかどうか疑わしくなってくる。
それでも暁橙は暁橙なりに必死なのだ……そうでも思わなければ、やっていられなかった。
一度財布の中身を確認してから、ニゼルは日頃から屋台や出店の類も多く並ぶホワイトセージのメインストリートに足を踏み入れる。
暁橙は既に通りの真ん中できょろきょろ視線を動かしていた。その慌ただしさに思わず苦笑してしまう。
可愛らしい、とすらニゼルは思った。

(うーん。っていうか俺、まず暁橙のタイプが分かんないんだけど)

どう言い聞かせたものか、頭をポリポリ掻いていると当の本人が血相を変えて戻ってくる。
冷静になったかな、そう期待しながら彼に歩み寄るニゼルだがふとその足が止まった。
……静かすぎる。
いつもなら人通りが絶えない筈の表通りに、今日はニゼルと暁橙以外の姿がなかった。風が通り抜け、木々を揺らす音しか聞こえてこない。
それだけではない、活気に溢れる出店や露店はおろか、パン屋、衣料店、鍛冶屋、縫製店。ありとあらゆる店が全く開いていないのだ。
丘を降りてすぐ目に入る年中無休が売りの馴染みのパン屋ですら、準備中の札とシャッターが下ろされたままになっている。
付き合いの長い父母からも何も聞いていない、おばさんどうしたんだろう……見知った店主の顔を思い浮かべ、ニゼルは眉間に力を込めた。

「……暁橙。なんか、おかしくない?」
「うん、オイラもそう思う。なんで誰もいないんだろ」

人間だけでなく、小鳥やミツバチ、普段なら我が物顔で街を闊歩している野良猫ですら姿が見えない。
ひたすら続く静寂……まるで、住民がホワイトセージを総放棄したかのように思え、ニゼルはごくりと喉を鳴らした。
言葉では表現のしようがない、目に見えない「恐怖」が漂っている。向かい合いながら、二人は周囲を見渡し声を潜めた。

「んー。もしかして、お嫁さん探しどころじゃないっぽい?」
「もしかして、じゃないよね、これ……少し、人を捜してみようか」
「うん。ニジーさん、一応オイラから離れないでね」

鏡面の輪を手に巻き付け、暁橙がニゼルの先を進む。腰に下げたままだったロードに無意識に手を添え、ニゼルは大人しく指示に従った。
「おかしい」、そうとしか言いようがない状態が続いている。二人は忙しなく、視線を泳がせた。
玄関掃除をしている筈の藪医の看護士も、昼食を楽しむ主婦達も、休憩時間に煙草をふかす土木作業員も、グラスを磨く喫茶店の老店主も。
果てには、表通りで追いかけっこを堪能する児童も、菓子を買って貰えず駄々を捏ねる幼児も、母親に抱かれる乳児も、その父親ですら。
誰一人、まるですれ違う事がない。他人の存在、気配、呼吸音の一つすら感じられず、気付けばニゼルと暁橙は声を押し殺していた。

「……ほんとに、誰もいないね」
「ニジーさん。とりあえず、レティアさんとこに行ってみない? マスターが何か知ってるかもだし!」

何かが起きている、双方共にその確信が広がりつつある。その不安と緊張を払拭すべく、暁橙がことさら明るい声を上げた。
頷き返しながらも、ニゼルは彼の案に心から賛成する事が出来ない。どこに行っても同じではないか、そんな予感が漠然とあった。
しかし、ここで悶々としていても埒があかないのも事実だ。こくりと頷き返し、二人は一路、街の中心部へ向かう。
……オフィキリナス常連客、マトリクス=ゴードンの愛妻、レティア。街のマドンナでもある彼女の事はニゼルも暁橙もよく知っていた。
美人だがお高くとまっているわけでもなく、気さくで愛嬌があり、若いながら頭も切れる。知らない方が潜りというものだった。
それだけでなく、彼女の勤める喫茶店は憩いの場として高い人気を誇り、彼女ともども情報網として有用である事は周知の事実である。
故に暁橙はショコラ・アンド・フランボワーズの常連の一人でもあった。見慣れた看板を目指し、ひたすら無言で道を急ぐ。

「レティアさん、いるといいね。ニジーさん」
「うん、そうだねー……暁橙、急いだ方がいいかも。なんか、嫌な感じがする」

耐えきれなかったのか、先に口を開いたのは暁橙の方だった。軽く応じながらも、ニゼルは表通りの観察も継続しておく。
ふと視界の端に何かを見つけ、ニゼルは足早に、いつの日か藍夜がクレソンの値切りを粘っていた小さな八百屋の前に駆け寄った。
軒下に落ちていたそれが何であるか気付き、眉間に皺を寄せる。指で摘まみ上げ、追いかけてきた暁橙にもそれを見せた。

「……パンツ?」
「それも、今脱いだばっかり、ってやつね」

男物の下着だ。よくよく目を凝らせば、すぐ近くにも同じように脱ぎ散らかした衣服が散乱している。
流石に温もりは残していなかったが、どう見ても洗濯物が飛ばされてきた、という体ではなかった。お互い、思わず無言になってしまう。
酔っ払いかな、苦し紛れに暁橙が愛想笑いを浮かべ、こんな昼間にそれはないでしょ、ニゼルは冷静に答えて下着を元の位置に戻した。
……居たたまれないのか、暁橙はわざわざ衣服を畳んで置いてやっている。

「やっぱり、変! 何が変って言ったら微妙だけど、とにかく変だよ。急ごう、ニジーさん」

いつしか、暁橙の声と表情は固く引き釣っていた。同じように顔を引き釣らせ、ニゼルは同意もそこそこに今度こそ足を早める。
それもその筈、八百屋の前のみならず、表通りの至るところには誰かのものと思わしき衣服が転々としていた。
その持ち主達は一体どこに行ってしまったのだろう……答えを追うべく急ぐ二人だが、喫茶店まであと少しのところで足が止まった。

「(ニジーさん)」
「(うん。俺にも聞こえた)」

物騒な物音がしたのだ。何者かが自分以外の誰かを怒鳴り、また、感情任せに詰め寄り、木箱か椅子かを転がして恐喝する物音が。
誰かが絡まれている、それくらいは把握出来る。どうすべきか逡巡する羊飼いだったが、暁橙の姿は既に目前の裏路地に滑り込んでいた。

「(ちょ、ちょっと、暁橙!)」

制止する暇もない。彼が放り投げた荷物を慌てて拾い上げ、ニゼルは暁橙の背を追いかける。
……せめて様子見だけでもして欲しかった、そう思うのは贅沢だろうか。
路地裏には酒瓶を手にした複数の酔っ払いと、哀れ、彼らに絡まれてしまったであろう金髪の子供が押し込められるように集まっていた。

「こらー! 弱い者いじめ、反対っ!」

頭が痛いとはこの事だ。もっと上手いやり方があるだろうに、よりによって暁橙は複数人を前に堂々と声を張り上げる。
当然、視線は一斉にこちらに移り変わった。注意を逸らす事に成功したからか、暁橙はどこか得意げな顔をしている。
今度こそニゼルは頭を抱えた。居合わせた男達は、顔は真っ赤、目は腫れ、足はふらふらで、完全に出来上がってしまっている。
言葉で説得どうこう、という次元の話ではない。現に、酔っ払いのうち一人が酒瓶を手にこちらに牛歩、千鳥足で接近しつつあった。

「なんだぁー? なんか、文句あんのかぁ」

目が据わってしまっている上に、吐きかけられる息が酒臭くてしようがない。思わず怯んだニゼルを見て、男はゲタゲタと楽しげに笑う。
それしか楽しみがないのか、そう問いかけたくなるような勢いで男は残り少ない酒をがぶがぶと一気に喉に流し込んだ。
ほんの僅かな沈黙。見ると、暁橙は先ほどまでの威勢はどこへやら、口を閉じ、何やら複雑な表情を浮かべて酔っ払いの男を見つめている。
信じられないものを見るような眼差し。ニゼルは、急にだんまりを決め込み始めた暁橙に驚き半分困惑半分で、気休めの笑みを向けた。

「えっと、あー、暁橙?」
「ドルジーのおっさん。どうしたの……恐喝なんてするようなキャラじゃ、なかったよね」
「え、暁橙、この人知り合いなの?」
「……遺跡探索の仲間、兼、情報屋さん。いつもならビールかエール二杯で情報買わせてくれるんだけど」

こんなに泥酔してるところ、見た事ないよ――困惑しきりといった様子で、暁橙は苦いものを噛んだような顔をする。
一方、情報屋はケタケタと壊れたように笑い続けていた。彼の背後では、仲間と思われる男達が子供の服を剥ぎ取ろうと躍起になっている。
子供は、見たところ藍夜より年下といった風だった。男とも女とも取れる中性的な容姿で、酔っ払いには見分けがつかないのも無理はない。

「ドルジーさん! やめさせてあげなよ、可哀想じゃないか!」
「あー? なんだってぇ? 俺様に指図すんのかぁ?」
「聞く耳持たずだね……どうしよう、あき、」

ニゼルは皆まで言い終える事が出来なかった。気が付けば、振り回された鏡面の輪の先端が情報屋の顎にクリーンヒットしている。
唖然とするニゼルを余所に、暁橙は正面から集団に飛び込んでいった。藍夜がいたら怒られるよ、言いかけた言葉を必死に飲み込む。
ロードを振り回し、鋼糸の暴れるままに道を切り開き、仰向けに押し倒されたままの子供へ強引に近寄るとその手を思い切り掴んだ。
次に暁橙が言うであろう言葉など簡単に予想出来る。ニゼルは暁橙の荷物をぎゅっと抱きかかえ、俄かに片足を後退させた――

「ニジーさん! 逃げよう!」
「もう! 絶対、そう言うと思ったよ!」

――走る! 暁橙は子供の手を取り、ニゼルは荷物をしかと抱いて、表通りへ取って返した。そのままひたすら目的地を目指して走る。
即ち、街の中央、ショコラ・アンド・フランボワーズへ。何度か転びそうになる子供に気遣う暇もなく、追っ手を振り切ろうと必死だった。
……気が付けば、ニゼルと暁橙の目の前には見慣れた可愛らしい外観の喫茶店が佇んでいる。お互い、肩で息をしながら目配せした。

「……こ、こんなに走ったの、ひ、久しぶりかも」
「なんとかマケたっぽいねー。ごめんね、ニジーさん。つき合わせちゃって」
「暁橙ー。謝る気ないでしょ? もう、藍夜に言っちゃうからね!」

今更に慌て始めた暁橙を放置して、ニゼルは苦笑混じりに入り口の扉に手を掛ける。ガラス越しに見る店内は、昼にしては暗かった。

(……まさか、ここも?)

嫌な予感ほど当たるものだ。
喫茶店の中は汚れ散らかされた食器とグラスで溢れており、いつものゆったりした空気や、店員達の笑顔など、まるで影も形もない。
息を呑むニゼルの横に立った暁橙もまた、言葉を失っている。彼の横の金髪の子供は、何がなんだか分からない、と言うように首を傾げた。
ふと、するりと暁橙の隣を抜け、子供はテラス席へ進んでいく。止める間もない、はっと我に返った二人は、白い服のあとを急いで追った。

「!? うわっ……待って、ちょっと待って。本当に、ここで何があったの」
「ニジーさん……この人達、死んでるよ」

今度こそ二人は絶句して、その場に縫いつけられたかのように体を硬直させる。テラス席に広がる風景は、凄惨を極めるものだった。
そこかしこに散らばるソースや溶けたアイスの残骸、床に落ち、砕けた食器。それらの破片に頭部を埋めたまま事切れている、少数の客達。
甘味による濃厚な匂いだけではなく、彼らの口から零れた唾液や胃酸、下半身から漏れた廃物の臭いが溢れている。思わず鼻を手で覆った。
店員の姿は見えないが、誰一人として生きている人間というものが存在しない。表通りに同じく、異質な沈黙だけがこの場に満ちている。
冷たく伏している客のうち一人に手を添え、その顔を確認した暁橙は、一瞬で顔をくしゃくしゃに歪めそっと頭を元の位置に戻した。
暁橙はこの店の常連だ、見知った誰かだったのだろう……ニゼルはぐっと唇を噛む。胸が締めつけられるような思いでいっぱいだった。
幸福な時間が流れていたであろう空間は、何者かの手で理不尽に壊された――ホワイトセージで、何か恐ろしい事が起きている。
暁橙がいつも腰掛ける奥の椅子に陣取った子供を余所に、二人は立ったまま顔を見合わせた。出すべき結論なら、とうに目処が立っている。

「ニジーさん。オイラ、兄ィを呼んできた方がいいと思うんだ。どうかな、ここでこれなら、自警団あたりも駄目じゃないかって」
「……うん。俺もそう思うよ、暁橙。『視て』貰った方がいいと思う。オフィキリナスも牧場も、心配だし」

絶対に許せない、暁橙の双眸はそう語っていた。一方、またしても親友に負担を強いてしまう事に、ニゼルは内心で胸を痛める。
寿命を削らせてしまわなければ、解明出来ない事態。今までこんな不可解な事はなかったのに、と、殆んど無意識に歯噛みしていた。

「――オフィキリナスって、なに?」

そのときだ。不意に響いた声は、それこそ朝焼けに溶ける霧や教会の鐘の音のように澄んでいる。妙に耳に残る印象だった。
ニゼルも暁橙も、この状況下でそんな透明な声を出す事が出来た当人にぱっと視線を向ける。
先ほど助けたあの白服の子供が、立ち尽くす二人をじっと見つめながら笑っていた。

「ねえ、オフィキリナスって何? 牧場って、どこにあるの? アイヤ、って誰? ……ねえ、もしかして、『丘の上』のおはなし?」
「え、あ、うん。そうだけど。藍夜ってのは、オイラの兄ィでさ。丘の上でロードを売ってて、」
「ちょっと、暁橙!」

……笑っていたのだ。
すぐ近くには死体が伏せ、山のような汚物と食器に囲まれ、数分前には複数の男に襲われかけていたというのに。その子供は笑っていた。
鳩の血に似た、深紅の瞳。丸いそれを収める双眸は、全く笑っていないように見える。だというのに、声色だけが無邪気に笑っていた。
ニゼルは、言葉では言い表せない何かを感じて震え上がる。
親切心と藍夜への尊敬の念から無防備に質問にすらすらと応えてしまった暁橙に、思わず横から口止めしてしまったほどに。
それほどまでに、ニゼルはこの子供が底知れぬ何かとてつもなく「恐ろしいもの」のように思えてならなかった。
応えるべきではないし、丘の上に同行させるべきでもない。首を振り警告を飛ばすも、暁橙は今ひとつそれを理解していないようだった。

「ニジーさん? どうしたの、顔、真っ青だよ」
「暁橙……」

ニゼルは再び、子供を見つめる。中性的な顔立ちのそれは、またしても年相応、容姿によく合う幸せそうな笑みを浮かべ、首を傾げた。

「ねえ、僕、そこに行きたい。丘の上。アイヤ、って人に会ってみたい。ねえ、いいでしょ?」

「お守り」はまだ貰えていないけど――行儀よく椅子に腰掛けながら、その深紅が酷く不気味に歪む。
有無を言わせぬ不可視の力が、その笑みに宿されているような気がした。手を取る暁橙を制止する術をニゼルは持たない。
生暖かく吹く風に煽られ、嫌な汗が額に滲む。





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 UP:18/05/20