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楽園のおはなし (1-37)

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王都より遙か北に位置する田舎街ホワイトセージは、交易と酪農で成り立つ街でありながら、信仰心の厚い街だった。
街の周囲に点在する高位神具が眠る遺跡群や、小さいながらも街一番の美しさを誇っている教会がその後押しをしてくれている。
初夏から夏の頃にかけ、高原地帯から吹き抜ける涼しい風と安定した気候を求め、はるばるこの街を目指してやってくる観光客も多かった。
観光客の目当てはそういった、寒暖問わず快適に過ごす事の出来る環境と、名の通り白一色に彩られた街の景観、名産の羊毛品などである。
季節は初夏の折。王都で流行しているこの地方産の織物より遙かに質の低い派手な衣を纏った者達が、朝から街を自由に散策していた。
……街長の屋敷と中央公園、近年発達を続ける北都印刷所を望める、居住区の中央。
繊細な模様のステンドグラスを入り口の真上に掲げる教会には、今日も朝から祈りを捧げるべく熱心な信者達が来訪を続けている。

「おはようございます、皆さん。今日も素晴らしい晴天だ、さあ、中にお入り下さい」
「おはようございます、神父様」
「神父様、ミハイル様。どうか我々に、救いをお与え下さい」

ミハイルは、この教会唯一の神父だった。癖のある金の短髪はオイルで後ろに流し、灰色がかった青色の瞳は常に優しく細められている。
彼は純粋なホワイトセージの人間ではなく、元々は二十代の頃、老衰で亡くなった先代神父の代替えとして王都より派遣された身であった。
今年の夏で四十路に届くが、皺一つない神父服を品良く着こなし、老人、女子供に気軽に手を貸す様から年齢より若く見られる事も多い。
落ち着いた声色と動作を心がけ、街の人間に好かれるように尽力している。その証拠に、彼の代になって以来、教会は繁盛していた。
とはいえ、歳には勝てない、とミハイル自身は考えている。
ゆったりした造りの衣服であるが故に、出てきた腹やたるんだ胸囲などは辛うじて誤魔化せているという状態だった。
生意気に、街長の一人息子はそれを見抜いているのか、事ある毎に教会を訪れては献金を横領してはいないかと詰め寄ってくる。
ミハイルはあの灰梅色の髪を持つ青年を警戒していた。人を射抜くような眼差し、横柄な態度がただ鼻につく。とにかく気に入らない――

「皆さん。神は皆さんを見ていらっしゃる……本日も、心遣いをお忘れなきよう」

――何故なら、事実、教会に寄付される金銭の多くはミハイルの袖の下に納められているからだ。お布施、神への供物と称した贈賄として。
最低限は、施設の維持費、街への税へと返還していた。しかし、それでも街の人間達の信仰心故か、どうにも金は余りがちと断言出来る。
よって、就任以降、早い段階からミハイルは金を着服するようになっていた。街長と懇意にする事で、細かい追及から逃れる策も立ててある。
万が一、金に困っているという相談がきた折には小金を貸す傍ら王都の悪どい金貸しを紹介し、仲介料を受理する事すらあった。

(現実に、金を貯め込んでいる老耄どもが多いんだろう……お陰で、楽させて貰っているがな。王都の教会に勤めるより、よほど儲かる)

ちんけな田舎だと思っていたが、居心地はとてもいい。髪、瞳の色からして神の遣いだと常々もてはやされているが、これも満更でもない。
ちょうどいい年頃の娘やまだ若い主婦などは特にミハイルに夢中で、神への奉仕としてその肢体を愛でてやる機会を設ける事すら可能だ。
互いの口止めの取り決めも、神父としての信頼あってこそ。今の今まで、金、女、嗜好品ともども失態を犯した事は一度もない。
今後もこの生活が続けばいいと思っていたが、表に出ているのか、或いは嗅覚に優れているのか、街長の息子とは衝突してばかりだった。
「神父という強欲」。ハイウメから向けられた悪意には、誤解だなどと平謝りしながら、なんとでも言えばいいさと鼻で笑ってやっている。
……時刻は昼前。ようやっと帰途に就いた敬虔な信者らの背を見送りながら、ミハイルは己の順風満帆な人生を省みて小さく笑った。
最後の信者の背中が遠のいた後、正門を閉め、教会の扉を潜ったそのときだ。聞いた覚えのない若い男の声が、ミハイルの鼓膜を打つ。

「――こんにちは、神父様」

顔を上げると、祭壇の上、巨大十字架と大天使ミカエル像に見下ろされる位置に一人の青年が立っていた。
この地方では珍しい黒髪黒瞳。すらりと伸びた手足、小顔、やや色白の肌。黄金比を意識して描かれた画の如く、彼は存在感に満ちている。
ミハイル自身、若い頃から始め今日に至るまで――流石に近年は多少の劣化を伴ったものの――容姿の美しさには強い自信を持っていた。
しかし、ミハイルは息を呑むよりない。十字架の下に佇むその青年は、両目が釘付けにならざるを得ないほど美しく整った姿をしている。

「この街は、とても美しいですね。いい街だ」

ミハイルの返事も待たずに、妙に透き通る清流のような声色で青年は言葉を続けた。その顔に、人好きのする微笑みが浮いている。

「神父様。あなたは、この街がお好きですか」
「……好きでなければ、神父など勤めませんとも。君は、観光客か何かかな」
「ええ、まあ。こちらに『命を懸してでも為さねばならない大切な用事』があって、それで」

わけが分からない、それが第一印象だった。青年はミハイルの疑問を無視するように、ゆっくりとした速歩で祭壇から降りてくる。
小さなオルガンの横を通り、ミカエル像の正面、ちょうど教会の中央に位置する場所で彼はそっと跪いた。

「主よ。天に召します我らが神よ」

紡がれるのは、聞き馴染んだ神への祈り。若い旅人でありながらマメで感心だ、ミハイルは鼻で笑ってから彼の背後に立つ。

「そう、祈りなさい、若き人よ。あなたの祈りは、聖ミカエル様が確かに神に届けましょう」
「神父様」
「ええ、わたしも共に祈ります。さあ、続けなさい」

はい、感動したように目をきらきらさせ、声を跳ね上げながら、一度はミハイルに振り向いていた青年は再び正面に視線を戻した。
膝を着き、手を組み合わせ、その目線をミカエル像へ。ミハイルは、この青年からはいくら献金が出されるだろうか、とぼんやり思考する。

「……『愚者どもは、主を地に縛られた。地に這い蹲り、家畜の糞尿に濡れ、青草を舐める事となった、我らが偉大にして寛大なる主よ』」
「!?」
「『主よ。あなたはその輝く御霊を、肉塊と渇望ひしめく地上へ降ろされた。主よ。傷もてる我らは、どこに向かえば良いのでしょうか』」

ミハイルは信じられないものを見るような目で青年の背中を見下ろした。
玲瓏とした声が吐くのは「祝詞」だ。神に祈り、供物を捧げる前準備の為の、賛美歌の起源と言い伝えられる専用の言葉の羅列。
ミハイルは、かつて王都の教会に籍を置いていた身である。派遣という形でこの街に落ち着いているが、故に古い神学にも通じていた。
……祝詞の発音は難しく、紡ぎ方を知る者はそう多くない。何よりこの祝詞は、従来のものとはほど遠い、言わば呪いじみた悪意ある調べだ。
不意に、表現し難い恐怖がミハイルを襲った。背筋を悪寒が駆け上り、奥歯は鳴り続けて噛み合わず、額にはどっと脂じみた汗が浮かぶ。
ミハイルは無意識にこの青年から離れようとしていた。否、むしろそれは本能に近い反応で、ミハイル自身に後退ろうという意思はない。
だというのに、足が動くのを止められない。じりじりと後退し、ミハイルは口内に溜まった唾液を音を立てて無理やり嚥下する。

「神父様。あなたは、この街がお好きですか」

いつしか、青年はその場で立ち上がりじっとミハイルを見据えていた。その双眸に収まる黒瞳が、突如、鮮血によく似た深紅に染まる。
ミハイルは悲鳴を辛うじて飲み込んだ。逃げなければ! 危機感が全身を促し、青年に見向きもせず扉へ駆け出す事を余儀なくされる。
しかし、扉は開かない……鍵を掛けた覚えもないのに、何故か外から凍らせたかのようにびくともしない。ミハイルは扉に縋りついた――

「神父様。あなたはこの教会の神父だ、神に仕える者だ。なのにあなたの腹には、胸には、顎には、脚には……醜い肉と脂が詰まっている」

――すぐ後ろから、背筋に舌を這わせるような声がした。振り向けば、最愛の恋人を見つめるような熱く柔らかい深紅の眼差しと目が合う。

「ひっ、い! な、なんっ、なんなんだ、貴様は!?」
「嫌だな、そんなに怯えなくても。僕は、あなたの力になりたくてここにいるのに」

青年の背中に、漆黒の闇が広がった。よく見ればそれはトリ型の翼であり、真夜中の空や黒曜石よりも遥かに暗い色をしている。
青年はそっと手を伸ばした。この世のものではないものを目の当たりにし恐怖に震えるミハイルの頬に、その手が静かに添えられる。

「あなたの熱心な祈りが、僕をここへと導いた。僕は天使ですよ……ミカエル様では、ないけどね」

自嘲的な笑みが、これまでの恐怖を紛らわせてくれるわけでもない。
しかし、ミハイルは青年の声と言葉が異様に魅力的な響きを持っている事に気が付いた。否応なしに耳を澄まし、その双眸を凝視する。

「主は、この地におられる。故に、僕はあなたに感謝している……なんでもいい、あなたの願いを一つだけ、この場で叶えてみせましょう」

恐ろしく欲を掻き立てる囁きが鼓膜を打った。現に青年は翼を広げたまま、ミハイルの二の腕にそれぞれ手を添え柔く力を込めている。
ミハイルは問うた、本当に何でも叶えてくれるのか、と。青年は慈しみを含んだ笑みで応えた、何でもお好きなように、と。
聞いてはいけない、近寄ってはいけない、応えてはいけない……頭では分かっているのに、熱に浮かされているかのように脳が働かない。
荒くなる呼吸のままに、ミハイルは青年に詰め寄った。

「わたしは、女を侍らせたい……特にレティア=ゴードンなどは最高だ。金や口止めも不要として、思うさま好きにする事は可能だろうか」
「女? ああ、女遊びがしたいんだね」
「そうとも、伴侶がある女は本気になりやすくて面倒だし、若い女は警戒心が強くてな……一度でいいから、神父などという立場を忘れて、」

真昼を報せる鐘が鳴る。ミハイルは、青年の瞳の深紅がステンドグラスの光を受け、怪しい光を増したように見えた。
思わず言葉を切った神父を前に、青年はやはりぞっとするほど美しい笑みを讃える。何らかの予兆、そう予感させる微笑みだ。

『穢らわしい』
『おぞましい』
『欲深く醜悪』
『腐敗せし塊』
『其れこそがお前の本質』

その祝詞は、瞬時にミハイルの全身を駆け抜けていった。
ぐらりと景色が揺れ、まっすぐ立っていられず、よろめくままに扉に背を預けずるずるとその場にへたり込む。
青年の手が、神父の両頬を柔く包んだ。深紅の瞳は、さながら真っ赤に熟れた林檎の果皮によく似ている――美味そうだと錯覚させる。
思わず顎を伸ばし、唇と舌を使いその目玉を舐めようとして、ミハイルは突然、目の前がぶつんと漆黒に染まった瞬間を見た。
暗い、冥い、黒い、何も見えない……闇の中に、ただ一人取り残される。見渡せど、喚けど、手を伸ばせど、応えてくれる者は誰もない。

『だが、それこそヒトの本質。故に等しく、美しくもある……然るに君の望みは、確かに僕が叶えよう。貪欲なる色の御霊よ、安らかなれ』

出してくれ、助けてくれ、誰もいないのか、わたしは何も悪くない――ミハイルの苦鳴と悲鳴は、ただ空虚な空間に溶け込んでいった。






表通りの中央付近に構えるショコラ・アンド・フランボワーズは、ホワイトセージきっての人気の喫茶店だ。
ココア色の板張り、ピンキッシュオレンジの煉瓦、クリーム色の壁で彩られる店舗は、若い女性を中心に可愛らしいと大変に好評である。
看板娘のレティア=ゴードンは既婚者ではあるものの、美しさの中に愛嬌も兼ね揃え、店の愛らしい雰囲気を演出するのに一躍買っていた。
今日も看板メニューの「チェリーパイのラズベリーアイス添え」を両手に携え、彼女は忙しく店内を歩き回っている。
ボリューム、見た目、味ともに毎日最低でも三十皿は出るスイーツは、北都印刷所から発行される地元紙でも紹介されるほどの人気ぶりだ。

「いらっしゃいませ。ご注文がお決まりでしたら、お声掛け下さいね」
「じゃ、いつもの頼むよ、レティアちゃん。えーと、蜂蜜は……」
「ふふ。シロツメクサ、ですよね。少々お待ち下さい」

馴染みの老夫婦に挨拶した後、レティアは表のテラス席の端、いつもなら鳥羽暁橙が座る席に見慣れない顔が着いているのに気が付いた。
時刻は昼時も過ぎた頃。店内にはまばらな客足しかなくテラス席も同様で、既にあらかたの客は会計を済ませ帰途に就いている。
したがって、見知った陽気な青年の定位置にいるその人物は自然とレティアの視界に入り、その気もないのに観察するに至ってしまう。
……観光客か旅人だろうか。肩ほどまでの長さの金糸の髪に、深紅の瞳。身長はそう高くなく、顔の作りと相まって酷く幼い印象を受ける。
衣服はかなり大きく仕立ててあるらしく、袖や腰のあたりで布が余ってしまっていた。最も、本人は気にした風もなく行儀よく座っている。
テラス席は二階にある為、自然と表通りを見下ろす形になるが、その人物は注文するでもなくただぼうっと人の流れを見ているだけだった。

(男の子……ううん、女の子? 十五、六歳くらいかしら)

どうにも惹きつけられる。存在感が漂う。オーダーを取りにいく事も忘れ、レティアはテラス席へ続く木製の扉の窓越しに呆けていた。

「……あら?」

その白服の人物に、声を掛ける者がいる。いつからテラスにいたのか、姿を現したのはホワイトセージ教会の神父、ミハイルだった。
声を掛け、向かいに腰を下ろし、にこにこ笑いかけている。何らかの会話は成されているようで、彼は時々頷いたり首を振ったりした。
一方、白服の反応はどことなく弱い。話を聞いているのかいないのか、目線こそはミハイルに向いているものの、まるで微動だにしない。

(知り合い? あんな子、この近くでは見た事がないわ……)

……夫の勧めでたまに教会に祈りを捧げに行く機会もあったが、レティアは本音を言えばあの神父があまり好きではなかった。
時折、彼から値踏みするような視線を感じるからだ。幸い夫は妻の訴えをよく聞いてくれる方である為、最近は顔を合わせずに済んでいる。
そもそも、ミハイルは神父なのだ。動植物の油脂やゼラチン質、乳製品を多用するスイーツは、彼が食するものとしては不適切極まりない。
以前、本人からは甘味は好きではないとも聞いていた。だというのに、扱う商品のほとんどがスイーツであるこの店に一体何の用なのか。

(待ち合わせ、だったのかしら)

そう考えるのが自然な流れだ。あまり詮索するのもよくないかと気を取り直したところで、店長からスイーツ完成の呼び出しがかかる。
気になるわね、そう独りごちてから、後ろ髪引かれる思いながらもレティアはいそいそと業務に戻っていった――

「……それで、せっかく喫茶店に来たのに何も注文していないの? ここのチェリーパイはとても美味しいそうだよ」

――レティアの視線が去った後。白服に向かい合っていたミハイルは、さも親しい友人に向けるようににこりと笑った。
片手を挙げ、レティアではない別の店員をすぐさま呼び、件の人気スイーツを二つ、アイスコーヒーを二杯、手早く注文する。
白服はミハイルの一連の動作をじっと見つめているだけだった。その色素の薄い唇がごく僅かに動いたのを、ミハイルの目は見逃さない。

「それ、どうしたの」

少年にしては高く、少女にしては低い中性的な声。咎めるというよりは純粋な問いかけ。
静かに腕が動き、ミハイルの胸のあたりを指差し、止まる。

「それ、たのしいの」
「楽しい……うーん、楽しくはないかな。仕事だからね。何せ、ほら、これにはこんなにも『醜い肉と脂が詰まっている』」

刹那、ミハイルの灰青の瞳が俄かに黒みを増した。白服は、そう、とだけ呟き、ミハイルが事前に持ってきていた水を少しだけ口に運ぶ。
ミハイルは、やはり幸せそうに笑った。互いに、オーダーした品物が届くまでひたすら無言で過ごす。
……奇妙な雰囲気であったのには違いない。気が付けば、二人はごく少ない周囲の客達から好奇心に満ちた目で盗み見されていた。
意も介さず、ミハイルはようやく届いたスイーツを受け取りさっとフォークを入れる。見習うようにして、白服もパイを口に含んだ。

「……」
「どう? 美味しい?」
「……うん。たぶん?」
「はは、ほら、コーヒーも飲みなよ。好きでしょう?」

二人は美味しいね、たぶん、などと短い会話を挟みながら、常人よりは速く、しかし優雅な動きでチェリーパイとアイスを完食させる。
涼しい風が吹き、穏やかな午後の日差しがテラス席を暖め店全体に和やかな空気を生んだ。平和で何より、ミハイルは柔く微笑む。
周囲の客達も、各々の注文に意識を戻していった。そうして、ほのかに平穏な静寂が当たり前のように流れるようになった頃。

「……この街はね、もう『駄目』なんだよ」

白服は、コーヒーを吸い上げる動作を止める。いつしかミハイルの瞳は、鮮血のような深紅色に染まっていた。

「主は、この街を見離された。放棄された、興味を失い、手放された。故に、『僕』は仕事をしようと思ってる。観たいところは、ない?」
「……」
「ふふ。ねえ、そうだ。丘の上にね、『天使』がいるよ」
「……天使?」
「そう、天使。それも、複数」

会ってみたいと思わない? ミハイルの笑顔は最早、本来の彼のそれではなくなっている。
しかし、周りは誰もそれに気付かない。ただひたすら、無我夢中で頼んだ菓子、更には「無意識に追加注文した」菓子を貪り食らっていた。
白服はゆるりとあたりを見渡す。誰もが何かに取り憑かれたかのように菓子に夢中だ。そしてそれら奇行を止める者も、誰もない。
この店だけが、世界から突然切り離されたかのようだった。
白服は異様な気配に動じる素振りもない。正面に視線を戻すと、限りなくゆっくりと一度だけ瞬きし、ミハイルに小首を傾げて見せる――

「僕、どうしたらいい?」
「好きにするといいよ。そうそう、丘の上に行きたいなら『お守り』をつけてあげる。準備に時間が掛かるから、その辺を散歩しておいで」

客の一人が、テラス、即ち二階から飛び降りた。柵を乗り越え、自ら地面目指して脚から着地を試み、ふくらはぎごと下半身を損壊させる。
血が走った。悲鳴を上げる者、自警団を呼びに走る者、発狂する者、何故かけたたましい声で笑い出す者。反応は様々で、収拾がつかない。
見れば、ショコラ・アンド・フランボワーズの店員達も、注文されてもいない菓子を次々とテーブルに運び、狂ったように歩き回っている。
忙しなく、誰が止めるでもなく。所狭しと並べられた菓子類は、やはり客達が、或いは一階から侵入した観光客が手掴みで口へと運んだ。
おぞましいほど、ゆっくりとした速度で奇行が拡大していく。さながら伝染病のようだった。甘い匂い、血の臭いが至るところに流れる。

ホワイトセージに、「恐ろしいもの」が現れた。

それが何か知らされる事もなく、騒ぎはさも水面下で起きるが如く、静かに、這う蛇のような動きで粛々と街に広がっていく。
――「ミハイル」は騒動の最中、テーブルに頬杖を着いたまま、にこりと幸せそうに笑った。





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 UP:18/05/14