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楽園のおはなし (1-36)

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「ニゲラ? 誰、それ?」

張りつめた緊張。普段の白々しい笑みも浮かべないまま、サラカエルは半ばこちらを睨んでいる。
何故彼がここまで怒っているのか、ニゼルにはまるで検討がつかなかった。知らず、声が震えてしまう。
ニゲラ。ロードを使用する上でのデメリット。
前者は恐らく人名。しかし聞いた覚えもない。これまでの記憶を総動員してみるも、やはりニゼルの頭の中に該当する人物の姿はなかった。
口を噤む、思考する。後者については、かつて確かに、オフィキリナスに来訪したサラカエルからそのような話を聞いた事があった。
「ロードは使用者の寿命を代償とする」。故に鳥羽藍夜に雷神の雷霆を使わせ過ぎるなと、彼は過去、ニゼルに直に警告していたのだった。

「藍夜、ううん。ウリエルの、知ってる人?」
「ニゼル……」

途端、親友はばつが悪いような表情を浮かべ、まるで逃亡を企てるかのように、不自然にぎこちない動きでニゼルから目を逸らして見せる。
当たりだ――ニゼルは次の言葉を探して、じっと藍夜の横顔を見つめた。親友の顔は、苦悩と苦痛に歪んでいるようにしか見えない。

「やあ、潔く白状したらどうかな。どのみち、ウリエルを語る上では欠かせない話だろ」
「……サラカエル」
「君が言わないなら、僕が言う。構わないね、ウリエル」

何故だろう。その名を出された瞬間、藍夜のみならずアンブロシアやノクトまでもが、息を潜めるように口を閉ざしてしまった。
皆が皆、その名を知っているというのだろうか。きょとんとした顔をしているのは、せいぜい自分と暁橙くらいだ。
飽きてしまったか、或いは知り尽くした話であるからか、唯一琥珀だけは暁橙に貰った林檎を嘴で器用に突っつくのに夢中になっている。
嫌な予感がする、ニゼルはしかし、親友の口から話の続きが解放される事を期待した。先ほどと同じように、自ら話して欲しいと願う。
ニゲラ。それが如何なる人物か、まるで想像も出来ない。しかし、その話だけは何故か、今聞いておかなければならないような気がした。

「どうしても……話さなくてはいけないというのかい」
「さてね。ここまで来て、彼等が望まない筈もないと思うけど」
「あの、藍夜? あのさ、その、藍夜が話したくないって言うなら俺達は」

琥珀に服従の命令を下す時と同じように。藍夜はぴっとニゼルに片方の手のひらを向けてくる。思わず怯み、ニゼルは二の句を飲んだ。

「ニゲラは……ニゲラは、彼女は。ヘラ様の神殿の庭園の管理を任されていた、専属庭師さ。下級天使で、元は貧しい農家の生まれだった」

ぽつぽつと、またしても語りが始まる。意外にも藍夜は自ら話をし始めた。
不意に、ホワイトセージ方面から教会の鐘の音が響く。さも狙い澄ましたかのようなタイミングだ。
ニゼルははっと息を呑む。眼前、親友の顔は、かつて両親を目の前で喪った時と同じように悲壮に歪んでいた。
止めるかどうか逡巡する。しかし、ニゼルの焦りに反して藍夜の口が閉じられる事はなかった。

「彼女はアンブロシアの賢姉と身体的特徴が酷似していてね。件の天使は能力が特殊で、故にニゲラは、その身を悪用される恐れがあった」
「悪用? え、アンのお姉さんとアンって、対天使なんだよね。まさかその娘、アンよりもお姉さんに似てたの?」
「……瓜二つ、とまではいきませんでしたが、ニゲラさんは、雰囲気までも姉さんに似ていました」

突如として会話に割り込んだのは、アンブロシアだ。一歩前に出た彼女は、胸の前で手を組み、何事かを祈るようにそっと目を閉じる。

「姉さんは……ラグエルは代替えの利かない使命を任されていて、それは、やりようによっては天地を入れ替える事すら可能なものでした。
 姉さんは自分とよく似たニゲラさんが何らかのトラブルに巻き込まれてしまわないようにと、ヘラ様と早くに相談し合っていたそうです」
「……そんなに似てるんだ。もしかして、空色の髪に、赤紫の瞳?」

アンブロシアは大きく頷いた。ニゼルがそろりと視線を動かすと、藍夜は口を真一文字に結び、泣くか、喚くかを堪えているように見える。
ニゼルは我知らず、自分の髪に指を這わせていた。ふと、小さな咳払いが響く。サラカエルが片眉を上げて、親友をじっと見つめていた。
藍夜が大きく嘆息する。急かすにしてももう少しやり方があるだろうに――ニゼルは喉から出かけた野次を、辛うじて飲み込んだ。

「ヘラ様の神殿に連れられてきたニゲラは、最初、一人で庭園の調整をしていた。ヘラ様は当時、正神殿からその離れに越したばかりでね。
 ゼウスの浮気癖に飽き飽きしたとか、当時の神々の政策に不満があったとか、色々言われていたが、引っ越し後は楽にされていたそうだ。
 庭園は、実のところかなり広くてね。それはもう、ニゲラは多忙を極めていたそうだよ。お陰で、彼女を隠すのに都合が良かったようだ」

またしても、サラカエルの咳払いが喫茶店内に響く。
藍夜はうんざり半分、嫌悪半分といった表情を対天使に向けた。サラカエルは涼しい顔で、見て見ぬ振りを決め込んでいる。
ニゼルは少々、この天使に苛立ちを覚えた。態度から察するに、ニゲラの話は藍夜にとって特別なものである事が自分にも分かるからだ。
急かしすぎだ、デリカシーがない、この頭でっかち! ……そこまで考えて、自分は何が何でも鳥羽藍夜の味方なのだと気付かされる。

(そう、誰がなんと言おうと、俺は藍夜の味方だし。っていうか、対天使の癖して冷たくない? いくらなんでも酷すぎでしょ)

ぎりぎりと歯噛みしながら堪えていたニゼルだったが、顔には出てしまっていたらしく、サラカエルの視線がぱっとこちらに向けられる。
途端に、天使の顔に浮かぶ満面の笑み。やはりこいつら対天使だ、ニゼルはいーっ、と歯を剥き出しにしてサラカエルを威嚇した。

「……それで、話を続けても、構わないかな。ニゼル、サラカエル」
「うわ! う、うん。大丈夫だよ、ごめん、藍夜」
「やあ、君のせいで僕までウリエルに叱られてしまったじゃないか。嫌な人間だね」
「はあ!? サラカエルこそ! 性格、悪過ぎっ!」
「ニゼル、サラカエル」
「うう……ご、ごめんってばぁ」
「はいはい」

藍夜が何を思い、何を考えているか。そこまでは流石に分からない。しかし、このやり取りが彼の緊張、不安感を解したのは確からしい。
空気がふと軽くなる。ポットから余っていた茶を注ぎ、藍夜はそれを一口啜ると、大きく息を吐いてから話を再開させた。

「僕とサラカエルが、ヘラ様に引き取られてすぐの事さ。当時、今と同じでそう体が強くなかった僕は、神殿の最奥、庭園まで足を運んだ」
「着くや否や、僕は仕事に手を着け始めて、君はそのお陰で暇を持て余していたんだったね。ウリエル」
「ああ。散歩がてら神殿の間取りを覚えて来たらどうだと、ヘラ様には勧められた……よく覚えているよ。そこでニゲラと出会ったからね」

藍夜の顔が、恐らくは懐かしさと切なさとで微かに揺れる。ニゼルはなんとも言えない気持ちになった。
口を挟む事が出来ない。親友は、否、ウリエルは、今にも泣き出してしまいそうな空気を全身に纏っている。

「仕事熱心で、笑顔が綺麗で。明るくて、心根の優しい娘だった。着いた頃はまだ器が幼い状態だったからね、よく子供扱いされていたよ。
 歳月が経つにつれ、僕とサラカエルも神殿の暮らしに上手く馴染んで、それに合わせて器もきちんと頸木が外れ、成長しきる事が出来た。
 僕は、さっき話した通り審判を起こす機会がなくなっていたから、ひたすらニゲラの仕事を手伝っていたよ。つまりはニートだったのさ」

下手な冗談だった。空振りしたそれは、逆にニゼル、暁橙の心臓を深々と抉っていく。藍夜は再びハーブティーを啜り、僅かに俯いた。
これから話が重くなる、そんな予感が宙に溶ける。現に、親友は静かに口を開いて見せたが、その顔が再び前に向けられる事はなかった。

「僕は、ニゲラに惹かれた。うぬぼれでなければ、彼女もまたそうだった。けれどね、僕は彼女に、ついに想いを伝える事が叶わなかった」

「ラグナロク」。誰もがその現象の名を思い出し、口を閉ざす。話を急かしていた筈のサラカエルさえ、両目を閉じて沈黙したほどだった。
ニゼルは意外で仕方がなかった――色恋沙汰への関心はないと口にしがちな、鳥羽藍夜の人となりをよく知っているからだ。
それが彼なりの亡き両親への贖罪である事、第三者を家業起因のいざこざに巻き込んでしまわないようにする為の防衛策である事も。
故にニゼルは、この場に居合わせる事が苦痛だった。皆一様に沈んでいる。今、話に口を挟む事は酷だという事くらい、容易に想像出来た。
しかし、親友の沈痛な表情を目の当たりにしてそのまま過去の残滓に彼を留めておくのは、ニゲラにとってもよくない事のように思えた。
彼女は果たして、本当にウリエルを好いていたのか。藍夜の言うようにそれが真実だとしたら、この空気を彼女が望むとは到底思えない。

(俺がもし、瓊々杵さん達みたいに死んじゃったとして。それでも皆にこんな顔させたいなんて思わない……俺は笑ってて欲しいよ、藍夜)

「……あのさ、藍夜って、好きなひといたんだね」

本心には蓋をして。ニゼルは咎めるように一斉に集まる視線に構わず、建て前をさらさらと口に出す。
そうだ。ニゲラが本当にウリエルを、藍夜を想っていたのだとしたら、嘆き悲しみ、その場にうずくまる事を良しとはしない筈なのだ。
彼女の代弁とまでいかなくてもいい、せめて伝わって欲しい。ニゼルは怯まず、臆せず、逃げ出しもせずに、真っ向から親友に笑いかけた。

「枯れてなかったって事かー! もうこのネタじゃ、からかえないねー……枯れてないんだから」
「ニゼル、きみ……失礼だと思わないのかい、その物言いは、流石に」
「そうでしょ? ハイウメにまで枯れてる枯れてるって言われてたのに、実はすっごく好きなひとがいたとか。なんか、想像出来ないよ」
「枯れてる枯れてる枯れてると、言い過ぎじゃないのかと、僕は言っているんだがね」
「ええ〜? 実際枯れてるって思ってたし。良かったじゃない? 枯れてないって証明されたんだから」

――落雷! 迸る静電気を前に、ニゼルはチリチリと跳ね上がった自分の髪を手櫛で整える。
怒り心頭、そんな顔を親友は浮かべていた。確かに煽りはしたが、まさか本当に逆ギレしてこようとは。
……思わず笑いが込み上げてしまう。堪えきれず思いきり噴き出したニゼルを前に、藍夜は悔しげに歯噛みして見せた。

「ねえ、藍夜」
「なんだい、ニゼル」
「きっと、ニゲラは幸せだったと思うよ。だって藍夜が、こんなに好きだーって、俺達に面と向かって言えたんだ。恥ずかしげもなくね」
「何を言っているんだ、君は。分からないじゃないか……僕と共にいなければ、もしかしたら彼女は、」
「藍夜、それは違うよ。たらればなんて意味ないよ。ニゲラは藍夜と……ウリエルといる時、どんな顔だった? 不幸そうな顔してたの?」

一時の沈黙が過ぎる。親友は、正に泣き出すのを堪えているようだった。
視線が集まる。ニゼルは、やはり周囲には見向きもせず、真っ直ぐに鳥羽藍夜を見つめた。
誰かを想う事に、理由、言い訳など必要ない。それは恐らく、天使だろうが人間だろうが共通している筈なのだ。そう思う、信じている。

「瓊々杵さん達だってそうだよ。藍夜と一緒にいた事で、きっと幸せだーって思える時間があったと思う。だってさ、俺は今、幸せだもん。
 喪って、手放して、悲しくて苦しくて……それだけ? 俺だったら、藍夜がそんな顔してたら悲しいよ。幸せでいて欲しいって、そう思う」

驚いた事に、真っ先に決壊したのは、藍夜ではなくアンブロシアだった。
ぼたぼたと大粒の涙を流し始めた娘を見て、ノクトがうんざりしたような顔で、自前のハンカチを渡してやっている。
対する藍夜は、ぐっと歯噛みし、伸ばした両腕とテーブルで体が倒れないように支えながら、何かを懸命に耐えているようだった。
号泣か、逆ギレか、沈黙か。身構えるニゼルの前で、彼はいつものように、そっと肩を竦めて見せる。

「ニゲラと父さん母さんは別物だというのに、君ときたら、随分と勝手なものだね」

吐き出される息は、案外落ち着いていた。
強がりだ、ニゼルは彼の反応をそう捉えた。口を挟まず、聞くだけに留めておく。藍夜は一度大きく息を吐いてから、言葉を続けた。

「前にも話したが、ウリエルと『僕』は別物だ。ウリエルがラグナロクを経て転生したのだから、尚更さ。それくらい分かっているよ」
「……藍夜」
「ニゲラの事は……本当なら、僕だけの中に思い出ごと留めておくつもりでいたのさ。余計なお節介焼きがいたから、それに応えただけで」

藍夜はサラカエルを一瞥する。殺戮の天使は、首を僅かに傾げて、聞こえない振りを続けていた。

「彼女が今、世界に『在る』としたら。恐らくは、あの時の痛みも苦しみも忘れていられる筈なんだ。たとえ、転生すらしていなくても」

回想すれば、沈んでしまう悼みの河。親友は、そこに今なお半身を浸しながらも、きちんと前を向いて――鳥羽藍夜として、生きている。
ニゼルは静かに瞬きした。こくりと喉を鳴らす。藍夜その人ではなく、自分こそが、アンブロシアに釣られて泣き出してしまいそうだった。

「さて。ウリエルの思い出話はここまでだ……肝心要、本題の方に入ろうじゃないか」

顔が上がる。あどけなさを微かに残す、小綺麗な顔が居合わせた者達を見据える。鳥羽藍夜の双眸に、嘆きの色は残されていなかった。






ニゼルの目は、天井、見慣れた自室のそれを見上げていた。
オフィキリナスを出て、帰宅して羊達の世話をし、いつも通りに夕食、入浴を済ませ、床に就いたのがつい先ほど。
親友が語っていたあまりにも現実離れした話の内容が、何度も何度も頭の中に浮かび上がり、また、泡沫のように弾けて消えていく。

『ロードはヒトならざる者達の力の具現だ、そのものなんだ。人間の器でそれらを行使し続ける事で、神具使いはその寿命を削っていく』

「藍夜は人間で、でも前はウリエルで……でもやっぱり人間だから、雷霆から掛けられる負荷は大きい……」

鳥羽藍夜は近いうち、雷神の雷霆によって死ぬのだろうか。または、暁橙はどうか。
幼少期から、親子ともども神具に親しんできたのだ。となればやはり、鳥羽兄弟は短命にならざるを得なかったのだろうか。
自分はせいぜい、ノクトの潜伏先で僅かに道標を操ったくらいだ。それくらいなら微々たる影響だと、語る片手間に親友は肩を竦めた。
そうじゃない、藍夜はどうなんだ、君と君の弟の生命は……ニゼルはついに、その言葉を投げかける事が出来ずじまいだった。嘆息が漏れる。

(藍夜。そんなの無理だよ、俺、怖くて聞けないよ)

泣きそうなのだと気が付いた。とても眠れそうにない、ニゼルはのそりと起き上がる。窓の外には、欠け、消える寸前の月が昇っていた。
うなだれ、目を閉じ、暗がりの中で拳を握る。このまま暗闇に飲まれてしまいそうな気さえした。
そうしてニゼルが二度目の溜め息を吐きかけた瞬間、不意に部屋の扉が叩かれる。誰、声をかけると、姿を見せたのは寝間着姿の母だった。

「ニゼル。アンタにお客さんが来てるわよ」
「お客? え、母さん、今何時、」
「いいから、早く降りてきなさい。母さん、もう休むから。鍵は掛けておくのよ」

随分勝手な、そう言いたくなるのを堪えて、ニゼルは先に廊下に戻ったストケシアの背を追う。
母はそれ以上何も言わず、さっさと寝室に入って行った。仕方なし、と客間に向かう。扉を開けると、見知った人物がニゼルを待っていた。

「あっ、ニジーさん。ごめんね、こんな夜中に」
「暁橙? どうしたの、こんな時間に」

いつもと同じオレンジのつなぎに、今は保護用金属板は着いていない。ソファにも座らず、部屋の隅で暁橙は棒立ちしていた。
慌てて駆け寄りながら、ニゼルは壁時計に目をやる。時刻は二十三時も過ぎたところで、いつもの彼ならとっくに就寝している筈だった。

「いやー、兄ィにはどうしても聞かれたくない話がしたくってさ。明日でもよかったんだけど、我慢出来なくて来ちゃった」
「内緒話ー? いいの、それ。藍夜が知ったら怒るんじゃない? でも暁橙にしては珍しいよね、こんな時間まで起きてるなんて」

あんな話を聞いた後だ、無理もない。愛想笑いしか向けてやる事が出来ない。
同じ気持ちでいるのか、それとも持ち前の前向きさ故か。暁橙はへらりと笑ってみせる。
ニゼルは何故か、不意に胸を締めつけられるような衝撃を覚えた。このまま彼をオフィキリナスに帰してはいけないような気がする。
それは、嫌な予感とも称される直感だ。ソファに座るように促すも、暁橙はその場から動こうとしない。訝しむように振り返ったニゼルに、

「ニジーさん。オイラ、結婚しようと思うんだ」

鳥羽暁橙は、どこか達観したような、何かを覚悟したような、柔らかな目で微笑んだ。何を言われたか分からず、ニゼルは一瞬硬直する。
喉が渇く、目線が彷徨う、聞き慣れた筈の暁橙の声が異様に遠い。座りかけていた腰を上げ、ニゼルはこの青年に慌てて向き直った。

「暁橙? ちょっと待って、何言ってんの? っていうか、暁橙、好きな人いたの?」
「え、いないよー? これから探すとこ!」
「そっかー、これから……はいぃ!? え、暁橙!? 少し落ち着こう? どうしたの、急に!」

あっけらかんととんでもない事を言い放つ暁橙に、ニゼルは文字通り慌てふためいた。
何を言っているのか分からない、その一心で肩を掴み、体を揺さぶり、落ち着けと必死に訴えかける。

「オイラ、十分落ち着いてるよー。ニジーさんこそ、どうしたの?」
「いや、いやいやいやいや、暁橙こそ落ち着こうよ! 自分が何言ってるか、分かってる!?」
「だから落ち着いてるってばー。明日ニジーさんと街に出たいなーと思って。ほら、ニジーさんモテるしさ。女の子探すのにいいかなって」
「そ、そういう問題じゃ……」

昔からそうだ。この青年は時折、自分や彼の兄が予想だにしない方向に思考を飛翔させる事があった。
閃き、直感、遊び心。どの言葉でも形容しがたいそれは、例えば、遺跡潜りの危険察知や解錠行為に有利に働きかける。
斬新な切り口、新鮮な突破口。しかし、それはやはり勢い任せな上にあまりにも突飛過ぎて、容易に理解してやるのが難しくもあった。
若さ故に、というよりは、暁橙の頭の中が柔軟さと遊び心に溢れているが為に起こる現象だろうとニゼルは考えている。

「ていうかさ、暁橙。そんな、好きでもない子を捕まえて結婚するって、どう考えても順番おかしいよ。ほんとに、いきなりどうしたの?」
「んー。オイラ、昔から兄ィにそういう心配されてばっかりだったから。早く結婚して子供作って、兄ィを安心させてあげたいなと思って」

頭痛がするとはこの事だ。ニゼルは大げさでもなく頭を抱えた。
彼がブラコンだという事は知っていたつもりだが、ここまでくると異常である。

(あの話が原因なのは、間違いないんだろうけど)

それにしたって! そう反論しようとして顔を上げたニゼルは、つい今し方見たばかりの暁橙の透明な微笑みを、再び目の当たりにした。
彼は今まで、こんな笑い方をした事がない。だとすれば、これは「死」を覚悟した人間のそれではないか。頭を振る。嫌な汗が頬を伝った。

「ねえ、暁橙。そんなの、相手の子にも失礼だし、よくないよ。落ち着こう? ね?」
「ニジーさん。オイラは、結婚してからでも、その子の事を好きになれる自信があるよ。だから大丈夫」
「何言ってるの? 違う、そうじゃないでしょ。全然大丈夫なんかじゃ――」

――もう、駄目なのだろうか。
ニゼルは、眼前、悲観と悲嘆に暮れる青年の笑みを見る。止められないのか、後戻りも許されないのか……全身に無力感が満ちていった。

「兄ィは、ニゲラに告白出来なかったのを悔やんでた。それってさ、好きな人と結ばれたかったって意味だよね、兄ィなりの幸福論だよね。
 だったらオイラは、それを叶えてあげたいなー。親父にもお袋にも、晴れ姿は見せられなかったけど、兄ィならきっと喜んでくれるもん」
「……暁橙。駄目だよ、そんなの……おかしいよ。藍夜、喜ばないよ。怒られるよ……」
「ニジーさん。オイラ、兄ィが幸せになれるならそれでいいんだ。何だっていいんだ。今までずっと、オイラの為に頑張ってきたんだから。
 だからせめて、『最後』くらい、うんと幸せな気持ちにしてあげたいんだ。オイラの最後の我が儘でいいからさ……お願い、ニジーさん。
 オイラの我が儘、聞いてくれない? オイラ、このまま死ぬのは嫌だよ。死ぬのも嫌だし、せめて生きた証くらい、残して逝きたいんだ」

幸福だった筈の日常が、掻き消えていく。天使達の来訪を機に、剥離されていく。
ニゼルはいよいよ泣きたくなった。それでも三人の中で最も年上であるという自負から、落涙する事は堪えきる。
ストケシアは暁橙の覚悟を見抜いていたのかもしれない。そんな気がした。
本当の幸せとは、生きた証とは、なんなのだろう……目の前でへらりと笑った青年に、ニゼルはついに何の言葉も掛けられずにいた。





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 UP:18/05/07