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楽園のおはなし (1-32)

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「それで、これは一体どういう事態なのか。説明して貰えるのだろうね?」

開口一番、藍夜はニゼル、次いでノクトに視線を投げる。
ニゼルのすぐ傍に立つアンブロシアは隠しもせず泣いていて、ニゼルはどこかよそよそしい態度のままに、藍夜の前に立っていた。
ノクトには悪びれた気配すら見えない。短く小さく舌打ちした喰天使は、わざとらしく藍夜から顔を逸らして見せる。
自分がここに到達する以前、彼らの間でどんな会話が交わされていたのか。知る術はあるにはあるが、使うまでもないと藍夜は踏んでいた。
ニゼルもアンブロシアも、様子がおかしい。ノクトにしてもそうだ、初対面の時に伺えた尊大な態度が今の彼からはまるで感じられない。
ある意味分かりやすいな、と笑えてしまう。顔には出さずにいたが、藍夜は瞳術を使わずにいた自分に内心、拍手を送りたい気分でいた。
言いたい事は山のようにある。しかし藍夜はあえてそれ以上を口にせず、最も近距離にあるニゼルが弁解、言い訳するのを待つ事にした。
重なる黒と夜の瞳、赤紫の瞳。ほぼ正面に立つ幼なじみは、一度藍夜とノクトを見比べてから、固い表情で愛想笑いを浮かべてみせる。

(君は、いつもの僕ならすぐにでも文句を付けるだろうと踏んでいたのだろうがね、ニゼル。そうはいかないというものだよ)

藍夜の意図に気付いてか、ニゼルははっとした顔になった。それでも藍夜が黙っているのを見て、彼は諦めたようにこちらを見つめてくる。
遠慮しがちな目つきではあるが、視線が逸らされる事はない。いっそ潔くていいじゃないか、藍夜は鼻で息を吐いて、彼の言葉を待った。

「藍夜……」
「やあ、ニゼル」
「うう、怒んないでよー」
「怒る? 僕がかい。君にやましいところがあるから、そう見えているだけじゃないのかな」
「怒ってる、怒ってるでしょ!? ノコノコ着いてきた俺もあれだけど!」

ニゼルは悶絶する。たまらないと言う風に、両目を閉じ、体を斜めにして、藍夜の遠回しな叱責から必死に逃れようとしていた。
嫌みを込めて小さく口端をつり上げ、藍夜は一度ニゼルの後ろ、行方をくらましていた筈のアンブロシアに視線を投げる。
目を手で拭い、泣き止もうと努力する彼女だが、流れる涙は溢れるばかりで、一連の動作は全くの徒労に終わってしまっていた。

「アンブロシア。君からも、僕に何か言う事はないのかい」
「す、すみません、藍夜さん。わたし、あの……」
「藍夜っ。アンは、」
「ニゼル。君は、僕に並べる為の言い訳をじっくり考えてから発言したまえ」
「うう……だから、ごめんってばぁ」

思考中断。予測する。普通に考えれば、二人ともノクトの甘言に踊らされてここに連れてこられた、と見るのが自然だろう。
ニゼルは元々、好奇心の塊のような性格だ。自供も含め、本当にノコノコと着いてきてしまっただけなのだろう。
らしいと言えばそれまでだが、危機感が全く足りていない――後で覚えていたまえ、藍夜は雷神の雷霆を、先端を下に向けたまま軽く振る。
視界の端で、ノクトが全身に緊張を走らせたのが見えた。喰の能力があるとはいえ、やはり大神の神具ともなれば脅威なのかもしれない。

(ニゼル、アンブロシアへの説教は後だ。今は)

雷霆に意識を集める。黄金の表面をなぞるように青白い雷光が走り、藍夜と喰天使、どちらも互いを牽制するように真っ向から睨み合った。
一触即発。ニゼル、アンブロシアが、不安げな視線を投げてくる。一方、ノクトの方は覚悟を決めたようにその場に踏みとどまっていた。

「僕の、いや、僕の両親が愛したあの店を、ああまで好きに扱って。よもやただで済むとは思ってはいないだろうね、喰天使」
「ふん、よく言うぜ。それより、人間風情がよくここまで来られたじゃねーか。この喰天使自ら、褒めてやるよ」
「おや、それは光栄なものだね。君も、既に色々と覚悟が出来ているようだ。都合がいいじゃないか」

藍夜にとって、ニゼルとアンブロシアの離脱は些細な問題でしかない。己が大切に保護してきた領域が汚された、その事実が問題なのだ。
許すつもりは、毛頭ない。藍夜の行動に応えるように、ノクトもまた手のひらを開き、喰の黒炎を発露させる。互いに睨み合った。
激突は、避けられそうにない。

「藍夜! ノクトもっ、」
「ニゼル。少しは僕の心情というものも、汲んでくれたまえよ」

ニゼルの制止を振り払う。アンブロシアも彼と似たような表情を浮かべていた。出来るなら争って欲しくない、両者の目はそう語っている。
この二人だけではない、もし両親が存命だったとして、この場にいてくれたとすれば、話し合いをもって解決するよう促してくるだろう。
しかしそれは無理な話だ、藍夜は自嘲気味に口端を吊り上げた。
鳥羽藍夜も、高位天使ウリエルも、己が慈しむものが余所から手を出される事を最も嫌う。自分が一番、それを知っているのだ。
強い縄張り意識と、独占欲。長いつきあいだ、ニゼルもよく理解している筈。藍夜が一瞥すると、幼なじみは苦しげな顔で押し黙っていた。

「言い訳でもするならしたまえ。……あれだけの量のロード、一体何に使おうと言うんだい。或いはそうだ、どこに、あれらをやったのか」
「寝言か? テメェに教える義理が俺にあるとでも思ってんのか。テメェが店を継いだのと同じだ、俺には俺の仕事があるんだよ」
「仕事、ね。他人様の家から商売道具を奪い、その上で家屋を半壊させるのが、君の仕事か。大した情熱だね、感心するよ」
「おい、そりゃ嫌みか」
「おや、嫌みを言われているという自覚はあるらしいね。君にもそれなりに、他者の悪意を感じ取る感覚というものが備わっているらしい」

緊張が満ちていく。ニゼルから視線を外し、構わずノクトにぶつかる藍夜だが、ノクトもノクトで大人げなく反論してくるだけだった。
和解、示談。そういったものが採択されるほど、互いに出来た人柄ではないようだ――これは発見だ、藍夜は皮肉混じりに鼻を鳴らす。
ノクトは忌々しげに歯噛みした。もはや交渉の余地はない。どの道、雷霆は今すぐにでも放電出来るほどに力を蓄えてある。
あとは時間の問題だ。藍夜は大きく息を吐き、雷神の雷霆を手にしたまま手首をぐるりと回した。軌道に沿って、青白い光が弧を描く。
一方、喰天使は緩く握った拳を下げたままでいた。それが基本の構えなのだろう、彼の双眸は敵意に満ち、雷霆の光を鈍く反射させている。

「話にならないね。なら、さあ、始めるとしようか」
「人間風情が、生意気な……失せろ!」

互いに、ほぼ同じタイミングで腕を振る。青白い雷と漆黒の炎が疾走し、瞬く間に正面、目と鼻の先でぶつかった。
どちらも出力を抑えているのは明白だ、それでも神具と喰の反発力は凄まじく、室内を強烈な光と轟音とが駆け抜けていく。
弾け飛ばされながら、藍夜は背中にウリエルの翼を喚び出した。一度、二度と羽ばたき、光の粒子と白煙が滞留する地点から距離を取る。

「!」

間合いが開いた、その瞬間。真白の視界の中から、物音一つ立てず、ノクトの片腕がぐんと伸びてきたのが見えた。
その手の内に、喰の炎が燃えている。二の腕を掴まれそうになり、藍夜は四枚の翼を羽ばたかせ、強引に半身を旋回させた。
逃れる、距離を突き放す。同じく、ノクトも自身の翼で宙を叩き、空振りした体の軌道を取り直した。長い足が弧を描き、藍夜に追い縋る。

「くっ、」
「その翼……そうか、そうかよ、テメェが『ウリエル』のクソ野郎か!」

藍夜は歯噛みした。身長といい、体術の精度といい、この器はノクトに劣っている。雷霆を杖代わりに、なおも伸ばされる手を固く弾いた。
藍夜がヒト一人分後退すると、ノクトは一気に二人分の距離を詰めてくる。羽ばたきも重ね、あっという間に目の前に飛来するのだ。

(流石に、古株なだけあるか)

……喰天使とは、それこそ世界がまだ混沌の中に埋まっていた頃に存在していたという、古の神々の気まぐれで創られた数少ない古株だ。
高位天使に区分されているウリエル、ひいてはサラカエルやアクラシエルなどより、立場、天使能力も上で、互いの間には雲泥の差がある。
圧されている、額に嫌な汗が滲んだ。僅かに、鼓膜をニゼルの声が叩く。一度強く羽ばたき、後退して、藍夜は背後の壁を片足で蹴った。
踏ん張りを利かせ、前に出る。受けようと身構えたノクトの両腕目掛け、雷霆を縦に振るった。たちまち、青白い閃光が宙を駆ける。
無理に雷光で焼く必要はない。予想通り、喰が雷を貪り喰らった。その合間に喰天使の懐に飛び込み、雷霆の先端を刀代わりに振り上げる。
あわやというところで、ノクトは大きく顎を仰け反らせた。稲光が神具の軌道に沿って流れ、喰天使は舌打ち混じりに、喰を乱発する。
藍夜が乱射した雷は、喰天使を焼かず、更には彼を混乱させる事もなく、喰に飲まれて霧散して終わった。また距離が開く。再び睨み合う。

「めんどくせぇ……道理でサラカエルがこだわるわけだ。随分と生意気な性格になったじゃねぇか。昔はもっと、可愛げがあっただろ」
「生憎、僕の方も色々あってね。たとえば、君のような不躾な輩と縁が出来たり、などだ。自分でもなかなか、困っているのだよ」

会話は一瞬。両者の息は短く、速い。経験、体力、魔力、どれもがノクトの方が上だ――藍夜はぐっと顎を引き、呼吸を手早く整えた。
睨み合い、歯噛みし合い、互いに間合いをじりじりと目測する。引けば負ける、しかし、一度痛い目に遭わせてやらなければ気が済まない!

(『ウリエル』として見れば、別段、恨みもないのだがね)

考えてみれば、過去、自身がウリエルであった当時、ノクトと直接会話するという機会は多くなかった。
雷霆を振りかざし、荒れ狂う喰を雷光で押しとどめながら、藍夜はまたしても懐かしい過去の残照に想いを馳せる。
……ヘラの屋敷、その最奥部、最愛のニゲラがいた庭園。この喰天使は、己やサラカエル同様、ある日突然ヘラに連れられてやってきた。
どういった意図でヘラが彼を連れてきたかは分からない。問い質しても彼女は笑い飛ばすだけだったし、ノクトもまた口数が多くなかった。
新たな庭師として、ニゲラと共に花の手入れに勤しんでいた姿を覚えている。彼女がさも、妹のように可愛がられ、からかわれていた事も。
ニゲラを事ある毎におちょくっていた、喰天使。アンジェリカという婚約者がいる身でありながら、と、密かに嫉妬していたのも事実だ。
そういった経緯で、元より馬が合わず、共通の話題もなかった。ウリエルとしての交流は、ニゲラを介してばかりだったと記憶している。

「――藍夜っ!!」
「……! ニゼル、」

ここで、藍夜ははっと我に返った。眼前、燃え盛る喰が、雷霆に藍夜の片腕ごと喰らいつこうとしている。

「ニゼル、すまないね」
「藍夜っ、……頑張って!」

ニゼルに短く礼を言い、藍夜は身を捻って黒炎から逃れた。かわすと同時に雷霆を突き出し、新たな雷を迸らせ、周囲を巡る喰を相殺する。
雷光と喰がぶつかり合う度、閃光が無数に弾け、輝き、飛び散った。真白が煌めく様は、言葉では表現のしようがないほどに美しい。
火花か流星のようだ、目を細めながら、藍夜は白煙の中に単身飛び込む。ノクトの目の前に迫り、藍夜は雷霆を、ノクトは掌底を振るった。
ぶつかる、掠める、重なる、弾き飛ばす。黄金、手のひらの応酬が止まる事はない。翼で飛翔し、互いの出方を見定める暇もなく猛攻した。

「なんだ、弁償でもすりゃ気が済むか!? だいたいテメェ、なんだって人間の体なんかに転生してんだよ!」
「さてね、運命のいたずらとか、神の思し召しとか、そんなものじゃないかな」
「……減らず口め」

槍のように突き出された手刀。造形美に優れる雷霆の尖った部分で受け止め、押し返し、藍夜は羽ばたきを使って喰天使の下に躍り出る。

「なに、いつもの事さ」

床すれすれに体を滑り込ませ、ノクトを仰ぎ見た。夜色の瞳を収めた双眸が、険しい顔つきのまま、こちらを見ている。
天に向け、祈るように、藍夜は雷霆を上へ伸ばした。重なる視線。ノクトの口から微かな舌打ちが漏れ、一方、藍夜は大きく息を吐く。
左目が熱い……自覚するより早く、瞳が瑠璃に染まった。天井、或いはノクトを指す雷霆が、強い雷光を表面に走らせ、力の解放に備える。
「次で決める」。互いに、そう考えていたのに違いない。
刹那、ノクトの頭上で、大きな雷鳴が轟いた。雷神の雷霆を媒介に、ウリエルの固有能力――天候操作の術の一つを始動させる。
仰ぐ事も、振り返る事もせず、喰天使はただ腕を広げた。彼の手のひらに付き従っていた黒炎が、ぐるりと目まぐるしい速さで弧を描く。
それこそ、ヘラなどが生まれる遥か昔に存在していた古参だからこそ。ウリエルの反撃に全く動じず、喰天使は鳥羽藍夜を黙って睥睨した。

【 ―― 永遠よ、汝の囁きは雷の如く、なお最果ての剣閃の如く 】

玲瓏とした声が響く。その瞬間、天井、果てには屋敷の屋根さえ貫通して、天空より青白い雷が、まるで一筋の太刀筋のように降った。
雷神の雷霆は、現ウリエルの呼びかけに応えてくれた……「雷神」。大神ゼウスそのひとは、雷を自在に操る神だったとされている。
故に、彼の力が込められたこの神具が、強力な――それこそ世界のどこかで轟き続ける雷そのもの――をこの場に呼び出すのも容易い事だ。
雷鳴は遙か彼方より。鼓膜にその音が届く前、藍夜は召喚の宣言と共に、意識を神具に再度集中させた。
喚ぶのはいいが、加減が肝心だ。雷の威力、高度、落下地点。無駄な要素を削ぎ落とし、必要な出力に留め、喰天使への一撃に集約させる。
ノクトが怒鳴っているのが見えた。避難したのか、部屋の隅に移動したニゼルの気配をアンブロシアの結界が庇護するのが感じられる。
雷は、その直後に降り注いだ。
部屋を包む鋼鉄は容易くひしゃげ、抉られ、高熱により屋敷の構造はねじ曲げられ、屋内は余す事なく轟音、衝撃、閃光の波に蹂躙される。
世界の全てが純白に染まる――何もかも根こそぎ飲み込んで、天の槍は暴虐の限りを尽くしていった。






「うう……み、耳が……」
「ニゼルさん、大丈夫ですか」

ぱらぱらと瓦礫片が降ってくる。不思議な事に、それらは頭上、つまり空中で、目に見えない壁に阻まれるように堆積し始めていた。
アンブロシアが手を貸してくる。ありがたくその手を掴み、ニゼルは止まない耳鳴りに辟易としながら、破片から目を離し立ち上がった。
……あの時、親友が雷霆をノクトにかざした瞬間。アンブロシアに片腕を引かれ、ニゼルは彼の傍から、半ば強制的に離脱させられていた。
何が起きたか、考える暇もなかった。顔を上げた時には、耳をつんざくような轟音が聞こえ、強烈な地震に見まわれたような震動を感じた。
何かから庇うように目の前に立ったアンブロシアが、珍しく険しい表情を浮かべ、両の手のひらを天井めがけて翳していたのも覚えている。

「これ、結界か……ありがと、アン」
「いえ、むしろ、少し遅くなりました。すみません」

彼女が結界を張り、雷から守ってくれたのだ。ニゼルが素直に礼を言うと、アンブロシアはふるふると首を勢いよく左右に振った。
言われて初めて、何が起きたのかを知る事になる。鋼鉄製の壁や床、天井は、いくつかの骨組みを残して、惨たらしく崩壊していた。
ニゼル達が無事にこの場に立っていられるのは、アンブロシアの結界が急ごしらえの足場になっているからだ。ニゼルはぽかんと口を開く。
……言葉も出ない。元の部屋の形状を思い出す事が出来ないほど、部屋の損壊は凄まじかった。足下が宙に晒されているのも妙な感覚だ。
立ちこめるのは鼻を突く煙と粉塵、何かが急激に焼かれた臭い。思わず鼻を摘まんだが、結界の中にいる為か臭気は薄いように感じられた。
不快だが、まだ耳鳴りは続いている。もっと言えば、目も強烈な光を浴びたせいかちかちかと星が瞬いていて、ずきずきと鈍く痛んでいた。
唐突な浮遊感と、現実味のなさ。反射的によろめき、一歩下がったニゼルを、アンブロシアが支えてくれる。
結界を維持しながらも平然とした顔をしている彼女を見て、ニゼルは改めて、この可憐な娘が人間の身ではない事を思い知らされていた。

「そういえば、これって一体どうなってんの。藍夜は?」
「ニゼルさん。あの、藍夜さんは……」
「アン? 何、もしかして藍夜に何かあったの!? ちょっと待って、俺、頭が追いついてない」

アルジル牧場でゆったり過ごしてきた平和な日々を思えば、今の状態はニゼルにとって既に理解の範疇を越えている。
自ら天使に関わったのが全ての原因であるのだが、まさか屋内にいながら、雷の直撃を受ける羽目になるとは思ってもみなかった。
それ以前に、あんな近距離で直接雷を浴びて親友は無事なのだろうか。不安が不安を呼び、心の中がざわついていく。
その場でうろうろ歩き回り始めるニゼルに、アンブロシアも困ったような視線を向けていた。その時、ふと二人の頭上に何者かの影が差す。

「やあ、少しは落ち着いたらどうかな」

声は、惨状に構わず気楽な音だ。顔を上げたニゼルは、あっと短い声を上げて足を止めた。

「サラカエル!」
「サラカエルさん!」
「そんな二人いっぺんに呼ばなくても聞こえてるよ。やあ、それにしても、派手にやったもんだな」

姿を見せたのはサラカエルだった。四枚の翼を広げ、宙に留まりながら首を傾げ、それでもサラカエルは楽しそうな顔で笑って見せる。
最もニゼルの目には、彼のこめかみに微かに青筋が浮いているように映っていた。派手に、とは、嫌みの一つでもあったのかもしれない。
アンブロシアが手をぱぱっと左右に動かし、結界の一部を撤去した――よく分からないが、直感としてニゼルにはそう感じられた。
別にいいのに、そうぼやきながらも、サラカエルは蓋だけが取れた状態の結界の内部に、満更でもない表情を浮かべ、するりと着地する。

「うわっ、サラカエル……血が着いてるっ。怪我してるの!?」
「あの、ニゼルさん。それは、」
「ああ、これ? まさか、大した事ないよ。それより、さて、どうしたものか――」

翼を畳み、顎に手を当てて笑うサラカエルの全身は、深紅の血液で濡れそぼっていた。スーツも長い夜色の髪も、悲惨な事になっている。
カーゴパンツのポケットからアルジル羊毛製のハンカチを出し、駆け寄るや否や、ニゼルは強引に彼の顔をぐりぐりと拭ってやった。
乾き始めていたのか、あまり汚れは落ちない。喉奥で唸るニゼルに対し、サラカエルは一瞬、呆然としたように表情をなくしてしまう。
アンブロシアがあの、と遠慮がちに一歩踏み出したところではっと我に返ったようだった。常のように首を傾げ、ニゼルを軽く押し退ける。

「――ま、僕の方はさて置いてだ。今、少し厄介な連中がここに来ているのさ。喰天使はどうでもいいとして、鳥羽藍夜や君の事は、」
「どうでもいいって。この間まで一緒にいなかった?」
「……天使にも色々あるんだよ。ああ、うん、そうだな。鳥羽藍夜の生存反応は、まだあるみたいだけどね」

言われてようやく、ニゼルは結界の外へ丁寧に目を向ける事が出来た。静かに白煙が薄れていく。あの不快な臭気が、より一層濃くなった。

「藍夜の……?」

目に見えていながら、音を耳にしていながら、この場に居合わせていながら。この冷たい金属に囲まれた部屋の中で、何が起きていたのか。
ニゼル=アルジルは、実のところ実感が沸いていなかったと言わざるを得ない。
目の前、薄れていく白煙の中心。片腕と背中の一部を雷に焼かれ、それでも口を閉ざし、毅然と翼をはためかせ、滞空している喰天使。
それに対する、もう一人の天使――さほど高くない背丈に、男にしては色の白い肌、夜色の四枚翼、同色の短めの髪に、左右色違いの瞳。
どちらも見知った顔ではある。それでも、たとえ今更と言われようとも。実際に「彼」を目の当たりにして、ニゼルは半ば呆然としていた。

「藍夜……」

親友の背中に、翼がある。天使として存在している。喰天使を前に――雷神の雷霆という強力な武具を持つとはいえ――対等に戦えている。
あの時、ノクトに圧されていた彼に声援を送っていたのは確かに自分だったのだ。こみ上げる急激な実感を前に、ニゼルは顔を紅潮させた。
振り向いた鳥羽藍夜、現ウリエルは、いつも通り、オフィキリナスのデスクで金勘定に勤しむあの気難しそうな渋面を浮かべている。





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 UP:18/04/08