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楽園のおはなし (1-31)

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「ノクト。なにいじめてんの? 泣いてるじゃないか、女の子泣かせるとかいい歳した大人が何考えてんの? 大人げないって言われない?
 ……サイテー。いい奴かも、とか一瞬でも思った俺がバカだった。どこをどう見ても、お前ただのいじめっ子だよ。最低、ほんと最低!」

訝しむように目を細めたノクトも、号泣していたと思わしきアンブロシア本人さえ。突如乱入したニゼルに、一瞬ぽかんとした顔を返した。
たちまち、しんと部屋が静まり返る。当のニゼルはといえば、頭にかっかと血が上る勢いのままにノクトを罵倒することに専念していた。
最低、大人げない、情けない、でかい図体の割に懐が小さい……プライドのある男なら、まず言われたくないであろう言葉を列挙する。
罵倒の合間、息継ぎの途中。ニゼルはふと、眉間を指で押さえ込むノクトの姿を見た。
唸る、唸っている。口内でぶつぶつと小声で何事かを呟き、苦いものを噛んだような顔になる。眉間には、深い皺がたちどころに浮かんだ。
誰に向けての言葉なのか、言い訳でもするつもりなのか。ニゼルは一度、雄弁な口を閉じて身構える。対して、ノクトの表情は暗いままだ。
顔を上げてこちらを見た喰天使は、うんざり半分、呆れ半分といった表情を浮かべていた。わざとらしい、ニゼルは口をへの字に曲げる。

「いじめ……て、ねぇよ。ただ、話をしていただけだ」

重々しく、それこそ絞り出すようにノクトは言った。ニゼルは眉根を寄せることで抗議の意を示す。
どう聞いても、その場しのぎの言い訳にしか聞こえない。ノクトは顔を僅かにしかめ、片手をひらひらと下向けにして振った。
明確な否定の意。しかし、そんな仕草で誤魔化されないぞと、ニゼルはたじろがずに喰天使の前に立つ。未だ、怒りは引いていないのだ。

「は? 実際、アン泣いてるじゃない」
「は? じゃねーよ。こいつが泣き虫ってだけの話だ! 人聞きの悪い事ばっか抜かしてんじゃねぇぞ」
「えー、そんなの、アン本人にしか分かんない話だし。ハラスメントって、された側の主張次第だし。ノクトが違うって言い張ってもねー」
「なら、そいつに聞いてみりゃいいだろうが。めんどくせぇ、その方が早いだろ」
「っていうか、それ以前に。アンが泣き虫だろうが、泣かせた事に変わりはないわけ。そこは、どう思ってんの」
「俺は、こいつに『昔話』を振っただけだ。いい歳した大人に泣かれて、まいってんのはこっちの方だぞ」

本当に? 疑念の眼差しは、黙る事を知らない。ノクトは嘆息。彼はそれ以上の弁解をするつもりはないらしく、顔が横に逸らされた。
ニゼルはアンブロシアに同様の視線を向けてみる。意外にも、視線が合うや否や娘の首は勢いよく左右に振られた。
どうやらノクトのそれは彼の本音であり、また、事実でもあったらしい。
喰天使に取り繕う様がない上に、アンブロシアも慌てて涙を手で拭っている。ニゼルはそこで初めて、顔の緊張を解いた。大きく息を吐く。

「なんだ、いじめてたわけじゃなかったんだ。そっか、俺の勘違いかー。よかったー……じゃっ、俺はこれで」
「待て待て待て。テメェ、それですんなり行かせてやるわけねぇだろうが」

襟首を掴まれると、簡単に抵抗出来なくなった。離せー、喚き訴えかけるニゼルだが、ノクトはうんざりといった風に顔を歪めて見せる。

「テメェ、俺がさっき言った事、まさか忘れたってんじゃねぇだろうな」
「えー? なーんのことー?」
「しらばっくれんな! この屋敷を、好き勝手に歩き回るなっつっただろうが」
「探検してただけですー。昔話だかなんだか知らないけど、女の子を泣かせるまで言葉責めしてた奴に、あれこれ言われたくないですー」
「この野郎、屁理屈ばっかり並べやがって」

種族の差を差し置いても、ノクトの力には適わない。ようやっと暴れる事を諦め、ニゼルはノクトに掴まれたまま口だけ達者に動かした。
やはり、喰天使は本気でこちらを相手取るつもりはないらしい。数秒後、襟首はそっと離される。嫌みを込め、派手に咳き込んでやる。
まいっているというのは真実であるらしく、ニゼル、次いでアンブロシアに視線を投げるノクトの顔は未だにしかめられたままだった。
開き直るかのように鼻を鳴らした彼から今度こそ視線を外し、ニゼルはいったん、アンブロシアの元へと向かう。

「あの、ニゼルさん……」
「あーあ、目、真っ赤じゃない。大丈夫? アン」

拭いきれていない涙の跡をそっと指でなぞり、ニゼルは子供をあやすように、未だ泣きそうな顔をしている娘の頭をぽんぽんと撫でた。
ノクトが再度、鼻を鳴らすのが聞こえる。嫌みっぽいのはどっちだよ、喉まで出かけた言葉を飲み込み、ニゼルは二人の天使を見比べた。

「その『昔話』っていうのは、なんなの?」
「テメェに話してやる義理が、俺にあるとでも思ってんのか。クソガキ」
「俺にはニゼルっていう名前があるんですー。それに、俺が話振ったのはアンにだしー。自意識過剰なんじゃないの?」

にわかに、ノクトのこめかみに青筋が浮いたのを見てニゼルは口笛混じりに顔を逸らす。
おろおろとうろたえているアンブロシアに視線を投げ、ニゼルは件の昔話とやらを話すよう、目で彼女に訴えかけた。
アンブロシアは、ニゼル、次にノクトを見て、躊躇いがちに口を開く。その目が再び潤み始めていくのを、ニゼルは見逃さなかった。

「ノクトさんが」
「うん」
「……おい、アクラシエル。テメェ、余計な事は、」
「ノクトは黙ってて。それで、アン」

アンブロシアの隣、彼女を庇うように立つニゼルに、アンブロシアは気丈にもしっかりと頷き返す。言葉を探すような速度で、話を続けた。

「姉さんが……上位天使ラグエル、いえ、アンジェリカが、喰天使ノクトの婚約者であるというのは、前にお話ししましたよね」
「うん、もちろん。覚えてるよ」
「それで……今し方、わたし、ノクトさんに今姉さんがどこにいて何をしているのか、教えられたんです」
「え? それって、」

ノクトが舌打つ音が、鼓膜を打つ。アンブロシアは、何かを決意したような顔で正面からニゼルを見た。
目を反らす事は出来ない。真摯な眼差しを前に、ニゼルは胸の奥がざわつく感覚を覚える。心音が早鐘を鳴らしていた。
嫌な予感がする――ニゼルの緊張を裏切るように、アンブロシアはゆっくりと口を開いた。

「ノクトさんは姉さんに頼まれて、姉さんを……ラグエルを喰の力で滅ぼしたそうです。もうこの世界に、アンジェリカは存在しない、と」
「……存在、しない? え? ちょ、ちょっと待って、どういう事? だってアンのお姉さんは……」

アンブロシアが首を横に振る。ニゼルは、まるで頭を棒で殴られたような衝撃が全身を駆けめぐった。
「アンジェリカは消滅した」。明かされた話に理解が追いつかない。しかし、アンブロシアの視線はまっすぐで嘘偽りがない事が分かる。
ノクトが渋る理由に、ようやく合点が行った。思わず喰天使に顔を向け、ニゼルは言葉が出ないまま口を開けたり閉めたりしてしまう。

「……だから言ったんだ、余計な話はするなって」
「余計って。余計ではないだろ、アンにとっては大事な話っ、」
「少なくともテメェには関係のない話だろうが! なんだ? 数日一緒にいたからって、絆されたか、同情でもしてんのか。何様だ!」

声を荒げるノクトの顔は、怒りと屈辱で歪んでいた。一瞬反論に詰まるも、ニゼルは辛うじて真っ向から喰天使の顔を見る。
今のノクトから、目を逸らしてはいけないような気がした。怯まずその場に残るニゼルに、ノクトは苛立ったように舌打ちしてみせる。

「大昔には、人間どもにこき使われ。あの女神に匿われたと思いきや、泣き虫の妹だ雑用だに振り回され……ろくな人生じゃなかったろうよ」
「そんな……俺は、アンのお姉さんの事、よく知らないけど。そんな言い方……」
「そんな言い方されるような生き方だったんだよ、あいつは! 俺と一緒にいる事を選んで、ようやく、少しは変わったのかと思ったが」

昔から、古き時代から。アンブロシアの姉は、過剰とも言えるほど「天使として」身を粉にして働くような性根だったとノクトは言った。
アンブロシアはかつて、実姉を「誰にでも優しい天使」と称していた……それは誇張した表現ではなく、むしろ事実そのものだったのだ。
苦悩と苦悶が滲む顔が逸らされる。歯噛みしながら、吐き捨てるように言うノクトの方が先にニゼルから視線を外していた。
慈悲深く、優しく、人間だけでなく、忙しい合間に妹の事をも思いやり……
ノクトの話が正しいものだとすれば、アンジェリカという天使は、正に天使の中の天使と言えるほどに個を殺して生きていた女性だったと言える。
婚約者であるノクトからすれば、さぞ複雑だっただろう。

「そんなあいつが、俺だけに『わたしを殺して』と言ったんだ……クソが! 俺はそれ以外に、あいつに何もしてやれなかった」
「……そんな事、ないです」

在りし日の恋人を想うノクトの横顔に、アンブロシアが声をかけた。

「姉さんは、ノクトさんと一緒にいるとき、本当に幸せそうでした。姉さんを、ノクトさん自身を否定するような事、言わないで下さい」
「だから、テメェが言えた義理かって言ってるよな? 対天使でありながら、あいつが悩んでいた事に気が付かなかっただろうが!」
「ちょ、ちょっと、アン、ノクト。二人とも落ち着いて、」
「ノクトさんだって、姉さんが悩んでいたのにその直前まで気が付かなかったじゃないですか! 姉さんだって、きっと苦しかった筈です。
 ノクトさんと一緒にいるだけで幸せだ、ってわたしに事ある毎に言ってた姉さんです、ずっと言えずに我慢していたに違いないんです!」
「そうやって、あいつに我慢させたのは他でもない、『対天使』のテメェだろ。理解出来る術がありながら、行使すらしようとしなかった」
「はい。ノクトさんが言うように、わたしなんか頼りにならなかったでしょうから。わたしさえもっとしっかりしていれば、姉さんは……」

怒りと、嘆きと、悲しみ、悼み。そして何より、自責と後悔の羅列。
ノクトとアンブロシア、次第に声量を上げていく二人を見比べ、しかし口を挟むかどうか躊躇い、ニゼルは視線を走らせ続ける。
アンブロシアの目には、再び涙が浮かび始めていた。普段、あれほど穏やかな表情をしている彼女からは想像出来ないような険しい顔だ。

(泣き虫だっていうのは、そりゃ、知ってたつもりだったけど)

娘が涙ぐみ、声を詰まらせる音が宙に溶ける。ノクトは気まずそうな様子で、アンブロシアから顔を逸らした。
態度から察するに、ノクトは本気でアンブロシアを責めるつもりはないのだろう。双方、どちらも現実を受け入れがたいだけの事。
天使、人間などという枠は関係ない。気持ちは分かる、喉から出かけたその言葉を一人飲み込もうとして、ニゼルは口をもごもごさせた。

「頼りにならない対天使に絶望して、死を選んだのだとしたら。それならきっと、ノクトさんは何も悪くなかった。仕方がなかったんです」
「アン?」
「わたしが悪いんです。苦しんでいた姉さんを、助けてあげられなかった。理解してあげられなかった。あんなに、自分の事ばかりだった。
 対天使なのに、姉さんと魂の枠を越えて繋がっている唯一の命なのに……わたしさえいなければ……姉さんは、姉さんを殺したのはっ――」

――アンブロシアの自虐。それを皆まで聞き終える事が、ニゼルには出来ない。
乾いた音が室内に響く。次の瞬間、ニゼル自身もまた己の行為に驚きを隠せず、手のひらを上げた姿のまま瞬きを繰り返していた。

「おい……」

ノクトまでもが、ただの一介の人間でしかない青年の突然の行動に驚愕し、ぼんやりと掠れた声を発する事しか出来ないでいる。
赤く染まる頬。ニゼルに叩かれた格好のまま、アンブロシアは怯え、慄き、衝撃を受けた表情のまま、見知った青年を見つめ返した。
はっと我に返ったニゼルは、すぐに謝ろうとして、しかしぎゅっと唇を噛み、眉間に力を込め、まるで踏み留まるようにして体を固くする。

「アン。叩いてごめん、なんか、我慢出来なかった」
「に、ぜるさ……」
「でも、ごめん。今、アンが言いかけた言葉。俺、ちょっとそれ、許せそうになかったかもしれない」
「あの、わたし、あの……」
「ごめん、アン。でも、さっきのあれはさ。絶対、言っちゃいけない事だよね」

大きな溜息。それはアンブロシアに対する怒りの現れではない。身を縮める娘から視線を外し、構わずニゼルはノクトに向き直った。
身構えるように全身に緊張を走らせる喰天使の前に凛と立つ。ニゼルは、まるで自分の中に業火が燃えているような気がしていた。
己を鼓舞する為に、もう一度息を吐く。加減したとはいえ、アンブロシアを叩いた手が痛んだ。拳を握り、ニゼルはノクトを正面から見る。

「アンもノクトも、まさかどっちも本当に、アンが全部悪いって思ってるの? そんなの、思い込みもいいところだよ」
「おい。だから、テメェが口を挟めた義理かって、」
「分かってるんじゃないの? 婚約までしたって事は、アンのお姉さんは、えーと、アンジェリカは。ノクトの事が大好きだったんでしょ?
 大好きな人に殺して、なんて頼まれたら、誰だっておかしくなるよ。だからって、怒りのぶつけ先を義妹にするって、それは違うでしょ」

苦いものを噛んだような顔で、ノクトは眼前の青年を見ていた。逃げ出そうとしないあたり、変なところで律儀な男だとニゼルは思う。
考えれば考えるほどおかしな話だ。ニゼルはぼんやりとそう考える。頭はかっかと冴えているのに対し、心は心臓ごと冷えていた。

「そりゃ、ノクトの言う通りだよ。ぶっちゃけ、アンジェリカの事は俺や藍夜や、暁橙にだって、何も関係ない。ほんと、無関係って感じ」
「なら、余計な口出しだって事は自覚してるわけだよな」
「してるよ? してるけど。けどさ、アンはオフィキリナスを頼ってる身で、藍夜はそれを変える気がなさそうで。俺はあの店が大好きで。
 だから、友人としては口出しするよね。アンジェリカとは無関係だけど、アンがあの店にいる限り、俺達はアンと繋がってるわけだから」
「……友人だ? 天使と人間が、寿命も生きる領域も違う種族が、本気で仲良しごっこが出来るとでも思ってんのか」
「そんな違う種族に、必死にムキになってるのはどこの誰? 俺から言わせれば、ノクトのやってる事ってただの八つ当たりなんだけど」

ああ言えばこう言う、その理屈めいた性根の悪さとひねくれた根性、口達者なところが厄介だ――以前、ハイウメに言われた事を思い出す。
オフィキリナス店主よりたちが悪く、手に余る、と。正にその通りだと、ニゼルはふと脳裏に浮かんだ苦い顔の知人に胸中で頷き返した。
目の前の喰天使もまた、在りし日の彼とどこか似たような表情を浮かべている。痛い部分を指摘され、居心地が悪いと雄弁に訴える顔だ。
誰にも言われたくないだろう、痛い部分。しかし、ノクトもアンブロシアも、どちらもそこから目を逸らしているだけにしか見えなかった。
天使として毅然と振る舞い、或いは偉ぶりながら。その実、中身は苦悩し、苦心し、見苦しく足掻く人間達と何ら変わらないではないか。
呆れて物も言えない、いや、言っちゃってるけど――ニゼルは自分の顔の筋肉の硬直を、意識して柔らかく解していく。
顔を強ばらせ、どこか血の気を失せさせたノクトと対照的に動く事で、己が言葉が彼らに浸透する事を密かに願っているのだった。
……痛いところを無関係の第三者に突かれる事で、我に返るといい。或いは、愛した婚約者が慈しむものが何であったか思い出せばいい。
真意を棘に含ませ、ニゼルはしかと喰天使の前に立つ。鳥羽藍夜がいない今、この男に思い知らせる事が出来るのは自分一人だけなのだ。

「どんなに辛い事や、悲しい事や、逃げたい事があったんだとしても。それが、大事な人にどれだけ言いにくい事だったんだとしても……
 アンジェリカの選択は最低だよ。『喰』がどんなか、俺にはよく分かんないけど、さくっと死ぬなんて、一番やっちゃいけなかったんだ」

俺と藍夜は結局類友なんだろうなあ……一度、深呼吸するように長い時間目を閉じて、ニゼルは不在の親友の背中を思い描いた。
身内に甘く、それ以外には冷淡な態度を平気で見せる。彼の場合、なんだかんだお人好しのきらいがある分、人間としてはマシだろう。
藍夜がこの場にいれば、ここまで好きに語る自分を諫めてくれるかもしれない。矛盾しているが、そこが彼の美点だともニゼルは思った。

「俺はアンジェリカを知らないから、この際はっきり言うけど。アンを泣かせて、今もノクトを苦しめて、そんな女の一体どこが優しいの。
 全然、自分の事しか考えてないじゃないか。ノクトとの事も含めて、自分が今まで培ってきたものを全部捨てて、逃げ出したも同然だよ。
 それでもまだアンやノクトが、アンジェリカを優しい天使だって言うなら……二人とも、アンジェリカに夢見すぎだって言ってやりたいよ」

この場にいないからこそ、好きなように悪く言えるという面もある。しかしそれ以前に、ニゼルはアンジェリカの身勝手さに呆れていた。
オフィキリナスを通じて知り合い、今こうして目の前にいる二人の天使の方がとうの昔にいなくなった女などよりよほど大切だ。
理由を知る術はない。アンブロシアに詰め寄り、彼女をなじった時点で、ノクトでさえアンジェリカの事情を知る事はなかったのだろう。
しかし、やり方は他にあった筈なのだ。「せめて最愛の男の手で」、それを実行に移す前に、アンジェリカが起こすべき何らかの方法が。

(……勝手過ぎる)

だからこそ、アンジェリカの人物像が如何なるものであろうと、ニゼルには彼女の行動の全てが理不尽の塊であるようにしか映らなかった。

「アン、ノクト」

目を開けて、見える光景。大切な存在を失い、互いに怒りと悲しみを嚥下しきれずにいる二人。言葉では表す事が出来ない、悲痛な空気。
二の句を飲み込みかける。ニゼルはこの場に存在出来ないと定められてしまった女に、今すぐこの光景をそのまま見せてやりたくなった。

「二人とも、アンジェリカが大好きだったんだよね。別に、仲良くしろとか言わないけど。今の二人の姿、アンジェリカに見せられる?」

反論は返されない。ノクトの舌打ちは小さく宙に溶け、アンブロシアの嗚咽は押し殺されたような大きさで漏らされる。
改めて、ニゼルは嘆息した。アンジェリカのみならず、自分も勝手だ。言い返されない事に、どこか安堵している部分がある。
もし、なおもノクトに否定されていたら――その時は、和解の道が示される機会は二度とないのだろう。そんな予感が漠然とあった。
幸い、二人の天使の間に満ちていた言い争いの気配は消え、しんとした悼みの沈黙が訪れている。心なしかノクトの表情も穏やかだった。
もう口出ししなくても大丈夫だろう、あとは時間が解決してくれる。それは確信めいた自信だった。ようやく、ニゼルはほっと息を吐く。

(……そういえば、アンのお姉さんって、俺と同じ色の髪と目をしてるんだっけ)

空色の髪と赤紫の瞳。思えば、珍しい色合いだと、幼い頃から両親、ハイウメ、ひいては来客と、様々な人々に言われ続けてきた。
この容姿の者全てが、自分やアンジェリカのような性根でなければいいのだが。自嘲に口元を歪め、ニゼルはアンブロシアの頭を撫でる。
青紫の瞳が、大粒の雫を含んだ双眸が、ニゼルをじっと見つめ返した。恐らくは、アンジェリカもこの娘のように美しい女だったのだろう。
視界の端、ノクトが何かを言わんと、静かに口を開いた。娘から手を離し、聞き逃すまいと顔を向けたニゼルの元に、新たな客が訪れる。

「――お話の最中、失礼するよ」

重々しい音を立て、開かれる扉。耳に触れたのは、聞き慣れた声ではあった。しかし、予想だにしないタイミングだったのもまた事実だ。
ノクトから視線を外し、現れた人物に振り返る。親友、鳥羽藍夜。彼の名を呼んだ時、ニゼルの声は僅かに震えた。知らず、身じろぎする。
アンジェリカという女の影を通して、自分という人間が如何にひねくれているか、身勝手であるかを実感したばかりだった。
決して、誇れる友人とは言い難い……親友との間に、目に見えない強固な壁を自ら建ててしまったような気がした。





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 UP:18/03/30